神がかりの皇子と:キーオ
ウィーウッド伯爵の屋敷には、5匹もの大型犬が飼われている。
「ねえピート、犬を飼おうよ!」
この伯爵家に預けられた皇子フレリヒが12歳のとき、うきうきしながらそう言い出して以来だ。
キーオは反対した。反対するキーオに反対したのは彼の父、ウィーウッド伯爵ピートだ。
「なあキーオ、あの方は別格だよ。俺たち普通の人間とは違うんだよ。おっしゃるとおりにするしかないんだ」
国内でも有名な歴戦の戦士とは思えないしょぼくれた様子で、父はそう言った。それ以来、ウィーウッド伯爵の屋敷には5匹の犬が飼われている。
フレリヒは犬の世話などしない。時折、犬のところまで行って、この上ない上機嫌で5匹をなで回し、もみくちゃにされ、大満足の様子で帰っていく。それだけだ。世話はもっぱら、3人の犬専属召使が行っている。だというのに犬たちはフレリヒを1番の主と認めているようで、子供にしか見えない皇子が現れると、日ごろなついている召使たちに目もくれず、先を争ってかけよっていくのだった。
「わかるだろう。あの方は尋常な人間ではない」
遠目に皇子の様子をながめつつ、父は力なくそう言った。
「皇帝陛下のお子というだけではない。本当に神がかりだ」
ウィーウッド伯爵領は、帝国のはしにあり、南に広がる大森林から頻繁に化け物の襲撃を受けていた。
ある日突然、森に化け物がわき、村々を襲い来る。
村もただ襲われるだけではない。厳重な防御が固められており、化け物を返り討ちにせんと日々の用意をおこたらない。そのような緊張した領だった。
フレリヒがこの領に預けられて、まだ2か月も経たないころだった。
「ピート、この村に遊びに行こうよ」
実父より年上の伯爵を平気で呼び捨て、皇子は上機嫌で地図の一角を指さした。
「パレードをしようよ。たくさん兵隊を連れて行って、みんなで街道をねり歩くんだ」
「……はあ」
いまだ気心の知れない皇子の命にそむくわけにも行かず、伯爵は言われたとおり兵を出し、上機嫌でステッキを回すフレリヒと、唇を引き結んだキーオをともない、街道を村へと進んだ。到着すると同時に、森側の鐘が鳴った。
「化け物の襲撃だ!」
まれにみる大襲撃だった。村1つの防備ではとうてい太刀打ちできないほどの大量の降魔は、高名な剣士である伯爵親子と、きたえ上げられた伯爵直属兵たちに迎え撃たれ、壊滅に至った。
「殿下、あの村が襲われるとおわかりだったのですか?」
伯爵と家臣たちの問いに、フレリヒはけらけらと笑った。
「僕はパレードがしたかったんだよ。したいことをするし、したくないことはしないだけだよ」
以来、第17皇子フレリヒは、唐突な言動で伯爵家を振り回してきた。
高速艇が至天宮内のポートに着陸する。船体が安定するのを待たず、
「離陸準備を整えて待て。俺が戻ったら、すぐに飛び立てるように」
キーオはそれだけ言い置いて早足に高速艇を降りた。迎えに出てきた文官があいさつの口を開くより早く、
「フレリヒ殿下はどこか」
と勢い込んでたずねた。
「それが……、実は我らもお探ししておりまして」
ああ、と頭を抱えたい気分だった。
「私も探す。まずはお泊りのお部屋を教えてくれ」
気圧された様子で「はい」と答える文官に連れられてフレリヒの部屋に向かう途中、前方に軍服の背中が見えた。
一般の兵士らとは明らかに仕立ての違う軍服に身を包み、騎士らしき若者と話しているのは、
「東宮殿下!」
キーオは反射的に叫び、自分と同い年で、自分と同じくフレリヒの兄の立場にある東宮にかけよった。ふりかえった東宮の前で土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。
「このたびはまことに申し訳ございません! すべて当家の責任、なにとぞ……」
伯爵の息子に過ぎないキーオは、正式な礼では東宮に直接口を聞くことはできない。だというのに至天宮内で堂々と話しかけられるのは、彼がいつの間にか既成事実的に例外となっているからだ。……悪いほうで。
もう何度、フレリヒのやらかしたことについて、代わりにわびてきたことか。
