至天宮奥にて:ルーフス
ナーヴの色素の薄い目が、はっきりとした怒りをたたえてルーフスを射抜いた。
「触れるな!」
その腕が一振りされた瞬間、真正面から爆風に吹き飛ばされるような衝撃を感じた。
「きゃあっ!」
強く腕にしがみついたアルトの悲鳴だけが、思わず目を閉じた耳に伝わってきて、ルーフスはさらなる衝撃に備えて全身に力を入れた。
だが。
「………………あれ?」
何の衝撃も、攻撃も来なかった。
おそるおそる開けた目に飛び込んできたのは、薄暗い部屋だった。
「えっ? どこここ?」
こちらの腕を抱え込んだままのアルトが、不安げにきょろきょろしている。
もといた森の中でも、ナーヴと対峙していた奇妙な空間でもなかった。
高い天井。
白い柱。
白い壁に掛けられた大きな肖像画や、手の込んだ織物。磨きこまれた木製の調度。
そして、部屋の中央奥にすえられた、ベールで覆われた大きな寝台。
どこかの宮殿の一室にしか見えなかった。
「何? 何? 何? え、ここがローザちゃんのいる場所?」
アルトはさらにきょろきょろと室内を見渡し、早口につぶやく。
そのアルトに応える声があった。
「……ローザヴィはここにはおらぬ」
苦しげな、ひどくかすれた声だった。
「誰だ!」
ルーフスは反射的に刀を抜き、声の方へとまっすぐに向き直った。部屋の奥――ベールで覆われた寝台へと。
「ローザヴィはすでに、イラハル神殿へと向かった。
……亜神の因子を封じ、この地を守る役割を継ぐために」
声はルーフスの質問に答えなかった。ただ、苦しげに続けただけだった。
……ローザは、やっぱりイラハル神殿にいるのか。
そう思った瞬間、ふと、霧が晴れるような気がした。頭が急に動き出したようだった。
……そうだ、ローザ。
ローザが悲しむようなことはしちゃだめだ。
ルーフスは、今初めて目が開いたような気持ちで何度もまばたきをした。
さっきまで、イリスがすぐそばにいた。
ラフィンもいた。
ナーヴもいた。
そして今、俺の左腕を一生懸命つかまえてるのはアルトちゃんだ。ローザの役に立ちたいと言って、たくさん助けてくれたアルトちゃんだ。
イリスとラフィンの手に、ローザを渡しちゃいけない。
俺は、さっきまで何を考えていた?
「あの、誰ですか?」
アルトが問うた声で、ルーフスは我に返った。どこともわからない一室で、誰ともわからない人間と向かい合い、アルトと2人で立っているのだ。
……しっかりしろ。アルトちゃんは戦えない。俺が守らなきゃ。
「すみません、私たち、なんか急にここに来ちゃって。寝室ですよね? 勝手に入ってごめんなさい」
ごく普通に、入る部屋を間違えただけのように謝っている。ルーフスは半歩前に出て、そのアルトを半身にかばった。
「アルトちゃん、こいつ、ナーヴの関係者だ」
「えっ、そうなの?」
「うん。ローザのことも俺たちのことも知ってるんだから」
視線だけで部屋を見回し、ドアの位置を確認する。手は、すぐに抜き放てるよう刀のつかにかかっていた。
「ここはどこだ? ナーヴのアジトか?」
詰問調になったルーフスに、答える声はしばらくなかった。ただ、苦しげな咳の音だけが続いた。
そして、
「至天宮だ」
聞き逃しそうなほどにかすかな声が、確かにそう言った。
「余の……、皇帝レオラケウスの寝所だ」
ルーフスは耳を疑った。アルトも凍りついている。
至天宮。皇帝レオラケウス。
「こ、皇帝陛下ですか?」
