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東宮私邸、私室にて:エドアルド

エドアルド→東宮私邸の警備兵。反逆者の烙印を押され、東宮に逆らえない立場。

フォルティシス→現皇帝の長子、東宮。最近、次期皇帝はローザにすると皇帝に宣告された。

 東宮私邸2階奥。

 この屋敷の主の私室で、エドアルドは異国の言葉で書かれた書物を読んでいた。

 すらすらとは読めない。まだ勉強中の言語だ。学生時代に少し習ったが、数年間の戦場めぐりでさっぱり忘れてしまっていたのを、ここに来て勉強用の本を見つけ、もう一度学びなおしている途中だった。

 床に敷かれたラグに直に座り、置かれたソファにもたれ、ちょっとずつ頭で訳しながら読んでいく。

 ……なんだっけ、これ。

 意味が浮かばない単語が出てきた。

 ……見覚えあるんだよな。前に出てきた……。

 記憶をたどろうとしたとき、耳元で響く柔らかい声がよみがえった。

 ――教えてやったろ?

 自分を背中から包む体温も。

 暖かい胸に背中をもたせかけ、腹に腕を回されて、柔らかく抱きしめられながら交わした言葉だ。


 最初は、一人で学ぼうとしていたのだ。東宮の部屋でたまたま教本を見つけ、

 ……そういや学生時代にやったな。もう全然わかんねえや。

 ぱらぱらと開くと、いくつかのページに書き込みがあった。走り書きの筆跡ではあったが、

 ……フォルテのか。

 その時、背を向けあう位置で報告書を眺めていた東宮のものに思えた。

 ……あいつ、この言葉できるのかな。そういや人にもの教えるのうまかったっけ。

 ……でも言いたくねえな。

 理由もなくそう思い、その時は教本を元の場所に戻した。東宮が留守の時だけだけこっそり取出して読み、

「じき、殿下がお帰りになるそうです」

 執事が伝えに来たら、大急ぎで元の場所に戻す。そういうことを繰り返していた。

 だというのにある日、前に見たはずの単語の意味を思い出すことに没頭している最中に、急に私室の扉が開いたのだ。

「……今、何を隠した?」

 険しい顔でずかずかと入ってきた東宮は、エドアルドがとっさにクッションの下に押し込んだものが異国語の教本だと知ると一気に態度を変え、大笑いした。

「こそこそと何をしているのかと思ったら。底なしのバカのわりに向学心があるんだな」

「うるせえ、死ね」

「そう怒るな。教えてやるよ。こっち来い」

 二人でラグの上に座り、背中から抱きかかえられた状態で、ひざの上に教本を広げられた。

「触んな! 何が教えてやるだよ!」

「頭を使えよバカ犬。こうじゃないと2人とも文章が見えないだろ。ほら、読んで訳してみろ」

 当然のように命令され、しぶしぶながら読み始めた。

「領主は、城を、修理する……か? 修理する必要を……ええっと、なんだこれ」

 訳につまると、自分を胸にもたれさせたフォルティシスが教えてくれたりからかったりする。

「前に教えてやったろ? 思い出してみろよ、エディ」


 そんな時にはひどく優しく響く低い声が思い出され、体が不意に熱くなった。

 今はこの東宮私室に一人。フォルティシスは、昨夜は帰ってこなかった。昨日の早朝、いつ化け物がわいても出られるようにしておけと言い置いて出かけていったきりだ。多分至天宮にいるのだろう。それ以上はわからない。

 最近は東宮がひどく忙しく、異国語を教わる時間を持つことは久しくなかった。この私邸へは寝に帰るだけ、帰ってこない日も少なくない。

 エドアルドは教本を閉じ、ソファにもたれる。

 ……あいつ、今頃どうしているだろう。



 ザイン城に行く前、ある深夜のことだった。

 ふと目が覚めてみると、広いベッドには自分しかいなかった。

 寝室は、東宮私室と続きの間になっている。間につるされた布の間から、かすかに光がもれてきていた。

 そっとのぞくと、フォルティシスがこちらに背を向けてソファにすわり、酒のグラスを傾けていた。おぼろな光を発しているのは、ローテーブルに立てられた小さなろうそくだった。

