大扉の前の間で、そして大扉の間で:ルーフス
ルーフスはゆっくりとひざをついた。
封印の大扉へと続く小さな扉は、もうすでに元の、なんの変哲もない扉に戻っていた。
うすぼんやりと見えていたローザの姿も、もうまるで見えない。
斬り捨てたナーヴは塵となって消えた。
主を失ったその守り刀と、長衣だけが床に落ちている。荒く息をつきながら、しばし呆然と座り込んでいた。
――あの刀だけでも、拾って戻ろうか。
そんなことを思った。何らかの形で弔ってやりたいと感じたのだ。
だが、立ち上がるに立ち上がれない。ナーヴに斬られた左腕、符の爆発に巻き込まれた右腕が、今になってひどく痛かった。
このケガ、何とかしないと。でも癒しの符を持ってない。
「フレリヒ――」
ダメもとで呼んだその時、広間の扉が突然に開いた。
声も出なかった。力の入らない右手がはねたその時、踏み込んできたのは見知った人影だった。
抜き身の刀を下げた警備兵と、符を握りしめ、立派な軍服に身を包んだ青年。
パッと足を止めた彼らは、東宮フォルティシスと、警備兵のエドアルドだった。
二人がそろって目を見開くのがわかった。
「なんでお前がここに?!」
「ヤツはどうした!」
同時に叫んだ二人の視線が、地に落ちた長衣と守り刀をとらえた。
「……一人で倒したのか」
エドアルドが信じられないと言いたげな声をもらす。東宮は長衣をちらりと見ただけですぐルーフスに目を戻した。
「ルーフス=カランド。どうやってここに来た?」
ルーフスは一瞬固まった。この二人は、自分が鉄鎗騎士団に監禁されていた場所から逃げ出したことまでしか知らない、はずだ。
そこからここまでの道のり。ナーヴ、フレリヒ、アルト、地下で会った姉弟。それからイリスとラフィン。関わった人々の顔が一瞬で頭をめぐり、
「……皇帝に会ったんだ」
東宮の顔を前にして、口から出たのはそんな言葉だった。
「至天宮で寝込んでる皇帝に会った。皇帝は、ローザがここでやろうとしてることを助けたいみたいだった。だから」
何の説明にもならず、筋も通っていないそんな言葉に、東宮と警備兵の瞳がすっと変わるのをルーフスは見た。
二人は何かに納得し、何か思うところがあるようだった。
「俺、たぶん、あんたにも言わなきゃいけないことがある。伝えとかなきゃいけないことがある」
エドアルドがフォルティシスのほうを見、フォルティシスは小さくうなずいたようだった。
スッとその手が動き、一枚の符を放る。それがルーフスの頭の上で柔らかな光を放ち始めるとともに、急に体が楽になった。癒しの符だ。
「聞かせろ。後でな。今はローザヴィを……」
「フォルテ」
歩み出そうとしたフォルティシスの腕を、突然にエドアルドがつかんだ。
ひどく警戒した目になっていた。
どうかした、と言いそうになったルーフスの声が、のど元で止まる。
ばたばたばた。
ばたばたばたと音がした。
か細いのに妙に耳に障る音に、ルーフスは目を上げた。
ばたばたばたと、音は続いている。地面に落ちた、ナーヴの長衣のところから。
「やっと。やっとだ」
くぐもった声が聞こえた。長衣のところからだ。
「やっと、神の力が我が物に」
エドアルドが息を呑んだ。
地面に落ちた長衣のポケットからぞわぞわとはいだしたものがあった。ぺらりと薄く長い紙のように見えたそれが、はいだしきるなりうごめいて大きくふくらんだ。
人の形へと。
「やっとだ。神の力を手に入れたぞ!」
頭。首。腕。胴。そして足の先まで、薄っぺらい紙はあっという間に1人の若者の姿になった。その顔かたちに、フォルティシスはぞっとする。
「叔父貴……か?」
現れた男は、今さっきまで紙であったそれは、悠然とあごを上げてフォルティシスを見た。
「ひかえよ、フォルティシス。私は兄から皇帝の力を受け取った」
黒に近い灰色の髪、精悍だが優美な顔立ち、すらりとひきしまった貴公子と言ってよいその姿は、フォルティシスの知る、20年近く前の叔父の姿そのものだった。たるみきった腹も、あちこちのしわもなく、だがどこか近寄りたくない傲慢さがあった。わずかに曲げられたくちびるの形や、見下すような目玉の動きに。
男は……皇弟バサントゥは、張りのある声を響かせた。
「いまこの時から、私がこの帝国の皇帝だ。ひざをついて忠誠を誓え」
フォルティシスは反射的に、エドアルドの腕を強くつかんだ。今にも刀を抜いて切りかかりそうに見えた。
「放せ!」
「待てエディ。不用意に近寄るな」
「黙れ! 俺に斬らせろ!」
目をぎらつかせたエドアルドがうなるような声を上げる間に、皇弟はさらに見下したような声を出した。
「そもそもお前が東宮であるのがまちがいだったのだ。皇帝とは、この地に結界を張り続ける力を持ったもののこと。お前にはその力がない」
「……ローザヴィにはあるということか」
フォルティシスの一言に、皇弟の顔がひどく歪んだ。
「あの小娘は、余がじきじきに始末してくれる」
あいつにあるなら十分だ。フォルティシスはつぶやき、そしていきなり符を投げた。
目を焼く雷を、バサントゥは見下し切った笑みのまま、右手の一振りで払いのけた。
