地下、隠し通路の前で:ローザ
「殿下!」
息せき切って追いついてきた兵士は、乱れきった息を整えるのもそこそこに、テレーゼの腕にすがりつくようにした。
……この人、知ってる。
ローザは思った。
いつだったか、ダイナ公のお供としてやってきて、
『あの方は、悲しみをこらえて笑ってらっしゃるんです』
テレーゼのことをそのように言った兵士だった。
まだあどけなさの残るその彼が、青い顔で早口に言った。
「どうか、落ち着いてお聞きください。……ダイナ公が襲われました」
息を呑んだのは、ローザだけだった。シャリムとコトハはすっと表情をひきしめ、テレーゼはいつものほほえみのままだった。
「おじい様が? 誰に」
「降魔でございます」
「そんな……」
ローザは青ざめるのを自覚したが、テレーゼはまるで顔色を変えず、
「ふむ」
とあごに手をやると、
「一体どこで? 降魔は討伐されたか? おじい様の容態は? 兄上や騎士団に連絡は?」
すらすらと質問を並べた。それが、と兵士は声を上ずらせる。
「至天宮に複数の降魔が現れ、うち数匹は取り逃したとのことでございます。
宮は混乱しております。
ダイナ公より、テレーゼ殿下を安全な場所にお連れするようにと、命令を受け駆けてまいりました」
そこで突然に目に涙をにじませた。
「ダイナ公の、ダイナ公の最期の望みでございます。殿下、急ぎこちらへ」
……最期の。
ローザは思わず服の胸元をにぎりしめた。数回しか会ったことのない老人であったが、胸が痛んだ。
テレーゼは眉1つ動かさず、いつもの優雅な微笑を保っていた。
「おじい様がそうしろと言ったのか。では行こう」
兵士は一瞬、その顔をじいっと見つめた。
「……至天宮に戻るのは危険でございます。隠し通路がございますから、そちらから外へ」
兵士はテレーゼの手を取り走り出そうとする。
……私たちのことなんか、見えてもいないみたい……。
「ローザヴィ様、私たちも」
コトハに言われて我に返ったローザは、あわててその後に続いた。
双晶宮の一階、イリスの私室とは逆の側は、厨房であったようだった。
かまどや水場のあと以外、やはり何もない部屋の床に、
「ここでございます」
細い切込みが入っている。兵士が剣の先をひっかけて持ち上げると、地下収納庫のふたのように四角く持ち上がり、大人1人が通り抜けられそうなすきまが開いた。下へと降りるはしごが見える。
「こちらへ」
兵士は早口に言い、先導するようにはしごを降り始めた。シャリムとテレーゼが続き、ローザも従った。最後に続いたコトハは、
「っ!」
小さく声をもらした。閉めようとした隠し扉が、手も触れぬうちから鋭い動きで閉じたのだった。
「追っ手を防ぐしかけでございます」
早口に言う兵士は、いつの間にか手に符の明かりをともしている。
はしごを降りきると、そこはやはり地下倉庫のようなせまい空間だった。天井も低く、そしてドアのたぐいは見当たらなかった。
「ここからどう進むんですか?」
コトハが、前方の兵士にたずねる。
彼は、テレーゼらに背を向け、あちらを向いたままで足を止めていた。
「テレーゼ殿下」
ささやくほどの声がした。
「おじい様が亡くなられたと聞いても、あなたは涙を流さないのですね」
足元がすっと寒くなった気がした。コトハがさっとローザをかばう位置に出て、シャリムの肩も緊張するのが見えた。
「うん」
テレーゼだけが、いつもとまるで変わらない声を返した。
「悲しむ言葉一つ、おっしゃらない」
「それは葬儀のときにすべきだろう。
今は安全を確保することと、事態の収拾を図ることに集中すべきだな」
その声は本当にいつも通りで、
……姉さま、ダイナ公が亡くなったことに、何も感じてらっしゃらないの。
ローザは背筋の寒さとともに思い知った。
「……そのように強がらなくても、良いのですよ」
