兄妹の相手は面倒だ 4
「ふわ。眠いな」
「同感だ。ここ数日徹夜し、昨日は……いや、四時だから今日か。むしろ仮眠に近いな」
「そうだな」
時計を見れば現在八時。起きたのが六時なので寝たのは実質二時間。仮眠としか言えないが、すべてはこれから起きる話し合いをうまくまとめるために必要なことだ。問題があったとすれば、由佳ちゃんが体得できなかったことだろう。正確に言うならば、綾と同等レベルで行うことができないだが……この際仕方がないだろう。無理をしている実感はあるので、これ以上はどうすることもできない。
「大丈夫? 二人、とも」
「問題はないと思うぞ。簡単に折れるような二人ではない」
後ろを振り向くと、偉そうに(場所の提供者なので実際に偉い)ふんぞり返る舞さんと心配そうに俺と綾を見つめる雪さん。
ここは、舞さんの自宅。その一室なのだが、小さな映画館のように暗幕を下ろされて真っ暗な部屋。目の前には巨大なモニターがあり、椅子に座ってうな垂れる由佳ちゃんが映し出されている。
見方によれば泣いているようにも見えなくもないが、あれは恐らく寝ているのだろう。俺たちと同じ時間しか寝ていないのだから眠いのも当然だろう。
「亮太、くんは、まだなんだ、ね」
「信も居ないしな。大方寝坊でもしているのだろう」
時間にさえ遅れなければ何時でもいいと思っているが、早いほうがいいとも考えている。予定では九時だが、こうして集まっている以上は早く終わらせて寝たい気持ちで一杯だ。
「綾が早く起きて準備するぞって張り切るから……」
「当然だ。由佳の能力を鑑みるに、最後の詰めをしなければ間に合いそうもない。分かるだろう?」
「大分、成長したと思うが……」
最初は試しと思ってやらせてみたが、見事にずたぼろだった。正直、残りの時間でどうにかなるのかと思ったが、まあ、努力すれば何とかなるもので、とりあえず三十分は持つようになった。最初の頃は三十秒も持たなかったことを考慮に入れると、十分な成長だろう。
それに、亮太も居る。
あいつが役に立つかまでは分からないけれども、きっと俺の想像を超える成果を出してくれる。そう信じている。いや、信じるしか道はない。
「貴様は由佳に甘いな。わたしは二時間は最低でも持たせるつもりでいたのだ。それが三十分が限界。しかも、緊張をするだろうから、持続時間はもっと短いはずだ。由佳は本番に強いほうだが、どうなることか……」
相当心配なのだろう。
その気持ちは分からなくないけれども、ここは敵地ではない。亮二さんだけが敵で他はすべて味方なのだ。そう考えれば、無理矢理に連れ出すことは不可能と言ってもいい。問題があるとすれば、亮二さんに流されることだろう。そうして着いていくと答えてしまえば俺たちは手出しができない。
その大義名分を持ってきっと由依さんに話をつけるつもりだろう。
「悪い。遅れた。亮太の野郎が寝坊しやがった」
肩で息をしながら飛び込んできた信也。その手にはカバンを持っていて資料を紙にまとめたのだろうと理解できる。
画面に視線を動かすと、意味が分からない様子の亮太が頭を掻きながら由佳ちゃんの隣に座り、声をかけている。
それでも、起きる様子がないので、よほど熟睡しているのだろう。
「ふむ。わたしが起こしてくるとしよう。このままだと、始めることなどできはしない」
「頼む。その間に資料の確認をしておく」
「そうしてくれ」
綾が出ていったのを確認すると、信也に手を差し出した。
その意味を正しく理解したのか、カバンから数枚の紙を取り出して俺の手に置き、椅子に座ってから水を取り出してゴクゴクと飲み始める。
その間にパラパラと紙を眺め、
「うわ……」
思わず声を出してしまった。
それほどまでに亮二さんの人生は酷かった。離婚したのは由依さんを入れても七回。その半分は亮二さんの浮気によるもので、もう半分は奥さんとの性格の不一致が原因だった。
その間にも、子供が何人かいたようだが、全員奥さんに押し付けたようだ。
「一応補足すると、全部真実な」
「それが一番聞きたくなかったな」
どこの昼ドラの世界だとツッコミたくなるような人生を送っている亮二さんにため息しか出てこない。
「今の奥さんは誰だ?」
舞さんは気になったのか、俺の後ろから顔を出した。
それに対して、紙の中から今の奥さんだと思われる情報を抜き出して渡した。
ちらりと見えたその服装は、なぜか高校の制服の気がした。
「おい。本当に、こいつがそうなのか?」
「ああ。ちゃんと本人に会って確認もとってる。そのせいで寝不足だ」
欠伸を噛み殺している姿を見ると、結構無茶をしたんだなと想像できる。別の紙に書いてある住所を見るが、明らかに近所ではない。新幹線か夜間バスでも使わないと、ここからだと行けないようなところだ。