アルトが震える声で言った。ルーフスはまだ信じられない思いで、――だが、奥の壁に掛けられた大きなタペストリを視界にとらえていた。
不死鳥の紋章。
東宮も身に着けていた、あの模様だ。
ではここは、本当に。
「……そうだ、ナーヴ」
ルーフスはハッと思い出し、
「ナーヴは、皇帝の一部だってイリスが言ってたよね」
「う、うん」
肩ごしに振り返ったアルトは、きょろきょろと部屋を見回しながら、
「言ってた。私も、あれは皇帝陛下だと思う」
「あれ? そういえばなんでわかるの?」
「えっと……。私、前に陛下に会ったことがあるの」
そっか、アルトちゃん東宮んちのメイドさんしてたんだもんな。ルーフスはそんな風に単純に納得した。見知らぬ場所で警戒はしていたが、心はさっきまでとは比べ物にならないほど穏やかに澄んでいた。
「……そうだ」
ざらついた声が、ベールの向こうから返った。
「あれもまた、余の一部……」
苦しげに、深く息をつく間がはさまる。その声、病に伏しているというだけではないしわがれた声に、ルーフスはふと引っかかるものを感じた。
「アルトちゃん」
早口に問いかける。
「この人は? こいつは、皇帝っぽい?」
アルトは、ぎゅっとルーフスの腕を抱え込んだ。
「わからない……。本当に、わからない」
2人はぐっと警戒し、ベールの向こうの気配をうかがった。
2,3度、くぐもった咳が聞こえた。そしてまた細い声が続く。
「……もはや、余には制御することはかなわぬ。それほどに……」
突然思い出し、ルーフスは息を呑んだ。
「お前、知ってるぞ」
「ルーフスくん!」
ベールの向こうからは、相変わらず苦しげな息が伝わってくる。止めようとするアルトにかまわず、寝台にかけよったルーフスはベールを一気に引きあけた。
広いベッドの上、上質の寝具に埋もれ、老人のような男が横たわっていた。枯れ枝のようにやせ細り、乾いた土気色の肌には深いしわが刻まれている。
「えっ……。おじいさん?」
アルトが息を呑んだ。
「誰だ。お前は皇帝じゃない。本物の皇帝はどこだ!」
苦しげな息が長く尾を引いた。
「余が、皇帝だ」
「違う。ローザの父さんは、まだ60にもなってないはずだ」
ルーフスは唇をかんだ。
「お前とは前に会った。ジーク砦の近くの森でだ。ローザにひどいことを言って、傷つけようとしたやつだ。忘れてないぞ!」
「えっ、誰? ジーク砦の近く?」
アルトがおろおろとルーフスと男の顔を見比べている。
「アルトちゃんがいなくなってからだ。
フレリヒに……ローザの兄さんに連れられて、夜の森でこいつに引き合わされた。変な術で、ローザに妙なものをけしかけた……!」
奥歯をかみしめるようにしてしぼり出した言葉に、アルトは気圧された様に黙ってしまった。
「……それは、」
かすかな声がした。
「余であって、余ではない」
男はまた長い息を苦しげに吐いた。
「イリスリールが、王冠とともに生まれたあの時から、余は引き裂かれ始めた。いくつもの魂に分かれ、融合し、また分かれてを繰り返し……」
ふうと息をつく音が挟まった。
「イリスリールが亜神の王として目覚めたあの日、余はついに4つに引き裂かれた。
1つはここにいるこの私。
もう1つは、わが弟をあやつり、イリスリールの力を奪おうとする者。
もう1つが、この帝国も、我が子らの心も、すべて砕いてしまおうとする者だ。
そなたらが出会ったのは、そやつだ」
「うそだ! あれはお前だった!」
「ルーフスくん! 落ち着いて!」
つめよりかけた腕を、アルトが両手で抱え込んだ。
