過去 少女一家との出会い:ルーフス
ローザに初めて会ったのは、6歳の時だった。
体調を崩した母の療養先、ルーフスがしばらく住むことになった海辺の村は、さびしい場所だった。
年老いた村人の住む家がぽつぽつとあるだけで、同じ年頃の子供の姿など見かけず、そのあたりを走り回っても、誰にも会わないことも多かった。
それでも、ルーフスはそれなりに楽しんでいた。丘の上に立つ大木に登り、海辺に行って魚を捕まえ、林の中でリスの親子を探す。毎日やることは山ほどあった。
そのころのお気に入りの一つが、丘の下にある大きな屋敷だった。
二階建てで大きいのに、中にはだれも住んでいない。周りには広い庭もあった。
ルーフスはその庭に入り込み、装飾用の石の上を跳んで走ったり、木に作られたブランコに乗ったり、時には背伸びして窓から中をのぞいてみたりしていた。
ここは自分だけの遊び場、ひみつ基地だと思っていた。
雨が降り、3日ほども外に出られなかった次の日のことだ。
久しぶりの晴れた空の下、ルーフスは息せき切ってあの屋敷へと走った。閉じこもって退屈し切った3日間の分、あの広い庭で思い切り遊ぶのだ。まずはブランコ、それから木に登って……そう思って丘を駆け下りた足が、急に止まった。
ブランコに人が乗っていた。
その周りにも人がいた。
一人は、ルーフスと同じくらいの子供だった。柔らかい巻き毛の女の子だ。ブランコに座るその子の背を、背の高い青年が優しく押している。女の子の正面には若い娘がいて、ブランコが揺れるたびに手を伸ばし、女の子と手をたたきあっては笑っていた。
「おや」
青年の方がこちらに気付いた。それで、あとの二人も一斉にこちらを見た。三人の視線を受け、ルーフスはあまりに予想外の光景にあせりを感じた。
「こんにちは」
青年が優しい声で言い、ほほえみながら手を振った。若い娘の方も同じように、
「こんにちは!」
とほほえんだのだが、ルーフスはそれを合図にしたかのように、大あわてで来た道を駆け戻った。
夜、今日は少し気分が良いと言う母に、「今日、知らない人に会った」とだけ報告した。
「あら、それでどうしたの」
「こんにちわって言われたけど、返事せずに帰ってきた」
母は優しくほほえんで言った。
「まあルーフス、それはとても失礼なことよ。ごあいさつされたら、ちゃんとごあいさつを返しなさい。お父様のような立派な騎士になれませんよ」
それで翌日、ルーフスはまたあの屋敷に行った。
丘の方ではなく横手から回り込み、大きな木の陰からこっそり様子をうかがうと、3人は庭に布を広げ、そこでお茶会をしていた。
気づいたのはまた青年の方だった。
「おや……」
彼の視線を追って、娘と少女もこちらを向く。ルーフスは木のかげを飛び出し、彼らの誰かが口を開く前に大急ぎで、
「こんにちわ!」
と叫んだ。青年と娘が楽しそうに笑った。
「こんにちは」
娘が言った。
「こんにちは、一緒にお茶をいかがですか」
青年がポットを持ち上げ、おいでおいでと手招いた。
少女は一人、娘のスカートのすそをにぎってその背中に隠れようとした。
「私たち、3日前にここに引っ越してきたの」
そのままお茶に混ざりこんだルーフスに、娘がそう言った。
「私はここの主人で、イリス。
この子は妹のローザ。
こちらは執事のラフィンよ」
長い髪をかすかな風に揺らしながら屋敷の主だと名乗った娘は、長いまつげの後ろに快活な光に満ちた瞳を持っていたが、微笑む小さな赤い唇には優雅な気品があって、自分といくつくらい離れているのか、6歳のルーフスにはよくわからなかった。
「俺、ルーフス=カランド。母上の病気を治すために、1か月前からここで暮らしてるんだ」
「まあ、お母様ご病気なの」
「お心細くていらっしゃいましょう」
「でも、こっちに来てからだいぶ良くなったんだ」
「それはようございました」
「そのうち、私たちもお見舞いに伺えたらいいわね」
大人二人は、暖かな口調でルーフスに話し、ルーフスの話に耳を傾け、よく笑った。小さなローザだけが、ずっと黙って姉の後ろに隠れようとしていた。
「ごめんね。この子、ちょっと人見知りなのよ」
イリスが苦笑しながらその頭を撫ぜた。
「慣れれば、元気な子なんだけど」