「だが……」
「まあ、信じられないよな。その気持ちは分かるさ」
「どういうこと?」
「私も、気になる、な」
問いかけると、渡した紙が帰ってくる。それに映っているのはさっきちらりと見た制服姿。
どこからどう見ても高校生。コスプレをしているだけならば問題はないのだが、どうやら、そうではないようだ。
「名前は、四木守桃枝で年は……十七!」
亮二さんは確か五十近いはずなのに、これは犯罪臭しかしない。亮二さんの頭も心配になるが、むしろこの桃枝って人の価値観が怖い。
「そいつさ。若奥さんって言うと喜ぶんだぜ。機嫌を取りながら話を聞いたけど、本当に面倒だった」
そりゃ、災難としか言えないな。
雪さんに視線を送ると、すこしムスッとしている。その視線が向いているのは写真に映る少女の大きく膨らんだ胸元だ。
「信也、くん」
「どうした?」
「もしかして、この胸が、目的で……」
「なわけないだろ。翔に頼まれたからだよ。頼まれてなければこんなことするか」
亮二さんの情報が欲しいと言っただけなのに、ここまで詳細なデータを用意してくれる信也。その心遣いがありがたい。画面を見ると、ちょうど綾が由佳ちゃんを起こして出て行こうとしていた。どうやら、上手い具合に起こすことができたようだ。
「もうすぐ始まるってことか」
「ふう。帰ったぞ。まさか、あそこまで熟睡するとはな。だが、アドバイスもした
から問題はないだろう。亮太は、意味が分からない様子だったがな」
「アドバイス?」
「ああ。怖い時は隣に頼れ、近くにわたしたちも居るから気兼ねなく自分の気持ちを伝えろ。そう言っておいた」
「俺よりも、綾のほうが由佳に甘いんじゃないのか?」
思わず苦笑しながら綾を見つめると、ムッとしたように唇を尖らせて椅子に座る。どうやら不服だったようだ。
「あっ、来た、よ」
「そうだな。しかし、四木守か……」
「どうかした。舞さん?」
「いや、聞いたことがある名だと思ったのでな。今思い出しているところだから、気にしないでくれ」
「信也は、何か調べた?」
「そっちに関しては調べてないな。流石に、女性のプライベートまでは調べないほうがいいと思ってな。それに、大まかな概要は聞いてきたから、それでいいだろうからな」
「まあ、ね」
確かに、土足で相手のプライバシーにまで浸食するのは間違っているか。概要だけならまだしも、その本人の過去まで深入りしたら怪しまれかねない。それを防ぐためには、概要までが精一杯か。それ以上に、これを直接聞きに行くだけでも結構大変だろうし、責めるのは筋違いだな。
『貴様!』
突如、響いた声。
それは、亮太の叫びだと即座に気づいた俺は、やはりこうなるかとため息をこぼした。
「始まった、か」
「だな。しかし、この叫び声も懐かしく感じるな。昔は、よく聞いてたのに」
「大分苦労したようだな。信」
「まあな」
今にも飛びかかりそうな勢いの亮太を止めているのは、下を向いている由佳ちゃんだ。片手を上げて、亮太を制しているのだ。
『由佳。久しぶりだね。元気にしていたかい? そして、亮太。いきなり親相手に貴様なんて口汚い言葉を使うものじゃないよ』
優しい口調で話しかける亮二さん。
だけど、視線が向いているのは由佳ちゃんにだけだ。亮太のことなんて何も見ようとはしない。
言葉だけは亮太のことを気遣うように聞こえるが、その実は何も気にしていないことが丸分かりだ。
『今更何しにきやがった! お袋も由佳も捨てた貴様が!』
『何とはご挨拶だね。親が子供の顔を見に来てはいけないなんて法律はないはずだよ。まあ、由依に何も言わずに来てしまったのは悪いとは思うけどね』
実際は、由佳ちゃんに電話をかけてアポイントを取ろうとしていたことには何も触れずに淡々と笑顔を浮かべて述べる姿に、俺たちは口を開くことができなくなっていた。
『とりあえず、二人共。座ろうよ。話、出来ないよ』
小さく。だが、凛と通る声で着席を促すと顔を上げる。どうやら、スイッチは入ったようだ。
「ふむ。これは、ヤバイな」
「ヤバイ?」
綾がぽつりと呟いた。その意味が分からずに、首を傾げる。
「ああ。このままだと、由佳はすぐに演技できなくなる。すぐにやめさせるべきだな」
「どういうことだよ」
「そのままだ。由佳が本番前に熟睡している時から不安に感じていたが、まさか、ここまで根が深かったとはな」
「だから、どういうことなんだよ」
ここ数日一緒に過ごす機会は多かったが、ここまで綾が動揺することはなかった。今のこの状況が関係していることだけは分かるけれども、どうしてそう感じるのかがよく分からない。
今の由佳ちゃんには何かあるのだろうか?
