ザイン城での再会:ルーフス
ルーフス→14歳の少年騎士(未)。幼い日をともに過ごしたローザを探している。
フォルティシス→現皇帝の長子、東宮。ローザとイリスの異母兄。
エドアルド→東宮私邸の警備兵。反逆者の烙印を押され、東宮に逆らえない立場。
イリス→現皇帝の第2子で、ローザの唯一の同母姉。1年前に亜神となって東宮と敵対している。
ラフィン→イリスの執事。小さいころに世話をしていたローザとルーフスに甘い。
「……なるほど」
ラフィンはフォルティシスとルーフスを見比べてつぶやいた。
「兄君様がご用意なさったわけではなく、ぼっちゃまがご自分でいらしたと」
その顔には微笑みがあるが、フォルティシスを目に映す一瞬に、獲物を狩る獣のような鋭さがよぎるのが確かに見えた。ルーフスはぞっと身がこわばるのを抑えられなかった。
「やめてくれラフィン! この人、ローザの兄さんなんだ!」
こちらに視線を移したラフィンからは、その冷たい鋭さは消え失せている。
「ええ、ラフィンも存じておりますよ。今ごあいさつをしたところです。……で、ぼっちゃま」
ラフィンの目が、かすかに細くなった。
「ぼっちゃま。ラフィンは、おうちにお帰りなさいましと申しましたよ」
その、笑ったように見える口元のまま、目だけが真顔になっている表情に見覚えがあった。
「嬢ちゃまのお気持ちをくんでくださいましと、お願いしましたよ」
彼はじっとこちらを見つめている。ルーフスは過去と今とがぐらぐらと揺れ、混ざり合うような、奇妙な感覚にとらわれた。
「ラフィン、昔もそういう顔をしたな」
イリスだけでなく、ラフィンの外見もまた、ルーフスが6歳だった頃とまるで変わらない。
「もろいから危ないって言われてたのに、俺がこっそり二階の飾り窓に上ろうとしたときだ」
どうやって察知したのか、一階にいたはずのラフィンがすっ飛んできてとっつかまり、こんな顔で叱られた。
ぼっちゃまがおケガなさったら、ラフィン達はどれほど悲しいとお思いですか。
そうきびしく叱られたのを覚えている。
その時と同じ目だ。
……亜神だったとしても。あのころからずっとそうだったとしても。それでもラフィンは、昔も今も本当に変わってはいないんじゃないか。
「ラフィン、頼む、もう……」
「あーあ、ラフィン怒っちゃったわ。どうするのルーフス、知らないわよ」
笑うような歌うような声がした。
さあっと、なにかの粒子がそこに集まるように見えた。
柔らかくゆれる長い髪が、細くしなやかな体が、小さな赤い唇と大きな灰色の瞳が、その場に現れる。
霧の中から姿を現すように、イリスがその場に立っていた。
「イリス……!」
反射的に思い出されたのは、血を吹き上げて倒れる騎士たちの姿だった。煙のにおいのする林の中で見た、あの無残な赤黒い肉塊。血の気が引いたルーフスの表情を、イリスは誤解したようだった。
「ふふっ、冗談よ、そんな顔しないで。
ラフィンはあなたたちに甘いもの。ちゃんと謝ればすぐ許してくれるわよ」
「姫様、わたくしも怒るときは怒るのですよ」
笑顔に戻ったラフィンが抗議するのを、イリスは明るい笑い声で受ける。
「そうかしら。ルーフスが泣いちゃったら、すぐにでもてのひらを返すんじゃない?」
ひとしきり笑い、そしてその視線を移した。
「久しぶりね、兄さん」
「……たいして久しぶりでもないな。1年か」
東宮はいつの間にか、いまだうずくまったままの警備兵の横まで移動していた。符をかかげて彼のケガを治していたようだ。光を放ち続ける符をエドアルドの方に放り投げ、イリスを見返した。