東宮は無礼者ととがめるようなことはせず、代わりに見ているほうの背筋が凍るような薄笑いを浮かべた。
「ずいぶん遅かったな。フレリヒは手足を切り落とした上で逆さづりになる予定だ。見物していくか?」
血の気が引いた。絶句したキーオに、
「冗談だよ、大丈夫」
遠慮がちな声がかかった。
見れば、騎士の影になる位置にもう1人、フレリヒの異母兄がいた。第3皇子シャリムだ。彼の女性的でおだやかな顔も、今はくもりぎみだった。
「ウィーウッド伯爵家のせいじゃない事はよくわかってるから、気にしないで。……いつもお疲れ様」
返す言葉がなく、キーオは無言でとにかく頭を下げた。
「フレリヒ殿下は、いずこに」
「僕たちにもわからない。三日前に、ここに現れたんだけど」
「毒入りの菓子でもまいておけ。死体になってたらもうけものだ」
そう言う東宮の薄笑いは恐かったし、
「フレリヒがそんなのに引っかかるわけないでしょ。毒の入ってないのだけ食べられて終わりだよ」
そう言うシャリムの真顔にはどっと疲れがわく思いだった。
「早急にお探しし、ウィーウッド領にお連れするつもりでございます。たいへんなご無礼があったかとは存じますが、なにとぞ……」
「僕ら本当に、ウィーウッド家には怒ってないから、心配しないで」
シャリムが優しく言ったが、そんな彼ですらフレリヒに怒っていないとは一言も言わなかった。
「伯爵にも、シャリムが幾重にもねぎらっていたと伝えて。……ああ、領内の治水政策、見事だったとみんなほめていたとも」
「は、……あれは実は、フレリヒ殿下のご命令でございまして……」
なんとか皇子の立場をよくしようと発した言葉に、異母兄たちは特に表情を変えなかった。
「そうだろうとは思ってたよ。でも、あの子の言いたい放題を現実に叶えてるのは伯爵の手柄だからね」
「……身にあまる光栄、父に代わりお礼申し上げます」
黙って聞いている騎士が、そろそろ切り上げてくれないかと言いたげな表情になっている。キーオはその場を辞し、待っていた文官の後について、フレリヒに割り当てられた部屋へと向かおうとした。その途中、
「待て」
廊下の向こうに庭園が目に入り、反射的に言っていた。
「は、どうかなさいましたか」
文官に返事もせず、早足に庭園へと足をふみ入れる。左右を見回し、理由のない確信とともに右の植え込みの向こうをのぞきこんだ。
フレリヒが、ネコのように丸くなって眠っていた。
「フレリヒ! 起きろ!」
色んな感情が一気にあふれ出し、キーオは文官の前であることも忘れて叱りつけた。
フレリヒは薄目を開け、伸びをし、目をこすり、むき出しの土の上に起き上がった。
「ああ、キーオ、おはよう。やっぱりここに来たね」
「おはようじゃないだろう! なんで勝手に都に来た! その上、陛下のお呼びがかかったときには雲隠れしていたと……!」
伯爵夫妻は神がかりの皇子におそれをなし、どこであっても丁重な態度を崩さない。キーオはそれではダメだと思っていた。親代わり、兄代わりとして預かっているのだ。彼を叱ってやれるのは、自分たちだけなのだ。
キーオは皇子の権威にかまわず、悪いことをしたら叱り付けることを信念としていた。……だがフレリヒも、そんな叱責にかまいもしない。
「ピートとミアンは一緒じゃないんだね。来ればよかったのに」
伯爵夫妻が帝都に来ていないことをなぜ見抜いたかなど、いまさらキーオには気にはならない。
「親父はお前の行動のせいでショックを受けて寝込んでいる。母さんはその看病だ。お前のせいだぞ」
「帝都にはすごくおいしいクッキーを売る店があるんだ。お土産に買いにいこうよ」
そして、彼の肩ごしに声を投げた。
「ねえ、ローザもおいでよ!」
はっと振り返ると、上品なワンピースに身を包んだ少女が、庭園の入り口からこちらをうかがっていた。
10年前、皇子フレリヒを預けられると決まったとき、ウィーウッド伯爵家には高額の支度金が与えられた。
慰謝料の前渡しだろうか。これまで、神がかりの皇子の散々な評判を耳にしてきた伯爵家はふるえあがった。