「私、この人がなに言ってるのかわかんないよ」
「俺だってわからないよ!」
「そうだよ、だからもう少し聞こうよ」
アルトはルーフスの右手を必死に抱え込んでいる。その重みに、少し頭が冷えた気がした。
「ごめん、アルトちゃん、わかった」
右手の力を抜くと、アルトはほっとしたように顔を上げた。ルーフスはそのまま、ベッドに横たわる老人に視線を戻す。
「お前が、皇帝なんだな?」
「そうだ。この帝国を守ろうとする者だ」
「森の中で会ったあいつは、もともとお前の一部だけど、今は別の人間なのか」
「そうだ。……余の責任でないとは言わぬ。もともと、余の心の弱さが招いたこと」
「心の弱さ?」
ルーフスの右手を抱えこんだままのアルトが首をかしげる。
「……余は、優秀な跡継ぎを作るため、決められたいいなずけを妃としなければならなかった。それが、この時代に皇帝となったものの義務だ。そう思って生きてきた。あの日、あの女と出会うまでは」
イリスとローザの母上だ。ルーフスは直感的に思った。
皇帝は、深く息を吐いた。これまでのただ苦しげな息と、少し違っていた。
「あれは、街々を渡る旅芸人の踊り子だった。姿は美しく、心はそれにも増して美しかった。初めて、人を愛するということ、愛されるということを知った」
アルトが、抱え込んだルーフスの右腕をぎゅっと抱きしめた。
「だが、すでに余はいいなずけを皇后として迎えてしまっていた。優秀な血を持つ跡継ぎをどうするのか。幼いころから余の妃となるつもりで生きてきた公爵家の娘をどうするのか。旅の踊り子を宮廷に招き、幸福にできるのか。そんなことばかりに迷い、ずるずると時を過ごし、あの娘も、皇后も、同じように不幸にした」
しばらく、苦しげに息をする音が続いた。
「せめて……イリスリールに封印の儀を受けさせられれば良かった」
封印の儀?
初めて聞く言葉に、ルーフスはアルトの顔を見た。アルトも初耳のようで、きょとんとしている。
「そうであれば、せめて……」
急に、皇帝の声が途絶えた。そして、ルーフスは背筋がざわつくような感覚に襲われる。
ボウッと、中空に火がともった。
「え、なに……」
アルトがおびえたように身を寄せてくるのをかばいながら、ルーフスは思い出していた。
あの火をともす符、見たことがある。
もうひとつ、中空に火をまとった符が現れる。
「結界が弱まりつつある。残された命は、もう少ない」
しわがれた声が耳に届いた。それにも覚えがあった。
「あれ……!」
アルトが指差すほう、広い病室のかたすみにわだかまる闇があった。その中心に、イスに腰かけた人影がある。
あのときの老人だ。ルーフスは直感した。フレリヒに導かれて足を踏み入れたジーク砦の森で、天幕の中に現れ、ルーフスとローザを襲った老人だった。
「お前はもう抜け殻も同然だ。その体を明け渡せ」
老人はそう言った。ルーフスではなく、皇帝に。
皇帝はただ、苦しげに弱々しい息を吐いただけだった。
「何? なんなの、あのおじいさん」
うろたえるアルトに、
「皇帝だ」
ルーフスはつぶやいた。老人の目が、こちらを見たようだった。
「皇帝の一部?」
「今言ってただろ、引き裂かれたって。この国をつぶそうとするものっていうのがあいつだ。だから皇帝しか知らないようなこと、知ってたんだ」
ローザが皇帝の娘であること。ローザとイリスの母親のこと。
「……あれは……」
寝台から、皇帝が細い声を発した。
