精霊と流しそうめん
※微グロ注意
一晩中雨が降り続き、朝になると虹が出ていた。地面と平行に伸びた、おかしな虹だった。りん子は急いで朝食を済ませ、外へ出た。
りん子の住んでいるアパートは五階建てで、広々とした屋上がある。階段を駆け上ってみると、そこには信じられない風景があった。
屋上の手すりから、虹が真っすぐ伸びている。向かいの家の屋根を越え、その先のマンションの廊下を通り、どこまでも続いている。板のように平らなのかと思ったが、そうではない。両側がわずかにめくれた、ウォータースライダーのような形だ。
りん子は手を伸ばし、虹にさわってみた。つるつるしていて、固い。
「これなら乗っても大丈夫ね」
虹の上を歩くのは、子どもの頃からの夢だった。思っていたのとは少し違うけれど、夢というのはそういうものだ。りん子は袖をまくり、手すりによじ登った。
足を踏み出してみると、虹は重さで少し沈んだ。もう片方の足も乗せる。しばらく左右に揺れていたが、やがて落ち着いた。初めはおそるおそる、次第にリズミカルに、りん子は虹の橋を歩き始めた。
虹はりん子の肩幅より少し広いくらいで、くっきりと七色に分かれている。上を見ると、青い空にまばらな雲が浮かんでいた。
「うーん、気持ちいい」
風はゆるやかで、初夏のにおいがした。マンションを二つ越えると、高い建物はもうない。民家や道路をはるか下に見ながら、りん子は歩き続けた。
靴底がちゃぷんと音を立てた。いつからだろう、虹の道は川になっていた。
「変ね。さっきまではなかったのに」
川の水は澄んで、底の虹色が揺らめいて見える。その中を、ちらちらと光るものが流れてくる。それは小さな魚だったり、花びらだったり、まだ青いトマトの実だったり、ハンカチのような薄い布だったりする。
りん子は楽しくなり、しぶきを上げて歩いた。
水はだんだん冷たくなる。雪の結晶をまとった魚が通り過ぎ、足首が痛むほど凍えた。薄氷が水面に浮かび、かさを増していく。
いつの間にこんなに寒くなったのだろう。虹をたどって地球の裏側まで来てしまったのかもしれない。りん子は下を見た。真っ白な霧が立ちこめている。
「これじゃ凍傷になっちゃうわ」
氷をかき分けて進んでいくと、ついに川は雪道になった。ふわふわの、かき氷のような雪だ。歩いたところは虹色の足あとになる。りん子は腕をさすり、白い息を吐きながら歩いていった。
しばらく行くと、向こうに誰かが立っているのが見えた。
りん子は歩く速度を落とした。虹は一人通るのがやっとの広さで、すれ違うのは難しい。自分が引き返すか、向こうの人に引き返してもらうか、どちらかだ。
「とりあえず行って、頼んでみるしかないわね」
せっかくここまで来たのだから、途中で引き返したくはない。いざとなれば、馬跳びをして向こうへ行くことだってできるのだ。
霧が引いて、相手の姿が見えてきた。黒い帽子とケープを身につけた若い男だ。柔らかな髪が風に揺れ、アーモンド型の目が星のように光っていた。
「待ってたよ、りん子」
その姿と声に、言いようもない懐かしさがこみ上げる。
何だろう、これは。
男の背後には、色とりどりの花と野菜畑が広がっている。虹の色はここから流れてきていたのだ。
りん子は駆け寄ろうとした。が、雪に足をとられて進めない。
男は微笑み、おいでよ、と言う。
「全部あげるよ。僕が持ってるもの全部、りん子にあげる。この庭も、花も野菜も、星も雨も空も、それから……」
りん子は目を見開き、男の姿を見ていた。
冷たい空気が肺に流れ込む。
男の差し出した手がぽろりと落ちる。足が、肩が、根もとから外れて落ちる。顔にひびが入り、氷像のように壊れる。
りん子は後ずさった。白い影が頭をよぎる。記憶がばらばらになり、頭の中で乱反射する。
男の体が散らばった、その場所から雪が溶けていった。流れ出す水がゆっくりと赤に染まる。ふいに、冷たく柔らかいものが足に触れた。
「全部りん子のものだよ」
りん子は走り出した。無我夢中で走った。水の流れを追い越し、もと来た道を戻っていく。
あまりに速く走ったので、虹の上を走っているというより、自分が虹になってしまったようだった。七色の光が、何度もりん子を溶かして飲み込もうとした。走って走って、ようやく自分の屋上が見えてくる。
滑るように、一気に駆け抜けた。手すりから屋上へ転がり込み、りん子は大きく息をつく。
水の音はまだ続いていた。虹の道を振り返ると、こちらに向かってくるものが見えた。りん子を追いかけて、すいすいと流れてくる。
それは、そうめんだった。
屋上を見渡すと、どこかの子どもが忘れたらしいバケツがあった。りん子はそれを手すりに当て、そうめんを受け止めた。バケツに流れ込む、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。七色のそうめんだ。
「めんつゆ買ってこなくちゃ」
りん子は額の汗をぬぐった。氷も買ってこよう。オクラを切って散らし、かまぼこと玉子焼きを星形にくり抜き、七夕そうめんにしよう。
コンクリートの上に寝転がり、空を見た。日差しの隙間に、凍てつく星の川が見えるような気がした。記憶はきっと、それとわかる前に消えてしまう。だからもう少しだけ、このきらめきを見ていようと思った。