疑問を抱きながら、画面を食い入るように見つめる。
微かな汗とわずかな呼吸の乱れが見て取れた。緊張状態だろう。だが、それがどうかしたのだ……
「そうか……」
「どうしたんだ。翔」
「緊張状態が強すぎる。このままだと、演技が崩れる」
そのことに、ようやく理解したが、もう遅いことを悟り、思考を巡らせる。
けれども、ここで亮二さんと俺たちが直接対決したところで、二人は何も変わらないだろう。それどころか、俺たちを頼るだけで自分たちで行動することすら止めるかもしれない。
そうなったら、ここまで準備した手間が台無しだ。
やれることと言えば、静観するしかないそれを理解しているからこそ、歯がゆい気持ちになる。
「だが、由佳は普通にしているぞ。思い違いじゃないのか?」
「それはないだろう」
綾は、舞さんの問いに否定で答えると、指さす。
その指の先にあるのは荒い呼吸を繰り返し、俯く由佳ちゃん。明らかに普通ではない姿に息を飲むのは俺たちだけではなく亮太もだった。平然としているのは亮二さんと綾くらいのものだ。
「時間切れだ。五分も持たないとは、情けないな」
やれやれと首を振り、悔しそうに下を見つめる。もしかしたら、自分ならばもっとうまくやれたはずと考えているのかもしれない。
確かに、あそこにいるのが綾であれば、こんな風になることはなかっただろうし、心配する必要もなかっただろう。けれども、現実としてそこに居るのは由佳ちゃんなのだ。
そして、この問題を解くのは、由佳ちゃんと亮太しか居ない。俺たちの誰かが出ていったところで邪魔になるだけ……
「さて、行くぞ。わたしは」
立ち上がり、外に出ようとする綾。
「待て」
そんな綾の手を掴み、引き止める。
「なぜだ? もう現状あの二人に手など無い。ここはわたしが友達として向かい、話をする場面ではないか?」
「まだだ。まだ、亮太が諦めてない。だから……もう少し、待て」
亮太は、不安そうにしながらも、諦めている様子は全くない。それどころか、力強い風にも感じられる。
『さあ、由佳。僕と行こうか』
『待てよ。連れて行かせるかよ』
伸ばされた手を掴み、睨みつけている。
『俺は、今思いっきりキレてんだ。誰かさんのせいでな』
いつもよりも数倍迫力がある。
これが、高校生になって本気でキレた亮太なのだろう。今までの卑屈そうな姿がまるで嘘のような姿だ。
「凄い、ね」
「ああ。ここまで怒るとは……裏モード、恐るべしだな。怒らせるのは、得策とは言えなくなった」
画面の中で、兄になろうとしている亮太を止めるわけにはいかない。
「翔。お前が綾ちゃんを止めたのはもしかして……」
「亮太のためだよ。どうせ、由佳ちゃんとの関係を言われたんだろ?」
「んっああ。兄として見られていないことを嘆いていたな。でも、よくわかったな?」
そりゃ、亮太と由佳ちゃんのことを見たり、少し会話しただけであの喜びようを知ってしまえば、推測できる。
「それに、由佳ちゃんが兄と呼ばないからな。よく分かる」
呼ばないのは、呼べば即座に亮太が壊れるからなのだろうけど、さん付けは流石に他人行儀過ぎるだろう。
『ふふっ亮太。君は、由佳の幸せを考えたことはないのかな?』
『貴様のところに行くのは、確実に不幸を呼ぶんだよ。浮気野郎』
『僕は、本気な恋しかしない。今は桃枝だが、昔は由依だった。それだけだ』
『ふざけるな。尻軽!』
『ふふっ君は、声を出せば誰もが自分になびくと考えているようだけど、僕はそんなことないよ』
にこにこと笑みを浮かべ、手を解放すると、立ち上がる。
『由依は、お金を集めるのに、苦労して働いている。きっと、由佳を高校、大学まで行かせる間に、体を壊すだろう。そのことを、亮太は理解してるのかな?』
由佳ちゃんを無視して、言葉を続ける。
当事者を無視しているけれども、話せる状況でもないので仕方がないだろう。悔しそうに俯いて、必死に呼吸を整えている様子が痛々しい。けれども、傷つくことを恐れて丸くなっていたら何もできない。
それを理解してはいるが、伝えるすべはない。今は、見守ることしかできないのだ。
「翔。行かせろ」
「ダメだ」
けれども、綾は我慢できないのか、俺を睨みつける。
その瞳には強い力を宿し、俺を倒してでも行こうとする覚悟が見えた。
「頼む。ここで行かなければ、わたしはきっと後悔する。だから、行かせてくれ」
「諦めろよ。ボクは知っている。翔は頑固だ。綾と同じで、ね」
「そう、だよ。きっと、考えが、あるんだよ」
「舞姉。雪姉」
綾以外は、全員俺の味方のようだ。
むしろ、二人は敵になるかもしれないと考えていた。なにせ、俺よりもずっと付き合いが長いのだ。
それが、敵になったことで、綾は口を閉じて二人を睨みつける。
「舞姉。雪姉。それと、そこのバカ野郎」
「バカ野郎って俺かよ!」
そんな信也の言葉など聞くこともせずに、視線を俺に固定した。
「貴様らは、翔をどう思っている? 翔がこの状況に対して、どう感じているか、分かっているのか?」
