浸かる人たち、出かける人たち、飲む人たち:ローザ、ルーフス、エドアルド
ローザとコトハは、貸切状態の湯船の中、真剣な顔で向かい合っていた。
「たとえ幽霊のウワサでも、それで困っている人がいるなら、馬鹿らしいことではないと思います」
……幽霊を見たい! このチャンスは逃せない!
「いいえ殿下、幽霊で困るなど、馬鹿らしいこと以外のなにものでもございません」
……幽霊なんて食べられないもの、かまう必要ないじゃない! それより温泉まんじゅう!
「私はいずれ皇帝となって、この国を守ることになりました。こんな小さな困りごとさえ解決できないのなら、国を導くことがなど到底できないでしょう」
……幽霊! 幽霊!
「殿下、それは違います。大きなお力を持つ皇帝陛下だからこそ、小さなことではなく大事のためにお時間を使われるべきなのです」
……温泉まんじゅう! 温泉まんじゅう!
ぬくぬくと温泉で暖まりながら、コトハは一歩も引かず、ローザもまた、一歩も引けなかった。
……幽霊に会ってみたい。幽霊というものを見てみたい。
昔から、怖い話は大好きだった。ラフィンがどこからか手に入れてきてくれる本の中で、幽霊の話が集められた本はすりきれるほど読んだ。
夜、あかりが消された後、そっと部屋を抜け出して、ろうかを歩く幽霊がいないかと屋敷中を見て回ったこともある。
幽霊が出るらしいとウワサの場所に、一人でこっそり行ってみたこともある。
だが、一度だって幽霊を見ることはできなかった。幽霊を見るためには、霊感というものが必要だというから、自分にはそれがないのかもしれない。そう思うと、ひどくがっかりした。
「ラフィンは、お化けを見たことある?」
執事に聞いてみたことがある。ラフィンは笑いながら「何度もございますよ、嬢ちゃま」と答えた。
「姉さまはあるのかしら」
「姫様もおありだと思いますよ。
嬢ちゃま、もしお化けが襲ってきても、ラフィンがすぐに退治しますから、何もご心配はいりません」
ラフィンにもイリスにも『霊感』というのがあるのだ、すごいなあと幼いローザは思ったものだった。
……あら? お化けって、『化け物』であるラフィン自身だってオチだったりしないわよね? そんな自虐ギャグじゃないわよね?
10年ごしで思いついたことに、ローザは衝撃を受けた。
……どうなのラフィン。まさか……。
呼びかけても、銀髪の執事の微笑みは目の前にない。いるのは、断固として引くものかという顔をしたコトハだけだ。
「では、コトハさんは宿で待っていてください。私一人でも行きます」
ついに宣告すると、コトハは顔色を変えた。
「殿下! そのようなわけにはまいりません。わたくしは殿下の御身の安全を任されております」
「一人でも平気です。私は符が使えます」
コトハの使う、呪のかかった銃よりも幽霊むきかもしれない。
「議論はここまでです。コトハさんは、説得に応じるつもりはないんでしょう。私も同じ。これ以上話しても無駄ですから」
何より、ちょっとのぼせてきて、これ以上の議論はつらい。
それは相手も同じだったようで、コトハは湯船の中で立ち上がった。
「分かりました。そうまでおっしゃるならわたくしもお供いたします。
ただ、御身をお守りするため、わたくしがこうしてくださいと申し上げることは、お聞き入れくださいませ」
「……ありがとうございます、コトハさん」
二人は湯船を出た。そして浴室の隅にサウナを見つけ、
「しまった……! 今からではちょっと入れませんね」
「私、サウナって入ったことないんです。明日の朝にまた来ましょう」
未練を残しつつ浴室を後にした。
ルーフスとツヴァルフは、それぞれの手に武器を握りしめて、日の暮れた温泉街を歩いていた。
「お兄さんたち! 蒸したて温泉まんじゅう、どう?」
みやげ物屋の店員が、笑顔で試食を進めてくるのも目に入らない。
「町はずれのボロ橋……だったな」
「うん」
温泉街の案内板を確認し、目的地が栄えてる場所から少し外れた、いかにも人通りも明かりもなさそうな場所であることを確認する。
「……ここらしいな」
「……ここらしいね」
案内板を指さし、2人はしばし黙り込む。
「お客さんたち、ボロ橋に行くの? 面白いもの、何にもないよ」
『湯のはな屋』というはっぴを着たみやげ物屋の主が、不思議そうに声をかけてきた。
「最近じゃ、幽霊が出るなんて話もあるし」
二人の背にさあっと鳥肌が立った。
……旅館の人たちだけの話じゃなかったんだ。
「この近くにはね、昔、大金持ちが住んでたんだ」
みやげ物屋は急に語り始めた。
「欲が深い悪人で、たくさんの人の恨みを買って山ほどの金をためたんだよ。こいつのせいで泣いたり首をくくったりって人は、数えきれないって話だ。
そんなひどいやつが爺さんになって、町はずれのボロ橋の向こうに大きな別荘を買って移り住んだんだ」
「温泉に浸かりつつ、ゆったり余生を過ごそうとしたんだな」
