その後1:エドアルド
皇帝の葬儀から、数週間が経った。
喪はまだ明けておらず、至天宮と帝都はひっそりとした空気に包まれている、はずだ。
……そんな時にこんなとこにいていいのかな。
エドアルドはそんなことを考えながら、エサをつけた釣り針を投げた。そのまま眼下の海面に吸い込まれるのを何となく見守る。
「そのあたりにはいないぞ。もっとあっちだ」
人一人分の間を空けて同じように釣り糸を垂れる東宮フォルティシスが、水面から目を離さずに言った。反射的に「うるせえよ」と言いそうになったが踏みとどまり、釣り糸を引き上げる。
言われた通り、釣竿を振って少し遠くまで針を飛ばす。そのまま待っていると、釣り糸を引く手ごたえがあった。釣りあげたのは「まあまあ」としか言いようのない大きさの魚だった。
「上出来じゃないか」
東宮が薄く笑って言った。その彼の横にあるバケツには、ずっと大きな魚が何匹も入っている。
エドアルドの目がそちらに吸い寄せられているのに気づいたか東宮は鼻で笑い、
「ま、腕の差だな」
と言った。
エディ、出かけるぞ。
の一言で高速艇に乗せられ、帝都からほど近いこの小さな島に連れてこられたのが4日前のことだ。東宮の所有する無人島だと告げられた、別荘一棟あるのみのその島で、ここ数日釣りばかりしている。
……こんな時にこんなとこにいていいのかな。
エドアルドはまた同じことを考えた。魚から針を外すしぐさがよほど気のない様子に見えたか、
「つまらなさそうだな」
フォルティシスがバケツをこっちに押しやりながら言った。
「いや……」
何と言おうか迷ううちに、
「投げ釣りでも教えてやろうか? 竿を思い切り振って、沖の方まで針を飛ばすんだ」
東宮はそんなことを言い始めた。自分の釣竿を置いて別荘の方を振り返り、
「道具も確かあったはずだから……」
「いや、そうじゃなくてさ」
そのまま倉庫へと歩き出しそうな気配さえ感じ、エドアルドは急いでさえぎった。
「なあ。こんなとこで釣りなんかしてていいのかよ」
「うん?」
「皇帝の喪中に、東宮が帝都を離れて釣りなんかしてていいのかよ」
東宮は小さく笑った。
「喪中だからだよ。
帝都が喪に服している間は大きな儀式も目立った変革もなしだ。喪が明けてみろ、ローザヴィの即位式の準備に新しい体制づくりに、山ほど仕事ができるぞ。
そうなる前に息抜きするのも東宮の仕事だよ」
うそぶく口調がすべて本気とは思えなかったが、
……こいつなりに、親父さんの死に思うところはあるんだろう。
そんな風にも思った。
「……喪が明けたら、本当に忙しくなるぞ。至天宮の体制を変えなきゃいけないし、化け物どもにひどく荒らされた地方の復興を計画しなきゃならん。戦功をあげたやつに報奨をくれてやらなきゃならないし、それに」
「……それに?」
何となく聞き返しただけだった耳に、次の言葉が届いた。
「エディ。お前、故郷に帰りたいか?」
思わず東宮の方を見ると東宮もこちらを見ていて、エドアルドは反射的に目をそらした。揺れる水面を見ながらしばし言葉を探し、
「……帰りたいとは、思わねえよ」
それだけをなんとか口に出した。
亡き父の領地だった故郷は、エドアルドが8歳の時、化け物に襲われて壊滅した。村人の多くが死んだが、生き延びた者たちがいて、今もそこで細々と暮らしているという。
故郷を滅ぼす原因となった皇弟が一時支配していたが、フォルティシスがどうやってか取り上げて、東宮直轄領にしたとも聞いていた。
……こいつが目を光らせてるんだから、心配はないはずだ。
周りの人間には問答無用だが、一般の民には暮らしやすい治世を行っていることくらいは、この4年で理解している。
……こいつは少なくとも、為政者としては有能だ。だからきっと故郷の人々も、幸せに暮らしているだろう。
会いに行きたいとは思わなかった。恐ろしくて、とても思えなかった。故郷の地に立って、血と炎のにおいを思い出し、ふるえずにいられる自信はなかった。
「別にいまさら、何の用もないしな」
気のない口調で言って海の方に向けた顔に、もう一つ言葉が届いた。
「親父の喪が明けたら、お前の反逆者の烙印が解かれる予定だ」
驚いて振り返った。
「戦中の多大な功績と、新皇帝即位の恩赦だ。まあ、数え切れない戦果だけで誰一人反対するやつはいなかったがな」
フォルティシスは水面を見つめていた。そしてちらりとこちらに目をやる。エドアルドはまた、反射的に目をそらしてしまった。
「お前が望むなら、そのあと、お前の家が持っていた騎士位と領地を復活させてもいい。イースター卿として、故郷を治めたいか?」
「……いらねえよ、そんなもん」
エドアルドは手を振った。努力して口元に笑いを浮かべた。
「人に頼んで、ちょっと調べてもらった。お前の派遣した執政官が、よく治めてくれてるんだろ? 今更、領主シロウトの俺に代わっても悪くするだけだ」
「誰に聞いた。……マシューか?」
笑って答えないでいると、それ以上の追及はなかった。
「烙印の解除もいらないよ。それよりさ……。俺が帝都を出るのを見逃してほしい」
