温泉満喫中:ツヴァルフ、コトハ、フォルティシス
「この旅館の周り、土産屋さんとかあるんだってさ!」
ルーフスが嬉しそうに案内板を指した。
夕暮れ時だ。ルーフスとツヴァルフは、部屋で一服したのち、宿の裏手の広々とした場所で剣の稽古をして、心地よい疲れとともに宿に戻ってきていた。
裏口から宿に入ろうとし、急にルーフスが駆けだしたと思ったら、宿の近くの名所案内板の前に立ち止り、熱心に読み始めたのだった。
「立ち寄り温泉ってなんだ?」
「宿泊しなくても温泉を利用できるシステムのことだ」
「じゃ、別の旅館の温泉も入れるのか?!」
すっかり興奮状態だ。ツヴァルフは微笑ましい気分になった。
敵か味方かという出会いから、半ば以上敵に近い関係になってここまで来たが、今のこの少年はそんなことを忘れて楽しんでいるようだ。
……連れてきてよかったな。本心からそう思った。
「俺、いろんな温泉入ってみたい!」
「あわてるな。まだこの旅館の温泉さえ入ってないんだぞ」
たしなめながら裏口の戸を開ける。
「まず汗を流して、それからすぐ夕食だ。……そのあとなら、ほかの温泉に行ってもいいかもな」
「そうしようぜ!」
14歳の少年剣士は目を輝かせてはしゃいでいる。
……弟というものがいたら、こんな感じだったのだろうか。
ツヴァルフはふとそう思った。
と、
「見間違いじゃないんです、絶対に!」
小さくひそめた、しかし必死になっている声が聞こえた。
「あたしも、昨日の夜番の人も見ました。3人そろって見間違いなんてありえないでしょ?」
……なんだろう。二人は裏口に立ったまま、顔を見合わせる。
「でも、幽霊なんて、ねえ……」
……幽霊?!
ツヴァルフは思わず背筋を伸ばし、ルーフスは右足を一歩背後にひいた。
裏口からつながる廊下の少し先に人が3人立って、ひそひそと話をしている。真ん中にいるのはこの宿のおかみで、あとの二人はおかみに一生懸命に訴えているようだった。
「私もここのおかみをやって長いけど、町はずれのボロ橋に幽霊が出るなんて話、初めて聞きましたよ」
「でも、本当に……!」
言いかけた仲居が、はっとツヴァルフとルーフルに気が付いた。
「あ、あら。お帰りなさいませ」
女将もあわてたように居住まいをただし、微笑んで頭を下げる。
「お夕食の準備はもうできておりますよ。すぐ召し上がりますか?」
「……いや、先に湯を使わせてもらう」
「かしこまりました。うちの温泉は源泉かけ流しですから、ゆっくりお楽しみくださいね」
にこやかに言って、ほかの二人を連れてそそくさと去っていった。
ツヴァルフとルーフスは、しばらくそこに突っ立っていた。
「ゆ」
急にルーフスが言った。
「幽霊なんて、いるわけないじゃん! なあ!」
「そ、そうだな」
ツヴァルフもあわてて同調した。
「心の弱いものが見る幻影だ。いるはずがない!」
うんうんと二人でうなずきあう。
「くだらない話は忘れて、温泉入りに行こうぜ!」
「そうだな、そうしよう!」
二人はやたらと足を上げて、元気に大浴場へと向かった。『男湯』『女湯』の色分けされたのれんをみつけ、『男湯』をくぐる。服を脱ぎ、広々とした大浴場に入ると、貸切状態だった。まず体を洗って汗を落とし、広い湯船につかる。
「わあ、広いなあ!」
などと言いながら、ルーフスはどことなく心ここにあらずの風情だ。
ツヴァルフも、実は同じだった。
せっかくの大きな湯船を楽しむのもそこそこに、2人はかなり早くに風呂を出た。戻った部屋の扉に手をかける瞬間、
「……中に、なにか、いたりしないよな?」
ルーフスが小声で言い、ツヴァルフはびくっと手を止めた。
「……な、何がいると言うんだ? 何もいるわけないだろう!」
「そ、そうだよな!」
スパーンと、勢いよく開けたふすまの中には、当然ながら誰もいなかった。二人はほっと息をつく。
「失礼します」
「ひゃあっ!」
急に背後から声がして二人は飛び上がった。
「お食事をお持ちしました」
大きなお盆を持った仲居が2人、にこにこと立っていた。
「あ、ああ。ありがとう」
座卓に料理を並べ始める二人の顔を見て、ツヴァルフは思い出した。
「さっき、幽霊が……という話をしていたのはあなたたちだったか」
「あら」
二人は少し気まずそうに顔を見合わせ、
「お客さんたち、この後お外に出かけたりします?」
