執事と歩く:ルーフス
「少々歩きますよ、ぼっちゃま」
闇の中をふわふわと歩きながらラフィンが言った。
ルーフスは、ラフィンに手をひかれて薄闇の中を歩いていた。辺りの風景は完全に消え、うすぼんやりと何かが見えるような見えないような中、足の下の地面は妙にやわらかく、本当に踏んでいるのか、そんな気がしているだけなのか、不安にさせられた。
だがラフィンの方はまるきりいつもと同じにこやかさで、
「ピクニックのようで楽しゅうございますねえ。嬢ちゃまもおいででしたらよかった」
明るくそんなことを言うのだった。
「ラフィン」
そう呼んだルーフスの声は、ひどく硬く響いたというのに。
「皇帝の血筋は、亜神の子孫なのか?」
「そうでございますよ」
あっさりと肯定が返った。
「正確には、我ら亜神の王の血を受けつぐ家系でございますね」
「この国の皇帝は、亜神の王でもあるってことか」
「そうではございません。ややこしいことでございますが……」
ラフィンは肩越しにちらっと振り返った。
「そうですね、ぼっちゃま。昔の話からいたしましょう。
昔、ラフィンたちは天上と呼ばれる場所で暮らしておりました。どのような場所か、人間の言葉で表現するのは難しゅうございます。とにかく、この世界とは全く違う場所でございました。
そこで、大きな戦争が起きたのでございます」
「戦争? なんで?」
ラフィンは少し笑ったようだった。
「……それはこの世界と同じでございますね。二人のうちどちらが正統な王か、という話でございます。
ラフィンたちと、ラフィンたちの信じる王とは、その戦いで負けてしまったのですよ」
そこで少し間があった。
「……まあ、少し卑怯な手も使われたのです。さもなくば真の王たるお方が破れることなどありはしません」
一瞬、ラフィンの声からひんやりとしたものがにじんだが、その冷たさがルーフスの背をなでるより早く声は元の温度に戻り、
「……まあ、それは置いておきましょう。勝った者たちは、我らと我らの王の力を奪い、それを使って天の底に穴を開けました」
つないでいないほうのラフィンの手が、空中に図形を描いた。
「砂時計というものがございますでしょう」
上下が太く、その間がごくせまくなった筒の形だった。
「世界が、このような形だといたしましょう。
ラフィンたちはもともと、上のほうの広い空間で暮らしておりました。これが天上でございますね。
そして、下の方の広い空間が地底。
王とラフィンたちは、存在が保てるぎりぎりまで力を削られ、一人残らず天上から地底へと突き落とされました。勝った者たちは、そのままラフィンたちを地底に閉じ込めてしまうつもりであったでしょう。
力を失っていたラフィンたちは、なすすべもなく地底へと落ちていくしかありませんでしたが、王だけは、地底へと落ちる強い力に逆らって、天と地底をつなぐせまい空間に浮かぶ小さな世界につかまることができたのです。
そしてラフィンたちへとおっしゃいました。
この世界を通して、我らがまた天へと攻め上るための道を残すと。
地底にて力をたくわえ、生まれなおした自分を迎えに来いと」
ルーフスは思わず足を止めた。
「それが……。その、せまい空間に浮かぶ小さな世界ってのが、この世界だって言うのか」
ルーフスに合わせてラフィンも足を止めた。振り返ったその笑顔には、どことなく苦い色があった。
「さようでございますよ、ぼっちゃま」
ルーフスがその苦いものの後ろにあるものを読み取ろうとする間に、ラフィンはまた口を開いた。
「王がそのようにしてくださらなかったら、天上に残った者たちの手で、地底からの通路は完全に閉じられてしまっていたでしょう。
王は、おひとりでこの世界に残り、ラフィンたちみなが天上へと戻るすべを残してくださったのです」
そしてそっとルーフスの手を引く。つられて歩き出しながら、ルーフスはぼんやりとその揺れる長い銀髪を見ていた。
「ラフィンたちはそのまま地底へと落とされましたから、実際のことはわかりません。ですが、色々聞いたかぎりでは、王はその世界の人間と同じ姿となり、己の血を残すことになさったようなのです」
ルーフスは思い出していた。この帝国の初代皇帝は戦乱の世に突如としてあらわれ、圧倒的な強さであらゆる敵を打ち倒し、いくつもの小国をまとめ上げて皇帝の座についたのだ。この帝国に住むものならだれもが知る、建国の歴史だ。
「それが、帝国の初代皇帝?」
「はい。いくらほとんどの力を失ったとはいえ、王の力をもってすれば一つの帝国を打ち立てるなど簡単なことだったでしょう」
本当に何でもない事のように、楽しげに笑う。
「そうして……自分の直系の血を、皇帝の座とともにつなげていこうとしたのです。
いつか、力を取り戻して生まれなおすために」
「生まれ、なおす……」
「姫様でございますよ」
ラフィンは過剰な笑顔になったようだった。
「イリスリール姫様が、戦いに敗れ、天から落とされる途中でこの世界にとどまった我らの王、そのものなのです。
長い時を経て奪われた力をようやく取り戻し、生まれなおして、王としての記憶も取り戻すことができた。
あとはラフィンたちを率いて、また天へと攻め上り、本来あるべき玉座を取り戻されるだけなのですよ」
「ラフィン、それっておかしくないか?」
ルーフスは言った。
「皇帝の血が、イリスをまた生まれさせるためのものだったら、なんで東宮や皇帝一族は亜神と戦ってるんだ? なんで、皇帝はイリスが生まれてしまったことをあんなに嘆いてたんだ?