「知らねえよ。でも、翔が信じてるなら、俺は支持する。それだけだ。バカでも構わねえ。けどな、綾ちゃんが信じられなくても、俺たちは信じているんだよ。翔が見たビジョンをな」
「本当に、翔がそんな凄い未来を目指していると、見えていると、そう思うのか!」
「当然だ!」
「ありがとう」
その気持ちが嬉しかった。
全てを見ている訳ではない。むしろ、俺が望んだ未来に向かうことなんて少ない。それでも、俺は背中を押し、その成長を見守る。
今、目の前にあるのは高い壁ではない。頑張れば、しっかりと考えれば超えることができるはず。そう信じているのだ。
「綾。由佳ちゃんが心配なのは分かっている。けどな。見ろよ。もうすぐだ。もうすぐ、動く」
画面を見ていなかった。綾ちゃんは気付いていなかったかもしれない。けれども、俺はちゃんと見ていた。
由佳ちゃんが、微かに頷くその姿を……
『あたし、ここを離れない。お母さんからも、亮……ううん。お兄ちゃんから、離れない。ここに、あたしの幸せがあるの。高校に行けなくても、大学に行かなくても、あたしは、ここに居たい。だから……』
『由佳。そうなのか?』
にこやかな笑み。
先ほどと一切変わらないはずなのに、どこか冷たく感じる瞳に、ぞくりと背筋が震えた。
やばいことが起こる。そう感じたが、悩んでしまった。
一分、いや、数十秒にも届かないだろう思考。けれども、それが命取りになることを、俺は理解している。そのはずだったのに、してしまった。それは、俺の中の迷いが原因だった。
迷っていた。
あそこで、綾を止めたのも、二人で亮二さんに合わせるのも、正しいのか不安で仕方がなかったのだ。
でも、それがきっと正しいと信じた。迷いも見せずに、必死に押し殺していた。 それを、信じてくれる人がいたから、頑張れたのだ。
『じゃあ、傷つけてでも、連れて帰ろう。僕の望む未来。桃枝の望む世界を、作るためにね』
どこからか、小さなナイフを取り出し、二人に向けた。
『亮太は別にいらないから、たくさん傷がついてもいいね』
『ふざけんな』
「さて、行こうか。ドリンクを持って、な」
「見なくていいのか?」
「ああ。由佳ちゃんは壁を越えた。亮太はこれから由佳ちゃんを守るために自分の殻を壊すだろう。だから、後は自分の目で見ようぜ」
「なるほど。なら、行くか」
「そうだな。ボクも気になる」
「折角、たくさん、作った、から。いっぱい、飲んでほしい、な」
それだけは遠慮したいけれど、この状況でそれを口に出すのは危険な気がするので、全力で逃げる方法を探すとしよう。
そんなことを考えている間に部屋の前に着いてしまう。深く深呼吸をすると、扉を開いた。
「亮太。由佳ちゃん」
「んっ遅かったっすね。みんな」
声をかけると、すでに状況を終わらせたのか、亮太が亮二さんを抑え込んでいた。その手にはナイフすら持っていて、数か所斬られたのか、ところどころから血を流している。
そのはずなのに、平然としていることに一抹の不安を覚えた。
「亮、太?」
「ああ。この血っすか? 自分の血っすから気にしないで欲しいっす。まあ、それよりも、このバカをどうにかしてほしいっすね。由佳の前に刃物出すってどういうことっすか?」
「おい、亮太。お前、傷……」
「平気っすよ。由佳にお兄ちゃんと言ってもらっただけで、百人力っす」
本物の化け物かと疑ってしまうが、一応人間だろうから、病院には連れていくべきなんだろうけど……亮二さんは死んでいないだろうか?
「由佳。平気か?」
「うっうん。大、丈夫だよ。少し、怖かった。けど……」
どうやら、いつもの調子を取り戻したようだ。これならば問題はないだろう。
さてと、亮二さんには落とし前をつけさせるか。
「二人は例の奴を、その間に、縛っておこう」
ロープか何かあればいいのだが、そんな都合のいい物はない。
さて、どうするべきか……
「水澄さま。こちらを」
「んっ?」
Ⅿが渡してきたのはロープ。
なぜこんなものを持っているのか不思議でならないが、これは助かる。
「ありがとう。使わせてもらう」
「よろしければ、わたくしが縛らせてもらいますが?」
「なら、お願いします」
よくは分からないが、縛ってくれるのであれば楽だ。正直、縛るなんて経験がないからキツイ縛り方を知らない。Ⅿが縛り方を知っている確証はないけれども、自分から志願するのであれば、そこそこ知っているのだろう。
「では、はあ!」
まさに早業。
一瞬で、両手両足の自由を完全に奪ってロープの結び目を亀の甲羅を連想させる縛り方をした。亀甲縛りってやつなんだろうけど、一瞬でしてしまう技術には舌を巻くしかなかった。
「さて、こちらの準備はできたぞ」
「美味しい、飲み物、だよ」
明らかにドロッとした飲み物。色はなぜか血を連想させる赤。
着色料でも使ったのかと思うほど鮮やかなその色に、目を丸くしてしまう。確かに飲みやすい色とお願いしたが、どうしてこうなったのだろうか?