「え? いや……」
「町はずれにボロボロの橋があるんですけどね、日が暮れるとそのあたりに幽霊が出るんですよ。私もこの子も見たんです」
「白いのが、ふわーってうごいて、すっと消えたんです」
もう一人が勢い込んで言う。
「日が暮れたら、町はずれには行かない方がいいですよ」
おひつから米をよそってくれた二人は、
「騎士様でも来て、退治してくださるといいんですけど」
そうぼやいて帰って行った。
残された二人は、はしを取ることもせず黙っていた。
「ゆ、幽霊なんているわけがないじゃないか!」
ツヴァルフがいきなり言い、ルーフスもぱっと顔を上げた。
「そ、そうだよな! 迷信だもんな!」
「ああそうだ、そんなものにおびえるなんてばかばかしい!」
「そうだよ! ふわーって動いて、ぱっと消えるだけなんだろ? ぜんっぜん怖くない!」
「ああ、なんならこの俺が倒してやるさ!」
「ああ、俺たち騎士だもんな! 幽霊退治だ!」
あ、とツヴァルフは思った。
やばいことを言ってしまった。ルーフスは青くなった。
だが、言葉はもう出てしまって取り消せなかった。
「お料理、とってもおいしかったですね」
弾んだ足取りのローザの後ろで「はい、まことに」と真面目くさりながら、コトハの内心も弾んでいた。
……計画通り。完璧なまでに計画通り。
『一緒に旅行に行くことで、さらにローザヴィ姫の懐に入り込みたく存じます』と東宮に提案し、許可と予算を取ったことも計画通り。
とにかく料理の良い宿を探し、あえて名所のシーズンを外した場所の予約を取って宿泊費を抑え、浮いた金でグレードの高い料理を予約したのも計画通り。
出てきた最上グレードの料理を目にし「おいしそう!」と目を輝かせたローザが、旅館特有の量の多さに食べきれないのを「わたくしにお任せください」と親切ごかして全部平らげたのも計画通り。
そうして今後、風呂での腹ごなしをはさんで夜の温泉街に繰り出し、心行くまで温泉まんじゅうを食べまくることで計画は完了する。
ローザとそろいの浴衣に身を包み、湯支度を抱えて露天風呂へと歩きながら、コトハの心はすでに温泉まんじゅうに染まっていた。
と、
「見間違いじゃないんです、絶対に!」
小さくひそめた、しかし必死になっている声が聞こえた。
廊下が先で左右に分かれていて、大浴場は右、話し声は左からするようだ。
「あたしも、昨日の夜番の人も見ました。3人そろって見間違いなんてありえないでしょ?」
……なんだろう。二人は廊下に立ち止まり、顔を見合わせる。
「でも、幽霊なんて、ねえ……」
……幽霊?!
ローザが口元に手を当てる。
……まずい!
コトハは反射的に危機感を抱いた。
「私もここのおかみをやって長いけど、町はずれのボロ橋に幽霊が出るなんて話、初めて聞きましたよ」
「町はずれのボロ橋……」
ローザがつぶやく。コトハはその手をひっつかんだ。
「殿下、あのようなつまらぬ話をお聞きになる必要はございません。さ、温泉に参りましょう」
「あ、でも……」
ローザの手を引っ張り、右の廊下へと急いだ。ローザはついてきながらも、ちらちらと話し声の方を気にしている。
……なんてこと!
コトハは内心で歯ぎしりした。
……幽霊の話だなんて。
……殿下が怖がって、温泉まんじゅうめぐりはやめると言いだしたらどうしてくれるの!
コトハは幽霊など怖くなかった。出たいなら勝手に出ればいい、ただしあたしの食べ物を取ろうとするなら滅ぼす。そう思っていた。
だが、世の人々は幽霊を怖がる。その知識もちゃんとあった。
「コトハさん、今の話」
「ご心配には及びません。くだらないうわさ話でございます」
「でも」
ローザは足を止め、コトハをまっすぐに見た。
「あの人たち、困っているようでした」
その瞳に、コトハは愕然とした。
……この子、助けたいんだ。
ローザの目の中に、真剣な光が宿っている。
……怖いのを押し殺して、民のために無理をしようとしている。
放っておけばいいのよと言ってやりたかった。東宮殿下なら鼻で笑って秒で忘れますよと。いくら将来皇帝になるからって、幽霊退治までしなくていいのだ。
何より、
「殿下、そのようなつまらぬことではなく、もっと殿下がなさるべき大事なことをお考えください」
蒸したて温泉まんじゅう、まだ一つも食べてないのよ?!
