わき出すものたち:フォルティシス
明日から野外での武術演習にでかけるという日、いつものように湖のほとりで会ったエディは、妙にげんなりした様子だった。
武芸演習に参加しないと教師に伝えたら、イヤというほど叱られ、山ほど課題を出されたという。
「他のやつらが武術演習から帰って来る日までにできてなかったら退学とか、ありえねえよ」
肩を落とし、めずらしくグチっぽくなる彼は、いつもとちがってずいぶんと幼く見えた。
「日頃のサボりのツケだろ。ま、頑張れ」
「なんだよ他人事みたいに。お前だって行かないんなら同じだろ」
フォルティシスは鼻で笑って見せた。
「俺はそんなわずらわしいものはない」
「なんでだよ! おまえもサボってるじゃないか」
「お前と俺じゃ格が違う」
冗談めかして言ってやったのに、彼はちらっとこっちを見た。
「……大貴族の息子らしいって話、本当なのか」
「……ん?」
「そういう噂なんだとさ。先生連中がみんなお前に遠慮してるって。かなり格上の貴族じゃないかって、みんな言ってるんだとさ」
「ほう。そんな有名人になっていたとは、知らなかったよ。お前はどう思うんだ?」
彼は肩をすくめた。
「尊大、横暴、自己中。少なくともボンボンだろうな」
「はは。お前も媚びておいたらどうだ? 将来、重職に取り立ててもらえるかもしれんぞ」
「十分媚びてるだろ、魚もらうために」
「ほう、媚びられてたのか。全く気付かなかったな」
笑ってやると、「媚びてねえよ。親切にしてやってんだよ」とちょっと不機嫌そうになる。さらに笑って「エディ」と手招いた。
「演習中の10日間、カンヅメで課題するんだろ。その分を先払いしとけよ」
「……そういう約束じゃねえだろ」
彼は、身を引き気味ではあったが抵抗はしない。遠慮なく好きなだけ唇を奪っておいた。
顔を離すと、ほほを赤らめたまま唇をぬぐった彼は、
「お前、俺がいない間も、ここで釣りする気か?」
と言った。
「まあ、そうするだろうな」
「前も言ったけど、この辺いろんな動物いるからな。気を付けろよ」
フォルティシスは、横に立つ彼のまだ赤い頬と、陰のある紫の瞳を見上げた。
「……お前も、せいぜい退学にならんよう頑張れよ」
「退学の方がマシかもって思えてきたよ」
ため息をつく彼に、声を上げて笑った。
翌日、学生たちが一旦校舎の前に集合し、学長の講話の後ぞろぞろと出発するのを、フォルティシスは校舎の最上階の学長室から見下ろしていた。
特に気にかかるようなことはない。
……なぜ俺を遠ざけた?
考えるうち、学生たちを見送った学長が戻ってくる。
「殿下、実習期間中はどうすごされますか」
完全にこちらの顔色をうかがう態度の学長を、フォルティシスはしんねりと見返した。
……俺は廃嫡になるかもしれんな。
テレーゼのもたらした、イリスリール帰還の情報を思い出す。
東宮でなくなり、臣籍に下り、ただの公爵になったとしたら、この男の態度はどう変わるだろう。
……何をどうでもいいことを考えている。そう思い直し、ふと紫の色が頭に浮かんだ。
……あいつは変わらないかもしれない。態度を何も変えないかもしれない。この国の東宮だと伝えても、ほらみろやっぱりボンボンだったと言うだけかもしれない。
しばらく黙りこくったフォルティシスに、学長が上目づかいに言葉をつなげた。
「以前お話ししたように、鹿狩りの準備も整えておりますが」
「いらんと言ったぞ。いつも通り勝手にやる」
「は。何かございましたら、何でもお申し付けください」
なら今から武術演習についていくと言ってやろうかとも思ったが、不快なおふざけをしても仕方ない。さっさと学長室を出て湖へ向かおうとし、
……そういえばあいつ、どこで課題やってるんだ? 寮か、校舎か。
自室だろうと思いつつも一応下の学年の教室をのぞいてみると、意外にもそこにエディがいた。右手にペンを持ったまま、課題を広げた机の上に頭を置き、完全に寝入っている。
フォルティシスは教室の入り口に立ち尽くして、こちらを向いたその寝顔を見ていた。
あの美しい紫の瞳は閉じられて、ひどくあどけない表情のまま、小さく寝息を立てている。その口元が少し動き、何か言ったようだった。
……夢を見てるのか。
何の夢を見てるんだろう。そんなことが頭に浮かんだ。
……俺の夢ならいいのに。
もっとそばに行って、その髪をなでながら、寝顔を見ていたいと思った。一歩教室の中に踏み込むと、エディの目がさっと開いた。