それに、人数分ある。
俺は、亮二さんにだけ飲ませるつもりだったのに……
「なぜ、こうなった?」
「んっ。ボクをのけ者にして考え事をしていたようなのでな。その、お返しだ」
「げっ」
やらかしたかもしれない。これは、本気でやばい。
「それじゃあ、四木守のこと、分かったのか?」
「もちろん。ボクの親戚筋だ。金があるのは恐らく四木守の親だろう。なにせ、四条グループでも上のほうだからな。さっき調べたところ。一人娘が家出中らしくてな。とりあえず、現住所を伝えておいたから、迎えが行くことだろう。亮二とやらの帰る場所を奪う結果になったが、そもそも全てが間違っているのだ。問題なかろう」
肩を竦めると淡々と結果を語る。
これで、解決か。
「なっもう一度、聞かせてくれないか? 桃枝は、桃枝はどうなる?」
「ああ。あなたの金づるならば、親に引き渡すことになるだろう。まあ、もともと無理だっただよ。付き合って三か月。よく続いたものだな」
三か月も一緒だったことに寒気を覚える。
本当に、四木守って人は亮二さんの何にひかれたのだろうか?
疑問でしかない。
「そっそんな。では、僕が望んだ。幸福な未来、は……」
「もともと、無かった。んだよ。お父さん」
そっと特製ドリンクを差し出し、首を横に振った。
「ふざけるな。全て、君たちの仕業だろう。僕の、僕の人生を!」
「まあ、それでも飲んで落ち着けよ」
由佳ちゃんが、ドリンクを口の前まで持っていく。
手足は縛られているので動けない。これならば飲ませ放題だ。
「ほら、いっぱいあるからな」
「口、開けて」
「うぐっがっ甘っ! ドロドロ。止めーー」
悲鳴を漏らそうとするが、コップを一気に傾けて飲ませる吹き出せば、その代わりにどんどんつめていく。
口を閉じようものならば、亮太が無理矢理に口を開けさせる。
もはや地獄絵図のような状況の亮二さん。これならば、全部消費させられる!
由佳ちゃんナイスだ。
「由佳がここまで積極的になる。とはな。こうなることを予測していたのか?」
「さあ?」
こんなことまで予測していたわけではない。けれども、現実としてそうなっているのであれば、これが最良だったと言うことなのだろう。
「それにしても、どこで買ったんだろうかね。このナイフ」
「預からせていただきます。危険でございますので」
「んっああ」
ナイフを預かっていた亮太が、ナイフをⅯに手渡す。
これで、すべてが終わった。
また、普通の日常が始まるのだ……
間章
胸がドキドキしています。今からお父さんと再会する。そのことを考えると凄く怖いです。お父さんは、翔お兄ちゃんを襲って、捕まった。そのことを聞いていましたから、あたしも襲われるのではないかと思ってしまいます。
そんな不安があるせいか、緊張のせいか、凄く眠いです。
いえ、昨日も夜遅くまで起きていたのが一番の原因なのでしょうけど、きっと、一割は緊張のせいです。
こうして、下を向いているだけで、寝てしまいそうです……
「……佳、おき……。由佳」
「んっ。あれ、あたし……」
「起きたか。こんな時に熟睡とは、肝が据わっているな」
「えっえっ?」
周りを見てみると、いつの間にか亮太さんが座っています。どうやら、本当に眠っていたようです。
もしも、綾ちゃんが起こしてくれなければこのまま夜まで眠ってしまっていたでしょう。寝ないように考えていたというのに……反省すべき案件です。
うー困ります。恥ずかしいです。寝顔をずっと見られていたなんて、顔から火が出てしまいそうです。赤くなってなければいいですけど、どうなんでしょうか?
鏡はないですし、自分でも持っていないので確認のしようがありません。
こんなことを亮太さんに聞くこともできません。
「まあいい。目は覚めたな?」
「うっうん。迷惑、かけて。ごめんね」
「気にするな。まあ、今からのこと考えて緊張しすぎたのだろう。だが、少しリラックスするべきだ。固くなっていたらうまくできないぞ」
「うっうん。でも、その、不安で……」
寝不足と不安が重なりすぎて、体が睡眠を求め続けています。今も瞼が落ちてきそうな感じですが、綾ちゃんがそばに居てくれる安心からか眠くはありません。亮太さんは、居れば不安しか生まないので、寝ていたほうが安全。きっと、あたしに危害が加えられそうになったら、助けてくれるはずです。
その信頼があれば、あたしはこの状況でいくらでも寝ることができるでしょう。
「綾ちゃん。あたし、しっかり、寝ますね」
「起きておけ。由佳が重要になる話し合いで寝るなど言語同断だ。少しは、自分の立場を考えるべきだな」
「ごめん。なさい」
「何の話っすか?」
「貴様には関係ない話だ」
今から、凄く関係する話だと思うのですが、その反応で大丈夫なのでしょうか? 気のせいか、綾ちゃんが少し苛立っているようにも見えます。もしかしたら、あたしが寝ていたことに対して相当御冠なのかもしれません。
機嫌を直してもらうために何をしたらいいのでしょうか?