兵士がゆっくりと振り返った。
「ここには、あなたのお味方しかいない。第一のしもべたるわたくしと、弟君妹君と、その忠臣だけがいるのです」
符の明かりを映したその目は、ひどく空虚に光っていた。
「テレーゼ殿下。どうか本心を打ち明けてください。
たった一人で苦しみに耐える必要などないのです」
「苦しくはない、大丈夫だ。だが確かに、このままここにいると空気が足りなくなってくるおそれはあるな。
それと、君は私の第一のしもべではないな。たくさんいる一般兵士の一人だ」
……テレーゼ姉さま、恐くないの。
ローザはそのことにもぞっとした。
兵士の放ち始めた異様な空気。首をかしげるようなその言葉。それらからローザたちが感じ取っている恐ろしさを、彼女は全く気にしていないように見える。
「とにかく」
シャリムがわって入った。言葉だけでなく、実際に兵士とテレーゼの間を体でさえぎるようにして、
「先に進もう。姉さんの言うとおり、今は安全な場所に出て、対策を取るのが第一だ」
兵士はまた、じいっとシャリムの顔を見た。
「……何」
ひるんだように言うシャリムに返事をせず、すっと壁に向き直った。
もう一枚、符を取り出す。起動のキーワードらしき長い文章をつぶやきながら複雑に振ると、壁の一部がすうっと溶けるように消えた。
暗い通路が現れる。明かりひとつなく、よく見通せなかったが、まっすぐにずっと続いているようだった。
「テレーゼ様。こちらでございます」
兵士が先に立って通路に足を踏み入れようとしたとき、
「待て」
急にテレーゼが言った。
「先に、おじいさまがどのように亡くなったのか、くわしく教えてくれ」
コトハが「は?」と声にだし、ローザも反射的に困惑した。
……なんで今、そんなことを知りたがるの。
兵士は、黙って4人に背を向けたままだった。
「ダイナ公は」
かすかな声で言い、ぐるりと振り返った。
「ダイナ公は至天宮の庭園で、急に現れた降魔に襲われました。
不意打ちに近く、護衛がお守りすることもできないまま、胸に深手を負われました。お手当てをしましたが、出血があまりに多く…」
ローザは思わず手で口をおおった。コトハがその肩を支えてくれる。
テレーゼの微笑には何の変わりもない。
何の感情も見せず、祖父の死の様子を聞いている。
「この符を私めにあずけ、テレーゼ殿下をお逃がしするようにとお命じになって、……息絶えられました」
ローザは、顔がゆがむのを自覚した。
「ダイナ公、最期に、テレーゼ姉さまを思ってらしたんですか…」
愛してらしたんだわ。頭に浮かんだその一言に、胸をかきむしられるような思いがわいた。ちゃんと愛していたのだ。憎い皇帝の血を引く、この皇女を。
ダイナ公はいつも冷たい態度だった。孫であるテレーゼを愛していないのだろうかと思っていた
……だけど、そうじゃなかったんだわ。
涙がこぼれそうになったその時、
「君の話はおかしいな」
テレーゼが平然と言った。
「符の治療が無理なほどの重傷を負った状態で、初めて来た者が迷わず案内できるほどにくわしく隠し通路を説明し、さらにそんな特殊な符の使い方まで教えるのは無理だ。
そんな時間があるなら、側近の符術士の応急処置が間に合うだろう」
ローザは息を飲んだ。突然、コトハがローザの肩を支えていた手を強く引き、自分の背後に引きこんだ。
「そして、腕の立つ側近たちではなく、直接命令を下したこともない一兵士に皇子である私の護衛を任じるとは。
不合理だな。
おじいさまのしそうにないことだ」
兵士の右肩が、いきなりぼこりと盛り上がった。
「つまり、君はウソをついて――」
「テレーゼサマァッ!!」
裏返ったような声が兵士ののどからほとばしった。その両腕がテレーゼの腕をつかもうと動いた。
「姉さま!」
とっさにローザは符を投げた。放たれた光が兵士の体を貫き、悲鳴が上がった。
