ジーク砦にて5:ルーフス
朝、いつのまにか熟睡していたルーフスは、メイドのノックで目を覚ました。
「あ、起きた?」
ローザはすでに身支度を整え、窓辺で笑っていた。
「うわ、もう朝か。全然気付かなかったよ。起こしてくれればよかったのに」
「ぐっすり眠ってるみたいだったから。眠れたなら良かったわ」
急いで身支度しながら、気合を入れなおす。
……そうだ、ローザと再会したんだ。イリスと、ラフィンとも。
……この砦で、今日は帝都の皇帝の跡取りと話をしなきゃいけない。
メイドとともに入ってきたのは、昨日この部屋で話した女騎士、コトハだった。
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
「はい、とても」
少し青い顔をしたローザの言葉を鵜呑みにしたわけではないようで、コトハはちらりと寝室のほうに目をやった。
「もしお気に召さないようでしたら、他の寝具もございます」
なんだか、やけに親切な態度になったな。ルーフスの胸に違和感がわいた。ローザはそうは思わなかったのか、
「あ、なら……」
とルーフスを振り返った。
「ルーフス用のベッドを用意してもらえませんか?」
「ローザ、俺いいよ」
ルーフスはあわてて手を振った。
「ソファでも寝心地良かったしさ。というか……」
よほど意外な申し出だったか、目を丸くしているコトハに、
「これから何日も、ここにいるのか? 帝都に行くんじゃなかったのか」
「帝都からの返事待ちです」
コトハはきちんとルーフスのほうを向いて返事をした。やはり態度が変わっている。
「東宮殿下から陛下に、報告のお手紙を差し上げて、そのお返事待ちです。
帝都への出発がしばらく先になることも、十分考えられます」
そうなのか。東宮と少し話し合った後、すぐにでも出発だと思っていたルーフスは、拍子抜けした思いだった。
「よろしければ、もう朝食を運ばせますが」
「朝ごはん、ここで食べるんですか?」
ローザが意外そうにした。
「はい。どこか別の場所の方が?」
「いえ。兄さまとご一緒するのかと思っていたので」
コトハは一瞬、うろたえた顔になった。
「……ローザヴィ様がどうしてもご希望ということでしたら、東宮殿下にお話してみますが」
「ローザ! ここで俺と食べようよ!」
ルーフスは必死で割って入った。コトハの目が、
『この子、正気かしら』
そう言っていたからだ。ルーフスとしても、あの東宮と楽しく食事ができるとは思えない。
「え? ええ、じゃあ」
ローザの返事を聞いたコトハの肩から、ほっとしたように力が抜けた。
「……あの、」
「はい?」
「……いえ。ではお食事を。わたくしはお済ませのころにまたまいります」
メイドに準備を命じると、一礼して出て行った。
……自分が一緒に食べようか、と言いだそうとしたみたいだった。
ルーフスがそんな風に思いながらその背を見送る間に、メイドがてきぱきと料理を並べる。
「どうもありがとう。後は自分たちでやります」
ローザがそう言うと、昨日と違い、メイドはすぐそれを受け入れて退出した。それもまた、ルーフスには違和感を抱かせた。
「ルーフス、このパン、すごくおいしい!」
ローザが焼きたてのパンを手に、感動したような声を上げている。
「本当だ! 俺、こんなおいしいパン久しぶりに食べた」
ルーフスも明るくふるまった。ローザは一瞬微笑もうとして、ふと目を伏せた。
……そうだ。ラフィンの焼いてくれるパンが、同じくらいおいしかった……。
ローザの頭に浮かんだことが理解できて、ルーフスの胸も痛んだ。
「あのさ、お兄さんは、ラフィンのこと知ってるのか?」
「わからない。聞かれるかしら。話した方がいいのかしら」
ルーフスはしばし考えた。
「ローザは、どうしたい?」
「わからない」
ローザは持っていたパンを皿に置いてしまった。
「兄さまたちがラフィンを敵視するようなことになるのは怖いの。
でも、私が知らせなかったせいで、兄さまや騎士の人たちが死ぬようなことになるのも怖い」
そしてぐっと拳を握った。
「でも、どっちかに決めなきゃいけないの。
兄さまに、話す。
これ以上誰かが犠牲になるのはダメだもの」
「イリスのことは? イリスが、その、おかしくなってるってこと、知ってるのか」
「それもわからない。
……それは、言わなきゃいけないと思ってた。そうじゃないと、姉さまが目の前に現れたとき、兄さまや騎士の人たちが無防備になってしまう」
「ああ……そうだな。ローザ、パン冷めちゃうよ」
ローザは思い直したようにパンを取り、また食べ始めた。
「俺も何か聞かれるかな」
「それもわからない。わからないことだらけね」
「仕方ないよ。俺だって何もわからないし」
あの東宮は、ローザを信じてはいない。ルーフスはそう思った。
でもそれは仕方ないだろう。急に出てきた妹だ。本物かどうか、半信半疑で当たり前だ。でも、少なくともここにいればローザは守ってもらえるはずだ。
……だって、妹なんだから。家族なんだから。
