大扉の前の間で:ルーフス
ナーヴは円形の大広間に立っていた。
壁にはぐるりと一周、符が貼られている。それらに守られて、広場の一番奥には小さな扉がある。
……ローザヴィの気配が感じられぬ。
ナーヴは、ゆっくりと小さな扉へと歩み寄った。
皇帝となる資格を持つもの以外が開ければ、そこはただの小さな祭壇の間だ。だが、真の姿はこの世界を守る結界の大扉へと続く扉。
封印の儀式であれば、この中は祭壇の間のままのはず。だがそこにローザの気配が感じられないということは、ローザは結界の大扉の前にいるということだ。
……バサントゥめが、ローザヴィは至天宮の書庫をあさっていると言っていた。
術で惑わせて利用したものの、たいした役にも立たなかった、一応の弟の言葉を思い出す。
……小娘が。何をどこまで調べ上げた?
眉根を寄せ、扉へと手を伸ばした。
今ある結界は、もう崩れようとしている。王の復活によって力づいた亜神たちの力が押し寄せ、結界の大扉を押し開けようとしているのが感じられた。
……その前に、奪わねばならん。
扉に手をかけたその時、周りの壁の符が、淡い光を放った。
「……フレリヒか」
扉からゆっくり手を放し、つぶやく。
「何をしに来た。よけいなことはするなと言ったぞ」
よけいなことなんて僕はしないよ。
笑うような声は、ひどく遠くから聞こえた。ナーヴはハッと身をひるがえす。
「フレリヒ、そこにいろ!」
神がかりの皇子とは違う声とともに、いくつかの符が消えうせる。代わりに現れたのは白刃のひらめきだった。
――小僧!
亜神の刀が、身にまとった防御壁をやすやすと切り裂いてナーヴの衣にわずかに届いた。その間にも、その刀を持つ少年の姿が時空のはざまからはっきりと現れ出る。
「降魔の力を中途半端に取り入れたか」
間髪入れずひるがえった白刃の鋭さから身をかわしつつ、ナーヴは守り刀を抜く。不可視の刃で斬りつけると同時に自分は大きく一歩後退した。距離を取って、油断なく刀を構えなおすルーフスをまっすぐ視界にとらえる。
「イリスの気配が消えた」
守り刀を片手に構えたナーヴから目を離さず、ルーフスは言った。
「お前が倒したのか?」
「お前ごときが知ってどうなる」
聞こえるか聞こえないか程の声がした。
ナーヴの中に、イリスの持つ強い力は感じない。感じないような気がした。だが、その感覚がどこまで正しいのか、今のルーフスにはわからなかった。考える間もなく、ナーヴの不可視の刃が襲い掛かってくる。
「フレリヒめが」
つぶやきが小さく耳に届いた。
「よけいなマネを」
「よけいなマネじゃない。フレリヒはこの国と人を守ろうとしてるんだ。ローザもだ」
ラフィンの刀で強く斬りつける。ナーヴは身をかわしたが、その長衣を大きく切り裂いた。剣の技量だけならばこちらが上だ。さらに踏み込んだ瞬間、ナーヴの左手に光るものが見えた。発動しかけた符を叩き落とし、ついで振るわれた不可視の刃をすんででよける。
ここは、結界の大扉というものへと続く最後の間だと聞いている。ルーフスはちらりと奥にある小さな扉に視線をやった。
あの奥にローザがいるのか?
先ほど一瞬見た光景を思い出す。大扉を前にして、ローザは近づこうとして近づけないでいるようだった。
ローザは弱った結界を張りなおそうとしているのだという。とにかく、それが無事に終わるまでナーヴをローザのところに行かせてはいけない。
「あきらめろ。ローザはすぐに結界を張りなおすぞ。お前の野望はもうかなわないんだ」
ナーヴの左手がひるがえり、するどく符が光を放った。現れた火柱を、
――斬れる!
理由もない直感とともに一刀両断する。ラフィンから預かった刀は、本当にやすやすと火柱を切り裂いた。相対するナーヴが、ぐっと歯を食いしばったのがわかる。
ルーフスは思わず、さらに斬りつけようとした刀を止めた。
「……結界が張りなおされれば、亜神たちがこの世界を踏み荒らしていくこともなくなる。この世界が滅びることはなくなるんだ」
じっとこちらをにらみ上げるナーヴを、まっすぐに見返す。
「お前も、この世界で生きていけばいいじゃないか」
「バカなことを」
ナーヴはそうつぶやいただけだった。同時にその右手が、突然にひるがえる。はっと気を引き締めたときは遅かった。不可視の刃が、よけ損ねた左腕をざっくりと切り裂いた。
「……っ!」
鋭い痛みが走り抜ける。血があふれ出す。
――くそ、戦うしかないのか。いや、戦うしかないんだ。
ルーフスは自分の中の迷いを押さえつけようとした。かつてはローザのいとこだと信じ、今はローザの父の一部だと知ったこの少年を斬り捨てようとすることに、どうしても心が追い付いていなかった。
「ナーヴ、俺は……!」
口を開いた瞬間、ナーヴの手がひらめいた。符が発動する!身をかわそうと動いた左腕の傷口が、突き刺さるように痛んだ。
「くっ……!」
符が爆発する。右半身が巻き込まれた。吹き飛ばされ、地に叩きつけられる。土に飛び散る血を横目に身を起こそうとしたルーフスは、立ち上がるより先に息をのんだ。
すべるように足を進めたナーヴの手が、広間奥の小さな扉へと掛かっている。
「待て……!」
そんな言葉など何の意味もなかった。その白い手のひらが触れると同時に、扉がすうっと色を失った。
その奥に立つ人影が見える。
――ローザ!
おぼろげなその姿に向け、ナーヴの手が動く。守り刀の輝きを目にした瞬間、はじかれるように足が動いた。
「ナーヴ!」
少年がふりむいたのかふりむかなかったか、ルーフスにはわからなかった。自分でも追いきれぬほどの速度で振りぬかれた刀が、ナーヴの胴を両断していた。
ナーヴは息ももらさなかった。
手をかけていた扉にさあっと色が戻り、その一瞬ののち、長衣を着た少年の体は、何の抵抗もなく塵となって崩れた。