「同じお年頃のぼっちゃまが近くにおいでとは、うれしゅうございますねえ、嬢ちゃま」
ラフィンがそう言っても、ローザは困ったようにうつむき加減でケーキをかじるばかりで、結局その日は一度も口をきかなかった。
「ルーフスぼっちゃま、どうか、ローザ嬢ちゃまとお友達になってあげてくださいましねえ」
帰り道、横について家まで送ってくれながら、ラフィンが言った。
茶会の間、彼はずっと笑顔だった。どうやらそれが基本の顔で、だからそこからさらに笑顔になると、過剰なまでににこやかになるらしかった。
……でも、真顔になったら、かなり鋭い目をしている。
そう気づいたのはだいぶ後だ。
「嬢ちゃまのお友達になって下さったら、姫様もラフィンもとても嬉しゅうございます」
「姫様?」
横を歩くラフィンの顔を見上げると、彼はにこにこと笑った。
「イリス様のことでございます。お姫様のように美しい方なので、姫様とお呼びしているのですよ」
6歳のルーフスは、へえそうなのか、と単純に納得した。
……確かに、見たこともないほどきれいな人だった。
帝都のお姫様など見たことがないが、きっとあんな感じなんだろう。
「イリスって、大人の人?」
「さあ、どうでございましょう。お年は17歳でらっしゃいますよ。ローザ嬢ちゃまとは11歳違いのお姉さまでらっしゃいます」
そうか、そのくらいなのかとルーフスは思った。6歳のルーフスにしてみれば、17歳は立派な大人だ。お屋敷の主人でもおかしくないと思った。
「俺、リスのいる森を知ってるんだ。ローザを連れてってあげるよ」
「おや、リスのいる森。嬢ちゃまがお喜びになりましょう」
ラフィンは嬉しそうに、過剰な笑顔になった。
「いつでもおいでくださいましね。姫様もラフィンも、もちろん嬢ちゃまも、とても楽しゅうございました」
ルーフスの滞在する屋敷が見えるところで別れる間際、ラフィンはそう言った。
「じゃあ、明日、また行っていい?」
勢い込んだルーフスに、彼はさらに笑った。
「もちろんでございます。本当は、今すぐまたご招待したいくらいですよ」
だからルーフスは本当にすぐ翌日、館を訪れた。
「本当にご迷惑ではないか、ちゃんとご様子を見るのですよ」
母に言われたので、また木の陰から様子をうかがったのだが、玄関を掃いていたラフィンがすぐに気づき、
「嬢ちゃま! ルーフスぼっちゃまが来てくださいましたよ!」
嬉しそうに声を上げた。しばらく時間があって、イリスと、その背中にくっつくようにしてローザが出てきた。
「おかしな子ね。朝からずっと、いつ来るかしらいつ来るかしらって、そわそわしてたくせに」
イリスが笑う間も、ローザはそのスカートの陰に隠れ、顔を出そうとしなかったのだが、
「ローザ、俺、リスのいる森を知ってるよ。行こう」
「リス?!」
その時だけぱっと顔をのぞかせた。わざと秘密にしていたらしいラフィンが、過剰な笑顔になる。
「まあ、リスがいるの?」
イリスも嬉しそうに手をたたき、ラフィンが素早く支度をして、4人でリスの森へと出かけることになった。
その道中も、姉にひっついてルーフスから隠れていたローザだったが、
「あの木に巣があるんだ」
そう指差してからは、姉の背から顔を出し、だんだんと身を乗り出し、じわじわとルーフスの横まで来て巣を見つめ、
「今、しっぽが見えた!」
ほほを上気させて声を上げた。
「子供がいるわ! 2匹……3匹!」
「4匹いるんだ。……ほら、出てきた」
「本当! ねえ、パンをやったら食べる?」
興奮しきってルーフスと話すローザを、大人二人は嬉しそうに見守っていた。帰り道ではもう、行きの態度がうそのように打ち解け、
「海にはもう行った? 魚を捕まえられるんだよ。貝もいる」
「あの砂浜のあるところ? 通ったけど、雨だったの。晴れた日なら泳げる?」
二人は明日からどこで遊ぶかを熱心に話し合っていた。
そこからルーフスは、毎日のようにローザたちの館を訪れた。4人で館で過ごすこともあり、ローザと二人で庭で遊ぶこともあったが、館の外で遊ぶときは、必ずイリスとラフィンもついてきた。
それがなぜなのか気づいたのは、それからずいぶん後のことになる。幼いルーフスは疑問にすら思わなかった。
「ルーフス! こっちこっち! 変な魚がいるの!」
