再会、執事とその主2:ルーフス
「これは姫様」
現れたイリスに向け、ラフィンが執事らしい態度で頭を下げる。イリスは静かに口を開いた。
「ラフィン、こんなところで何をしているの」
優しげで、芯の強さを感じさせ、だがどこか楽しげな、あのころのままのイリスの声だった。
「だれかいないかと来てみたのですが、さすがにだれもおりませんでした。とんだムダ足を」
「まあ、そう。ふふ、そうなの」
イリスはあのころのままの、無邪気に楽しげな笑顔になった。
「ラフィン、だめよ。あなたが私に隠し事できるわけがないじゃない」
口元に手を当て、くすくす笑う。ラフィンの方は、頭に手をやり、さっきまでとちょっと違う笑い方をした。
……昔、時々見た笑い方だ。夕食の前なのにこっそりおやつをくれたり、階段の手すりをすべり台にするのを見逃してくれたりしたラフィンが、イリスに軽く叱られたときに、こんな笑い方をした。
「いや、面目ございません姫様。仰せのとおりでございます」
昔も、そんなことを言って頭をかいていたっけ……。
「実は、おなつかしい方とお会いしたのですよ」
ラフィンはそう言い、すたすたとこちらに歩み寄ってきて、クローゼットの扉を開けた。一瞬、こちらがどうしていいか迷った間に、また昔のようにルーフスを抱え上げて床の上に下ろし、
「浜辺の村でお世話になった、ルーフスぼっちゃまでございますよ。わたくしはもうおなつかしくて」
そう言いながら、年の離れた弟にするようにルーフスの肩を抱いた。
「姫様、覚えておいでですか」
「まあ……。まあ、ルーフス!」
イリスは胸の前で手をたたいた。昔、彼女がうれしいと思ったときに必ずしていたしぐさだ。
「覚えてるわ。大きくなって……。私のこと覚えている? イリスよ。昔はあんなに小さかったのに、もう私と背が変わらないくらいじゃない」
「イ、リス」
ルーフスはつっかえながら言った。変だ。なんだこれ、変だ。
「ラフィンも……。会えてうれしいけどさ、今、そんなこと言って和んでられる状況じゃなくないか」
肩を抱くラフィンの手に、少し力がこもった。
「姫様、ルーフスぼっちゃまには、本当に本当にお世話になりました。さすがに、ほかの人間たちと同じ扱いとはまいりますまい」
……『ほかの人間たち?』
「そうね」
イリスは、ルーフスの言葉など聞こえなかったかのようにほがらかな態度を続けていた。口元に手をやってくすくす笑い、
「クローゼットに隠すなんて、まるで子供扱いね。あなた、昔からローザとルーフスを甘やかしたがったけど、もう子ども扱いはやめてあげなさいな」
「いや、これは軽率でございました」
「ラフィン! イリス!」
ルーフスは思わず強い声を上げた。
「化け物が山ほど出て、村じゃ建物が燃えてるんだ! とにかく逃げて、俺は何とか戦うから……!」
「心配いらないわ、ルーフス」
イリスが、小首をかしげ、あの優しい瞳をこちらに向けた。
「降魔にはここは襲わせないわ。あなたは私たちに笑顔を運んできてくれたもの。傷つけさせたりしないから、安心しなさいな」
ルーフスは氷のかたまりで頭を打たれたように感じた。じわじわとわいていた悪い予感が、急に振り返って彼を斬りつけたようだった。
「待って、イリス、今なんて」
身を乗り出しかけた肩を、ラフィンが強く抑えた。
「ぼっちゃま、どうぞ抑えて」
小さくささやかれた。
「火事が心配? 大丈夫よ、私もラフィンもいるから、火くらいどうってことないわ」
イリスは両手を広げ、優しく笑っている。
……これほどに美しい人だったか。
ルーフスは思った。
幼いころも美人だと思っていたが、14歳になった今、改めて目にするイリスは、まっすぐに伸びた髪の一本一本までもきらめいているような、透き通るように美しい娘だった。
「姫様、わたくしはぼっちゃまをふもとまでお送りしてまいりますよ。もうじきに、月の道が閉じましょうが……」
「そうね、それがいいわ」
「待って!」
ルーフスは叫び、イリスに駆け寄るためラフィンの手を振り払おうとした。ラフィンがその肩を強く抑えたとき、風を切る音がした。
イリスの手が、すっと動いたように見え、止まった時には、その手に矢があった。矢じりをイリスの方に向けて。駆け出そうとしたルーフスの足が止まった。
矢が飛んできたのだ。
イリスめがけて飛んできた矢を、そのイリスが平然と受け止めた……。
「あら……なんだか邪魔が入ったわね」
イリスはルーフスに向け、ちょっとしたドジをしてしまった時のように苦笑し、それから右の方を見た。
肩を抑えていない方のラフィンの手が、ルーフスの左腕もがっちりとつかんだ。
「ぼっちゃま、少々ご辛抱を。姫様の前に飛び出したら、ぼっちゃまであっても切り裂かれるかもしれません」
