夜の森の中で、皇女と、皇子と:ルーフス
深夜の暗い森の中を、フレリヒは迷いのない足取りで歩いていく。
「こっちだよ」
真昼に平原を歩いているかのような彼と違い、こちらは月明かりだけのよく見えない足もとにおっかなびっくりだ。
「木の根がある。気を付けてローザ」
と言ったはしから自分が木の根に足を引っ掛け、ルーフスは手をつないだローザごと転びそうになった。横の木の枝をつかんで、何とか踏みとどまる。
「大丈夫?」
「うん、ゴメン」
体勢を整え、もっと慎重にふみ出した。先を行くフレリヒは、ステッキをくるくる回し、軽い足取りだ。
「ええっと……フレリヒ?」
「なに?」
彼は足を止め、つぶれたシルクハットを回して振り向いた。
「お前、皇帝の息子で、ローザの兄さんなんだよな。
てことは、あのおっかない東宮の弟なのか?」
「そうだよ。異母弟ってやつ」
ルーフスはちょっと瞬きした。
「……ローザと東宮のお母さんって違うんだよな。お前と東宮のお母さんも、違うの?」
「そうだよ」
軽い口調が返ってきた。月光はおぼろで、その表情までは見えない。
「父さんには18人の子供がいるけど、全員違う母さんだよ」
「18?! そんな……」
思わず絶句した。思わず背後のローザをうかがったが、足を止めた彼女は同じた様子はなかった。
……ローザ、知ってたのか。
「あ、ちがうや。ローザを入れると19人で、イリスリール姉さんとローザだけは同じ母さんだね」
フレリヒはころころ笑った。そのひどく幼く見える笑顔の中の本心が、ルーフスにはさっぱりわからなかった。
「父さんの子供には二種類いてね」
フレリヒは楽しげにステッキを回す。
「一つは、フォルティシス兄さんみたいに、最初から後継ぎ候補として名門貴族の娘に生ませた子供。
もう一つが、僕みたいに、きれいな女の人に手当たりしだい産ませた子供」
そのあまりに直接的な物言いに、ルーフスはさらに絶句したし、ローザも反応できないようだった。
「一種類目の子供は、王都に住んで政治の手伝いをしてるけど、僕たち二種類目の子供は、小さいうちにいろんな地方の貴族に預けられて育てられてるんだ。
だから、18人の兄弟みんなでわいわい暮らしてるわけじゃないよ」
そんな想像をしたわけではないが、あまりに軽い口調で告げられたたくさんのことに、ルーフスの頭はついて行けなかった。
ローザとイリスの父さんが皇帝で、ローザの母さんには『反逆者の烙印』が押されていて。そのほかにも17人も、全部母親の違う兄弟がいて……。
ローザは異母兄に会った。彼はローザを疑うでもなく、かといって妹よと抱きしめるでもなく、冷たい薄笑いのままローザを都に連れて行くと言う。
もう一人異母兄を名乗るものが現れ、刺客が来るから逃げようと言う。
刺客が本当に現れ、隠し通路を通って逃げてきた。
……俺はこんなところで何をしてるんだろう。どこに向かおうとしてるんだろう。
ルーフスは急にそんなことを思った。
いますぐローザの手を引っ張り、もう全部忘れよう、俺の家に行って楽しく暮らそう、そう言って歩き出すべきなんじゃないかと思えた。
「さあ、ここだよ」
フレリヒが急に言った。ルーフスははっと顔を上げ、そこに木の間に張られた天幕があることに驚く。野営の軍の、司令官の天幕のように立派で広いものだった。色は真っ黒で、夜の闇に溶けるようだった。
フレリヒは無造作にその入り口の幕をめくり、
「さ、入って入って」
と笑った。ルーフスはぎゅっとローザの手を握り、まずは自分から、おそるおそる天幕の中を覗き込んだ。
せまい室内の中ほどに、小さな灯りをともす符があり、あたりをわずかに照らしていた。だがその光を以上に濃く、煙が立ち込めている。
……これ、お香のにおいか?