分かりません。
怒っている綾ちゃんを、学校ではよく見かけます。それは、クラスメイトの行動に対してイライラしているのだと友達になって知りました。他人の迷惑を考えない行動に、言葉をぶつけおうとしているのだと、知りました。
けれども、一度として声を出すことはしません。それどころか、我慢して読書に励んでいます。
「綾ちゃん。怒らない、で。ね」
あたしができることなんて何もないのです。言葉を重ねて、怒りが沈むように願う。それが限界でした。
だから、今も言葉を重ねるのです。
ですが、
「わたしは、別に怒ってはいない。怒っているように感じるならば、後ろめたいことでもあるのだろう」
「えっと、えっ?」
綾ちゃんの言っていることがよく分かりません。さっきの言い方は完全に怒っていると勘違いされてもおかしくない言い方でした。でも、思い返してみると、怒っていたのは亮太さんに対してのように感じます。では、あたしに対して怒りを覚えていると感じたのはただの自意識過剰だったのでしょうか?
でも、不機嫌そうな綾ちゃんの顔を見ていると、あたしに対して怒っているようにしか思えなかったのですが……いえ、もしかしたら綾ちゃんも寝不足で機嫌が悪いだけかもしれません。
それならば、納得です。
あたしも、眠い時は不機嫌になることがあります。それと同じなのでしょう。
幾度か頷き、視線を綾ちゃんに向けると、小さくため息を零して、隣を一瞥し、覚悟を決めたようにあたしの手を掴みました。
「怖い時は隣に頼れ、近くにわたしたちも居る。気兼ねなく自分の気持ちを伝えろ。わたしたちは由佳の味方だ」
「何の話っすか?」
「独活の大木には関係ないことだ。気にするな」
「貴様よりグレードダウンしてるっす!」
「貴様など独活の大木で十分だ。でかいだけで役立たずに見えるからな」
「酷いっす!」
「あっあはは」
もしかしたら、緊張をほぐすための冗談かもしれないです。
そうだとしたら、綾ちゃんは流石すぎます。あたしが考えようともしないことを平気で言ったりやったり……この背中に追いつかなくては、翔お兄ちゃんの隣に立つだなんて夢のまた夢です。
まずは、綾ちゃんの背中に追いつくことが目標。となりますが、正直な感想としては、不可能だと考えています。綾ちゃんは、あたしよりも数段は頭がいいです。そんな人に追いつくなんて恐れ多いし、出来が違いすぎて勝負にすらなりません。こうして近くに居ること自体が奇跡と言っても過言でないくらいです。
クラスのみんなが見たら、あたしを心配するかもしれない状況ではありますが、心強いと思います。
もしも、何かがあっても助けはすぐに来るのです。あたしが無茶をして倒れても、問題はないでしょう。なら、後はこの数日学んだことを全力で発揮するだけです。
「ありがとう。綾ちゃん」
「気にすることはない。わたしは行く。それではな」
綾ちゃんが去っていきます。
その後ろ姿を確認し、あたしは気を引き締めました。もうすぐ来るからこそ、出ていったのでしょう。つまり、本番です。
「由佳、何が起こるっすか?」
「すぐに、分かる、よ」
後何分後に来るか分からないです。けれど、もうすぐ来る事実だけは理解しています。そのせいなのでしょうか、心臓が飛び出しそうなほどドキドキ言っています。このまま気絶するのではと思うほどの勢いです。
あたしはどうしてしまったのでしょうか?
このまま何もしなければ、あたしは綾ちゃんに教わったことを十二分に行うことができないと思います。それでも、あたしはここでお父さんを迎えなければならない。亮太さんはそれを知らないからこそ、のんびりとしているのだと推測できます。今は、先ほどの綾ちゃんの発言を考え続けています。
「独活の大木って、なんっすか?」
独り言のように呟くその姿。ですが、これが兄なのです。ずっと、この後姿を見つめて育ったあたしは、いつの間にか、この人を尊敬できなくなりました。
いえ、正確に言えば違います。もっと凄い人を知っていたから、尊敬することができなかったのです。
翔お兄ちゃん。
喧嘩してしまったのはあたしの我儘です。その我儘を貫こうとしてくれた翔お兄ちゃんを無理矢理に突き放してしまったのです。
悔しさに胸が潰れそうになっていると扉が開きました。
来たのだと、気付きました。
あの時、いえ、もっと早くに大人になろうとしていたのであれば、こうなる前に仲直りできていたでしょう。ですが、もう遅いのです。
あたしは、決別しなければならなかったと気づかなければならなかったのです。それを先延ばしにした結果が、今なのでしょう。
「やあ、お待たせしたね」
「貴様!」
隣から鋭い声が響きました。
驚きです。
あの、のほほんとした兄が叫んだのです。そんな姿を見たことがありません。家では、ずっとのんびりした姿ばかりでした。ですが、学校ではどうだったかまでは分かりません。会いに行こうとすらしませんでしたし、会いたいとも思いませんでした。
すれ違うことはありましたが、話しかけることはありません。ですから、あたしが知っているのは先ほどまでの亮太さんですですから、この変貌に驚きを隠すことができませんでした。
「由佳。久しぶりだね。元気にしていたかい? そして、亮太。いきまり親相手に貴様なんて口汚い言葉を使うものじゃないよ」
優しい声です。
電話で聞いた声そのものです。
ですが、どこか乾いているように感じます。まるで、同じことを何度も何度も練習していたかのように思えます。
「今更何しにきやがった! お袋も由佳も捨てた貴様が!」
「何とはご挨拶だね。親が子供の顔を見に来てはいけないなんて法律はないはずだよ。まあ、由依に何も言わずに来てしまったのは悪いとは思うけどね」
由依とはお母さんのことで間違いないでしょう。あたしたちに関係があるひとで由依と言われればお母さんしか思いつかないのです。
それに、お父さんは悪いとは思っていないでしょう。悪いと思っているのでしたら、あたし個人に電話をかける理由がないのです。最初からお母さんに電話をかけて連絡を入れるのが普通のはずです。もともと、狙いはあたし一人なのでしょう。
ですが、そのことを正直に言ってもはぐらかされることは予測できますので、無視しておくことにして話を前に進めましょう。
小さく息を吐き、気持ちを切り替えます。
「とりあえず、二人共。座ろうよ。話、出来ないよ」
必死に、二人をなだめて座らせる。
けれども、少し呼吸がしにくい。どうしたのだろう。なんだか、いつもと調子が違う。
今日の朝までは、普通にできてた。
綾ちゃんを相手にしていた時はこんな気持ちにならなかったし、こんな感じにはならなかった。それなのに、あたしに何があったのでしょうか?
