皇子の集まる帝都にて:シャリム・エドアルド
各地の貴族に預けられた皇子たちが集まってきているせいで、至天宮の空気がいつもと違う。
……どうも落ち着かないなあ。
自分の執務室に戻ったシャリムは、ため息をついて椅子に座り込んだ。
……始末の悪いことに、いつまでこれが続くかわからないんだよね。
皇子たちが集まって……全員は集まらない。帝都に顔を出せない皇子が何人かいる……その上で父が号令をかけなければ、話は前に進まない。
父から聞かされたのは、あの大きな決定だけ。
さまざまなことがひっくり返ることになるのに、表だって動くことは今はできない。
その上、やることは山積みなのに、次から次へと雑用が入ってきて仕事が前に進まない。
表面上は平静を保っている兄フォルティシスも、内心では何を考えているかわからず、その機嫌も常にうかがってしまう。
……テレーゼ姉さんのほうは本当に何にも考えてないだろうけど。
また、今の決定が突然ひっくりかえされる可能性だって、ないとは言えない。色々なことに備えておく必要があった。
……ああ、もう。面倒くさいなあ。
長いため息をついたとき、
「かわいそうね、シャリム」
シャリムは目を見開いた。部屋の向かい、ドアの前に、長い髪を揺らした少女の姿がある。口元に手を当てて微笑み、大きな瞳でシャリムを見ていた。
「……やあ、イリスリール姉さん」
シャリムは唇をゆがめて笑った。
あれは本物ではない。背後のドアがすけて見えているし、この4年間で実物ではない事はさんざんに確かめてきた。
……だからこれは、姉さんが僕らの心にまいていった何かなんだ。僕たちの何かを養分にして芽吹こうとする、何かなんだ。
「あの子たちは国政なんかに関わらず気楽にやってるのに、あなた1人がわずらわされて、かわいそう」
フフフッと、たまらなく魅力的な、いたずらっぽい笑い声を上げた。シャリムも、姉に合わせて少し笑った。
「本当にかわいそうに。
あなたには、兄さんや私やテレーゼのような才能はないのに。八方美人だけがとりえの凡人なのに。たまたま侯爵家の出だっただけで、重たい荷物を押し付けられて、かわいそうね」
「……ああ、知ってるよ」
シャリムは、この数秒間でカラカラになっているのどに気付き、唇をなめた。
「それは僕自身が思っていることだ。僕は国政を負うような能力のない、ただの八方美人じゃないかってね。
仕方ないよ。あの兄さん姉さんたちに囲まれてたらそんな気にもなるさ。
でも、劣等感抜きなら僕、よくやってるほうだと思うよ」
煙のように揺らめきながら、イリスリールは笑い声を上げる。
「さっきのあの子は、あんなに悠然と、帝都のつまんない政治なんか、関係ありませんって顔していたのにね」
胸の奥に氷を差し込まれた気分だった。
今しがた正門前で出会った、宮廷でもめったに見ないほどの美貌を持つ異母弟。
……母君はさぞ美しい方だったんだろう、そりゃあ父上も手を出すさ。
そんな風にあきれるほど感嘆した。第3皇子である自分との対面に驚いたようではあったが、終始悠然とし、宮廷になど何の興味もない顔で、さっさと城下町に出て行ってしまった。
……気楽なもんだ。そう思ったのは確かだ。
「嫉妬ありならそうだね。
でも、冷静に考えれば、彼は彼でたいへんだと思うよ。平民出身の母親の子への父上の態度はひどいもんだし、預けられた貴族の家で、どんな扱いを受けてるか知れたもんじゃない。
表面だけ見てうらやむのはおろかなことだよ」
そう言いながら、自分が一生懸命に息をしていることに気付いた。
「もう消えてよ、姉さん。僕いそがしいんだ。自分の薄汚い部分くらい、姉さんに突きつけられなくても知ってるよ」
イリスリールは――イリスリールの幻影は、明るい笑い声を残して消えた。シャリムは大きく息を吐き出し、足に力が入りすぎて突っ張っていることに気付いた。数度足踏みした後、隣の部屋に控えている補佐官を呼び、
「お茶と、あと何か甘いものほしいな」
と言いつけると、補佐官が部屋を出ていくなり椅子の背にひっくり返った。
……兄さんや、テレーゼ姉さんのところにも、あれは現れているんだろうか?
