迫りくる光の奔流の中で:ルーフス
ルーフスは目を開いた。
そこにはローザがいた。こちらに向け右手を伸ばし、その手がルーフスの手と確かに触れ合っていた。
そして、
「ああ、やっと会えた」
長い髪を涼やかに揺らしたイリスが横手にいて、微笑むラフィンがその後ろにいた。
周りはすべて、輝く力の奔流に取り囲まれている。――だが、ルーフスたちを囲むごく狭い空間だけがその光にのまれず残っていた。押し寄せる光はぴたりと止まり、まるで時間自体がそこで止まっているかのように見えた。
「人間の張る結界なんて、私には何の意味もないのよ。こうやって本気を出せばね」
くすくす笑い、そしてこちらへゆったりと歩み寄りながら、
「私、ラフィン、ローザ、そしてルーフス」
イリスはうれしそうにほほえんだ。
「やっと4人そろったわね。さあ、それじゃ行きましょうか」
幼いころ浜辺の村の館で見せたのと同じ、楽しげな笑顔だった。
ローザは戸惑うように姉の顔を見返した。
「どこに? 姉さま、私たちをどこに連れて行くの」
イリスは優しくうなずいた。
「天へとよ。
卑怯な手段で私たちを地底に堕とした者たちを討ち、取り戻した天界でまた一緒に暮らすの」
ローザの手が、きゅっとルーフスの手を握りしめた。その唇から小さな声が漏れる。
「それが、私たち皇帝一族のもともとの目的だったのね?」
ルーフスは驚いてローザの顔を見た。
「皇帝に聞いてたのか?」
ローザは視線だけルーフスに向け、首を振った。
「いろいろ調べて、考えたの。帝都の宮殿の名が『至天宮』だから、きっとそうだって」
「そっか……」
イリスは、二人の様子をほほえましげに眺めていた。
「そうよ。この世界は天に至る道。私たち落とされた神は、この世界を通ってまた天に帰る」
ルーフスはラフィンを見た。執事はいつもの笑顔で、何を考えているのかわからなかった。
「一緒に行きましょう、ローザ。神の因子を強く持つあなたなら天に昇れる。ルーフスも、天へと昇れるようになれるわ。
天へと攻め登り、取り戻した天上で、また4人で暮らしましょう」
白く柔らかな手が差し伸べられる。
「さあ」
イリスの美貌には、昔とまるで変わらない優しさと愛情深いほほえみがある。
――あのころと同じ。海辺の村で、毎日を共に過ごしたころのままのあたたかなイリスだった。
イリスは変わらない。
ルーフスは大きくなった。ローザもだ。イリスだけが、あの頃と変わらない姿で、変わらないほほえみをたたえ続けている。
でも、本当に変わったのはイリスなのだ。
「一緒に行けないわ、姉さま」
ローザが言った。イリスは手を差し伸べたまま、小首をかしげる。
「私、この世界で生まれて、この世界で暮らしてきたわ。
姉さまとラフィンとルーフスと、4人で暮らした思い出があるのも、この世界よ。
これからも、この世界で生きていくの」
イリスはじっとローザを見つめた。差しのべた手が少し下がった。
「……ルーフス、あなたはどうしたいの」
突然尋ねられ、ルーフスは「俺?」と聞き返した。
「そう。私たちと一緒に天に昇り、また4人で暮らしましょう。あなたも月の道を通れるように、」
その言葉がふと止まり、
「ルーフス、あなた」
イリスが目を細めた。
「降魔のかけら、一体どうしたの」
「降魔の……かけら?」
ハッと思い出した。あの時、ラフィンが自分の心臓からつまみ出した黒い結晶を。
――姫様には内緒でございますよ。
同時に、イリスがラフィンを見た。
「ラフィン、あなたね?」
ラフィンはいつもの微笑みのまま、優雅に頭を下げた。
「申し訳ございません、姫様。つい」
「待ってくれイリス、これは……」
とっさに思い浮かんだのは、切り裂かれたラフィンが血みどろで地に臥す姿だった。何とかラフィンをかばおうと駆け寄りそうになったルーフスの前で、イリスは苦笑した。