分かりません。
けど、この状態で頑張るしかありません。
後で、綾ちゃんに確認しておくべきでしょう。
「それで、あの……」
お父さんを睨みつける亮太さん。あたしを見つめるお父さん。そんな二人を見つめながら、何を言おうかを考えてしまう。
境界線上に居る二人に、何を話しても反論しか来ない気がするのです。どうしましょう。すでに決まった答えがある問題に取り組むのは不毛でしかない気がします。ですが、このまま無言で過ごすのも限界があります。翔お兄ちゃんたちもどうしたのか心配になるでしょう。
それ以上に、あたしの演技が終わってしまいます。そもそも、今演技しているのかすら分からない状況で、あたしは、何をすればいいのでしょうか?
助けてください。
届くのならば、その声を届けたいです。
ですが、それを届けることはできません。なぜなら、そのことを亮太さんはもちろんお父さんも知らないはずだからです。それなのに、あたしからばらしてしまえば、みんなが危険です。
ただでさえ、あたしが危険に巻き込んでしまっているのに、それよりもさらに危険に近づけさせるのは、いけないことです。
「亮太。そんなに睨みつけるのは、止めてくれないかい?」
「なら、貴様が由佳を見るのを止めやがれ」
イライラした様子の二人が火花を散らします。
止めたい気持ちで一杯なのですが、言葉を出そうにも、何も浮かんでこないのです。不思議でなりません。あたしは、自分の感情を理解しきれていないのかもしれないです。どうして、何も言おうとしないのか、全く分からないのです。
「そんなに僕のことが気になるのかな?」
「そんなわけねえだろうが!」
口論は止まりません。
一度始まってしまったこの口論を止めることができるのはあたしだけなのでしょうが、止めるための方法が一切思いつかないのです。
無言は嫌だと感じましたが、口論よりかはマシだったかもしれません。無い物ねだりをしているだけだと分かりますが、実際に見なければ分からないこともあります。
「ふざけるのもたいがいにしろよ。ああ!」
ドンッと机を大きく叩いて音を出して威嚇している亮太さんの姿を見るだけで、
背筋が冷たくなります。まるで、どこかの不良です。
こんな亮太さんを見たくはありませんでした。頼りなくてもいつもの亮太さんのほうが親しみを覚えます。
亮太さんはどうしてこうなってしまうのでしょうか?
「さあ、由佳。僕と行こうか」
「待てよ。連れて行かせるかよ」
あたしに向かって伸ばされた手を亮太さんが掴んで握りしめます。睨みつけたままです。
「俺は、今思いっきりキレてんだよ。誰かさんのせいでな」
さっきよりも怖かったです。
その瞳だけで、人を殺せるのではと思うほど鋭くなっています。その瞳が怖くて、恐ろしくて、あたしは亮太さんを見ることができなくなってしまいました。それだけでなく、お父さんを見たくもないので、下を向くしかありませんでした。
さっきから、ずっとそうです。
ちらちらと二人を見つめては、口論を聞くことしかできません。
これでは、なんのためにここに居るのか分かりません。あたしは、お父さんと話し合い、ここに残ることを表明するために居るはずなのに、どうして何も言えないのでしょうか?
