砦の中を駆ける:ルーフス
ルーフスはろうかを駆けていた。
あたりの様子は、皇帝の住む宮殿には思えない。帝都の四方を守るという砦のひとつだろうか。そんなことを思いながら、足は止まらなかった。
心臓が熱い。燃えるようだ。
ギギギギギという音がする。羽虫型の降魔が立てる警戒音だ。
……右から流れてくる。
この上なくはっきりと、そう確信できた。同時に、ろうかが交差する場所へとでた。
右から、突風に流されるように3匹の化け物が押し寄せてきた。
心臓が熱い!
ほとんど殴りつけるようにして、ヤリを振るった。一体は目、二体は腹に、はっきりと暗い輝きがあり、吸い込まれるようにそこを突き刺した。大型の羽虫たちはおもちゃのように壊れ、チリとなって消えた。
それをルーフスは、何か当然のことのように眺めていた。
「他のやつは、どこだ」
声に出してつぶやき、辺りを見回し、そしてハッとした。
……違う、俺はここから逃げなきゃいけないんだ。
……ここには騎士団がいる。化け物は、彼らが狩り尽くす。
「だから、俺が殺してまわらなくてもいいんだ」
自分に言い聞かせるように声に出した。ひたいに冷たい汗をかき、それなのに心臓だけが熱かった。
……行こう。急ぐんだ。この混乱にまぎれて、ここを脱出する。
駆け出す。ここまでの場所に窓はない。そういえば閉じ込められていた部屋も、ごく高い位置にしか窓がなかった。
……もしかして、地下なのか。ならまずは階段を探さないと。
見える範囲にそれらしいものはない。ろうかが折れる場所まで足を速め、その角を曲がろうとしたところで、ルーフスはとっさに足を止めた。
……何か、いる。
全身の感覚が、危険を訴えてくる。
おそるおそる、角に身を隠したまま顔だけで先をのぞこうとした、そのほほを何かが高速でかすめた。
とっさに、角から飛び出す方向に身を投げ出した。床をひとつ転がり身を起こす間に、隠れていた壁が黒い何かに貫かれ、砕かれた。
……なんだ、あれは!
黒く平たいヒモのように見えた。薄く細長い紙のようにも見える。それが石造りの壁に突き刺さり、ひとつ震えると内側から壁を破壊する。ルーフスが行こうとした通路の先から伸びてきている。
そちらには、人のようなものがいた。ぼうぼうに生えた髪が不自然に揺れ、顔を半ばまでおおっていて、ぽかんと開けられた口だけが見えていた。
細く小さい体には、ぼろぼろの布が巻き付いていた。そこから突き出した手足はドス黒く、力が入っているようには見えない。その代わりに、髪が意志を持って動いていた。
……刃物みたいだ。
髪はひとつかみ分くらいずつでまとまり、それぞれの先端がノミのように薄く鋭くなっていた。今、ルーフスの隠れる壁を破壊したのは、そのひと房であるようだった。
……やれるか?
ルーフスは自問する。……いや、やるしかない。
「お前、イリスの手下なのか?」
ヤリを突き付け、強い声を出す。返答か、さもなくば攻撃が来ることを予想し、身構えていた。
だが、化け物は動かなかった。刃物のような髪が不自然にうねるだけで、ルーフスに何の反応も示さなかった。
……何だ?
ヤリを持つ手からほんの少し力が抜けたとき、
いきなり髪がうなりをあげた。
「うわっ!」
ルーフスはとっさにその場をとびのいた。だが、刃物のような髪はルーフスより前の床をえぐり、まるで方向違いの天井に突き刺さると、まただらりと力を失った。
……なんだ、こいつ。
ルーフスはとびのいたその場で、あぜんと化け物をながめた。
……俺に気が付いてないみたいだ。ときどき適当に暴れてるだけみたいだ。
これまで会ってきた化け物はみな、人間とみれば殺そうとしてきたのに。
……もしかしたら、戦わずにここを抜けられるだろうか。
そう思いながら用心深く化け物を観察していたルーフスは、ふと気づいた。
……刀を持っている。
体をおおうぼろ切れの間、左腰のあたりに、はっきりと刀のつかとわかるものが見えていた。
その瞬間、心臓が音を立てた。
……ほしい。あの刀がほしい。あれがあれば、もっと。
……もっと、何だ?