煙でぼやけた奥に、安楽椅子と、そこに座る人影が見えた。
ルーフスはそっと、天幕の中に体をすべり込ませた。ローザは外に残したままにしようと思ったのだが、彼女も後に続いて天幕の中に入ってきた。
二人はそのまま入り口のすぐそばに立ち、奥に座るぼんやりした人影と向かい合った。
「……生き写しとはいかないものだな」
奥の人影が、しわがれた声を発した。ひどく年老いた老人のような、男とも女ともつかない声だった。
二人は顔を見合わせた。ルーフスが何と言ったものか悩んでいるうちに、ローザが口を開いた。
「……何のお話、ですか?」
「お前の母にだ」
「お母さまを知っているんですか?!」
身を乗り出したローザに、人影はわずかにうなずいたようだった。
「知っている」
ルーフスはふと視線を上げ、上の方にいくつもの符が浮かび、力を放っていることに気づいた。
……なんだろう、あれは。
「たくさんの女が、皇帝の子を産んだ。だが、誰一人、王冠を持つものを産むことはできなかった。……お前の母以外はな」
初めて、ローザがびくっとなった。ルーフスは反射的にローザをかばい、半歩前に出た。
「なんだ、王冠……王冠を持つものって」
相手は、ルーフスの問いに答えなかった。
「皇帝は、王冠を持つものを必要とした。だから、自分から逃げようとしたお前の母に、反逆者の烙印を押して支配した。
……子がもし失われたとき、代わりを産ませるためにな」
寒気のするような一言に、ルーフスは棒立ちになった。
「そんな……!」
ローザが何か叫ぼうとし、絶句した。
煙のただよう天幕の中に、しわがれた声だけが響く。
「お前の母は失われたが、……お前が残った」
ルーフスはハッと刀に手をかけた。
「お前を、奴には渡さぬ」
……煙が一つに集まっていく!
「ローザ!」
とっさに突き飛ばした鼻先を、節くれだった手がかすめた。
……手?!
集まった煙の中に、何かがいた。煙が、何かの形をとりつつあった。白い衣をまとい、背に大きな翼をもち、ルーフスと同じくらいの背丈の天使のように見えた。
……だが、首から上がない。
腕は枯れ木のように細く、その指は異様に長かった。
その腕が、指がローザに向かって動く。
反射的に刀を抜いて斬りつけた。全力を込めた一撃は、枯れ木のような腕をすり抜けた。
「なっ……!」
「ルーフス!」
ローザの声に、あわてて身を低くする。その頭上を天使の腕が高速で通り過ぎた。
……何だ、今の。まるで煙を斬ったみたいに。
なのに、こちらを狙った腕からは確かな圧力を感じた。当たったら、無事では済まないだろうと核心させた。
「何かの術だわ!」
ローザが内ポケットから符をつかみ出した。
「下がってルーフス、剣じゃ切れない!」
投げつけた符が雷を放ち、首のない天使の体を引き裂いた。白い衣が端から煙に戻り、ふわりと拡散し始める。
「やった……!」
ほっと息をついたその瞬間、その煙がいきなり高速で流れ始めた。
ローザの方へ。
「ローザ!」
叫ぶ時間もなかった。煙が一瞬でローザの両手首に巻きつき、そして節くれだった指に変わる。
瞬きする間もなく、ローザの両手をがっちりとつかんだ首のない天使が現れ出ていた。
「いやっ!」
振りほどこうとするローザの手から、符がこぼれ落ちる。とっさに手を伸ばしたルーフスの目の前で、全ての符が炎を上げて燃え落ちた。
……符が……!
「……っ! 放せ!」
ローザの体を持ち上げようとする天使に、ルーフスは斬りつけた。その刃は、やはり白い衣の体をすり抜けた。
……ウソだろ? 俺にはどうしようもないって言うのか?
「ルーフス、逃げて!」
ローザが苦しげに叫んだ時、ルーフスは思い出した。刀を素早くさやに戻し、その下にあるもう一本を抜きはらう。
山の中でエドアルドからもらった、亜神の短剣。
『あいつらの武器には特殊な呪がかかっていて、それでなら殺すことができる。覚えとけ』
……これでなら、もしかしたら!
思い切り振りぬいた一撃が、枯れ木のような腕を確かに切り裂いた。腕が煙に戻り、ローザの手首を離した一瞬に、ルーフスはローザの肩をつかんで強く自分の背後へと引いた。
「大丈夫か、ローザ!」
「平気、でも……!」
背にかばったローザが不安な声を上げる。
一度は拡散した煙は、また首のない天使の姿を取りつつあった。風と同じ速さで寄せ集まり、翼が、胴が、腕が形作られる。
……きりがない?! どうしたら……。
焦った耳に、もう一つの声が届いた。
「なぜ、小僧風情が亜神の剣を持っている?」
しわがれた声がつぶやくように言ったのだ。
……そうだ、あいつ!
ルーフスは振り向いた。天幕の奥で、薄くなった煙を通して、安楽椅子に深くもたれた老人の姿が見えた。
「これが、お前の術なら……!」
その胸めがけて、手の中の短剣を思い切り投げつけた。
老人は、目を見開いたように見えた。それは煙の流れが作る錯覚だったのかもしれない。どちらにせよ、その胸に亜神の短剣が吸い込まれるように突き刺さり、次の瞬間、天幕の中に浮かんだすべての符が、人の背丈ほどの炎を上げた。
二人は思わず抱き合い、炎からお互いの身を守ろうとした。だが、押し寄せてくるはずの熱気は感じられず、恐る恐る顔を上げて見回すと、そこには炎も天幕もなかった。
元の、夜の森の中だった。