「余を……この国を滅ぼそうとしている。メチャクチャにしようとしている。こんな国は壊れてしまえばいいと……」
「それはお前の望みではないか」
老人がざらついた声を出した。
「この国を壊すために、イリスリールを産んだ女をとらえたのではないか。反逆者の烙印まで押して、逆らえぬようにして」
そうだ。ルーフスはさらに思い出した。ローザは、イリスが失われたときの代わりとして生まれたと、そう老人は言っていた。そのために、イリスの母親を捕まえていたのだと。
「違う」
皇帝は苦しげに、だが強く言った。
「余は、あの女を放したくなかった。ともに生きたかった。だがあれは、自分と余が出会ってはならなかったと気付いて身を隠した。
どうしても、そばにいてほしかった……!」
「出会ってはならなかった?」
アルトが小声で繰り返した。ルーフスにもその言葉の意味は分からなかったが、それよりも。
「ローザの母上のこと、大事だったのか」
ルーフスは皇帝に問いかけた。皇帝は苦しげに深く息を吸った。
「……誰よりも……」
「だが、お前がしたのはその女を不幸にすることだけだ」
老人が言った。
「皇帝でなければ、お前が玉座に座る身でなければそうではなかったろうな」
皇帝の息が荒くなる。
「黙れよ!」
ルーフスは刀を抜き、きっさきを老人へと突きつけた。視線だけを皇帝に向ける。
「まだ死なないでくれよ。ローザに、言ってやってほしいんだ。母上のことが大事だったって、苦しめたかったわけじゃないんだって」
「……ローザヴィ……」
皇帝はうめくような声を漏らした。
老人が、ぼろぼろのマントの下で両腕をわずかに挙げた。
「その者にそんな心はない。
余は、その者の望みをかなえたまで。
国を壊すことも、多くの女を選び出し、亜神に近い子どもを大勢作ったことも、すべてそのものの望みなのだ」
亜神に近い子供。
ルーフスにはわかる気がした。たとえば皇子フレリヒは、自分たちよりもラフィンのほうにずっと近く思える。
ああいう子供をたくさん作ることが、皇帝の望みだったのか?
「陛下は、」
急に言ったのはアルトだった。
「陛下は、そのために子供を作ったんですか。この国を壊す兵器だったんですか」
ルーフスは、右腕につかまったままのアルトを見た。そばかすと垂れた目のメイドは、ひどく悲しそうに皇帝を見つめていた。
皇帝は、力なく寝台に横たわり、何も言わなかった。
「どうだっていい!」
ルーフスは強く言った。ローザは、この国を壊す兵器として生まれてきたのか? 違う。
「皇帝の意思なんてどうだっていい。ローザも、ほかの人たちも、幸せになるんだ。お前たちの思い通りになんかさせない!」
老人の目が、確かにルーフスを見た。そしてその闇に包まれた足元から、白い煙が立ち上る。
「下がって!」
アルトを皇帝の寝台へと突き飛ばし、ルーフスは老人へと斬りかかった。その行く手をはばむように、煙が人の姿を取る。
首のない天使。
森の中で戦ったあの異形が、枯れ枝のような手を伸ばして襲いかかってきた。まっすぐにルーフスの首をめがけて腕を伸ばす。
ルーフスはためらわなかった。
……こいつはこの刀で斬れる!
あの時とは違う。この手には亜神の武器がある。一息に首のない天使の両腕を薙ぎ払った。何の抵抗もなく落ちた両手はすぐに煙となって消える。
返す刀で天使の胴をも薙ぎ払った瞬間、
「ほう」
老人の声が耳に届いた。
「呪のかかった武器を手に入れたか。ならば」
闇と煙に包まれたその手が動いた。その動きに覚えがあった。
――符だ!