「お前ごときが、ムダなことだ」
そして、
「神殿よ、道を開け!!」
バサントゥは叫んだ。
「余は皇帝の力を手に入れた! 結界の間へと進む資格がこの手にある!!」
壁を埋めつくす符が、光を放った。瞬きの間に辺りの様子が一変する。
広間の壁が消えうせる。床も天井も消え失せ、限りなく広い空間に無数の符だけが浮かび、そして。
「ローザ!」
ルーフスは叫んだ。あの時幻視した光景がそこにあった。
圧倒的な力を放つ巨大な扉。そこからあふれ出す力に耐えるように、その前に立つ少女。
その顔がこちらを振り向いた。
「ルーフス?! ダメ! 逃げて!!」
悲鳴のような声を上げたその細い手には、符があった。その符が放つ光は強いが、扉から押し寄せる力の波の前に、消し飛ばされそうに見えた。
ルーフスもまた、突然押し寄せてきた何かの力に吹き飛ばされかけ、必死にその場に踏みとどまるしかなかった。何とか伸ばそうとした手の先で、ローザが叫ぶ。
「結界が張りなおせないの!」
「ローザヴィ!」
東宮が強く通る声を発した。嵐のような力の流れの中、少女の目が異母兄をとらえる。
「兄さま! あちらからの力が、強すぎて……!」
「違う、聞け、それは……!」
東宮の手が懐中から符をつかみだそうとしたその時、ずるりと動くものがあった。
「力を」
バサントゥが、ローザへと動いた。押し寄せる力の圧をものともせずに、蛇を思わせる動きで迫る。
「よこせ!!」
叫ぶ皇弟に向け、エドアルドの脚が地を蹴った。神速の刀は、押し寄せる力の中でバサントゥの左肩へとわずかに届いた。皇弟はぎろりと振り返る。その上体がぐにゃりと動き、エドアルドの刀へと食いついた。
「化け物が!」
エドアルドが叫ぶ。引こうとした刀に、皇弟はがっちりとかみついたまま身をくねらせた。エドアルドの蹴りがその胴へと打ち込まれたが、皇弟はぐにゃりと身を動かしただけだった。
見開かれた目がエドアルドを映し、むき出された歯が刀をかみ砕こうとかみしめられる。
「動かないで!」
ルーフスはエドアルドに叫び、押し寄せる力に逆らって斬りつけた。刀をかみしめる皇弟の目玉がぐるりと動き、歯が刀を放す。ぐにゃりと大きく飛び退り、皇弟はぜいぜいと息を吐いた。
「下賤ども……。みな、死をくれてやる……」
「兄さま!」
ローザの叫び声が、押し寄せる力の中に響いた。
「姉さまの気配が近づいています! 結界を張りなおさないと……」
ローザの手で符が光を放っては消し飛ばされている。ひときわ強い力が押し寄せ、ローザの手から符が吹き飛んだ。
「その結界を壊せ!」
東宮の声が叫んだ。
「壊す?!」
「新たな結界を張るためには、古い結界を破壊しろと、親父が……!」
エドアルドが動く前に、ルーフスは床を蹴っていた。荒れ狂うエネルギーの濁流に向け、ラフィンから受け取った強大な力を持つ刀、神の武器を一閃させる。巨大な扉から押し寄せる力が、確かに切り裂かれるのを感じた。
「俺がやる、ローザ!」
一声叫び、切り裂いた力の奔流の中を駆ける。二度、三度、切り裂いた力の向こうに扉があった。
未だ強い力を持ち続ける、古い結界が。
「新しい結界を……!」
振り上げた刀を、その中心へと突き立てる。扉に、そして空間に、一気に亀裂が走るのを感じた。
「下賤が!」
皇弟が叫ぶ。
「力は渡さぬ!」
皇弟の腕が大扉へと向いた。濁流をさかのぼる蛇のように大扉へと至る。その手が扉へと掛かった。
「神の力、王の力を……!」
扉が、光を放った。
皇弟の声が途切れた。扉にふれる左手と、そこから続く胴、足までもが、一枚の紙のように揺れた。大扉から放たれる光によって。
ローザの手に、新しい符がある。それが光を放つとともに、周りに浮いた無数の符も、またまばゆい光を放った。
結界が、張りなおされようとしている。
だが。
――何かが、来る!
それよりも強く、大扉の向こうから強大な力が押し寄せてくるのを感じた。
門を押し開けようとする地底からの力と、硬く閉ざそうとする結界の力とがせめぎあい、すさまじいエネルギーを生み出していた。それは、あふれ出す光が渦を巻くように目に見えた。
「てめえだけは殺す!」
一声叫んだエドアルドが、大扉に手をかけた皇弟へと駆け寄った。その刀が皇弟をとらえようとしたそのとき。
せめぎ合っていたふたつの力の均衡が崩れた。
……結界が!
扉が大きく開かれる。大量の光がこちら側へとあふれだした。
「エディ、下がれ!!」
東宮が叫びながら、エドアルドに向けて手を伸ばした。大扉の前の皇弟の体が、焼け付くような閃光に飲み込まれるのとが同時だった。
あまりのまばゆさにルーフスは思わず目を閉じ、
「ルーフス!」
確かに耳に届いたその声に向かって手を伸ばした。
「……ローザ!!」
暴風が体に叩きつけられる。右に、左に、吹き飛ばされそうになりながら、伸ばしたその手が確かに温かいものに触れた。
「ローザ!」
「ルーフス……!」
そして閉じたまぶたの裏で感じた。
こちらへと迫りくる強大な力が、とつぜんに静止するのを。