侵食:シャリム
黒いツメがテレーゼの足に突き刺さった瞬間、シャリムはまるで世界が止まったように感じた。
まばたきする間もなく、止まった世界はすぐに動き出した。テレーゼはつまづいたように地面に転げた。
同時にその手が、符を投げた。氷結の符だった。すぐそこに迫っていたバサントゥの上半身が、出現した氷の中に閉じ込められる。
胴がさっきよりさらに伸び、元の位置に立ったままの足とつながるさまは、まるでのたうつ大蛇のようで背筋に寒いものが走った。
「姉さん!」
「……君の符を渡せ、シャリム」
テレーゼの額には汗が浮かび、呼吸は苦痛に乱れていた。倒れたまま起き上がれないその足に、黒いツメが貫通したまま残っている。
「符を全部使って、ここに叔父上を足止めする。君はその間に、地上まで逃げろ」
シャリムは愕然とした。
「姉さんを残して行けって言うの?! そんなことできるわけないでしょ?!」
テレーゼは苦しげに息をした。
「叔父上の背が伸びたせいで、完全に氷漬けにはできなかった。あの氷はいずれ割られる」
シャリムは背後を振り返った。確かに、長く伸びた胴体の胸から上だけを氷に閉じ込められた化け物は、上半身をやみくもにふりまわし、氷を割ろうとしている。
「この足ではもう走れない。私が足止めし、君が走るのが合理的だ。地上に出て騎士団にこのことを伝えてくれ」
テレーゼは苦しそうに見えた。だがそれは純粋にケガの痛みから来るもので、死への恐怖などどこにも感じられなかった。
「ダメだよ姉さん! 背負うから、なんとか2人で……」
「ダメだ」
ガッとひどい音がした。バサントゥの氷付けの上半身が、洞窟のカベに激突した音だ。
「よくわからないが……侵食されている。
なにかが、私を侵食しつつある」
シャリムは血の気のひく思いでテレーゼを見た。黒いドレスのすそからのぞくテレーゼの足、そこに突き刺さったままのツメが、いつの間にか真っ白になっている。
そしてその色が移ったかのように、テレーゼの足に真っ黒なあざが広がりつつあった。
「妙な感じだ。これが、感情というものなのか」
胸をおさえ、ふたつみっつ、苦しい息をつく。
「君が叔父上に殺されるのが、いいことだという気がしてきている」
「姉さ……」
シャリムは一瞬呆然とした。
「君に背負われたら、うしろから君の首を絞めるくらいはしそうだ。
私は、イリスリール姉さんと同じようになりつつあるんだろうな」
テレーゼは地面に倒れたまま、腕でなんとか上体を起こそうとした。わずかに上がったその視線が、凍りついた頭を何度もカベに打ち付けるバサントゥへと向く。
「イリスリール姉さんのようになるのはよくないことだ。私も、叔父上もな。
だから、ここで共倒れになるのがいいことだ。2人ともな」
「バカ言わないでよ、姉さん!」
シャリムは、上体を起こそうとするテレーゼを助け起こそうとした。苦しげに顔をゆがめ、テレーゼは異母弟の手を押し返そうとする。
「バカなことは言っていない。これが、一番妥当だ」
「バカなことだよ!」
叫んだシャリムの耳に、にごった音が届いた。
……氷が割れて、地面に落ちる音。
振り返ったシャリムの目に、残った氷を振り払うように大きく首を振る、大蛇のような姿が映った。
バサントゥの目だけがぐるりと動き、まっすぐにシャリムを見る。
耳まで裂けたバサントゥの口が、真っ赤な牙をむき出しにして大きく開かれた。
「姉さん!」
風を切る音。巨大なムチが振るわれるように、バサントゥの頭が2人に襲い掛かかる。
シャリムは身を投げ出し、倒れたままのテレーゼに覆いかぶさった。
「シャリム!!」
悲鳴のような声、初めて聞くテレーゼの声。姉さんがこんな声を出すなんて変だ。そんな場違いなことを考えながら、襲いかかるはずの衝撃に身を固くしたシャリムの耳に、
ギィン!