「どういうこと? どういうことだよ、ラフィン!」
見上げた執事の顔は、いつも通りのにこやかな笑顔だった。その視線は、イリスの目と同じ方を見ている。その方向から怒声が響いた。
「化け物どもか!」
森から、武装した兵士たちが飛び出してきた。7人ほどか、ある者は刀を構え、ある者は弓に矢をつがえる。
「覚悟せよ! 我ら銀盾騎士団が……」
リーダー格らしき男が叫ぶのに、イリスは「まあ、遠慮してちょうだい」と、あの魅力的な、少し怒ってみせたような表情になった。
「今、大事な話をしてるんだから」
少し口をとがらせ、愛らしく眉を上げたその表情は、寒気がするほどに魅力的だった。
その澄んだ瞳を向けられて、叫んだ男は目を見開き、次の瞬間、その首が飛んだ。胸と腹から、血が噴き出した。
声もなく、男は倒れた。積み上げた砂袋が崩れるようだった。兵士の一人が悲鳴を上げ、もう一人が「おのれ!」と叫んで槍ごと突っ込んできた。
「大事な話って言ってるじゃない」
イリスが軽く手を振った。槍の兵士が、大きな爪でなぎ払われたかのように、血を噴き上げて倒れ、まるでその余波があったかのように、後ろで凍りついていた数名も体を切り裂かれて朱に染まった。倒れ伏した彼らののどから、うめき声がもれる。
「あら……生きてるのね」
イリスはもう一度、手を振った。血しぶきが上がり、うめき声が消えた。
駆け付けた軍の一隊は、ものの数秒で命を失い、転がる躯になっていた。
「ラフィン」
彼女はあのいたずらっぽい微笑みをたたえて、こちらを振り返った。
「月の道が閉じ始めたわ。私、帰らないと。ローザを連れて行くのは、また今度ね」
「はい、いくらでも機会はございましょう」
ラフィンもにこやかに応じた。手は、相変わらず強くルーフスを抑えていた。
「わたくしはぼっちゃまをふもとまでお送りしてから」
「そうね。道がだいぶ閉じてきてるし、急ぎなさいな」
ラフィンはうやうやしく頭を下げる。イリスはルーフスに微笑みかけた。
「会えてうれしかったわ。あなたはまた私たちに笑顔を持ってきてくれたわね。元気で、ルーフス」
「イリス!」
その姿が、毛糸玉がほどけるように消えた。後には何もない。
ただ、大きな爪をもつ獣に襲われたかのような無残な死体が、あちらに残っているだけだった。
腕をつかむラフィンの手がゆるみ、ルーフスはかろうじて自分を取り戻した。
「ラフィン! ラフィン、なんなんだ、これ……!」
足が震えた。これが現実なのかどうか、自分が正気なのかどうか、確信がもてなかった。だが、辺りに漂うあまりに鮮やかな血の匂いが、夢でも幻でもないことをいやおうもなく突き付けてきていた。
見上げたラフィンは、困ったような笑い方をしていた。
「ぼっちゃま、本当は……」
その目が急に鋭くなった。同時に、強く突き飛ばされた。地面に倒れ、即座に身を起こしたとき、強い金属音がした。
ラフィンが腰の剣を抜いている。顔の前で、斬りかかってきた男の刀を受け止めていた。
「化け物が……!」
血を吐くような声でつぶやいた男は、さっきルーフスに戦い方を教えた、あの警備兵だった。いつの間に近づいてきたのか、ルーフスにはまるで分らなかった。
ラフィンの左手が動く。即座に後ろに跳んだ警備兵の制服の胸あたりが、ざっくりと切り裂かれた。血は、噴き出さなかった。
「おや」
ラフィンがのんきな声を出す。
「よけるとは。人間にも侮れないものがいるものですね」
そしてとつぜんギンと硬い音がした。一瞬遅れて、横手の木にナイフが突き刺さる。
……あの警備兵が投げつけたのを、ラフィンが剣で跳ね飛ばしたのか?!
投げる動作も、投げられた短刀も、ルーフスにはまるで見えなかった。
ラフィンが微笑んだまま払った剣を下ろすと、警備兵がうなるような声を出した。
「おまえが化け物どもを引き連れてきた亜神か」
ラフィンは優雅に首を振る。
「そのお方はもうお帰りになりました。わたくしは、ただの後始末担当ですよ」
警備兵の目が憎悪の色を強くする。
「おまえは始末される側だ」
すっと刀を正眼に構える。ルーフスには一部の隙も見つけられない動きだったが、ラフィンが返したのは、ごく明るい声だった。
「それはそれは。ですが、もう帰らなくてはならないのですよ」
その目が一瞬、ルーフスの方を見た。思わず手を伸ばそうとしたルーフスは、突然横から聞こえてきた「ギャーッ!」という叫び声に、思わず動きを止めた。
横手の茂みを突っ切って、「ギャーッ!」と叫ぶ物体が転がり出てくる。――人だった。あの、メイドのアルトだ。
「助け……。えっ、あっ、何? ルーフスくん?!」
アルトが急ブレーキをかけたと同時に、警備兵が地を蹴った。瞬時に振り下ろされた刀は空を切った。ラフィンの姿がほどけるように消えたのだ。