「あれ、お前……」
……起きてしまったのか。
「真面目にやってるか見に来てやったのに、こんな早くからお昼寝か。退学決定のようだな」
「うるせえ。課題見てると眠くなるんだよ」
エディの前の席に勝手に座り、机の上に教科書と並べて広げられた問題集をパラパラめくる。意外にも、それなりにきちんと埋められつつあった。
「お前、そこまで絶望的なバカってわけじゃなかったんだな」
「怒るぞ」
だが、ところどころに全く空白の部分がある。教科書を一度読んだだけではよく理解できなかった部分だと彼は言った。
……じゃ、ほかは全部、一度読んだだけで埋めたのか。
「後でもう一度やってみるつもりだけどさ、わからなかったらやっぱり教官室に聞きに行かなきゃだめかな」
また叱られるだろうなあとぼやく言葉に、フォルティシスの口が自然と開いた。
「俺が教えてやるよ」
「お前が? お前だってサボってるのに」
「俺は一つ上だぞ。そもそも、この学校でやるようなレベルはもうずっと前に習ってるよ」
教科書と課題を交互に指しながら説明してやると、彼は教科書を見つめながらふんふんとうなずき、熱心に教科書に書き込み始めた。
「じゃあ、こうだな」
一通り説明を聞くと、エディはさらさらと課題を埋めた。すぐ近くにあるその伏せたまつげを眺めていたら、
「お前、教えるのうまいな」
急に顔を上げて言うので、少しどきりとした。
「これだけわかってるんなら、確かに授業に出る必要ないよな」
一枚ペラリとめくり、少し考えて、またペンを動かし始める。今すぐキスしたいという気持ちと、学校だしさすがにまずいという気持ちのはざまで、フォルティシスは課題に集中する彼をただながめていた。
ペンを動かし、また次の問題に目を移し、考え込むようにペンを唇に押し当てる。
「……エディ」
突然、ガラリと教室の扉が開いた。二人そろって振り返った先にいたのは、ひょろひょろの学生で、後ろに腰に刀をつるした侍従を連れていた。あれ、人がいるぞ、という顔をし、それから一人はサボり常習犯の同級生、もう一人は貴族寮で有名な無礼者だと気付いたか、かなりイヤそうな顔をした。
「寮に戻ろう」
おさえた声で侍従に告げ、さっさと出て行く。
「俺たちの他にも、演習行ってないやついるんだな」
遠ざかる足音を聞きながら、エディが言った。
「よっぽど体力に自信のない奴なんだろ。演習に行っても大恥かくだけって貴族は、裏から手を回して欠席にするらしいからな」
「そっちの方が恥ずかしくねえか? 平民は剣が使えなくても、みんな行ったぞ」
「表向きの体面が保てればいいんだろ。それより、課題はいいのか?」
エディは肩をすくめ、また問題に目を落とす。こちらに一問分のヒントを要求しただけで、あとはすらすら解き、そのページを終えた。伸びをして、
「ああ、ハラ減った。食堂まだ開いてないかな」
そう言って壁の時計を見上げた。
「昼休みの時間まで入れないだろ」
「もうそろそろだろ。行くだけ行って……」
立ち上がった彼が何気なく窓を見、そして凍りついた。
「……どうした?」
問いかけながらフォルティシスも外を見た。校舎の前には先ほど生徒たちが集まっていた広場があり、ふもとの町へ向かう道があり、それらを取り囲んで森が広がっている。
その森の中だ。
木々の間に、何か妙な動きをするものがあった。遠目には草の中をはい回る虫のように見えたが、
「……まさか、降魔?!」
木々の間に見えるその姿は、人の体より大きいとしか思えなかった。
一体ではなく、あちらこちらに。 遠くに悲鳴が上がった。森の中から、制服姿の少年が1人逃げ出してくる。さっき教室に来た、あのひょろひょろの貴族だった。追うように侍従が駆け出してきて一瞬ふりかえり、すぐさままた走り出した。
その後ろで、突然、木が一本横倒しになった。
ズッと細長いものが校庭に現れた。昆虫の足のようだった。だが、人の身の丈よりも大きい。
降魔が人間を追い、現れたのだ。
エディがいきなり、叩きつける勢いで窓を開けた。窓枠をつかんで身を躍らせる。
「おい!」
止める間もなく、エディは2階から校庭へと飛び降りた。きれいに着地し、即座に少年たちのほうに駆け出す。
「待て!」
叫ぶ声が聞こえた様子もない。
『化け物どもを斬る、戦場だ』
『あいつらを、一匹残らず、斬り殺す』
彼が湖のほとりで言った言葉が頭をよぎる。
……斬るつもりなのか?!