「結界にぶち込んでやる予定だったが、うまくかわしたようだな」
「あの落とし穴みたいな術のこと? わかりやすすぎたわ。
それより、テレーゼとシャリムは元気かしら」
「相変わらずだ、2人ともな」
イリスは親しげなほほえみ、東宮は敵意がただよう薄笑いだった。
「そう。
それでね、ローザを渡してもらえないかしら。そのほうが兄さんも都合がいいでしょ?」
東宮は鼻で笑った。イリスもにっこりし、ルーフスを見る。
「この人はね、ルーフス。私の兄さんなの。皇帝の妃になって皇太子を産むために育てられた女性から生まれた、生粋の東宮殿下よ。
至天宮にある、お父様の若いころの肖像画を見たことある? 一度見せてもらうといいわ。笑っちゃうくらい今の兄さんにそっくりだから」
東宮の薄笑いが深くなった。ひどく不快に感じているのだとルーフスは思った。
イリスはそんな異母兄に平然とほほえみを向けている。と、その視線が東宮の横の警備兵に向いた。
「それにしても、騎士団のツヴァルフかマシューを連れていると思ったのに、ちがう人と一緒なのね。知らない人だわ」
刀を持つエドアルドの右手に力がこもった。
……斬りかかるか? ルーフスの体にも緊張が走ったその時、イリスが急にぽんと手を打った。
……昔、うれしいことがあった時にしていたしぐさだ。
「ああ、8年前、その人と出会ったのね?!」
東宮の顔に動揺が走った。警備兵が目を見開いてその顔を見上げる。
「やっとわかったわ。そうだったの。ふふふ」
イリスは芯から楽しげに笑った。
「何が言いたい、イリスリール」
「おい、何だ、フォルテ」
東宮と警備兵が同時に口を開いた。東宮はうずくまったままの警備兵を一瞬だけ見下ろし、
「黙ってろ」
と投げつけるように言った。だが、イリスの目が向いたのはその警備兵の方だった。
「あら、気を悪くしないで。大丈夫よ、兄さんはあなたのこと、何も言ってなかったわ」
そしてまた楽しそうに笑う。
「兄さんもそんな顔しないで。私うれしいだけよ。そう、それであれから……」
ひどくうれしそうに、笑いをかみ殺している。
「姫様」
笑顔のラフィンが、ひかえめに声をかけた。
「ええ、そうだったわね」
とうなずいたイリスは、
「あまり時間がないんだったわ。ローザをもらっていくわね」
「なぜ、ローザヴィを連れて行こうとする?」
東宮の問いに無邪気な微笑をのぼらせた。
「なぜって? ローザは私の妹よ」
首をかしげて見せる。その真意はルーフスにはまるで見えなかった。東宮も同じように感じたか、さらに問いを重ねた。
「ローザヴィをお前の手に渡したら、どうなる?」
「月の道を完全に開くわ。全ての亜神が、降魔とともに、この世界に押し寄せるわね」
ルーフスはぞっとして口を開けなかった。東宮が薄笑いを浮かべる。
「この国を……人間を滅ぼすというわけだな」
「あら、そんなことが目的じゃないわ。帝国も、人間も、どうでもいいのよ」
その顔には、ただやさしげな微笑があった。心底本気で言っているんだ。ルーフスはそう思い知った。
「イリス……!」
これは本当にイリスなのか。あのやさしかったイリスなのか。ルーフスは信じられない思いで、それでも口を開いた。
「ローザは渡さない。たとえイリスであっても、渡さないからな」
決意をこめたその一言に、イリスは楽しげに笑った。
「ルーフスったら。
そうね、ちょうど反抗したい年頃だものね」
絶句したルーフスに、
「小僧、口を閉じてろ」
警備兵のいらだった声が飛ぶ。
「でも、ダメよ。どうして私が今まで姿を見せなかったと思ってるの」