聞いてみる勇気はなかった。
……あんなものにささやかれてるのは、僕だけじゃないのか。
そんな気がしてならなかったし、それが確かめられたら、あまりにみじめな思いをしそうだったからだ。
エドアルドは、至天宮前の広場のベンチで、ぼんやりと町の様子をながめていた。
いつもより人通りが多く、活気がある。皇帝の命令で、各地から皇子たちが集まってきているからだろう。
皇子によっては、お供を山ほど引き連れてきている。その中にはかなりの数の貴族が含まれていて、宮殿には泊まらせてもらえない彼らのために、城下の大きな宿やら有名なレストランやらが、あっちこっちで貸しきられていると言う。さっきも、山ほどの食材を載せた荷馬車が、大急ぎの様子であちらのレストランに向かっていった。
……さっきのやつは、お供の貴族のほうだろうな。
エドアルドは思っていた。やたらきれいな顔をした、ごく身なりのいい男に道をきかれて教えてやったが、あれは皇子とは思えなかった。
……フォルテに似てる要素が1つもなかったもんな。皇子が預けられた先の、大貴族なんだろう。
……あいつ、ちゃんとたどり着けたかな。
思わず背伸びするようにして通りの向こうを見てしまったが、ずいぶん前に歩き去った彼の背が見えるはずはない。ここから数ブロック先の教会がこの近くだと思っていたあたり、帝都の地理にくわしくないのだろうが、道に迷ってはいないだろうか。
雲がかかり、日がかげった。
……もう、昼すぎだな。
フォルティシスに「見送りに来い」と言われ、城門前までつれてこられたのは、もう数時間も前のことだ。
「しばらく、帰れんかもしれん」
夕べ彼はそう話し、今朝はやけに念入りに別れのキスをして私邸を出た。この城門前広場での別れ際、
「忙しいからって、ぶっ倒れるような無理すんなよ」
そう一声かけたが、それが通用する状況なのかはわからない。
フォルティシスに聞かされた現状が頭をめぐる。
新しく名乗り出た異母妹のこと。
そして、その少女についての、皇帝の決定。フォルティシスから聞かされた時は耳を疑い、すぐには信じられなかった。
……こんなことになるなんてな。あいつ、大丈夫なのか。
……俺がぐだぐだ考えてたって、どうしようもないんだけどさ。
頭を振ったエドアルドは、ベンチの正面に人が立ったことに気付いた。
「もし、お若い方」
ロングコートを着た、みなりのいい老紳士といった様子の男だった。
「少しお頼み申したいことが」
そこまで言った声が、のどに突き刺された短剣によってすり切れるような音で消えた。彼が腰に帯びていた短剣をエドアルドが瞬時に抜き取り、間髪入れず突き刺したのだった。
「何の用だ、化け物」
男の上体だけががくんと横に倒れたが、足はそのまま立っている。そして、クククククッと押し殺したような笑い声がした。コートのポケットのあたりからだ。
地に身を投げ出すようにして横に跳ぶのと同時に、座っていたベンチが真っ二つになった。1つ転がった勢いで身を起こし立ち上がったエドアルドの目前で、男のロングコートが不自然に波打つ。
「そのお腰の刀、ずいぶんと良いものの様子。おゆずりいただけないかと」
笑い含みの声が聞こえるコートのポケットめがけ、エドアルドは思い切りナイフを投げつけた。コートがそこだけ別の生き物のようにうごめき、ナイフは避けられて地に突き立つ。
市民の悲鳴が耳に届いた。
「化け物だ!」
くそ、騒ぎになる前に始末したかった。ちらっとそちらに目をやったエドアルドは、そこにアメンボを大きくしたような異形の姿を認めて息を飲む。
化け物は、一体ではなかった。
下級の降魔が、見えるだけで3体。上級降魔か、もしかしたら亜神かもしれない人の姿をしたものが1体。広場に現れていた。
アメンボの巨大な足が、露天商の男をふみつけようとするのが目に映ったとたん、血が沸騰したようになった。
「その刀、」
言いかけたロングコートのふところに一足で踏み込み、斜め下から一刀の元に切り捨てる。今度こそ砂のように崩れ落ちた化け物の本体が何であったかなど、気にもならなかった。
……くそ、遠い!
広場のアメンボを振り返る。ナイフではとどかない。ポケットに手を突っ込み、フォルティシスから持たされている符を投げる。放たれた炎は、降魔に何のダメージも与えなかったが、その注意がこちらに向いたのを確かに感じ取った。ざかざかと6本の足を動かして、こちらに向き直るのを待たず、エドアルドはそちらに走り出した。
「来い、化け物。殺してやる」
刀のつかにかかる手に、力がこもった。