ルーフスは床を蹴り、真横へと跳んだ。その足をかすめて真上から高速で雷が降り注ぐ。さらにもう一度、よけたその場所に雷が落ちた。
「ふむ」
老人の手が、闇の中でふうっとかかげられる。その動きに応えるように、老人の周りに炎がいくつも現れた。光を発さない、暗い炎が。
「陛下?!」
アルトの悲鳴が聞こえた。
「陛下、しっかりしてください!」
かすかなうめき声も耳に届く。皇帝だ。皇帝が急に苦しみ出したのだ。
「どうしたんですか、しっかり!」
わずかに振り返った先では、アルトがベッドの上の皇帝に取りすがっていた。
「……まだ死なれては困る」
老人が、ささやくほどの声で言った。
「お前を早く仕留めなくては」
「お前が、そうやって力を使っているからか?」
本体である皇帝の命が削られているのか。叫んだルーフスに、またささやくほどの声で言った。
「……弱いものだ」
「お前……お前は皇帝の一部なんだろ?! 皇帝が死んだら、お前も死ぬことになるぞ!」
暗い炎がふわりと舞い上がり、襲いかかるスキをうかがうように天井近くをただよっている。その不気味な揺らめきを警戒しながら、ルーフスは目の前の老人と、背後のアルトと皇帝とに、油断なく気を配った。
老人はかかげた手を下ろさないまま言った。
「我らはすでに別の存在。その者が息絶えたところで、我らの身がおびやかされることはない。
だが、その者に未だ残る力を汲みだせなくなっては困るのだ」
天井近くを漂う炎が、突然大きくゆれた。来る! 思った瞬間、
「陛下!」
アルトの悲痛な声と、消えそうなほどに細いうめき声が聞こえた。
杭を刺すような痛みが心臓に走る。
ルーフスは床を蹴った。どこに炎が落ちてくるか、見なくてもわかった。よけ、刀で弾き飛ばし、まっすぐに老人へと刀を振りかぶった。
目の前の煙が突然濃くなる。あの天使が現れる! それがまだ人の形になる前に、ルーフスの目は正確にその核を見出していた。斬り捨てた煙が消え失せる。その向こうには符の防壁があった。返す刀で斬りつけたその防壁は、金属のような音を立て、半ばまでルーフスの刀をめり込ませた。
……切り捨てられなかった?!
「なるほど。浸食が進んでいるな」
眼前で、老人が小さく言った。
……浸食?
その響きが、妙に不吉な温度で背をなでた。
同時に防壁が光を帯びる。食い込んだ刀身に一気にひびが入るのが、はっきりと見えた。
――刀が砕ける!
「くそぉっ!!」
叫んだ耳に、小さく、本当に小さく、声が聞こえた。
「……ティトリー」
防壁の光が消えた。
「何……」
老人がつぶやく一瞬に防壁ごと消え失せる。ルーフスは刀に込めた力をそのままに、一息に薄闇に包まれた老人を斬り捨てた。
息を漏らすような音だけを残し、老人は幻のように消え失せた。まるでそこに、最初から何もなかったかのように。
ルーフスは荒い息をつき、その場に膝をついた。とても立っていられなかった。だから、
「陛下?!」
背後から聞こえたアルトの声にも、肩越しに振り返るくらいしかできなかった。
アルトは皇帝の体に取りすがり、必死に呼びかけていたがやがて、
「……意識がないみたい。でも、息はある……」
沈痛な表情でルーフスを振り返った。
きっと大丈夫だ、力を吸い取ってたあいつが消えたんだから。そんな風に慰めの言葉を口にすることもできなかった。心臓が痛い。息が苦しい。体中がひどく熱い……!