食後の茶を一口二口飲んだあたりで、コトハが現れた。
「東宮殿下のところへご案内します」
「はい」
ローザは緊張した表情で言い、そっとルーフスの方にうなずいた。ルーフスもうなずき返す。
部屋を出るローザに当然のような顔をしてついて行ったが、コトハは何も言わなかった。
連れて行かれたのは、少し歩いたところにある部屋だった。ひどく立派な一枚板のドアの横に、見覚えのある優男が立っている。
……たしか、東宮直属騎士団の、副長だ。
ルーフスが思い出す間に、彼はローザに一礼すると、重そうな木の扉を軽々と開けてくれた。
中は、ずいぶん広い部屋だった。
「来たか。まあ座れ」
無造作に声をかけてきた東宮は、すでに部屋の奥のソファに腰かけ、報告書らしきものを手にしていた。
もう一人、横手のソファにかけていた、銀縁メガネの男がさっと立ち上がり、ローザに恭しく礼を取る。
……あのメガネの人はたしか、騎士団の団長だっけ。
さらにもう一人、離れた壁にもたれて立っているあの警備兵は、ルーフスたち二人に何の反応も起こさなかった。
……昨日は俺を化け物の仲間って決めつけて殺す勢いだったのに、今は大丈夫みたいだな。誤解が解けたのかな。
何か言われる前にと、さっさとソファにかけたが、その場にいる全員がルーフスの存在に文句をつける気はないようだった。
「まず、だ。お前がイリスリールの妹で、父上の子であるという話、一応信じよう」
東宮がまずそう言ったので、ルーフスとローザは顔を見合わせた。
「そうでなきゃ話が進まないし、ここでは確かめるすべもないからな」
「はい。ありがとうございます。私は兄さまの妹です」
東宮は小さくうなずいた。
……今、警備兵の人が顔をそむけた。
ルーフスは目の前の東宮にだけ集中しているようなふりをしながら、部屋全体に注意を払っていた。
「俺はお前の存在を知らなかった。どこでどうやって育ってきた?」
ローザはうなずき、ルーフスに語って聞かせた生い立ちを話した。母と姉と3人で暮らしたこと。母が他界したこと。
「そのあとは、その執事と、私たち姉妹との3人暮らしでした。お父様からの命令と言われて、何度も住む土地を変えました。
8年前、私が6歳のとき、浜辺の村に住むよう言われて、そこでルーフスと出会ったんです」
「お前は、在郷騎士の息子だと言っていたな?」
「うん。……いえ、はい、そうです。母の療養について、その村に滞在していました」
「はは。丁寧な口も利けるんじゃないか」
東宮はやけに愉快そうに笑った。
「ルーフスとお母さまは、本当によくしてくださいました。
昨日、姉さまがルーフスを傷つけなかったのは、その時のことがあるからです。
……その浜辺の村に住み始めてから、半年くらいで、お父様の命令で姉さまは一人、帝都に戻されました」
横で黙って聞いている銀縁メガネの騎士団長がうなずくのが見えた。そして――壁にもたれている警備兵が、はっとしたようにこちらに顔を向けた。
……なんだろう。
「ああ、帝都に戻ってきたよ。あいつはいなくなってた間のことを一言も話さなかったからな。そんな事情だとは知らなかった」
「姉さま……」
ローザは小さくつぶやいた。
「その上でだ。お前、イリスリールについて、どこまで知っている?」
ローザの手が、自分のひざをぐっとつかんだ。
「4年前、あいつは帝都から姿を消した」
4年前。ルーフスはローザと顔を見合わせた。
……ローザが、浜辺の村から引っ越したのがそのころだ。
「姉さまは、1年前に、私の前に現れました。……人を、たくさん殺しました。笑いながら」
東宮たちに驚く様子はなかった。
「やはりそうか。1年前の一度だけか?」
「いいえ。何度か。その、私たちと一緒にいてくれた執事とともに」
「長身の、銀髪の男ですか?」
騎士団長が口をきいた。ローザがうなずくと、副長と目を見交わしあう。
「昨日、あいつと斬りあって逃げたという亜神だな?」
東宮が警備兵を指した。
「つまり、昨日、あの場に、イリスリールがいたと」
「はい。私を探しているようでした。
姉さまがどこに、何のために私を連れて行こうとしているのかはわかりません。でも、あんなふうになってしまった姉さまの言うがままになったら、何か恐ろしいことが起こるのかもしれないと……」
「そのことだが」
東宮が口をはさんだ。
「あいつはどこに、何のためにお前を連れて行こうとしている?」
「わかりません。
何度かたずねてみましたが、迎えに来た、また一緒に暮らせると言うだけで……」
「……ふん。本心を明かす気はないわけか」
そう言った東宮の表情があまりに冷たくて、ルーフスは内心でぎょっとした。
「兄さまは、理由をご存じですか?」
ローザが逆に問いかけたが、それにも「さあな」と言っただけだった。
……本当にわからないのか、隠したのか、どっちだろう。
ルーフスはそんなことを思った。
この東宮には、そう思わせるような、信頼できない何かがある。そう感じずにはいられなかった。
……ローザはどう思っているんだろう?
