過去 姉姫との別れ:ルーフス
しばらくの間、楽しい日々が続いた。
朝、目が覚めると、まず母の部屋に行く。今日は調子が良いとか、今日は寝ていることにするとか、そんなことを話して、調子がいい日は一緒に朝食を取る。
それが済むと、ルーフスはすぐ別荘を飛び出し、ローザたちの家に向かった。
イリスとラフィンの歓迎を受け、ローザと一緒に遊んだり、一緒に勉強したり、一緒に昼寝したりした。
毎日毎日そうしても、まるで飽きなかった。
毎日ローザの家に行くのが当たり前になってしまって、たまに「明日は家にいなきゃいけない」と伝えると、ローザはひどくがっかりした。
「ローザ、わがままを言ってルーフスを困らせてはダメよ」
「だって、姉さま」
唇をとがらせてみせるローザは、優しい姉に甘えきっているようだった。姉妹の様子に目を細めていたラフィンが、そのほほえみのままこちらを向いた。
「どなたか、お客様でもおいでになるのですか?」
「うん。親戚が母上のお見舞いに来るんだ」
ルーフスは人差し指を上げて宙に系図をかきながら、
「俺んちが治めてる領は、ここの隣で、ここの領を治めてるのは俺の親戚の女の人なんだ。母上と同い年で、昔よく遊んだって。
その人がお見舞いに来るから、俺もお迎えする」
ローザが小首をかしげた。
「ルーフスのお父さま、騎士様なんでしょう? 領主様でもあるの?」
ルーフスも首をかしげた。
「領主だよ。騎士だから」
「領主なの? 騎士なのに」
「騎士だから、領主だよ」
首を傾げあう2人に、イリスが笑いながら割って入ってきた。
「在郷騎士というのよ」
どこにしまってあったのか、ラフィンが持ち出してきた大きな地図を広げながらイリスは言う。
「騎士には二種類あるの。
一つ目は、皇帝やその一族に仕えて、騎士団としてあっちこっちに出かけて化け物退治をする騎士。ローザが知っているのはこっちね。
二つ目は、都から離れた土地を治めて、その中に出る化け物を退治する騎士」
この辺りとかこの辺りとかよ。そう言って地図の上、帝国の国境近くを指さして見せる。
「在郷騎士と言って、ルーフスのお父さまはこれね」
「俺の父上、すごく強いんだよ!」
ルーフスははしゃいで言った。
「色んなところでたくさんの化け物を退治してるんだ! 俺も、父上みたいな騎士になる!」
「ええ、ぼっちゃまならきっとなられますとも」
「在郷騎士の中には、本当にすごい剣士がたくさんいるのよね」
「うん! いつも父上に稽古つけてもらってるんだ!」
ラフィンとイリスは微笑んでいたが、2人に隠れるようにしたローザが表情を曇らせてうつむくのをルーフスは見てしまった。
……あ。
きっと言ってはダメなんだと認識したのは、このときが初めてだった。
ローザの前では、父親の話はしないほうがいいんだと。
……ローザのお父さんもお母さんも、やってくる気配がない。
自分の方は、母の病気を治すためにここに来たと言ってある。父は仕事があるので一緒に来なかったと言ってある。
でも、ローザたちからそういう話を聞いたことがない。
なぜ、姉妹2人と執事だけで何ヶ月もここに暮らしているのか。
お父さんとお母さん、亡くなったんだろうか。
ルーフスはそう思った。カランド家の領地でも、化け物に親を殺された子供がぽつぽついる。そういう子たちには、無理に親の話をしてはいけないと、ルーフスは母から言われていた。父様母様のことを思い出すだけで辛いこともあるのですよと。きっとローザとイリスもそうなのだ。
幼いながら、6歳のルーフルは、同い年のローザを気の毒に思った。俺と同い年なのに、父上も母上もいないなんて、俺だったらすごくさびしいだろうなと。
それでもローザが笑って暮らしているのは、イリスがいるからだ。
父も母もいなくても、11歳年上の、優しく温かい姉がいる。だからきっと大丈夫だ。
そう思っていた秋の日。
イリスたちの家の前に馬車が停まった。
ちょうど、庭で昼食を広げていたところだった。広げた布の上に座ってパンケーキを口に運んでいた4人は、はっとその動きを止めた。
茶色の、地味な馬車だ。しかし4頭立てで、よく見るとしっかりしたつくりなのが見て取れた。
馬車のあちら側の扉が開いたようで、1人の男が早足に馬車の後ろを回りこんで歩いてくる。男が開けたこちら側の扉から、見覚えはないが何かしらの制服だろうとわかるものを着た男が降りて来た。ルーフスの父よりも年上に見えた。