フォルティシスが目を見開いた。
「どこに行くつもりだ」
「どこだろうな。考えてねえけど、故郷以外のどっかだよ」
「エディ、」
「戦いが終わってからさ、ずっと考えてたんだけどさ、思いつかないんだ」
何か言いかけたフォルティシスをさえぎって続けた。
「化け物どもをこの世界から追い出せた。
でも、死んだ家族は戻ってこない。
……これから俺が生きていく理由が、一つも見つからないんだ」
「それで……どこかで一人で朽ちる気か?」
「それも悪くないと思ってる」
その手を強くつかまれた。
「そんなこと許さんぞ。家族の仇討ちが終わったなら、あとは俺のために生きろ。俺がお前の生きる理由だ」
「バカ言え、冗談じゃねえよ」
笑い飛ばしてやろうとしたが、フォルティシスの目は真剣だった。
「気づいてないとは言わさんぞ、エディ。
4年前のあの日、俺がお前を生かすためにどれだけ危ない橋を渡ったか、お前はもうわかってるはずだ」
4年前――皇弟に剣を向け、反逆者としてその場で処刑されてもおかしくなかったエドアルドを、フォルティシスは助けた。
皇弟に、ほかの皇子を抱える有力貴族もそろっていて、気まぐれに家臣を処罰する皇帝すら、近くにいたのだ。その場で『反逆者』の命を助けると言いだすことは、東宮の位だけでなく、命さえも危うくなりかねない賭けだった。
「俺はあの時、地位や命よりお前を選んだぞ。理解してるはずだ」
つかまれた手を強く引かれた。おそろしいほどの力に感じたが、本当はそうではなかったのかもしれない。
「俺は、」
言おうとした言葉がのどに引っかかる。とまどった目が、フォルティシスの目とまっすぐに合った。
「お前も同じだろ。月の道が閉じるあの時、復讐より俺を選んでくれた」
イラハル神殿で古い結界が壊れた瞬間。
エネルギーに呑まれようとする皇弟に斬りかかろうとしたとき、フォルティシスが自分の名を叫ぶのが聞こえた。彼は自分に追いすがり、その腕をつかもうとしていた。
爆風のような光に飲み込まれることも構わず、自分を引き戻そうとしている。そう気づいた瞬間、何も頭に浮かばなくなった。ただ反射的にフォルティシスをかばう方に体が動いた。
「俺はずっとお前を思い続けてきた。離れている間も、おまえに憎まれていた間も、ずっとだ。お前も同じだと、あの時確信した」
腕をつかむフォルティシスの手が少し動き、エドアルドの腕を握りなおした。
「これからも俺のそばにいろ。ずっと」
……あの時自分を引き戻そうとした腕が、今、この手に触れている。
そう思った瞬間、血の気の引くような感覚にとらわれ、
「違う、俺は、何も」
エドアルドは思わず声を上げ、フォルティシスの言葉をさえぎった。手を振り払って深くうつむき、身を固くする。
「……大切だと思うのが怖いか?」
びくっと体が震えるのが分かった。しばし息苦しさに耐え、ふるえる声をしぼり出した。
「俺の大切だった人たちは、俺を大切にしてくれた人たちは、みんな死んでしまった。
嫌だ。
嫌なんだ。
もう二度と、あんな……」
「前もそうだったな。学生時代、それで俺の前から逃げて行った」
フォルティシスは少し笑ったようだった。
「またお前に出会えて、夢のようだった。今度こそ、憎ませてでも俺の前から去らせはしないと思ってたよ。
……だが、戦いが終わったからな。やっと言える。
エディ、ずっと俺のそばにいろ。絶対、お前より先には死なない。約束する」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。お前を残して死んだりしない。ずっとそばにいる。
知ってるだろ、俺はしぶといんだ」
彼は少し笑って見せた。時折見せる、皮肉気だがやさしい笑みだった。
エドアルドはどこか呆然と、その微笑みを見ていた。いつの間に自分はこのやさしい微笑みを見慣れていたんだろうと考えていた。
フォルティシスの手が、エドアルドの手を握った。
この手は、4年間、自分をこの世につなぎとめ続けた手だ。
……振り払ってばかりだった。
……でも、時には自分からその手を取ることもあった。この4年間で、いつのまにか。
握り返すには勇気がいった。化け物に斬りかかるときには一度だって必要としなかった勇気が。それでも、4年前にはどこにも見当たらなかった勇気が、いつの間にかそこにあるのを感じた。
手の中に、確かなあたたかさを感じる。生きている、これからも共に生きていくあたたかさを。
そしてそれは、今この場で手に入れたものではないと思えた。自分たちはずっと前から、こうやってお互いの体温を分け合って歩いてきたのだと思えた。
「……絶対、俺より先に死なないでくれ」
「ああ、約束するさ」
理由もわからない涙があふれそうになって、エドアルドは左のそでで目をおおった。東宮の笑い声が耳に届く。
「俺より自分のことを心配しろよ。
学生やってた頃から、考えなしなバカ犬の暴走を止めるのにどれだけ苦労してきたと思ってるんだ」
「うるせえ、死ね」
いつのまにか習慣になっていた悪態をつきながら、それでも、握った手を放す気にはならなかった。