「うちの領は、そんな恐ろしいものまで抱え込む余裕はない」
キーオは父にそう言った。皇子の身の安全が保障できないとして、帝都に再考を求めるべきだと強く主張した。
「そのことなんだがな。だからこそ、うちなのかもしれない」
「……あわよくば死んでしまえということか? 冗談じゃない!」
わが領地は帝国の南の盾だ。わき上がる化け物たちから、帝国の領土を守ってきた。その自負がキーオにはあった。やっかい払いの貧乏くじなど、ぬくぬくと暮らしている安全な領の貴族にでも引かせるべきではないか。
ところが、やってきた5歳の皇子は、おとなしく死ぬようなタマではなかった。
「この川の東側に、リンゴの木を植えようよ。森になるくらい」
「ここに落とし穴を掘ろうよ。大きいやつ」
「種まきは来週にして、今週はみんなで踊ろうよ。お祭りだよ!」
理由など1つも説明せず、彼はさまざまなことを平然と要求する。父がそれに二つ返事で従うのを、キーオは苦い思いで見ていたが、何しろあの、大襲撃を防いだパレードの件があったので、何も言えなかった。
……これらも、何か意味のあることなのだろう。
そう思っていた内心が、三ヵ月後には変わっていた。
……そうでもない。
兵士総出で必死で掘った落とし穴には、大きなイノシシが一匹かかり、フレリヒはそれを見て大喜びしていた。わきだした降魔がひっかかるようなことは、10年経った今でもない。
リンゴの木は、植えた場所が合わない土だったらしく、実はまるでつかなかった。その分、花がやけにたくさん咲き、
「ね、きれいでしょう?」
フレリヒは上機嫌でそう言った。……彼には上機嫌かものすごく上機嫌かの二種類しかない。ともあれ、リンゴの実が領民の飢えを救ったとか、木が何かから領民を守ったとか、そういうことは未だにない。
しかしそんないらだつ事態の中に、ぽつんぽつんと大当たりが出るのも事実だった。
兵士のパレードの先に降魔がわく。
畑が季節外れの洪水に巻き込まれ、種まきを来週にして良かったと農民が胸をなでおろす。
そうなれば、神がかりの皇子の命令すべてに従うしかない。
領内で済むならそれでよかった。だが、第17皇子はそんなお行儀のよい悪童ではなかった。
ある日、急に姿が見えなくなる。皇帝の息子だ。みんな大あわてでその行方をさがした。どこにもいない、見つからない、全員が青ざめきったころ、帝都から連絡が入る。
至急フレリヒ皇子をお迎えに上がるように。東宮殿下におかれては、いたくご不興のご様子――。
飛空艇を限界まで飛ばして帝都に向かうのは、大抵キーオだ。
……フレリヒが来る前より、領民や兵士の犠牲は格段に減っている。それは確かだ。
キーオは本心からそう思う、だが、父がめっきり老け込んだのも確かだ。
わかったよ、お前は俺たちとはちがう特別だ。領内では好きにしろ。頼むから、好きにするのは領内だけにしてくれ。
何度もそう言ったが、神がかりの皇子は楽しそうに笑うばかりだ。
「僕は特別じゃないよ。
わかることはわかるし、わからないことはわからない。
したいことをするし、したくないことはしないだけだよ」
その真意すら、キーオには分からない。
至天宮の庭園で、土の上に起き上がったフレリヒは、キーオの肩ごしに「ねえ、ローザもおいでよ!」とワンピースの少女に楽しげな声を投げた。
少女は、うろたえた様子だった。
……誰だ? 貴族の娘か? 集められているという各地の皇子の一人か。
「あの、兄さま。私兄さまと話したくて、いらっしゃると聞いてお探しを……」
「うん」
フレリヒはころころ笑った。
「やっぱりローザも来たね。ね、一緒にクッキーを買いに行こうよ!」
「フレリヒ、こちらは? 兄さまということは」
小声でたずねると、全くはばからない声が、
「うん、僕の妹だよ! ローザって言うんだ」
楽しげに大きく響いた。
妹ってどういうことだ。お前が末弟じゃなかったのか。
そうたずねたかったが、その妹の耳に届きそうだったこと、下手に皇帝一族の事情に立ち入らない方がいいことはよくわかっていたから、口に出せなかった。
「恐れながら、皇子殿下でいらっしゃいますか?
