帝都、東宮私邸にて:エドアルド
時間は少しさかのぼり、いまだ未明の帝都。
廊下に急ぐ足音が響いたのに気づき、エドアルドは目を覚ました。
「おい、フォルテ」
すぐ横で眠っている男の肩に手をかけるより早く、
「東宮殿下! 宮殿から急使が……」
執事が東宮私室のドアを叩くのが聞こえた。フォルティシスが目を開け、身を起こす。その間にエドアルドはベッドから出て、枕元の愛刀を取り、寝室から続きの間になっている東宮私室の扉へと向かった。
眠るときは必ず服を着るようにしているので、そのまま出てもかまわなかったのだが、ソファの背にかかっていた制服の上着を一応肩にかけた。同じところにあったフォルティシスの上着をついでに放ってやる。
「開けていいか?」
「ああ」
寝室側のフォルティシスが上着に腕を通すのを待って、扉を開ける。未明の薄暗い廊下に、きちんと身なりを整えた、この東宮私邸の執事が立っていた。
「エドアルドさん、殿下は」
「起きてる」
フォルティシスが自分から戸口まで出てくるはずもないので、焦った様子の執事が差し出す文を一旦受け取り、
「待っててくれ」
と言い置いて寝室の方まで引き返した。
「取りに来いよ、お前あての手紙を俺に受け取らせんなよ」
苦情かたがた差し出すと、フォルティシスは鼻で笑った。
「取って来いは犬の仕事だろ? そのくらいの芸は身につけろよ、バカ犬」
「死ねよ」
だいたいいつものやり取りを交わし、文を開いたフォルティシスは薄笑いを消して真顔になった。
「エディ、支度しろ」
こちらに向けられた言葉に、警備兵の制服に着替えようとしていたエドアルドは手を止める。
「喜べ、また好きなだけ暴れさせてやる」
エドアルドは胸の内に、氷のような冷たさと、業火のような熱さを同時に感じた。
「……化け物どもか?」
「ああ。符術士どもが出現の予兆を検知したと。このところ、多いな」
「どこだ」
「ジーク砦の近くと言ってわかるか?」
エドアルドはうなずいた。
「山に囲まれたあたりだな。確か、村もいくつかある」
「わかるのか。地理になんか興味がないと思ってたよ」
言いながら、フォルティシスは手元の紙に一行二行の文を書き付け、手渡してきた。執事に渡せということだ。自分で行けよと文句だけはつけつつ、おとなしくまた私室の入り口まで渡しに行った。
ドアを開けると、執事のほかにメイド頭も来ていて、何か話しているところだった。
「これ、あいつから返事」
「ありがとうございます。
高速艇の準備は完了していて、直属騎士の皆様はすでに集まりつつあるとの知らせが、今」
メイド頭はその報告を持ってきたところだったようだ。
「フォルテに伝える。俺たちもすぐ支度して出られる」
「遠征のお支度はすぐお出しできます。馬のご用意も、じきに」
エドアルドはうなずいた。
帝都中央にそびえる、広大な皇帝一族の居城は、至天宮と呼ばれている。
本来ならばその東側の宮殿で寝起きすべき皇太子が、至天宮の外に勝手に確保したのがこの私邸だ。さすがに使用人はみな質が良く、この執事も相変わらず抜かりない。
私室の中に引き返すと、フォルティシスはすでに軍服に着替えていた。公的な場に出るときにはたくさんの勲章が軍服を飾っているが、今のように戦場に出るときは、皇帝一族の証である不死鳥の紋章が胸元にあるだけだ。
……邪魔くせえな。外した方が戦いやすいだろうに。
そんな感想しか持たないエドアルドは、フォルティシスとは全く違う、一番簡素な警備兵の制服に腕を通した。
「エディ」
フォルティシスが呼んだ。声のトーンが違うからわかる。出かけるときのあいさつ代わりのキスをする気だ。
……今から化けものを狩りに行くってのに。
出会ったばかりのころ、いつでもフォルティシスのしたい時にキスさせると約束してしまった。もう時効だろうとエドアルドは思うが、フォルティシスがそれを許さない。
この部屋から一歩でも出たら、一切そういうことはしてこない。だから今なのはわかるが、すでに半ば以上戦闘モードになりかけているエドアルドにはほほに伸ばされた手は悠長に感じられた。
「そんなことしてる場合かよ」
「黙れ。俺に逆らう気か?」
逃げようとした背に腕を回され、唇をふさがれる。
……まだ予兆が見られただけだと言っても、こうしてる今にも化け物がわき始めてるかもしれないのに。
じりじりしながらされるがままになっていると、やけにしつこいキスは唐突に終わった。後頭部を抑えていた手が離れ、視線を合わせるようにあごを持ち上げられる。
「エディ、先に言っとくぞ。暴走するなよ。化け物どもを殺したかったら自制しろ」
「うるせえ。さっさと行くぞ」
「お前の空っぽの頭に何も入らんのは知ってるが、せめて刻み付ける努力はしろ」
その目が不意に鋭くなった。冷酷な東宮として、臣下たちを震え上がらせてきた目だ。
「できないなら、苦痛で身動き取れない状態にして覚えこませるだけだ。忘れるなよ」
こちらも目が鋭くなるのを自覚した。
「……そっちこそ忘れるな。いつか、お前ら全員皆殺しにしてやる」
あごを持ち上げる手を振り払った。
「皇弟も、お前も……!」
フォルティシスはバカにしきった薄笑いを浮かべた。
「勝手に吠えてろ。行くぞ」
振り返りもせずドアへと向かうその背をにらみながら、エドアルドも部屋から外に踏み出した。