「バカ! 武器もなしに……!」
逃げ出してきた二人が、エディのほうへ駆け寄った。
「化け物が、そこに!」
侍従が叫び、その声に突き飛ばされたかのように少年が転んだ。あわてて助け起こしに向かった侍従とすれちがいざま、エディの手元が光った。
抜いた刃の反射だった。侍従の腰の剣を抜き取ったのだ。
ざわざわと足を動かし、巨大な虫のようなものが森からはい出してきた。
……降魔は人を人だと認識する。認識した人間を襲いに来る。
脚がまたぞわぞわと動き、まっすぐそちらに駆けるエディへと向き直った。長い脚がいきなり振り上げられ、振り下ろされる。
貴族の少年が悲鳴を上げた。エディはその悲鳴より早く身をかわし、化け物の脚が地面に激突すると同時に剣を振りぬいた。化け物の脚が半ばまでへし折れる。
フォルティシスは驚嘆した。
……あいつ、本当にやれたのか。
同時に思った。だが、と。
彼がすばやく身をひるがえした。別の脚に向けふみ込み、斬りつける。
硬い音とともに折れ飛んだのは、剣のほうだった。
エディは息を呑む。その頭上に別の脚が振り下ろされた。間一髪かわした彼が、
「くそっ!」
つぶやいて横に跳ぼうとした瞬間、別の脚がその目の前に突き刺さった。
「!」
退路を絶たれた彼の頭に硬質の脚が叩きつけられる寸前、目を焼く閃光が化け物の体を貫いた。
フォルティシスの投げた符が、雷を放ったのだ。
降魔は崩れ落ち、砂となって消える。
「バカが。こんなとこに来る護衛の剣なんて、なまくらに決まってるだろ」
ようやく横に追いついたフォルティシスを見て、彼は驚いたようだった。
「お前、何で来た」
「なんだ。俺が窓辺でぼさっと見てるとでも思ってたか?」
彼はただ、信じられないという表情でこちらを見るばかりだ。
「俺が観戦に回ってたら、お前死んでたぞ。考えなしにつっこむなよ」
でも、と彼の口が動いた。
「つっこんでこなきゃ、こいつら死んでた」
「俺が追ってこなかったら、お前ごと死んでただけだ。次は自制しろ」
彼は何か反論しようとしたようだった。だがその前に、悲鳴のような声が彼らを振り向かせた。
ふもとの街から登ってくる道を、駆けあがってくる人たちがいる。一人二人ではない。フォルティシス達を目にとめ、叫んだ。
「化け物が、化け物が町に!」
その後ろから、着のみ着のままの人々が息を切らして昇ってくる。
駆け出したのはエディが先だった。街にを見下ろす位置に立ち止る。はるかに見下ろす街から、煙が上がっていた。
「校舎内に入れ。警備兵と教師に知らせろ」
フォルティシスが人々に指示を飛ばす間に、
「おい、一体どうした?!」
学校付きの警備兵たちが駆けてきた。
「降魔が……!」
人々がすがるようにして訴える。
エディが「おい、フォルテ」と自分を呼んだので、フォルティシスはそちらを振り返った。
「一匹じゃないぞ。……群れだ」
ざわっと逆毛が立つような感覚があった。
彼が指差す先、遠くの街にうごめくものは、一つではなかった。
「助けに行かないと」
彼がつぶやいたのでフォルティシスはぎょっとした。
彼の紫の目に、奇妙な光があった。
「おい、エディ、」
言う前に彼は急に身をひるがえし、警備兵に駆け寄った。
「刀、貸してくれ」
言った瞬間にはその手に刀が抜き取られている。
「え? あ、こら、待て!」
腰の刀を抜き取られたと警備兵が気づいたときには、彼はもう街へ続く道へと駆けだしていた。一瞬唖然としていたフォルティシスは、
「おい、待て!」
そのあとを追う。
「自制しろと言ったろ! それもなまくらだ、無理に決まってる!」
返事はなかった。ただひたすらに駆ける彼の足は速く、フォルティシスでさえ引き離されそうだった。
町から逃げ出してきた者たちとすれ違う。
「そっちには化け物が……!」
あわてて声をかけてくるのに、
「校舎に逃げ込め!」
それだけ叫んで彼の後を追う。
「エディ、待て!」
なんだ? なぜあんなに冷静さを失っている。戸惑いながらも、ポケットに隠し持った符を確かめる。帝都にいたころから、護身のための符は体から離したことはない。
前を駆ける背は止まりそうにない。
やれるか? この符と、あのなまくら刀だけで。
「エディ! 無謀だ、止まれ!」
