至天宮奥、末姫の部屋にて:ローザ
ローザは、いつになく速いノックの音に驚いた。
「来客のようだね」
お茶の一式を載せた小さなテーブルの向かいに座る異母姉テレーゼは、いつも通りゆったりとほほえんでいる。
「ローザヴィ様、ご無事ですか」
かけこんできたコトハは、ローザの部屋にテレーゼもいるのを見て、
「テレーゼ殿下」
少々驚いたようだった。
「ローザヴィに用事かな? 席を外した方が良ければ、帰るが」
「いえ、殿下もおいでなら、そのほうがようございます。……この城下に、降魔が現れました」
ローザはぞっと身をすくめ、とっさに何も言えなかった。
眉ひとつ動かさないテレーゼが、笑顔のままで口を開く。
「この城下に? 確かか? 帝都は丸ごと結界が張ってあるじゃないか」
「確かでございます。今、騎士団が出撃しましたので、退治されるのも時間の問題ではございますが」
「……私のせいでしょうか」
ローザは思わず吐き出した。
「私が、ここにいるから」
……イリス姉さまが何かしているのだとしたら、私はどうしたら……。
「ローザヴィ様」
コトハはきづかうようにローザの肩に手を置き、テレーゼはいつものほほえみで口を開いた。
「君がここに来た影響である可能性は否定できないが、だとしても別に君の責任ではないから罰されることはないだろう」
「殿下!」
コトハが珍しく口調を荒げたので、ローザは驚いた。
「ローザヴィ様のせいだなんてこと、ありえません!」
「うん、私も同感だ」
ほほえみをそのままにうなずく姉姫に、コトハの目がますます吊り上った。
「ならばなぜ、ローザヴィ様のせいかもしれないなどとおっしゃるのです!」
「可能性は否定できないよ。否定できる材料を、今のところ持っていないからね」
いつもと変わらない悠然とした口調だった。ローザは唖然として、異母姉の顔を見つめた。
……テレーゼ姉さま、コトハさんが怒ってることが分からないんだわ。
「ローザヴィ様は、罰を恐れてらっしゃるのではありません! もしご自分のせいで民がおびやかされていたらと、それをきづかっておられるのです!」
「待って、お願い、コトハさん」
ローザは思い余ってコトハの腕に手を置いた。こぶしを握りかためていたコトハは、ぱっとローザを振り返った。
「ローザヴィ様、姉君のおっしゃることなどお気になさらないでください。ローザヴィ様のせいではございません」
「私のために怒ってくれているのは分かります。でも、姉さまも多分そんなおつもりではないんです。怒らないでください」
「ローザヴィ様……!」
かばう必要ないのよと、コトハの目が言っているように思えた。かばっているわけではないのだ。テレーゼとコトハが、あまりにすれ違っていると思うだけなのだ。
……でも、それはコトハさんのせいじゃない。
「私はまた間違えたか。よくないな」
テレーゼが口を開いた。いつもと変わらないほほえみに、おだやかな声だった。
「ええ、殿下はお間違いになりました。よくありません」
「コトハさん!」
仁王立ちのコトハの手を思わずつかむ。挑戦的なまでににらむ女騎士の視線を、第二皇子は平然と受け止めた。
「そうか。どこが間違ったのか、教え……」
そこでノックの音が響く。ドアを開けたのは、廊下でこの部屋の警備に当たっていたらしい鉄鎗騎士団のメンバーだったが、その向こうにローザの知らない顔があった。
立派な身なりをし、整えられたあごひげに威厳をたたえた、老年の男性だ。コトハがさっと礼を取るのが見えた。
「テレーゼ殿下、ご無事でらっしゃいますか」
「ああ、おじいさま。私は無事だ」
「さようでございますか。わが家の護衛兵を連れてまいりました。こちらへ」
その後ろには5、6人の兵士がひかえているようだったが、その中から一人、テレーゼと同い年くらいの兵士が一生懸命に顔を出して室内をのぞき込んでいる。ほかの兵士から注意を受けたのか、すぐその顔は引っ込んだ。
「分かった」
テレーゼは立ち上がった。そしてローザに顔を向け、手はおじい様と呼んだ老人の方を示す。
「私の祖父の、ダイナ公爵だ。
おじいさま、こちらは私の妹のローザヴィと、兄上の鉄鎗騎士団のコトハだ」
立ち上がったローザと、なぜ私まで紹介されたのかといぶかしげなコトハは、とりあえず一礼する。
ダイナ公はコトハに目もくれず、ローザの方にだけ礼を取った。
「お目にかかれて光栄でございます、ローザヴィ姫」
「あ、いえ、私の方こそ。これからよろしくお願いします」
はるかに年上の大貴族に礼を取られて戸惑ったローザヴィに、ダイナ公は長い眉毛の下から探るような視線を向けた。ローザをますますひるませるに十分な、鋭い視線だった。