東宮の薄笑いが消えた。イリスの手がふっと持ち上がり、同時に東宮の手も動いた。
「見つけ出したわ。西の塔でしょう?」
一瞬、粒子へと戻りかけたイリスの姿が、
「逃がすか!」
東宮の符が光るなり実体を取り戻した。
同時に、ルーフスは突き飛ばされるような衝撃を強く感じていた。数歩、後ろによろめき、倒れそうになってふみとどまったとき、妙な感覚があった。
……鼻先に、何かある。
警備兵がイリスへと駆け、ラフィンがすばやく割り込んだ。手首から先がない左手で応戦しようとするのを、
「いいわ、ラフィン」
イリスが悠然と止める。
「どうもオリを作られたみたい。あなたはそっちを壊してちょうだい」
「おや、確かに。しかもだんだん小さくなっておりますね。これは一大事」
ラフィンはさっと体を引き、大きく後ろに跳ぶと、警備兵の刀がイリスの額ぎりぎりで止まるのを気にする様子もなく部屋の四隅を見渡した。警備兵は、そこに盾でもあるかのように止められた刀に、
「くっ……」
声をあげ、力をこめる。東宮の手から符が飛んだ。それが光る直前にイリスは軽やかに跳び、盾を破るように一閃した警備兵の刀の軌道から逃れていた。
ルーフスは、そこから動けなかった。目の前に何かある。目には何も見えない。だが、伸ばした手が、油に沈むような抵抗を感じる。
……イリスが言った、オリってやつ?
そこで、耳の奥にイリスの言葉がよみがえった。
『見つけ出したわ。西の塔でしょう?』
西の塔!
ルーフスは駆け出した。そこにローザがいるのだ。
ローザのところへ行こう。とにかく、バレてしまった隠れ場所から連れ出すのだ。イリスたちはいずれ姿を消す。それまで逃げることができれば。
部屋を飛び出す。西。西はどっちだ。壁に開けられたスリット状の窓から太陽が見える。あっちが南、じゃあ西はこっちだ。そのろうかが塔へとつながってるのかわからないまま、とにかく足を速めた。
そちら側にも、戦闘があった。
「誰だ! 止まれ!」
前方、ろうかが交差しているところに降魔の一群れがある。今しもその一匹を斬り捨てた人影が、こちらをみとがめて声を上げた。その顔に見覚えがある。相手もまた、こちらの顔を認めて声を上げた。
「お前、ローザヴィ殿下の……!」
横からもう一匹、降魔の長い足が降ってきたのをかわし、オノの一振りで胴を両断したのは、東宮とともにいた、銀縁メガネの騎士団長だった。
……なら!
「東宮がイリスと戦ってる! 俺はローザを守りに来た!」
「殿下が?!」
思った通り、表情が変わった。
「あっちだ!」
背後を指し、彼が一瞬戸惑ったそのスキに、その横をすり抜けた。――と同時に、目の前に羽虫型の降魔がふわりと現れる。予想もつかない速度で、その細い足がこちらの胴に突き刺さろうとした。間一髪、足を止めてかわし、
「くそっ!」
さらに振り下ろされた硬質の脚を刀で受け止める。
……重い!
今まで戦ってきたものより、一回り大きい。いつものように受け流せない。まずい。ルーフスはひたいに汗が浮かぶのを自覚した。
と、
「動くな!」
一声とともに、すばやく横手に回り込んだ騎士団長のオノが、化け物の胴を叩き斬った。重みが溶けるように消える。
「……ありがとう、ゴメン!」
「あっ、待て!」
言うなりルーフスは駆け出した。声が追ってくるが、かまっているヒマはない。
「止まれ! お前ひとりで何ができる!」
背後から届いた声に、胸を突かれる。その通りだ。彼がいとも簡単に斬り捨てた降魔さえ、自分には倒せない。
でも――!