もう一度叫ぶその目が、道の先に立つ人の姿をとらえた。長い髪を垂らした背をこちらに向ける、女のように見えた。
「おい、大丈……」
「エディ、あれは違う!」
フォルティシスは叫んだ。道の先の人影が、ゆらりと振り返る。駆け寄りかけたエディの足が止まった。女の姿をしたそれには、顔がなかった。頭部の前面は、えぐりとられたように陥没している。
「上級降魔だ」
エディの横に駆け寄り、その肩をとりあえずつかんで抑える。
「さっきのやつより、格段に強いぞ」
「あれよりも……」
ゆらりと降魔の上体がかしいだ。上半身を右に横倒しにしたままゆらゆらと揺れ、そしてゆっくりと前進した。
「来るぞ」
符を取り出したフォルティシスは、「なあ」とつぶやかれた低い声に、となりの彼の顔を見下ろした。
紫の瞳が、異様な光をたたえていた。
「あいつ、武器持ってる」
その指が、女の左手を指した。さやにおさめられた刀を、確かに手に持っていた。
「あいつらの武器なら、あいつらを斬れるんだよな?」
その瞳がぎらつき始めた。
降魔がいきなり地を蹴った。ドッと風を切る音とともにこちらにつっこんでくる。止める間もなくエディも地を蹴った。右下から左上へ、振りぬかれた化け物の手の軌道を読んでいたかのようにすり抜け、その右わきに刀を叩き込んだ。木を殴りつけたような音がし、顔をゆがめたのは彼の方だった。勢いで身をひるがえし、再度顔面に斬りつける。その刀身を、降魔の手ががっちりとつかんだ。その何もない顔面が、ぶくぶくと動く。
「にんげんか?」
刀をつかまれたまま、至近距離で聞こえた声にエディが息をのんだ。化け物が口をきくことに衝撃を受けたようだ。
「しね」
「死ぬのはそっちだ!」
刀をつかまれた体勢を利用し、体重を乗せた蹴りがみぞおちに入る。その寸前に降魔の体がくにゃりと曲り、彼の足は空を切った。同時にフォルティシスは符を投げた。曲がった化け物の腹に触れた符が光る。
「エディ、下がれ!」
彼は全く体勢を崩さず、一跳びに後退した。直後に爆風が巻き起こる。吹き飛んできた何かを彼が刀で叩き落とした。地に落ち転がったそれは、降魔の首だった。
エディは一瞬、そちらに気を取られたのだ。湧き上がった砂煙を突き抜けて飛び出した降魔への反応が遅れた。首が落ちたままの降魔の右腕が彼の首をわしづかみにする。
「エディ!」
降魔の右手が彼を高く吊り上げる。
……首をひねりつぶされる!
フォルティシスの背がぞっとした瞬間、エディの刀が素早く動き、降魔の右手に突き立った。
降魔は悲鳴を上げたようだった。
木と木がこすれあうような不快な音が、その首のあたりからあふれ、エディの首をつかむ手から力が抜ける。彼は地面に降り立った。次の動作はフォルティシスには見えなかった。分かったのは、真っ二つになって砂と化す降魔と、彼の手に握られた刀だけだった。
……斬った。
フォルティシスは信じられない思いで、いましがた奪い取った刀を見つめる彼を見ていた。
本当に斬った。たった一人で、上級降魔を。
「斬れた」
彼ののどからも、かすれた声が出た。
「斬れる。これなら」
ぎらぎら光る眼が、刀身を映している。
「大丈夫か!」
後方から声がした。校舎の方から、武装した兵士たちが数名駆けおりてくる。
「街のものは……」
「あと二人、隠居の老夫婦が逃げてないようだ。我々が探すから、君たちは急いで学校に戻りなさい」
兵士が早口に説明する。
「二人。家はどっちだ」
エディが振り返った。瞳のあのぎらつきは、まだ紫の色の奥に残っているように見えた。
「街の東の……」
兵士ののどがヒッと鳴った。横手の家の陰から、巨大な羽虫が姿を現す。
「化け物……!」
そちらを見たエディの足が一歩踏み出した。
風をこするような音がした。
胴体を真一文字に切り裂かれた羽虫が崩れ落ちて初めて、彼が一刀のもとに斬り捨てたのだとフォルティシスは理解した。
「探してくる」
一言言って身をひるがえしかけた彼の手を「待て」とフォルティシスはつかんだ。
「その二人を探せば終わりってわけじゃなさそうだ」
彼はいぶかしげにフォルティシスの顔を見返した。フォルティシスは目で兵士たちを示す。最初に彼らに声をかけてきた兵士が、絞り出すような声を漏らした。
「大量の化け物がわいてる。東の森からだ。じき、ここにも到達する」