そうだ、さっき皇帝が言ってた。ローザはこの地を守る役割をうけつぐんだって。それが皇帝の役目なんじゃないのか?」
ラフィンが少し黙ったので、ルーフスは少し高い位置にあるその横顔を見上げた。
考え考え、喋っているように見える。そんなラフィンを見るのは初めてだと、ルーフスはふと思った。
「……ぼっちゃま、ラフィンには皇帝一族の気持ちがわかるような気がするのですよ。だから変わり者などと呼ばれてしまうのでしょうね」
「皇帝一族の気持ち?」
ラフィンはまた数秒口を閉じ、
「ラフィンたちはみな、存在が保てる限界まで力を削られておりました。元の力を取り戻すには、地底に閉じこもっての長い長い時が必要だったのです。
ようやく力を取り戻し、王をお迎えに上がるため、地底からこの世界への道を開こうといたしました」
地底から、この世界への道。
「月の道ってやつか?」
ラフィンは肩ごしに振り返り、昔よく見た機嫌のよい笑い方をした。
「ぼっちゃまは賢くていらっしゃる。その通りでございますよ。
月の道を大きく開き、臣下全員で王の元へとはせ参じるつもりでおりました。
ところが、月の道がまるで開かないのです。開けようとしてもはしから閉じていってしまう。全員で乗り込むどころか、手を一本通すのがやっと。
土の中を掘り進むようにして何とか開けたそこには、結界ができておりました」
「えっ……。天上の連中が張ったのか?」
ラフィンのかすかな笑い声が耳に届いた。
「ラフィンたちも最初はそう思いました。
ところが、ちがったのですよ。
この世界の皇帝一族となった王の子孫たち、いずれ生まれ変わる肉体のために王の血をつなぐ役を持った者たちが張ったものだったのです」
そう、そのはずだ。そうでなくては、今の至天宮の者たちの行動の説明がつかない。
「王の血を受け継いだ子孫たちは、ある者は帝位を継ぎ、あるものは重臣として補佐をし、ある者たちは市民として町に降り、それぞれ人間と子をなして、王の血を薄く広く人の間に広めたようです。
その中にときどき、先祖がえりのように王の因子を強く持った者が出るのです」
「たとえば、フレリヒみたいに?」
皇帝の病室で、老人から聞いたことを思い出した。皇帝は亜神に近い子供を大勢作ったと老人は言っていたのだ。それがつまり、王の因子を強く持つということではないのか。
「フレリヒ? どなたでございましょう」
「イリスの異母弟で、めちゃくちゃ符が使えて、なんか、不思議なことを一杯しでかすやつだ」
「ああ、そういう現れ方をすることもございましょうね。符術は巧みであるはずです」
ラフィンは軽くうなずいているようだった。そして、
「そのような強い力を持った者が、定期的に結界をはりなおしているようです。同胞である我ら亜神が、地上へとでてこられないように。
そして、もうひとつ。皇帝に子ができるたび、王の意識を封じる儀式をするようになったのです」
「王が生まれて来れないように?」
「目覚められないように、でございますね、ぼっちゃま。
姫様の前にも、何度か王は地上に生まれ出ました。王の血を濃く引く皇帝と、王の因子を強く持ったものとの子として。ですが、皇帝一族の強い力におさえられ、王として目覚めることはございませんでした。一生を人間として過ごし、死んでいったのです」
ラフィンはふわふわと歩きながら、闇の中で斜め上を見上げた。何か見えるのかとルーフスもそちらを見上げたが、少なくともルーフスの目には周りと同じ闇しか見えなかった。
「……よく、わからない」
ルーフスは言った。
「一番最初の皇帝は亜神の王様で、いつかまた生まれなおすために皇帝の血を継いできたんだろ?
なんで結界が張られてるんだ? なんで王が目覚めないように封印するんだ?