「ギャァアアア!」
その声が空間を波立たせた。突き飛ばされるような衝撃に真正面から襲われ、ローザとコトハは背後の壁にうちつけられた。テレーゼとシャリムもバランスを崩し、床に倒れこむ。
「テレーゼ様!」
悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたのは、当の兵士だった。
「離れなさい!」
するどく叫んだコトハが、もう一枚符を投げつける。光を発する直前に、長く伸びた手がそれを握りつぶした。
「!」
ローザは凍りついた。兵士の左腕が消えうせ、右腕が二倍に伸びている。まるで、腕と腕が体の中でつながっていて、そのまま両腕全部が右へと引き出されたかのように。
……この人、もう人間じゃない。
確信がわいて、ローザの背をざわざわするものがはいのぼった。
符をにぎりつぶした兵士の腕が、ローザたちの目の前で短くなり、左肩から腕が現れた。肩から腕がずるずると伸びる様は、巣穴からはい出すヘビを思わせ、ローザは寒気に襲われた。
「よくもテレーゼ様に……」
兵士が怒りに満ちた声を上げたので、コトハは目を見開き、「何を……!」と言いかけて絶句した。
「コトハは私を攻撃しようとしたのではなく、君を攻撃しようとしたのだよ」
ごく冷静に言ったのは当のテレーゼだった。目の前の兵士の異様な様子にも、まるで何も感じていない様子の皇女は、
「その様子からすると、君はどうやら化け物だ。化け物は人を襲うからね。コトハは、襲われる前に君を倒そうとしたのだろう」
いつも通りにこやかにそう述べ、隣のシャリムに頭を抱えさせた。
そんな第二皇子を、兵士がぎらぎらした目で見つめる。ぜいぜいと息を荒げ、
「テレーゼ様……。イマ、わたくしがおタスケします……」
うめくようなその声が、奇妙に裏返っていた。
「姉さんが狙いだ。コトハ、」
シャリムが何か命じようとしたとき。
くたりと兵士の顔が半分崩れた。
ローザは悲鳴をあげそうになった。頭蓋骨が急に溶けたかのように、兵士の頭半分が崩れ落ちたのだ。
その体が前に倒れた。棒が倒れるようにまっすぐなまま、地面につっこむかと思ったとたん、
「こちらデすテレーゼ様」
いきなり伸びた兵士の右手が、テレーゼの肩にかかっていた。
「姉さま!」
叫んだローザが符を投げるのと、
「放しなさい!」
コトハが銃を撃つのと、
「姉さん!」
とっさにシャリムがテレーゼの腕をつかむのが、同時だった。
ななめになっていた兵士の体が、ばね仕掛けのように直立に戻った。その勢いのまま、右腕がテレーゼを放り投げる。
暗い通路へと。シャリムごと。
「テレーゼ様、これでアンゼンです!」
両手をあげてうれしそうに叫ぶ兵士は、その胴にコトハの放った弾丸がめり込んだことなど気にも留めない様子だ。
「今わたクシも参り――」
その頭上で、ローザの符が青い光を放った。鋭い冷気が一瞬で部屋にあふれ、兵士の右足が床ごと氷に包まれた。
「?!」
今しも通路へと飛び込もうとしていた兵士は、動かない右足に声を上げた。
「コオリ? ――ああ!」
再度の悲鳴に、ローザとコトハも気づいた。
通路が消えている。
元通りの、ただ一枚の壁がそこに現れていた。
「追っ手を絶つ仕掛け……」
ローザはつぶやく。兵士がうなり声をあげて足元の氷を蹴り砕き、壁に取りすがった。
「テレーゼサマ! テレーゼ様!」
わめき、壁を叩く。
……このスキに逃げられる? ここを出て、この人を倒し姉さまを助けられるだけの応援を呼びに……。
ローザが深く息を吸ったとき、兵士が急にわめくのをやめた。
体はそのままに、半分崩れた首だけが、くるりとこちらを向く。
「ナゼ、テレーゼ様をイジメルのです」
兵士がつぶやいた。はっきりと、ローザとコトハを見ていた。
ローザは息を止め、ポケットから符をもう一枚、つかみ出した。