澄んだ音が届いた。
衝撃も、痛みも、襲ってはこなかった。おそるおそる顔を上げたシャリムの目に、
「剣、貸して!!」
見えたのは少年の背中だった。シャリムとテレーゼをかばって立ちはだかり、歯をむきだしたバサントゥの口を刀で受け止めている少年。
「剣! 早く!」
ルーフスだった。
異形と化したバサントゥののどから、猛獣のようなうなり声が響く。頭の前でその歯を受け止めているルーフスのかかとが、ズズッと後退した。
「押されている!」
テレーゼが焦ったような声で言った。ハッと我に返り、シャリムは腰の短刀を抜く。
「これ!」
渡そうとした瞬間、ルーフスの体が宙に浮いた。食いつかれた刀ごと、バサントゥの口に持ち上げられたのだ。
「ルーフス!」
テレーゼはただ悲鳴を上げ、そしてシャリムは、
「受け取れ!」
全力で短刀を投げていた。空中で、まるで背後が見えているかのように、ルーフスは正確にそれを受け取った。
すばやく手首を返し、呪のかかった短刀をバサントゥの首に突き立てる。
バサントゥは、シャリムとテレーゼの叔父であったはずのそれは、耳をふさぎたくなるような悲鳴を上げた。ルーフスの刀が口からこぼれ、それごと少年は危なげなく地面に降り立った。
「ギィイイィイイ!」
歯ぎしりのような音、もしくは声を立て、バサントゥはめちゃくちゃに頭を振りながら後ずさった。壁に、天井にぶつかった頭が地面へと振り下ろされ、
――バサントゥの足元が崩れた。
あっという間だった。
周りの地面とともに、皇弟はもう一段下の地下へと落ちていき、彼らの視界から消えた。いくつものがれきが、そのあとを追うように落ちていく。シャリムもルーフスも、唖然として見ているしかできない、一瞬の出来事だった。
「大丈夫? メリー、フィリップ」
ルーフスが刀をさやに収めてこちらに駆け戻ってくる。
「あー。さっきちがう名前が聞こえちゃったけど、きかなかったことにするから……」
緊張が解けた顔で、きまずそうに笑っていたルーフスは、倒れたままのテレーゼの様子を見て顔色を変えた。
「これ……!」
「近寄っては、だめだ……」
テレーゼの声は、ほとんどうめき声のようだった。真っ黒なシミは、はだけたドレスのスカートから出ている部分すべてに広がっていた。
「降魔に浸食される、というやつらしい……。このままだと私も、今の化け物のようになる……」
苦しい息をつき、
「2人とも、急いでここを離れてくれ」
テレーゼはそう言い、ふるえる手でポケットから符を取り出した。
「自決する気?! ダメだよ、そんなの!」
その手をつかんで叫んだシャリムに、テレーゼは首を振ってみせた。
「君たちに、無事でいてほしい……」
その顔、苦痛と、死の恐怖と、悲痛な覚悟に満ちたテレーゼの表情が、シャリムの胸をえぐるようだった。
姉さんのこんな顔は見たくない。絶対に見たくなかった。
「ダメだ!」
わめいても、シャリムにもどうすることもできなかった。ただ強く、符をつかむテレーゼの手を握ったとき、
「……見える」
急にルーフスが言った。
「え?」
振り返ろうとしたシャリムの体が、ルーフスの手で押しのけられた。驚くほどの力だった。
「見える。移動してる。心臓に向かって……」
ルーフスはいきなり右手を突きだした。テレーゼのみぞおち近くに手を伸ばし、空中でぐっとこぶしを握りしめたように見えた。
バキンと、何か結晶性のものが砕けるような音がして、
「……っ!」
息をもらしたテレーゼが、一瞬の後には力を失って床に倒れた。
「ね、姉さん?! 姉さん!」
あわててその肩をゆすったシャリムは見た。
右足から広がった黒いしみが、あっという間に消えてなくなるのを。