前方にらせん階段が見えた。あれが塔だ! ルーフスは確信した。背後を確認する余裕はなく、階段を駆け上がる。2階分も登ったか、階段が途切れたそこに小さな部屋があった。
「ローザ! ここは危ない、一緒に……!」
叫びながら駆け込んだルーフスは、静まり返った部屋のなかばで、立ちつくした。
誰もいなかった。
なにもない部屋の真ん中に、人の形に切られた板と、そこに貼られた符だけがあった。
「ローザ……?」
思い出した。ジーク砦で、フレリヒが暗殺者の目をくらますために符を使っていたことを。ベッドに符をはりつけただけで、暗殺者たちはそこにローザが眠っていると思い込んでいた。
……おとりだったんだ。ローザは、ここにはいない。
「あら……。やっぱりそうだったのね」
背後でイリスの笑い声がした。刀を引き抜いて振り返ったルーフスに、入り口に立ったイリスと、その後ろにひかえるラフィンが笑いかけた。
「一応来てはみたけれど、そんなことだろうと思ってたわ」
「イリス。わかってたのか?」
イリスはくすくす笑う。
「私一応、至天宮育ちなのよ? 兄さんの考えそうなことくらい、わかるわ」
ああ、そうかとルーフスは思った。イリスはだいぶ長いこと帝都で暮らしたのだ。
「イリスにとっては、あの東宮が兄さんなんだな。帝都にいる人たちが、弟や妹なんだな」
「そうよ」
「……それで」
ルーフスはかわいたのどから声をしぼり出した。
「イリスはあの人たちのこと、笑って殺せるんだな。
きょうだいでも。
……ローザでも」
「ぼっちゃま」
ラフィンが過剰な微笑で口を開いた。イリスはそれを制し、
「ローザは別よ。あの子はただ1人、同じお母様から生まれた子だもの」
赤い唇でほほえんだ。
「それに、あの子にとって私は唯一の姉なの。だから私にとっても、あの子はただ1人、特別な妹よ」
「なら、どうしてローザを苦しめるんだ」
「苦しめる?」
イリスはきょとんとし、
「まあ、ルーフスったら」
急に楽しげに笑い声を上げたので、ルーフスはあっけに取られた。
「すねてるのね。もう。
もちろんあなたの事だって特別よ。私たちがどんなにあなたを好きか、知らないんでしょう」
「何言ってるんだよ!」
ルーフスが驚きに声を上げる間に、イリスはラフィンを振り返っていた。
「いいことを考えたわ、ラフィン!」
イリスは手を打った。楽しくてたまらないという顔をしていた。
「ルーフスも連れていけばいいのよ。私とあなたと、ローザとルーフス。昔のように4人で暮らせばいいわ」
「それはようございます、姫様」
ラフィンもにこやかに答えた。
「……ですが、ルーフスぼっちゃまは完全に人間でございます。人には、月の道は通れません」
イリスは笑い声をあげた。
「そうね」
ニコリと笑ったその顔がこちらを向き、ルーフスは全身が冷たくなった。何一つ屈託のない、心の底から楽しげな笑顔だった。
「だから、浸食させればいいのよ」
白魚のような手が、すっとこちらに差しのべられた。同時に、胸に焼けつく熱さを感じた。
「……ぐあっ!」
悲鳴とともに、真っ赤なものが噴き出すのが見えた。
血だ。
胸が大きく切り裂かれ、血があふれ出している。
そしてその傷の痛み以上に、焼けつく熱さが心臓の奥に沈んで行った。背中から地面に倒れこんだ衝撃すらわからなかった。
「姫様、ひとまずそのあたりで」
ラフィンの声がする。
「一度に浸食させれば、人であるぼっちゃまは耐えられません」
「ああ、そうだったわね。ルーフスが消え失せてしまったら大変だわ」
イリスはちょっとした失敗をしたかのように笑った。
「急ぎすぎちゃだめね。それじゃまた、ルーフス。4人でまた暮らせるの、本当に楽しみ」
ケーキが焼きあがるのを待つような、幸せな笑い声がどこかに消えていった。
……痛い。心臓が熱い。それ以外何もわからない。
「おい、大丈夫か!」
騎士団長の声が遠くに聞こえ、視界のはしで符が光るような気がしたときには、意識が闇に呑まれていた。