「……では、テレーゼ殿下」
「うん。ではな、ローザヴィ、コトハ」
コトハとのいさかいなどまるでなかったかのような態度で、第二皇子は出て行った。コトハの方は、まだけわしい顔でその背を見送った。
ドアが一度閉まり、そしてまた開いた。
「失礼します」
細く開いたドアのすきまから、一人の兵士が顔をのぞかせた。
さっき、一生懸命に室内をのぞき込んでいた者だった。
「自分は、テレーゼ殿下のおうちにおつかえする兵士です。ずっと、小さいころから」
テレーゼと同じくらいの年齢の、若い男だ。装備は完全に一兵士のもので、騎士ではなさそうだとローザには思えた。
「ローザヴィ姫は、よくテレーゼ殿下とお茶をなさると聞いております。妹君がおいでになって、本当に良かった」
口を左右に広げて笑う兵士に、コトハは、
「あなた、」
と少しかための声を出した。早く公にお供しなさいとか、姫君に失礼ですよとか言おうとしたらしかった。
だがそれを口に出す前に、兵士は急に泣きそうな目になった。
「どうか、テレーゼ殿下をいたわってさし上げてください。あの方は悲しみをこらえてほほえんでおられるんです」
え、とローザは相手の顔を見返した。コトハの言葉も止まった。その一瞬に兵士は「もう戻らないと」とつぶやき、一礼もそこそこに扉を閉めてしまっていた。
「いたわる? あの殿下を?」
コトハがぽつりと言った。ローザと目が合うと、ハッとしたようにせき払いする。
「今の人の言ったこと、本当でしょうか」
コトハは気まずそうに視線をそらしたが、
「個人的には、テレーゼ殿下が悲しみをこらえておられるなど、にわかには信じられません」
返した言葉は断言調だった。
「ローザヴィ様は、テレーゼ殿下がそうだとお考えなのですか?」
問い返され、ローザは言葉につまった。
「……私にはわかりません」
それだけ返した。
テレーゼは、常に悠然としている。時に、人の心がわからないようにふるまう。驚くことも、うろたえることも、ためらうこともしない。常にほほえんでいて、それ以外の表情は見たことがない。
ローザの目には、感情というものがないかのように見えた。
……コトハさんも、そう思っているように見える。
ちらりとコトハをうかがうと、しまったドアをにらんでいた女騎士は、大きく首を振ってため息をついた。ふとそこでローザが見ていることに気付いたようで、あわてて姿勢を正す。
「さっきの方、姉さまのおじいさまなのに、姉さまを『殿下』と呼ぶんですね」
話を変えると、コトハは少し表情を緩めた。
「いえ、きっと宮中でだけですよ。
テレーゼ殿下は皇子で、ダイナ公は臣下ですから、宮中ではそうしないとまずいんです」
「そうなんですか……」
おじいさまなのに、という気持ちが顔に出たらしく、コトハははげますような口調になった。
「シャリム殿下のおじ上様も、宮中では殿下ってうやうやしく呼びますけど、おうちじゃ呼び捨てで甥っ子あつかいしてるらしいですし」
そうなのか。何か変な冷たさがあって、あの公爵は常にそうなのではないかと思わされたのだが、ただの宮中の礼儀を守っているだけなのかもしれない。
そして、
「あの、」
ローザは勇気を出して口を開いた。
「さっきの話ですけど、姉さまには悪気はないんだと思います。怒らないであげてください」
コトハは決然と言った。
「悪気がなきゃいいってもんじゃ、ないと思います」
「確かにそうですけど……」
うまく説明できず、ローザはうなだれた。
「……ごめんなさいコトハさん。私のために怒ってくれたのに、変なことを言って」
「いえ、ローザヴィ様は何も気になさらなくていいんです」
ローザは首を振った。
「コトハさん、本当に私のせいじゃないんでしょうか。帝都に降魔がわいたことは、これまで一度もないって聞いてます」
代々の皇帝が張った、強固な結界に守られていると聞いていた。
それにイリス姉さまが。そう続けようとしたローザをさえぎるようにコトハが早口で言った。
「ローザヴィ様のせいではございません。ローザヴィ様のせいなら、鋼斧騎士団がとっくにそれを突き止めています。
鋼斧騎士団っていうのは、符術師だけが集められた騎士団で、ちょっと友達になれないタイプばっかりですけど、実力はすごいんです」
……どんな人たちなのかしら。ローザはかなり気になった。
「とにかく、ローザヴィ様はここでお過ごしください。
至天宮は特別の結界がなされておりますし、守りを固める騎士団もおります。
何も、ご心配なさることはございません」