テレーゼは意識を失っているようだった。だが、その胸はかすかに上下し、確かに息をしていた。
「助かった……の?」
見上げたルーフスは、右手の握りこぶしを見つめ、呆然としているように見えた。
「きみ、一体……」
「俺、今……」
2人の声が重なった。
と、タタタタタッとかすかな足音が届いた。
「ルーフスくん! ルーフスくん!」
押し殺した声で叫んでいるのは、アルトだった。
「騎士団! 来た! あっちから!」
「えっ!」
一瞬で我に返った様子のルーフスは、大あわてで立ち上がり、
「ごめん、俺たち、逃げる!」
シャリムの短剣をその場に置き、駆けだした。
「アルトちゃん! こっち、出口につながってた!」
向かったのは、さっきルーフスが入って行った分かれ道だった。アルトの俊足がすぐにその後に続く。
風のように去っていった二人の足音がその場から消えると同時に、大勢の足音が近づいてくるのが分かった。
「シャリム殿下! テレーゼ殿下!」
「どこにおいでですか!」
口々に叫ぶ声も聞こえる。
「こっちだ! シャリムはここだ!」
叫び返すと、足音のいくつかが駆けだすのが分かった。すぐに騎士たちが分かれ道から現れる。
「シャリム殿下! ご無事で!」
「テレーゼ殿下は……」
駆け寄ってくる騎士たちを押しのけるようにして、
「テレーゼ殿下!」
息を乱してかけよってきたのは、ダイナ公だった。
テレーゼの祖父。皇帝を憎み、孫娘にも冷たい態度を崩さない大貴族。
彼は、倒れている孫娘を見るなり顔色を変えた。
「テレーゼ殿下?」
シャリムを突き飛ばすようにしてテレーゼを抱き起し、
「テレーゼ殿下! ……テレーゼ! どうした、目を開けてくれ!」
悲鳴のような声を上げた。その肩を強くゆすり、
「テレーゼ! お前までいなくなったら、私は……」
すがりつくようにして叫んだ。
「テレーゼ! テレーゼ!」
ふっと、テレーゼの目が開く。
「……あれ。おじい様か」
第二皇子は右を見て左を見て、
「そうか、騎士団が来てくれたんだな」
冷徹な祖父が血相を変えていることなど、気にもとめない様子でうなずいた。
地面の上に座りなおすと、いつも通りのほほえみを浮かべ、
「おじい様、兄上はどこに? 報告しなければならないことがある。ああ、符術士はいるかい。負傷していてね……」
無感動に言うテレーゼを、ダイナ公はいきなり抱きしめた。
「テレーゼ、テレ……!」
後は言葉にならなかった。年老いた大貴族は、孫娘の肩に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
シャリムも、騎士たちも、ついてきていたダイナ公爵家の兵士たちも、身動きひとつできなかった。静まり返った広い空洞に、ダイナ公の嗚咽だけが響く中、
――テレーゼが平然とした声を出した。
「符術士はいるかい。治癒の符を頼む。
おじい様は、どこかがすごく痛いようだ。」
一同の沈黙が、全く別の色を帯びた。
あきれたように視線を交わす一同の中、シャリムが代表して、もしくは弟として責任を取って口を開く。
「姉さん、ダイナ公はどこか痛いわけじゃないから大丈夫だよ」
「そうか。私はまた間違えたな。よくないことだ」
すっかりといつもの、一ミリも変わらないほほえみで、テレーゼはそう言う。騎士たちがますますあきれ返ったのがシャリムにはよくわかったのだが、
……これでいいんだ。
心の底からそう思った。
……変人で、デリカシーがなくて、バカなことばっかり言って。
……でも、優しくて人の役に立とうとする。
ずっとそんな姉さんだったんだから。これでいいんだよ。