4人で訪れた波打ち際で、ローザは波をけたててはしゃいでいる。それをニコニコと眺めていたラフィンが、ふと道の方に顔を向けた。つられてルーフスもそちらを見た。
村の老人が二人、こちらを見てひそひそと何か話していた。
……なんだか、嫌な感じだ。
ルーフスがそう思うと同時に、ラフィンが、
「こんにちは」
と声を上げた。いつもの笑顔だったが、声のトーンは一つ低かった。老人たちは返事をせず、さっと背を向けると足早にその場を去った。
「なんだろう、あれ」
尋ねるとラフィンは苦笑し「さあ、なんでございましょうね」と言っただけだった。
それが分かったのは、その帰り道だ。一人歩いていたルーフスを「あんた、療養に来てる奥様のぼっちゃんだろう?」と呼び止めた老人がいたのだ。
「うん」
「あの屋敷の人間に近寄らない方がいいよ。なんでも、都を追われてきたって話だよ?」
ルーフスはぽかんと口を開けた。
「都を追い出されたの? なんで?」
「それは知らないよ。でも、きっとろくな奴らじゃない。坊ちゃんちは立派な騎士様の家なんだろ。あんな連中と関わったらダメだよ」
悩みながら家への道をたどった。
何かあるとは、以前から感づいてはいた。
時折、ローザやイリスが、思いつめたような顔をすること。
ラフィンが「ぼっちゃまが来てくださると、お屋敷が本当に明るくなる」と、よくつぶやくこと。
後からやって来るものだと思っていたローザたちの両親が、いつになっても姿を現さないこと。
でも、それが『ろくな奴らじゃない』からなのかは、ルーフスにはわからなかった。
翌日、屋敷を訪れると、敷地を囲む低いフェンスにイリスが一人で腰かけ、ルーフスを待っていた。
「こんにちは。少し、話したいことがあるの」
いつものあでやかで魅力的な笑顔で、イリスは言った。
「ローザは、出てこないから大丈夫よ。台所で、ラフィンにパンケーキの焼き方を教わってるの」
並んでフェンスに腰かけると、イリスは言った。
「昨日、村の人から、私たちのことを聞いたんじゃない?」
なんでわかったんだろう。ルーフスは不思議に思った。
「私たちと仲良くしない方いいって、言われたでしょう」
ルーフスは少し迷い、しばらくうつむき、結局うなずいた。
「その人たちの言う通りかもしれないわ」
驚いて顔を上げた。視線の先で、イリスはほほえんでいた。まっすぐな長い髪が、西風に吹かれて柔らかに揺れていた。
「ルーフスがいてくれて、私たちとても楽しかったわ。楽しくて忘れてしまっていたけど、これ以上続けることはルーフスのためにならないかもしれない。
何もお礼ができないのは、心苦しいけど」
「……知らない人に、イリスたちはきっとろくな奴じゃないって、だから関わったらダメだって言われた」
イリスはうなずいた。
「俺、よくわからなかったから母上に聞いた。
そしたら母上、世の中には、関わったらいけないような人も、確かにいるって言ってた」
イリスはまたうなずいた。何もかもをあきらめ、受け入れるしかないとずっと前から決めていたような、あでやかな笑みのままだった。
「でも、大事なのは、相手がどういう人なのか、自分の目でちゃんと確かめることだって。誰かがそう言ったからって人を悪く言うのは、一番よくないことだって。母上、そう言ってた」
イリスは目を丸くした。
「俺、あの知らないじいさんに言われたことと、イリスたちに言われたことだったら、イリスたちの方が……」
「ルーフス?!」
背後からローザの声がした。振り向くと、小さなエプロンをつけたローザが、玄関から顔を出していた。後ろには微笑むラフィンの姿も見える。
「来てたの? 呼んでくれればよかったのに。あのね、今パンケーキが焼けたのよ!」
「上手に焼けた?」
イリスが優しい声を返した。ローザは勢い良くうなずき、
「姉さまを呼びに来たの。ルーフスの分も焼いてあげる!」
イリスは笑った。「食べる?」とこちらにたずねてきた。うなずくと「じゃ、行きましょ」と先に立って歩き出した。
ローザはもう、台所へと駆けこんで行った後だった。
ドアを開けて待っていてくれたラフィンが、ルーフスが通る時に「ぼっちゃま、ありがとうございます」と小声で言った。
あのやり取りが聞こえていたのだろうかと、ちょっと不思議に思ったものだ。