「ルーフスくん? どうしたの、大丈夫?」
かけよってこようとしたアルトの前に、ふっと現れた人影があった。
「皇帝の力が弱まって、ここまで姫様の力が届くようになったのですよ」
人影は悠々とそう言った。
「なにしろ、わたくしが入ってこられるくらいですから」
「ひえっ……」
その背にあやうくぶつかりそうになって踏みとどまったアルトは、「あっ、さっきの!」と息をのむ。
ラフィンが立っていた。
銀髪の執事はいつもの笑顔で、背後のアルトか座りこんだルーフスかに平然と語りかけた。
「ですがまた、まもなく結界が復活するでしょう。余計な分体が消え失せましたから。
――ほら」
急に、胸の痛みが止んだ。驚くほど一瞬のことだった。あれ、と胸をさすったルーフスに、ラフィンはにこやかに手を広げてみせた。
「さあぼっちゃま、嬢ちゃまのところまでお送りしにまいりましたよ」
「ラフィン……」
ルーフスは呆然と立ち上がった。
「結界に通り道を開けてはまいりましたが、すぐに閉じてしまいます。さ、参りましょう」
白い手袋の手が差し出される。その背後で、あわてて左右を見回したアルトが、手近な燭台に手を伸ばしていた。
「アルトちゃん、待って! 大丈夫だから」
早口に止めると、今にもラフィンに向かって燭台を振りかぶりそうだったアルトが、驚いたようにこっちを見た。それで殴ったところでラフィンには痛くもかゆくもなさそうだが、それでも殴りつけるのを黙って見ているわけにはいかなかった。
……ラフィンがただものじゃないとわかってるだろうに、相変わらずアルトちゃんすごい度胸だな。
とりあえず燭台を下ろしたアルトを確認し、ルーフスはまた執事のにこやかな笑顔に視線を戻した。
「ローザのところへって。なんで」
ラフィンはにこやかなままだった。
「嬢ちゃまはきっと、ぼっちゃまにお会いになりたいだろうと思いまして」
「…………」
ルーフスはしばらく黙って、その笑顔と、差し出された白い手袋を眺めていた。
「……ナーヴは?」
ラフィンはちらりと寝台の皇帝に視線をやる。
「本体から干渉があったようで、ぼっちゃまたちがこちらに転移させられると同時に姿を隠しました。
今はどこかで息を潜めているのでしょう」
「本体から干渉? 皇帝が、ナーヴを止めようとしてくれたってことか?」
「さようでございますよ」
ラフィンの背後で、アルトが目を見開いた。
「皇帝陛下、だいぶ頑張ってるんですか……」
ラフィンはわずかにアルトを振り返り、
「だいぶ頑張ったようですよ。
先ほどの分体、ときおり本体を乗っ取って好き放題やっていたようですが、なんとか体から追い出すことに成功したようですし。我ら亜神よりも、人間のほうに近い身だというのに、だいぶ頑張ったようです」
そして視線を皇帝の寝台に戻す。
「ですが、その頑張りももう長くは」
アルトが息をのんだ。
「もう一人の分体は、急いで姫様か嬢ちゃまを狙おうとするでしょう。早く力を手に入れないと、もう時間がないとわかっているはずですから」
もう時間がない。
そうなのか。
もう、皇帝は……。
ルーフスは、寝台の上に横たわる皇帝を見つめ、そしてラフィンに手を差し出した。
「連れてってくれ。ローザのところに」
ラフィンは過剰なほほえみになり、ルーフスの手を取った。
「アルトちゃんだけ途中のどこかに残していけるか? 戦えない人なんだ」
ラフィンが答える口を開く前に、
「私、ここに残る」
アルトの声はきっぱりとしていた。皇帝の寝台へと歩み寄り、死んだように眠るその顔をのぞきこんだ。
「こんなに騒いだのに、誰も来ないよ……。近くに誰もいないんだよ。1人にしたら、陛下、かわいそうだよ」
「わたくしはもうお迎えに参れませんよ」
ラフィンがごく気軽な声で言った。対するアルトも、もう警戒は抜けた様子で、
「うん、わかってる。それでも」
迷いのない強い声で言った。
ラフィンの瞳がちらりと横手をむいた。開けてきた通路というのが閉じようとしているんだ。ルーフスはそのラフィンとアルトを一瞬見比べ、
「誰か来て捕まりそうになったら、ローザの友達だって言って。ローザは覚えてるはずだから。ローザは絶対無事に帰すから」
「うん。ルーフスくんも、絶対無事で」
「うん。
――行こう、ラフィン」
微笑んだラフィンの手が強く腕をひき、歩き出したとたんに辺りは闇に包まれた。寝台の横にひざをつくアルトの姿も、すぐに見えなくなった。