そして、イリスとローザの空気が張りつめるのがルーフスにもわかった。
「ローザ、ルーフスをつれて家の中に行きなさい」
イリスが鋭くささやいた。
「急いで」
ラフィンが2人の手を取って立たせ、「さ、おうちへ」とうながした。
「行きましょう、ルーフス」
「う、うん」
ローザに手を引っ張られ、ルーフスは急ぎ足に玄関へ駆け込んだ。途中で振り返ると、イリスとラフィンは草の上に立ち上がっていて、馬車から出てきた男がそちらへゆっくり歩み寄っているようだった。
「ルーフス、ここにいてね。座っていて」
ローザに連れて行かれたのは台所のテーブルだった。裏庭に向いた部屋で、ここからはイリスたちのいる庭は見えない。
なんだろう。そわそわと待つ間、ローザもまた一言も口を聞かなかった。
本当に少しの間のあと、玄関の扉が開く音がした。びくっと身構えて台所の入り口を見やった二人の前に、イリスが早足に廊下を歩いてくるのが見えた。
「姉さま」
イリスはローザがそこにいるのを見ると、ぐっと引き結んでいた唇をゆるめた。
いつもの、優しく明るい微笑を浮かべる。
「ローザ、ちょっと来てちょうだい。ごめんなさいルーフス、少しここにいてくれるかしら」
「ぼっちゃま、こちらをお召し上がりくださいねえ」
イリスの後ろについてきていたラフィンが、食べ途中の昼食をテーブルに広げてくれる。そしてそのまま、厨房を出て行ったイリスとローザの後を追っていってしまい、ルーフスは1人その場で残された。
とてつもなく不安だった。不吉な気がした。
あの馬車はなんなんだろう? あの制服の人はなんなんだろう? 今、ローザはイリスと何の話をしているんだろう?
昼食に手を付ける気になどなれず、どくどくと心臓が鳴る音ばかりを聞きながら、待ったのはしばらくの間だった。
ローザやイリスの部屋のある二階から、人が降りてくる足音がする。
現れたのはイリスだった。たった一人で、二階から降りてきたようだった。
「あら、食べてないじゃない。冷めちゃうわよ?」
入ってくるなりやけに明るく言って笑ったイリスは、ルーフスが何も返事できないでいるのを見ると笑みを薄めた。
「あのね、ルーフス。
私、こことは別の場所に行くことになったの。今まで本当にありがとう。これからも、ローザと仲良くしてやってね」
一呼吸、二呼吸の間を置いて、ルーフスはその言葉の意味を理解した。理解したようで、理解できなかった。
「別の場所って……。ここからいなくなるってことか?」
「そうよ」
「どこに? いつ?」
「どこかは言えないけど、今すぐよ。これから準備して、すぐに出発するの」
絶句したルーフスに、イリスは微笑みかけた。
「びっくりさせてごめんなさい。この土地でルーフスと会えて、本当に楽しかったわ。きっとまた会えると信じてる。元気でね」
「……ローザは」
1人でここに残るのかと聞きたかったのだが、イリスは誤解したようだった。
「私の部屋よ。たぶん泣いてるわ。
……でも、前々から覚悟の準備はさせてきたもの。あの子ならきっと持ち直してくれる。ラフィンもここに置いていくわ。
ルーフス、あの子の支えになってやってね」
「こうなるかもしれないって、わかってたのか?」
……そういえばイリスは、ローザに裁縫や料理を覚えさせようとしていた。あれは、もしかしてこのために。
「こうなるとわかっていたわけじゃないけど、どうなるかわからないことはわかっていたわ」
ルーフスには何の返事もできなかった。
と、
「失礼する」
玄関が開く音と、野太い男の声がした。ブーツのかかとが廊下をふむ音も続く。
「どちらにおられる? 準備はお済みか?」
その瞬間、イリスの目が今まで見たことないほど鋭くなるのをルーフスは見た。
台所のわきの廊下を通り過ぎそうになったところでイリスの姿を見つけた制服の男は、
「ああ……」
何気なく入ってこようとした足を、はっとしたように止めた。
イリスの目が、凶暴なほどに厳しい光を放ってその顔をにらんでいたのだ。
「ここは私の屋敷よ。誰が入っていいと言ったの」
その大きな瞳にあったのは、確かに怒りだった。数か月の間、ルーフスには決して見せなかった、強く激しい怒りだった。
