神殿で、神がかりの皇子と
「……役立たずの符術師どもめ。結界はもうもたんか」
ナーヴがもらした声に、ルーフスは我に返った。
神殿を貫いたイリスの存在感はまた静まり、大量の降魔たちが崩れ去った廊下には、ルーフスと、ずっと先に立つナーヴの姿しかなかった。
ナーヴは肩ごしにこちらを振り返った。
「お前はもうすでに何の役にも立たぬ残りカスだが」
そのガラス玉のような目が細められる。
「だからこそ、結界を通り抜けられるようだな」
すうっと、周りの世界から自分だけ切り取られるような違和感が襲った。
「時間がない。あちらへと落ちて、結界に穴を穿て」
いきなり、重力がめちゃくちゃにゆがんだように感じられた。上に、下に、斜めに、次々と別の方向に落ちていくような感覚に襲われ、一瞬ののちにはルーフスは広い空間にさかさまに投げ出されていた。
落ちる。
その感覚と、それに続く一瞬が永遠に引き延ばされたかのように思われた。
さかさまに落ちようとするルーフスの周りには、光を放つ符が数えきれないほど浮かぶ広い空間があった。そしてその中央には、巨大な扉が。今は閉じていたが、何者かが押し開けようとしているかのように揺れるのがわかった。
そして。
――あれは。
ルーフスは目を見開いた。
巨大な扉の前に、少女の姿があった。大扉に向け手を差し伸べているが、目をかばうように頭を低くし、細い足にはひどく力が入っていた。大扉へと近づこうとしながら、大扉から放たれる何かの力によって一歩も近づけない――そんな風に見えた。
その髪の色、その姿に、確かに見覚えがあった。
「ロ……!」
「あぶないよ」
とつぜん、耳元で声がすると同時に、強く腕をつかまれた。
「えっ」
のどから声が漏れ、その瞬間ざっと周りの風景が崩れ落ちていった。まるで、周りのすべてが落下する中、自分だけが落下を免れたように。
めまいのするような一瞬が唐突に終わり、辺りは元の神殿内部、だが先ほどとは違う場所になっていた。そして、
「おっこちなくてよかったね」
床に立ったルーフスの腕をつかんで、子供のような姿の少年が立っていた。つぶれたシルクハットに、おかしなデザインの子供用タキシード。
「フレリヒ……」
「おっこちたら、もう戻って来れなかったよ」
皇子フレリヒはルーフスの腕から小さな手を離した。
なんでここに。どうやってここに。浮かぶ疑問はいくらでもあったがその前に口から出たのは、
「今の、ローザか?!」
そんな、フレリヒにわかるはずもない確認だった。
「そうだよ」
当然のことのようにフレリヒは笑った。
「この世界を守る結界が弱まってるね。頑張って張りなおさなきゃ」
フレリヒも同じ幻視を見たのだ。ルーフスは確信した。
「皇帝が言ってた、この世界を守るってことか。
……でも、ローザはずっと戸惑ってた」
フレリヒは、まるで一人だけ別の状況にいるかのように上機嫌に笑った。
「どうしたらいいか、知らないんだろうね」
「どうしたらいいんだ?」
ジーク砦でのこと。騎士団に閉じ込められた場所でのこと。フレリヒはルーフスの知らない数々のことを当然のように知っていた。今回もそうだろうと思いこんでいたルーフスに、フレリヒはあっけらかんと、
「僕にはわからないよ」
と言った。
「お前、いろんなことがわかるんだろ?」
「わかることはわかるし、わからないことはわからない」
幼い声で言い放ち、フレリヒはふと視線を右に向けた。
「僕にはわからない。お父さんは知ってるってことしかわからない」
お父さん。皇帝のことだ。
「皇帝は帝都の至天宮だ。今さっき会ったけど、もう意識もないみたいだった。どうやって聞き出せばいいんだ?」
「僕にはわからないよ」
その瞳は、ずっと右を見たままだ。
「お父さんは、どうにかしてローザに伝えるつもりだったのかな。でも、できなかったみたいだね」
ふいに、フレリヒの視線の先には、遠く遠く至天宮があるのではないかとルーフスは感じた。
「お父さんの分体がずいぶん暴れたからね。力がなくなっちゃったのかな」
そういえば、とルーフスは思い出した。
「お前、ナーヴの正体知ってたのか」
フレリヒは突然にけらけらと笑い声をあげた。
「お父さんがお父さんなのはわかるよ!」
ルーフスは少し沈黙して、フレリヒの場違いな笑い声が消えるのを待った。その間、至天宮で伏した皇帝から聞いた、様々なことを思い返していた。そして、
「フレリヒ」
もう一度口を開くには覚悟がいった。
「俺はナーヴを倒す。あれがお前やローザの父親の一部だってことは知ってる。それでもだ」
真剣に言ったルーフスに、フレリヒは拍子抜けするほど楽しげな顔を向けてきた。
「そうするしかないと思うよ」
笑うフレリヒに、
――手を貸してくれ。ナーヴを倒し、ローザを守るのに、お前の力を貸してくれ。
のど元まで出かかった言葉を、ルーフスはかみしめるようにして飲み込んだ。
フレリヒは、ナーヴのことも皇帝のことも、なんとも思っていないように見える。それでも、皇帝の子であるフレリヒに、ナーヴと戦わせたくない気がした。
「お父さんの分体はね、近くにいるよ」
フレリヒはあっけらかんと言い放つ。
「イリスリール姉さんも。ローザのところに行こうとしているんだろうね」
「ローザは、どっちにいるんだ?」
フレリヒはまっすぐに廊下の奥を示した。
「あっちに二つの扉がある」
「二つの扉」
「一つ目の扉には、兄さんが結界を張ってる。兄さんの結界だから、通り抜けるのはそう難しくないかな」
……フレリヒにとっては。そして、イリスやナーヴにとっても難しくはないということ、なのだろう。ルーフスは唇を引き結んでうなずいた。
「もう一つの扉には、強い結界が張ってある。これは僕でも通れないかな」
意味不明の上機嫌さでフレリヒは続ける。
「この神殿に元からある、結界の大扉を守るためのものだから、通れるのは結界を守る務めを持つ者だけだ」
ルーフスは心臓の裏が冷たくなるのを感じた。
「皇帝であるお父さんの分体は、通れるね」
笑うようなフレリヒの言葉が、絶句したルーフスの耳に届いた。