「仕方ないわね。あなたは昔から、ローザとルーフスのことには心配性になるんだから」
「面目ございません。小さいころをお育てした嬢ちゃまとぼっちゃまでございますから、ついつい」
首を傾げた動きに合わせて、イリスの長い髪が揺れる。
「ルーフスが消えてしまうような浸食のさせ方はしないのに」
薄い笑みのまま無言だったラフィンにかまわず、イリスはすいっと振り返った。ルーフスに向け、小首をかしげてみせる。
「……また、別のかけらをあげるわ。もっといい亜神のかけらを。
ルーフス、私たちと一緒に、天に行きましょう」
ルーフスはイリスを見つめた。優しげな微笑みだった。あのころと、本当に何も変わらない。幼く未熟だった自分に、いつも優しくしてくれた、あの暖かなイリスだ。
だとしても。言うべきことは一つしかなかった。
「俺も、嫌だ。この世界で、人間として暮らし続けたい。ローザと一緒に」
そして付け加えた。
「できるなら、イリスとラフィンも一緒に」
イリスは瞬きし、ほほえんだ。こうなってから初めて見る、さびしげな微笑みだった。
「そう。残念だわ。……ああ、あのころは本当に楽しかったわね」
「まことに」
ラフィンがうなずき返した。
イリスの長い髪が揺れた。柔らかな動きで身をひるがえし、ルーフスたちに背を向ける。
「地底に戻るわよ、ラフィン。この世界とは別の、天に続く道を探しましょう」
「かしこまりました、姫様」
ルーフスは目を見開いた。
「イリス、」
人間を、俺たちを殺してでも、天に昇るんじゃないのか。
そう尋ねたルーフスを、イリスはいたずらっぽい微笑みで振り返った。昔、ルーフスが幼さゆえに愚かなことを言ったときと同じ、暖かな笑いだった。
「仕方ないじゃない。ローザとルーフスと、ふたりがそろってそう言うんだもの。
……本当に、本当に楽しかったわね、あのころは。忘れることなどできないわ」
そのほほえみの中に、ルーフスは懐かしいものを見た。再会してからは一度も見なかったもの。初めて浜辺の村で出会った時のイリスが持っていた、秘めた悲しみを。悲しみを深く胸に押し込めた、暖かいほほえみを。
本物のイリスだ。そう思った。本当にあのころと同じ、あのイリスが今、ここにいる。
イリスは口元にほほえみをたたえたまま、じっとローザとルーフスを眺めた。そして、すっと身をひるがえす。ふたりに背を向けるように。
口を開いたのはラフィンだった。
「ぼっちゃま、嬢ちゃまをよろしくお願いいたします。嬢ちゃま、ぼっちゃまを大切になさいましねえ」
「姉さま、ラフィ――」
ローザが呼んだ。しかしそれより早く、目のはしで瞬いた光が洪水のようにあふれ、一瞬で視界をおおいつくした。
目を開けると、光はどこにもなかった。
イリスも、ラフィンもいなかった。
周りは静まりかえっている。
大扉はどこにも見えず、無数の符も消え失せ、そこはごく普通の神殿内の広間になっていた。
視界の端に、倒れている人影がある。東宮と、それをかばうように覆いかぶさった警備兵だった。意識を失っているようだったが、かすかに身動きするのが見えたような気がした。
そしてそれよりずっと近く。ギュッと握った左手の先に、ローザがいた。
恐る恐る目を開け、静まり返った室内にふいを打たれたように見回している。
「ルーフス。姉さまとラフィンは……」
そこまで言い、ローザは急に口を閉じた。ルーフスも、答える代わりにつないだ手を強く握った。
もうどこにも見えない結界の扉は、もう二度と開くことはないのだろう。
分かたれた二つの世界は、二度と、会うことはないんだろう。
その代わりに、つないだこの手を二度と離すまいと、そう強く思った。