「困っている人がいるんです。それを助けるのは、大事なことじゃないんでしょうか?」
いつになく真剣な目で、ローザは訴えかける。
押しの弱いこの子が、こんなに一生懸命になるなんて。コトハはどうしていい変わらずうろたえた。
コトハの困惑を察知し、それでもローザには意見をひるがえすことはできなかった。
強い目で女騎士を見返す。
……どうしても、どうしても幽霊というものを見てみたい!!
フォルティシスは、離れの庭に作られた露天風呂に浸かっていた。
「いい風呂だな……」
横あいから力の抜けた声がする。
人二人分くらいの距離を置いた場所で同じように風呂に浸かるエドアルドが、いつになく脱力した様子で空を見上げていた。
「そうだな」
「夕焼けもきれーだな」
「そうだな」
正面には、人の背丈くらいまでの高さの竹垣があり、その向こうは、夕焼け空を背にした山だ。空には赤と紺が混ざった色を映す雲がかかり、美しい眺めだった。
離れの客専用の、源泉かけ流しの温泉だ。風呂にもそれを囲む広い庭にも、客は彼ら二人だけ。フォルティシスの狙い通り、風呂のふちにもたれたエドアルドも存分にくつろいでいるようだった。
「サルとかいねえのかな。シカとかさ。一緒に温泉に入ったりすんだろ?」
「そんなものがいたら安心して浸かってられないぞ。特にサルはとんでもなく凶暴だからな」
エドアルドは気のない様子で、そうなのか、とつぶやいてまた空を見上げる。
静かに風が吹き、庭の木の葉を揺らしていった。
「……俺んち、田舎だったけどサルはいなかったんだよな」
沈黙に目を閉じかけていたフォルティシスは、エドアルドの一言に目を開けた。
彼の口から故郷の話が出るのは珍しい。
エドアルドの父が治めていた辺境の土地は、降魔の群れに襲われ、彼の家族ごと壊滅したと聞いている。エドアルドにとってはつらい思い出のはずだ。
そしてフォルティシスにとっても、その襲撃は他人事ではなかった。2人のどちらにとっても軽々しく触れられる話題ではなく、タブーのようになっていた。
「山ばっかりでさ、キツネとかウサギとかはいたけど、サルは見たことないな」
「生息場所が違うんだろうな。天敵になる動物でもいたのかもしれん」
「ああ、そういえばたまにヒグマ出るからな」
「ヒグマか。あれはシャレにならんらしいな。サルとは次元が違う」
「かるくはたいただけで、人間の頭くらい吹っ飛ぶってさ」
物騒な話をしながらも、2人は暖かい湯の中で体を伸ばし、美しい景色をながめてくつろいでいた。
エドアルドはあご先まで湯につかって、ふーっと力の抜けたため息をついた。
「俺んちさ、6歳までに一人でヒグマを倒さないと立派な騎士になれないって伝承があってさ」
「……ん?」
言われたことが一瞬理解できなかった。
「俺が4歳5歳のころって、一匹もヒグマが出なかったんだよ。だから倒せなくてさ」
「ヒグマを」
「うん。
ガキだったから、このままじゃ立派な騎士になれないって大泣きしてさ……。親や領の大人を困らせたっけな」
「……6歳までに、一人で」
「うん」
「ヒグマを」
「うん。
実際、ヒグマが出ない年も少なくねえし、すぐ逃げちまうことも多いから、ヒグマ倒さずに騎士位継いだ先祖もたくさんいるらしいんだけどな。でも父親も祖父も5歳のうちに仕留めてて、その話を何度も聞かされてたから、余計な」
……6歳までに一人で、ヒグマを。
フォルティシスは胸の内で復唱した。
「誕生日まであと半月って辺りで無事倒せたけどさ、……ま、結局、騎士にはなれなかったから、関係なかったな」
遠い目で夕焼けを見つめるエドアルドの横で、
……こいつんち、俺んちよりおかしいだろ。
フォルティシスは胸の内で叫んだ。