ツヴァルフがうなずく。
「ところが」
と土産物屋がやけに低い声を出したので、2人はびくりとした。
「一月もしないうちに、謎の病気で、金持ち本人も家族も使用人も、みぃんなバタバタ死んじまった」
ぞーっと、2人の足元が冷たくなる。
「ふみにじった人々のたたりに違いないって町中のウワサさ。
住んでた別荘は呪われた場所と言われて、玄関も窓もうちつけられて、今も無人のまま放置されているんだよ」
「……ハハ」
ツヴァルフが乾いた声を出した。
「よそから移り住んできたものが、その土地の病気に免疫がなくて発症するのはよくある話だ」
「そ、そうだよな! 団長あったまいいなあ!」
ルーフスはわが意を得た思いでツヴァルフを讃えた。
「そうかなあ。あんな悪い奴だったんだよ?」
『湯のはな屋』の主人は納得できない様子だが、ルーフスは「そうだよ!」と激しく同意した。
「たたりなんて、現実にあるわけないじゃん!」
「ああ、その通りだ。一件落着だな」
「そうかねえ。でも」
『湯のはな屋』の主人は小首を傾げ、
「たたりは間違いでも、幽霊は出るらしいけどね」
二人の微笑みが凍りついた。
エドアルドとフォルティシスは、庭に面した座敷でちびちびと酒を飲んでいた。
「いい月だなあ」
山の上にぽっかりと浮かぶ大きな月を見上げ、エドアルドがつぶやく。部屋の中はすべて明かりを落としてあり、満月に少し足りない月が照らす明かりだけだった。
「そうだな」
当然のような顔でエドアルドに酌を要求しながら、フォルティシスも月を見上げた。宿のゆかたの上に茶羽織を重ねただけの薄着だが、ちょうどいい涼しさだ。
辺りは静まり返り、酒の水面のゆれる音、たがいのゆかたの衣ずれの音も聞こえるほどだった。
「さっきの温泉さ」
フォルティシスの盃に酒を注ぎながら、エドアルドが言う。
「日が沈んで、月が昇ってから入ってもよかったかもな」
「ああ、月見がてらか。悪くないな」
フォルティシスは盃の中に映る月をながめた。ほどよく酔った体をなでる風が心地よい。
「紅葉の季節に来るのもよさそうだよな。あの辺の山、みんな紅葉するんじゃないか」
「ああ。そういえばこの辺は紅葉が売りだ」
「そっか。みんな紅葉を見ながら温泉に入りにくるんだな」
酔いにほほを赤く染め、エドアルドは自分も酒を口に運ぶ。
「紅葉もいいが、雪の温泉もいいぞ」
「雪?」
「ああ。周りに雪が積もってるのを見ながら入るんだ」
「寒くて仕方ないだろ、そんなん」
「露天風呂だよ、体はあったかいし、頭だけが冷えて気持ちいいぞ」
「出るとき寒くねえの?」
「十分あったまってから出れば、なんてことはない」
へえ、とだけ言ってエドアルドはまた盃を傾けた。
「雪かあ……。それもいいな」
二人とも、普段からあまり酔うような飲み方はしない。いつ降魔がわくかわからない状況下だ。常に、すぐに動ける状態にはしてある。
だからこんな風に、互いがほろ酔い加減だと機嫌がよくなるタイプだとは知らなかった。
「いい子にしてたら、また連れてきてやるよ。ここでもいいし、別の場所でもいいな」
月明かりに淡く照らされたフォルティシスの顔が、優しく微笑んでいる。
ふわふわとした酔いが全身を包んでいて、エドアルドは心地よくけだるい体をぱたりと倒し、フォルティシスの膝の上に頭を乗せた。
硬い枕だったが、ゆかた越しの体温が暖かく、頭に乗せられた手が髪をかき回してくれたので最高の気分だった。
「お前さ、いつもそういうふうに笑ってろよ」
仰向けになり、自分を見下ろす微笑みにむけ手を伸ばす。頬と、硬い髪をなでた。
「いつものニヤニヤじゃなくてさ。みんなにさ、お前がそんな風に笑うんだって見せてやれよ」
「お前さえ知っていればいいよ」
フォルティシスは笑いながらこちらの髪をかき回している。
「もったいねえよ、そんなのさ……」
フォルティシスはもう何も言わず、小さく笑っている。エドアルドもひどく楽しくなって少し笑った。
「すげーふわふわする。眠い」
「寝るか?」
「ん、寝る」
フォルティシスがこちらを抱き上げようとしてきたので、
「バカ、自分で歩くよ」
エドアルドは笑って立ち上がった。そのはずみに少しふらつき、フォルティシスの肩に頭をぶつけてしまう。
「歩けてないぞ」
「うるせ」
からかう声に笑って返し、障子を閉め、ふわふわと部屋の奥の布団まで歩いた。主と従者だとみなされたらしく、布団は狭い部屋に小さめのものが一組、広い部屋には大きめのものが一組と別々に敷かれている。その大きい布団の方に、倒れるようにしてもぐりこむ。フォルティシスも横にもぐりこんできた。
「お前、ヘロヘロじゃないか」
「うるせ。お前だっておんなじようなもんだろ」
「俺はそんなに酔ってない」
「ウソだ、絶対酔ってるだろ。正直に吐けよ」
「こら、よせ」
笑いながらくすぐりあい、ふざけて何度もキスを交わし、抱きしめあって眠りに落ちた。