わたくしは、フレリヒ皇子をお預かりしているウィーウッド伯爵家の長子、キーオでございます」
丁寧に語りかけると、少女は「あ、はい」と落ち着かない態度でこちらに向き直った。
「フレリヒ兄様の妹の、ローザヴィです。よろしくお願いします」
「お声をたまわり、光栄に存じます」
おとなしそうな子だ。こんな伏魔殿にいずに、早く安全な田舎に帰った方がいいだろうに。キーオはそんなふうに思った。なので、
「ローザはね、次の皇帝になることに決まったんだよ。父さんがそう決めたんだ!」
ころころ笑いながらフレリヒが言った言葉の意味が、とっさに理解できなかった。
「お祝いにクッキーを買ってあげるよ! お金を持ってないから、キーオ出してね」
とってもおいしいんだよ、と上機嫌のフレリヒの前で、キーオはひたすら固まっていた。
「フレリヒ殿下」
かなり冷たい声がした。
よく見ると、少女は供を連れていた。東宮と一緒にいるのを見たことがあり、鉄鎗騎士団のメンバーだとキーオが認識している女だ。
彼女は半ば敵を見る目をフレリヒに向け、
「ローザヴィ殿下は、フレリヒ殿下とお話ししたいとお望みです。東宮殿下も、フレリヒ殿下をお探しです。
今、鉄鎗の者が参りますから、その前にこちらへおいでいただけますか」
来ないなら騎士団で引きずり出すぞと言わんばかりだった。
「ダメだよ、僕、クッキーを買いに行くんだ。星形と丸いのがあるから、星形はピートに、丸いのはミアンにあげるんだよ」
フレリヒはにこにこしながら立ち上がる。そして右と左を見、
「あったあった」
落ちていたステッキと、つぶれたようなシルクハットを取り上げた、その手をキーオは逃がさないようにつかんだ。思わず全力で握りしめそうになるのを自制しながら、
「フレリヒ、まずは東宮殿下におわび申し上げるんだ。そちらの皇子殿下にも、何かおわびすることがあるんだろう。きちんとおわび申し上げて、そしたらすぐに領地に帰る。
これ以上どなたかに迷惑をかけることは、この俺が許さんぞ」
「あ、いえ、私はそうではなくて」
少女は胸の前で手を振った。
「兄さまに、いろいろお聞きしたいことが」
やめておけそんなの無理だ。
そう力強く言い渡したかった。しかしさすがに、皇子相手にそうはできない。ぐっと言葉を飲み込んだキーオの前で、
「殿下、フレリヒ殿下との会話は無理です」
女騎士がバッサリと切って捨てた。
「東宮殿下やシャリム殿下ですらまともに会話にならないんです。フレリヒ殿下と会話できるのは、テレーゼ殿下くらいです」
「姉さまはお話ができるんですか?」
「おそらく会話なんだろうなと思われるものを交わしておいでです。まともな人間には理解できません」
言いたいほうだいだ。確かにそうだが俺の前だぞと、キーオは刀のつかを握りしめた。
……自分がフレリヒの悪口を言うなら、一晩中だって言い続けられる。しかしやはり、家族以外の人間に、フレリヒのことで知ったような口をきかれるのは不快だ。
と。
「兄さんと話してたらクッキーが売りきれちゃうよ」
そのフレリヒの声が、やけに遠くから聞こえた。
「ばいばい、ローザ」
手を振るフレリヒは、庭園の中ほどに立っている。
キーオはぎょっとしてその手をつかんでいたはずの左手を見た。握りしめていたはずの手は、ステッキに変わっていた。
――いつの間に。
「待て、フレリヒ!」
キーオは床を蹴った。領の兵士たちとともに亜神に斬りかかる時と同じ速度でフレリヒにつかみかかった。子供用タキシードがひらりと揺れ、幾千の化け物を斬り伏せてきたキーオの手をかいくぐる。
きゃっきゃと笑いながら、フレリヒは庭園の奥へと駆けだした。
「またねローザ! 行こう、キーオ!」
「待て! 本当に斬るぞ!」
フレリヒを追い、キーオもまた、庭園の奥へと駆けた。