 薄暗い部屋の中で、片ほおづえをつき、時折思い出したようにグラスを口元に運ぶ後姿は、ひどくたよりなく見えた。

「……眠れねえのか?」

 フォルティシスは肩越しに振り返った。その瞬間わずかにひそめられた眉が、

 ……起きてくるとは思わなかった。

 そんな内心を物語っているように思えた。

「目が覚めただけだ。うるさくしてないだろ、さっさと寝ろよ」

 それだけ言って顔を前に戻してしまう。

「……親父さんに、何を言われた?」

 グラスを持つ手が止まった。

 エドアルドはじっと黙っていた。ろうそくのか細い火がただ揺れ、室内には何の音もないまま、フォルティシスが口を開くまでひどく長い間があった。

「何も言われちゃいないよ」

 あちらを向いたまま、薄笑いが乗せられたような声だけがポツリと聞こえた。

「親父が何か言うわけないだろ。俺にも、初めて会った娘にも」

 エドアルドは突っ立ったまま、しばらく考えた。

 ……父親と何かあったんだ。こいつは、父親のことで何かあると弱い。

 でも、それを誰にも知られたくないと思ってるんだ。

 エドアルドは皇帝と会ったことがない。フォルティシスと皇帝が顔を合わせたとき、どんな空気なのかも知らない。だが、時折皇帝のことを話すとき、フォルティシスの態度がひどく冷笑的になることは気づいていた。

 ……親父さんのことを内心バカにしているんだと、ただそれだけだと思われたいんだ。わだかまりがあるなんて、誰にも知られたくないんだ。

 ……馬鹿だな。お前にだって、言えば聞いてくれるやつはきっといるのに。弱みにつけこもうとしたり、利用しようとしたりするやつばかりじゃないのに。

「寝ろ、エディ」

 フォルティシスが投げ出すように言い、ボトルをわしづかみにして乱暴にグラスに酒を注いだ。まだここにいる、そっちに行く気はないと宣言しているようだった。

「何、考えてるんだ」

 問いかけると、鼻で笑うような声がした。

「俺は東宮だ。考えなきゃならんことはいくらでもあるさ」

「言えよ。俺は誰にも言いふらせねえ。話せよ」

 今度こそあからさまに嘲笑う声が聞こえた。

「脳みその入ってないバカ犬にか? 壁にでも話した方が建設的だな」

 ……怒らせて逃げようとすんなよ。

 エドアルドは、フォルティシスの背中を見つめたままじっと黙った。東宮はグラスを取り、一口、二口飲み、グラスをテーブルに戻した。

「前に話したろ」

 かすかな声が届いた。

「親父は同じ女に1人ずつしか子を産ませなかったのに、なぜイリスリールの母親にはもう一人生ませたのか、不可解だと」

 ローザと出会った夜、ジーク砦でそんな話をした覚えがあった。

「……もしかしたら」

 東宮はぽつりと言う。

「もしかしたら、惚れてたのかと思ったんだ」

 エドアルドは瞬きし、それから目を見開いた。

「有力公爵の娘に恥をかかせても、権威にキズがついても、それでも子を産ませ、帝位を譲り、10年おいてもう一人子を産ませるくらい、その女に惚れてたのかもしれんと思ってたんだ」

 そこで急に皮肉な低い笑い声がした。

「今日、その親父が惚れてたのかもしれん女の娘を会わせたんだがな。そうでもなさそうだったよ」

「それは……」

「ただな、帝位はあの小娘に継がせるそうだ」

 無造作に投げられた一言に、エドアルドは目を見開いた。

 ……帝位を、あの娘が継ぐ?

「お前、じゃあ、廃嫡……!」

「東宮は俺のままだそうだ。死ぬまでもう間がないと、親父自身もわかってるんだろうな」

 言葉が出なかった。東宮とは違う人間が帝位を継ぐなど、あまりに妙な決定だ。

 ……今は東宮のままだとしても、あの子が帝位を継いで、そして子どもを生んだら、東宮位はその子どもに移動する。こいつが皇帝になる道は、ほぼ閉ざされた。

 黙り込んで言葉を探すエドアルドの耳に、低い笑い声が届いた。

「せっかく皇帝の飼い犬になれると思ってたのに、残念だったな、エディ」

 そんな皮肉に、取り合ってやる気にはなれなかった。

「残念だとは思ってるよ」

「はは、だろうな」

「……俺は、お前が皇帝になるなら、この国はいい国になるだろうと思ってた。今よりもずっといい国に」

 東宮の低い笑いが止まった。

「もうさ、親父さんのこと考えるのよせよ。考えてもわかるわけねえよ」

 こちらを振り向こうとしない背中に向けて、言った。

「お前は親父さんじゃないんだから、わかるわけねえよ」

 がっしりとしたその肩が、小さく揺れたようだった。

「寝ようぜ。明日も早いんだろ」

 東宮は、手にしたグラスを持ち上げることもなく、じっと黙っている。

「ほら」

 背を向けた彼には見えないことを承知で、手を差し伸べつつなおもうながすと、ようやく彼は腰を上げた。

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