ジーク砦にて7:ローザ
幼いころ離れ離れになったローザと再会し、その兄である東宮によってジーク砦に連れてこられたルーフスは、ローザが皇帝の娘であること、優しかったイリスと執事のラフィンが、人を殺してローザを連れて行こうとする化け物になったことを聞かされた。姉と執事のことにショックを受けたローザは、それ以上兄の話を聞くことができず、兄の部下である女騎士コトハにつれられて、自分の部屋へと戻るしかできなかった。
コトハに伴われ部屋に戻ったローザは、テーブルに向かう椅子に座り込んだ。
……姉さま……。
異母兄と、騎士団長に聞かされたことが、帝都での姉の様子が、頭の中で反響し続けている。
―――みにくい部分、暗い部分、人にさらしたくないような部分をえぐり出されるような、そんな目に。
―――皇帝一族の血を持つ者を一人か二人、降魔に浸食させたいと。
―――月の道が安定して開けば、すべての亜神がこの地に押し寄せる。
血の気が引き、頭がぐらぐらした。手も足もひどく冷たくなって、吐き気のようなものが胸に満ちていた。
「ローザヴィ様、あまり……」
横に立ったコトハが、肩に手をかける。
「団長の申したことは、気になさらないでください」
「はい……」
メイドが茶の支度を持ってきた。コトハはてきぱきと茶をいれ、「どうぞ、お飲みください」と差し出してくる。
……元気付けようとしてくれているんだわ。
異母兄の側の人間が、こうして暖かな態度を見せてくれるのは、ひどく心強いことだった。少なくとも、友好的態度を示されているのだ。
……あの時、兄さまの前に名乗り出たことは、間違いではなかった。
ルーフスが逃げられるよう符だけ投げ、そのまま身を隠していようかと思ったが、足をふみ出したのは間違いではなかったのだ。
「コトハさん」
「はい」
「あなたから見て、姉はどうでした? やっぱり、普通ではないと感じましたか?」
コトハは首を振った。
「申し訳ありません。わたくしは、イリスリール姫とお会いしたことがございません」
「そうですか……」
うつむいてしまうと、コトハが床にひざをつき、見上げるようにして、
「ローザヴィ様、どうか……」
と言った。それ以上の言葉が見つけられなかったようだった。
「……ありがとう」
その気持ちだけで、元気づけられます。
ローザはうなずいてみせた。
「あの、教えてください。亜神というものについて」
降魔とはちがう、そういう化け物がいるとだけ、本で読んだ。ほとんど現れないが、降魔よりずっと恐ろしいと。ローザが知るのはそれだけだ。
「は……。わたくしも、詳しいわけではありませんが」
コトハは少し考え、
「基本的に、亜神は降魔の上位種だと考えられています。
あくまでわたくしたちの分類ですが、一般市民でも知っている、虫や獣の形をしたものが下級降魔。
それに対し、人間らしき形をとれるものが上級降魔と呼ばれています。
どうも、人間らしき姿を取れるか取れないかは、その実力にかなり関わって来るようです」
わたくしも討伐で目にしたことがございますが、とコトハは説明する。ローザはうなずいた。
「上級降魔は人に似た形を取りますが、人間そっくりとはまいりません。どこか歪んでいて、一目で化け物とわかります。……ご覧になったことは」
「いえ」
イリスとラフィンが現れるとき、虫の姿をした化け物とともにいることはあったが、人の姿をしたものは見たことがなかった。
「わたくしが見たものは、体が胸のあたりでぐるぐるとねじれていたり、足だけが大木のように太かったり、腕の関節が数えきれないほどあったりというふうでした。あまり気持ちの良いものではありません」
コトハは目の前にその姿が現れたかのように、顔をしかめて言う。
「……亜神は、下級の降魔を従えて現れるのは上級降魔と同じです。しかし、亜神となると、完全に人と同じ姿を取ります。2度、目にしたことがございますが、どこから見ても、人としか思えませんでした。」
「力があるんですか?」
「はい。彼らは恐ろしい存在です。騎士団の同僚が、何人か犠牲になりました」
ローザは胸に手を当て、深くため息をついた。
「……ですが、彼らには、この地にいられる時間に限りがあるようなのです」
ローザは顔を上げた。コトハはうなずき返し、
「イリスリール姫と銀髪の亜神が、帰らなくてはいけないと言っていたとおっしゃいましたね」
その通りだ。
――月の道が閉じ始めたわ。私、帰らないと。イリスはそのように言っていた。
「ほかの亜神も同じようなのです。目的をはたしたわけでなくても、彼らは短時間で姿を消します。我らの観察でもそうですし、帝都にあるたくさんの記録にも、必ずそう記されています」
「姉さまたちだけでは、ないんですか」
「はい。
ただ、亜神が姿を消しても、つれてきた降魔はそのままですので、倒す必要がございます。下級降魔だけですので、我ら騎士団であれば問題はございませんが」
「……なら」
ローザはスカート握って言った。
「なら、ラフィンは亜神ではありません。ずっと私と一緒にいました。3歳のころから10歳まで、消えたりしたことは一度もありませんでした」
コトハは動じなかった。
「おそらく、ローザヴィ様の目を盗んで消滅と出現を繰り返していたのでしょう」
「いえ、そんなことはありません」
「ローザヴィ様、彼らにとって人間をだますくらいなんということもないのです」
真顔で言われ、ローザは二の句が継げなくなった。
「それに、少なくとも、我々に報告が上がるようになってからの彼は、完全に亜神です。
昨日のことについて、亜神と相対した警備兵から報告がありましたが、消え方も、戦い方も、あの『彼』に攻撃を届かせられるところも、亜神としか思えません」
そこでコトハは、ひざの上にあるローザの手をにぎった。
「ローザヴィ様、どうかご覚悟ください。
彼は亜神です。
惑わされて、彼らの手におちたり、御身を傷つけられたりすることが、わたくしは心配でならないのです」
「……ありがとう。気を付けます」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
……姉さま……。ラフィン……。
コトハが勧めてくれた茶のカップを取ると、優しい声が耳元によみがえった。
『嬢ちゃま、ぼっちゃま、お茶でございます。ラフィン特製のおいしいクッキーも焼けましたよ』
『わあい!』
歓声を上げる幼いルーフスと、先を争って執事のところへ走ったものだ。飛びつくと、銀髪の執事は笑いながら二人まとめて抱え上げてくれた。
『ラフィン、明日は森に探険に行きましょう!』
『前に見たあの花のつぼみ、きっと咲いてるよ!』
『おや、それはようございますねえ』
常ににこやかな顔をさらに過剰な笑顔にして、ラフィンは8歳の二人を軽々と抱えたままキッチンまで歩いてくれた。
『では、お弁当を持って行って、あの花畑のそばで食べることにいたしましょうか』
『やったあ、お弁当!』
『私も一緒に作る!』
そうやって朝から一緒に弁当を作り、夕暮れまで三人でピクニックを楽しんだものだ。
……そうだわ。やっぱり、ラフィンは一日中近くにいてくれることも多かった。いなくなったりしていなかったわ。
怪力なのは気づいていた。中身が詰まったままの木でできたたんすを、軽々と持ち上げるのだ。
疲れ知らずの働き者なのも知っていた。たった一人でローザとルーフス二人の子守りをし、広い屋敷をきれいに整え、食事を作り、それでも疲れた顔など一度も見なかった。
でも、小さかったころは、大人とはそういうものなのだと思っていたのだ。
いつも優しくて、暖かくて。
そんな彼が化け物であったなどと、信じられるわけがなかった。