東宮は、帝国はどうして亜神と戦ってるんだ?」
ラフィンは過剰な笑顔になったようだった。
「ラフィンにはわかるような気がするのですよ」
そう言うのは2度目だった。
「大きな帝国でございますね、ぼっちゃま。立派な町がたくさんあって、沢山の人間があちこちで暮らしております。皇帝一族のそれぞれにも、子どもや孫や、仲の良い人間がいるでしょう。
この立派な国が、ただの通路として踏み荒らされ、あとかたもなく滅ぶのは、惜しくなってしまったのではないでしょうかねえ」
「……そうなのかな」
「さあ、ラフィンの想像でございますよ」
楽しげに笑うラフィンの背中を、ルーフスは改めて見上げた。
自分の手を引き、小さなころと同じようにやさしげな声で話しながら歩いて行く。ラフィンは浜辺の村で過ごしたあの数年間とまるで変わらない。
だがこの彼は、亜神なのだ。
「……でも、ラフィンはそれじゃ困るんだろ。天に帰らないとイヤなんだろ」
ちらりと振り返ったラフィンは、また過剰な笑顔になった。
「他のものがどう思っているかは存じませんが、ラフィンは地底の暮らしもさほど嫌いではありませんよ。もちろん、天での暮らしとは比べるくもございませんが」
しばらく2人は黙った。ふわふわと歩き、
「でもさ。
イリスは、そのつもりなんだろ」
ルーフスは小さな声で言った。ラフィンの笑う声がかすかに聞こえた。
「姫様は王でらっしゃいますからねえ。我らの王というだけではなく、天に登り、天の頂の玉座にあるべきお方なのです」
……じゃあ、イリスが本当に本気を出したら、この世界はどうなってしまうんだろう。
「前から不思議だったんだ。なんで、亜神は自分たちを斬ることができる武器を持ってるんだろうって。人間と戦うための武器なら、人間を斬れれば十分なのに。
いずれ天上に行って、亜神同士で戦争するための武器だからなのか」
「ぼっちゃまは本当に賢くていらっしゃる」
ラフィンはにこやかな声で肯定した。
「ラフィン。どうして俺を、ローザのところに連れて行くんだ?」
ラフィンはまた、過剰な笑顔になった。
「ぼっちゃまもおいでなら、何かが変わるかと思いまして」
「何かって――」
その言葉の真意を問う前に、ラフィンは顔を前へ向けてしまった。
「当代の皇帝は、人間である姫様に王の力が宿っていると考え、それを奪うことができると思っているようですね。姫様こそが生まれなおした王そのものであるのですが。
やはり、皇帝一族の口伝もあちこちでゆがみ、忘れられた所もあるのでしょう」
「じゃあ、今ラフィンが話したこと、ローザや東宮も知らないのか」
「王として目覚める前の姫様はご存じありませんでしたね。姫様の兄君も、ご存じだとは思えないご様子でしたよ。皇帝となって初めて伝えられる知識もあるのでしょう。
――さて」
ラフィンは足を止めた。こちらを振り返り、
「これ以上はわたくしは進めません。
ぼっちゃま、ここでいったんお別れでございます」
ルーフスは思わず辺りを見回した。さっきまでと特に変わりもない、薄闇だけが広がっている。
いや、ちがう。その薄闇の向こうからにじみだすように、かすかになんらかの景色が浮かび上がってきていた。
ローザが、近くにいるのか。ローザの近くまでやってきているのか。
「ああ、そうだ」
つぶやき、ラフィンは腰に帯びていた刀をさやごと抜いた。
「ぼっちゃまがお持ちのその刀は、質が悪うございますよ。ラフィンの刀をお使いください。これならば、あのような術くらいでヒビが入ったりいたしません」
ルーフスは、差し出された刀とラフィンの笑顔を何度か見比べた。
……だって、これを俺にくれたら、ラフィンが困るだろ。
……でも、ラフィンはイリスの部下だ。ラフィンの武器がなければ、俺はローザを守りやすくなる。
交互にわくそんな思いに迷う間に、ラフィンはにこにことルーフスに歩み寄って、幼いころ服を直してくれた時のような気安さで手を伸ばし、さっさとルーフスの腰につるした刀を外してしまった。
「さ、ぼっちゃま」
ほとんど押し付けられるようにして差し出された刀を思わず受け取ったその時、
「ぼっちゃま、少し我慢なさいまし」
耳元でささやかれ、胸にずんと衝撃があった。目を見開き、見下ろしたそこに、ラフィンの手袋の手がめり込んでいる。
「?!」
ラフィンの手が、ルーフスの胸に突き刺さっていた。
「我慢なさいまし」
こちらの肩をつかむ左手に、ぐっと力が入る。痛みはない。苦しくもない。混乱しあらゆる反応を返す前に、ラフィンの手が胸から引き抜かれた。白い手袋は全く汚れておらず、その指先に何かどす黒いものをつまんでいた。
「ラフィン、それ」
呆然と尋ねたルーフスの目の前で、ラフィンは過剰に笑い、どす黒い何かをひねりつぶした。乾いた土くれが砕けるように、その黒いものは砕け散った。
ルーフスは自分の胸をなでた。傷も血もなく、痛みも感じられなかった。
「ラフィン、今のは」
ラフィンは過剰な笑みをたたえた。口の前に人差し指を立て、
「姫様には内緒でございますよ」
ルーフスの手を取ると、自分の手と小指同士をひっかけあい、
「ラフィンとぼっちゃまだけの秘密、でございます」
2,3度振って、ね?と言いたげに首をかしげて見せる。
「う、うん」
戸惑いながらうなずくと、ますます過剰なほほえみになった。
「一時ほどの力はもうございませんよ。お気を付けくださいましねえ」
そして、糸がほどけるようにその姿が消えた。