急に頭が冷えた気がして、ルーフスは瞬きした。
……もっと……、そうだ、もっと強い化け物とでも戦える。ローザの役に立てる。
それだ、とルーフスは思った。思いながら、何かを振り払うように頭を振っていた。
……しっかりしろ、俺はローザを守るって誓ったんだ。それを忘れるな。
強く己に言い聞かせたその時。
化け物の、ぽかんと開いた口元がゆがんだ。ぞっとするほどの殺気が吹き付けた。
刃物のような髪が高速で顔面へと迫った。あやうくヤリではじいたその後ろから、別の一房が猛スピードで襲い来る。
……こいつ、急に……!
明確な殺意とともにいくつもの髪の束がルーフスを襲った。振り下ろされる攻撃を5つ6つはじき、ルーフスはいきなり床に身を投げ出した。勢いのまま床を転がり、めった打ちにするかのような攻撃の下をすり抜け、化け物の目の前で勢いよく起き上がった。
「はぁっ!」
気合とともに手にしたヤリをその胴へと突き刺した。
手ごたえがなかった。
「?!」
息をのむ一瞬に刃物のような髪が真上から襲い来る。危うく一歩跳んでその場を逃れた。
……ぼろきれの中は、空洞だ! なら……!
ルーフスは跳んだ勢いのまま地面を蹴って、化け物の背後を回り込むように走り、今度は壁に向かって跳んだ。思いきり壁を蹴りつけ、化け物の背より高く跳ぶ。
……今度こそ!
乱れ狂う髪の中心、黒い頭へと、垂直にヤリを振り下ろした。
バキン。
板が折れるような音とともに、黒い頭にひびが入った。
「うわっ!」
驚き、ヤリを持った手を引いた。
……抜けない!!
何かにはまり込んだように、ヤリは化け物の頭から抜けなかった。足が床に着く感触に、ルーフスはヤリを手放し大きく後ろへ飛び退った。
化け物の頭自体と、そこから伸びた刃物のような髪に、真っ白なひびが入っている。
キィィィイイイというような音がした。化け物の口から、木と木がこすれるような音があふれだしている。
髪が、めちゃくちゃに振り回された。周りが何も見えていないかのようなその暴れ方は、直立したままだったが、瀕死の虫が転げまわるさまを思わせた。
ルーフスは慎重に、その姿を見つめた。
そして、一歩踏み込んだ。不規則に横切る髪の間をすり抜け、右手を伸ばす。
化け物の左腰の、刀へと。
おどろくほどするりと、刀はさやから抜けた。鋭い切っ先がさやから離れると同時に、ルーフスは刀を返し、化け物の頭を斜め下から串刺しにした。
バキン。
また、板が割れるような音がして、化け物の口からあふれる異様な音が途絶えた。
黒い頭が砕け散る。破片は地面に落ちて一つはね、そして一瞬でチリとなって消えた。
残ったのは、音を立てて床に落ちた副長のヤリ。
そして、ルーフスの手の中にある鋭い刀だけだった。
「……やった……」
ルーフスはつぶやいた。それは、化け物を倒せた安堵のようでもあり、刀を手に入れた満足のようでもあった。
頭上に刀をかかげ、じっくりその刀身を眺めた。良い刀には見えなかったが、
……でも、この刀は力にあふれている。
わけもなくそう確信した。この刀ならば、やつらを斬れる。
「よし、行こう」
はずんだ声で自分に号令をかけ、刀をしまおうとし、気が付いた。
「あ、さやがないや。どうしよう」
「これを使え」
突然、背後から声がかかった。