ちらりと盗み見た少女の横顔には、部屋に入ったときと同じ、緊張しか読み取れなかった。
その緊張に、不意に思いあまったような色が混ざった。
「兄さま、」
ローザは早口に言う。
「あれは本当に姉さまなんですか? 私、とても信じられません。姉さまは、少なくとも私には、優しい人でした」
「ああ。至天宮でも、慈悲深いやつだったよ」
東宮がうなずくのを、ルーフスはなんだか不思議な気持ちで見やった。
……そうか、この人は、俺たちと一緒にいなかった時期のイリスを知っているんだ。
「……だが、あれは間違いなくイリスリールだ。俺たちは、あいつがああなった瞬間を見ている」
ローザがのどの奥で悲鳴に近い声を上げた。
そこでふと、東宮はローザの目をのぞきこむようにした。
「あいつはだんだん変わっていった。最初はごく普通の、気の優しい娘だったが、だんだんと……」
騎士団長が小さくうなずくのが見えた。
……東宮だけじゃなく、騎士団長も同じように思ってたってことか。
「……いや、小さいころから、妙にカンが鋭かったが、それが増していって、さらには妙な空気も出すようになっていった」
「正直に申しますと」
騎士団長がめがねを押し上げながら口を開いた。
「心中の……みにくい部分、暗い部分、人にさらしたくないような部分をえぐり出されるような、そんな目に思えまして、自分には恐ろしく」
「そんな……」
ローザは口を覆う。騎士団長はあわてたように手を振った。
「いや、もちろん、イリスリール姫が何をなさったわけでもございません。
自分が勝手に、そう感じていたと言うだけで」
ルーフスはそっと東宮と警備兵の様子をうかがった。
東宮は無表情だ。何を考えているのかわからない。
警備兵のほうは、さっきこちらに向けた顔を戻してしまっていて、自分の正面の壁を見つめるような顔だった。何か別のことを考えているように見えた。
……もしかしたら、この人はイリスに会ったことがないのかも。
「4年前だ。おや……父上から、急に呼び出しがあった。都にいる皇子全員にだ。その場で、あいつが豹変した」
そこで東宮はちょっと肩をすくめる。
「テレーゼがいれば、あいつの言ったことを全部正確に再現するんだろうが、俺にはさすがにできんな」
「姉さまは、どんなことを言ったんですか?」
「月の道を安定させるために、皇帝一族の血を持つ者を一人か二人、降魔に浸食させたいと」
ルーフスはギョッとなった。
「月の道が安定して開けば、すべての亜神がこの地に押し寄せると。
そう父上に言った。いつもと変わらない、明るい調子でな」
「えっ……。なんだよ、それ……」
思わずうめいたルーフスに「聞きたいのはこっちだよ」と東宮が言った。
あらゆる面で意味がわからなかった。
……月の道。その言葉は、聞いたことがある。確か昨日、イリスが言っていた。「月の道が閉じ始めている」と。だが、それがなんなのかはわからない。
それを安定させるため、降魔に浸食させる。
亜神がすべて、この地に押し寄せてくる。……そうなれば、一般の民は簡単に皆殺しになるだろう。
……なんでそんなことを、イリスが?!
「それ、本当にイリスなのか? 化け物が、イリスのフリをしていただけじゃ……!」
「おい、君」
騎士団長が、身を乗り出したルーフスの腕を押さえた。この場での自分の立場を思い出し、ルーフスは座りなおしたが、
「いや、いい」
と騎士団長を止めたのは、意外にも東宮本人だった。
「ないとは言いきれん。確かめるすべがないという意味でな。だが」
騎士団長をあごで示し、
「言ったろ。あいつはその前から、じわじわと妙になっていっていた。
イリスリールの言った、降魔に侵食させるという言葉を聞いて、俺は納得がいく思いだったよ」
「イリスが、降魔に侵食されたってことですか」
無礼にならぬよう、そして自らを落ち着かせるために、もう一度口調を改めた。まだ腕の上に置かれていた騎士団長の手が離れた。
「もしそうだとしたら、降魔じゃなく亜神だろうけどな。
ローザヴィ、お前はどう思う?」
ルーフスはそこでやっと、ローザが深くうつむいていることに気付いた。
「ローザ」
そのひざの上の手に手を重ねたが、反応はなかった。
……手、震えてる……。
東宮がソファの背にもたれて息を吐いた。
「性急だったな。
だが、こういうことがあったというのは知っていてもらわなくちゃならない。おまえ自身のためにもだ」
ローザはうつむいたまま、震える肩でうなずいた。
「少し休め。コトハ、部屋につれてって、茶でも飲ませてやれ」
女騎士がよりそうようにローザを立たせ、手を取るようにしてドアへと連れて行く。
その後に続こうとしたルーフスの耳に、
「その間、この小僧を借りるぞ」
東宮がもう決まったことのように宣言するのが届いた。