……自分の家に踏み込まれたことへなのか。幸せな生活に、踏み込まれたことへなのか。拳を握ってあごを引き、男をにらみあげるイリスは、ルーフスでさえ恐怖を感じるほどの深い怒りを放っていた。
「いますぐ出ていきなさい。急かされなくても、私は自分でそちらに行くわ。
……さもないと」
不意にその声が低くなった。
「絶対に、許さない」
男は二歩後ずさり、廊下に出るともう後は逃げるように駆け出した。
イリスは玄関が閉まる音がするまで男のいた場所をにらみ続け、そうしてすっと視線を下げた。
「八つ当たりだったわね。兄さんを笑えないわ」
一瞬燃え上がった怒りはあっという間に消え、ひどく憂鬱な色だけがその瞳に残っていた。そしてさっと顔を上げ、
「ああ、ごめんなさいルーフス。あんまり失礼だから、怒っちゃったわ」
笑ってみせたその顔が本当にいつも通りの笑顔に戻っていて、ルーフスは胸の奥に痛むものを感じた。
「……イリス、どこに行くんだ」
「言えないのよ。ごめんなさい」
もう一度聞くと、もう一度同じ答えが返ってくる。
「……イリス」
よほどこちらの顔がゆがんでいたのか、イリスは勇気付けるような微笑を浮かべた。
「大丈夫、痛いことや恐いことをされるところではないわ」
そこでふと笑顔が曇る。
「でも」
まっすぐルーフスを見ていた目が、少し下がった。
「でも、ローザやあなたと会えなくなるのって、本当に辛いわね」
大きな灰色の瞳が揺れる様に、また胸の奥が痛くなって、ルーフスにはもうそれ以上何も言えなかった。
静まり返った厨房に、とん、とん、と軽い音が届いた。階段を下りてくる音だ。
左手にイリスのかばんを提げたラフィンと、その右腕を抱え込んだローザが入ってくる。ローザの目は真っ赤だったが、今は涙を流してはいなかった。
「姫様、こちらを」
「ありがとう」
銀髪の執事がいつも通りの笑顔で差し出したかばんを、イリスもまたいつも通りの笑顔で受け取った。
「ラフィン、ローザのことよろしくね。
ローザ、わがままばかり言ってはダメよ。ちゃんとお勉強もして、お料理もお裁縫もできるようになるのよ」
ローザは固くラフィンの腕を抱え込んで、じっと黙っていた。イリスはひざをつき、そんなローザを間近から見上げるようにする。
「きっとまた会えるわ。会いに来るわ。元気でねローザ」
ローザは何か言おうとしたようだったが、口を開いた瞬間にその目から大粒の涙があふれ出し、言葉は嗚咽に埋もれた。イリスは黙ったまま微笑み、その髪を何度もなでていた。
「ラフィン、ローザのこと、本当に頼むわね」
「はい姫様、お任せを」
「ルーフスも……」
その灰色の目がこちらを見た瞬間、
「俺がローザを守るよ!」
ルーフスは反射的に叫んでいた。
「俺、ずっとそばにいて、ローザのこと守るから……!」
勢い込んで前のめりになると、イリスはあでやかに微笑んだ。
「ありがとう。……行くわ」
イリスは立ち上がって身をひるがえし、迷いのない足取りで台所を出て行った。
「ローザ、」
ラフィンの腕にすがって泣いているローザに声をかけると、少女はよろよろと歩き出し、姉の後について玄関ポーチへと出た。ルーフスもその横に立って、ローザの右手をしっかり握った。
イリスは、制服の男に手を取られて馬車に乗り込むところだった。閉まった扉の小さな窓からかすかに手を振って見せ、そうして4頭立ての馬車は走り出し、大木の向こうの角を曲がって見えなくなった。
あっという間だった。あっけなく、イリスは浜辺の村からいなくなった。
……帝都じゃないのか。
突然にルーフスはそう思った。
……イリスは、皇帝のいる帝都に行くんじゃないのか。
そう思った理由は分からなかった。ただ、そうに違いないという気がして仕方がなかった。
ラフィンと、その袖に顔を埋めて泣いているローザと、その手を握るルーフスは、ずっとそこに立って誰もいない道をながめていた。
やがて、
「嬢ちゃま、風が冷たくなってまいりました。中に入りましょう」
ラフィンが静かにうながし、ローザはそでに顔を埋めたまま小さくうなずいた。
「あったかいお茶をお入れしましょうね。ぼっちゃまも、お飲みになってあったまってくださいまし」
「うん」
玄関をくぐる時、ルーフスはもう一度振り返ってイリスの去った道を見た。
……これからは、俺がローザを守る。絶対に。
その一瞬の思いを強く抱え、ルーフスは大きくなった。