言葉を紡ぎたくても、頭が回りません。
泣きそうです。
いえ、瞼に水を感じるので半分泣いているのでしょう。それでも、話し合いが終わることはありません。
それは、あたしが何も言わないからでしょう。
平行線でしかない二人を止めるには、あたしの意思を表明するしかないと思います。でも、それを言って確かに止まる保証はどこにもありません。むしろ、悪化するかもしれません。そうなった時、あたしは立ち直れないかもしれません。自分が弱いことを誰よりも理解しています。
だからこそ、言葉を紡げないのです。
もしも、綾ちゃんのように何でも言うことができたならば、翔お兄ちゃんのように自分の道をきちんと見ることができたのならば、きっと違う未来がここにはあったのでしょう。
ですが、あたしには何もありません。何も、無いのです。
「ふふっ亮太。君は、由佳の幸せを考えたことはないのかな?」
「貴様のところに行くのは、確実に不幸を呼ぶんだよ。浮気野郎」
「僕は、本気の恋しかしない。今は桃枝だが昔は由依だった。それだけだ」
「ふざけるな。尻軽!」
「ふふっ君は、声を出せば誰もが自分になびくと考えているようだけど、僕はそんなことないよ」
少しだけ、視線を上げます。
目に入るのは、にこにこと笑顔を浮かべるお父さん。亮太さんに掴まれていた手を無理矢理に外すと立ち上がります。
どうして立ち上がったのか分かりませんが思わず視線を動かして確認してしまいました。どうしても、不可解な動きをするお父さんが気になってしまうのです。
「由依は、お金を集めるのに、苦労して働いている。きっと、由佳を高校、大学まで行かせる間に体を壊すだろう。そのことを、亮太は理解してるのかな?」
ハッとしました。
確かにその通りです。
あたしが勉強しようとすればするほど、家の家計を圧迫することでしょう。亮太さんも大学に行くとしたらとても大変なことになります。
今でも朝早くから夜遅くまで働いているお母さん。その負担になるのでしたら、お父さんの所に行くほうが利口な判断なのかもしれません。それでお母さんが楽になるのだとしたら……
「由佳は、考えることない。お金の心配をするのは、小学生の由佳じゃない。大丈夫っすよ」
不安を覚え下を見つめていたあたしの肩に、何かが触れました。
何が振れたのか分からずに、視線を動かすと、亮太さんが優しい笑みを浮かべていました。
それは、いつもの亮太さんです。
その視線が、嬉しく感じました。そして、亮太さんは本当に味方なのだと理解できました。
そんな亮太さんが見守ってくれるのです。きっと、大丈夫でしょう。何も心配することはありません。あたしが言いたいことを、本当の気持ちを伝えればいいのです。
一つ、頷きます。
そうです。怖がることなんて何もなかったのです。一人でない。あたしは綾ちゃんにそう言われていたはずなのです。どうやら、亮太さんが怖すぎてそのことを忘れてしまっていたようです。
ですが、もう大丈夫です。覚悟は決まりました。後は、口にするだけです。
「あたし、ここを離れない。お母さんからも、亮……ううん。お兄ちゃんから、離れない。ここに、あたしの幸せがあるの。高校に行けなくても、大学に行かなくても、あたしは、ここに居たい。だから……」
お父さんを見つめ、必死に言葉を紡ぎます。
これで、きっとお父さんも分かってくれる。その気持ちを込めて必死に訴えかけます。
「由佳。そうなのか?」
返ってきたのは、にこやかな笑み。
ですが、どこか冷たく感じる瞳は、あたしの体を硬直させました。
これから大変なことが起きる。そんな予感が頭をよぎると同時に、お父さんはポケットから小さな棒のようなものを取り出しました。それを、笑顔のまま弄ると、ナイフに早変わりします。
その瞬間、お父さんが凶器を手にしたのだと気付き、戦慄しました。
「じゃあ、傷つけてでも、連れて帰ろう。僕の望む未来。桃枝の望む世界を、作るためにね」
ナイフをゆらゆらと揺らしながらこちらに向けてきます。
刺そうとしているのを肌で感じましたが、体は完全に硬直して動きません。困りました。このままではあのナイフがあたしや亮太さんを貫くかもしれません。頭は冷静に状況を判断していても、体が素直に動いてはくれないのです。
「亮太は別にいらないから、たくさん傷がついてもいいね」
「ふざけんな」
怒声と共に立ち上がりました。そのまま、あたしを守るように立ち、ジロリと睨みつけます。
凶器を前にしてさえ、亮太さんは冷静に戦況を眺めながらとるべき行動を選んでいます。この場合、あたしを守ることが亮太さんの中では最優先事項なのでしょう。自身が一番危険だと分かっているはずなのに、あたしを守ろうとしてくれる亮太さん。
二人は、睨み合いながら取るべき動きを模索しているようです。いえ、考えているのは亮太さんだけで、お父さんはそんなこと考えていないように思えます。
「とりあえず、刺さってみるかい?」
ゆったりとした動きで近づき、間合いに入るとナイフを振ります。その動きは鈍重ですが、狭い室内。中央に置かれた机や椅子のせいで満足に動くことができません。
「由佳。下がれ!」
叫ぶ声に、あたしは震えるだけで反応することができませんでした。
目の前の光景を受け入れることができなかったのだと思いますが、よくわかりませんでした。
「あっ……あっ……」
口から漏れるのは言葉にならない単語ばかりです。
役立たず。
そんな一言が頭をよぎります。けれども、何もできないことだけは事実で、このままでは亮太さんが危険です。
「仕方ない」
振られるナイフに正面から突撃し、斬られることを無視しながらお父さんを抑えようとしています。
適当に振っているためか、傷は深くありません。ですが斬られたことで血は飛びます。あたしの顔にも、亮太さんの血がかかりました。
暖かいその血は、亮太さんの命そのものに感じ、背筋が凍りそうになりました。
怖いです。
亮太さんを失うことも、目の前で誰かが死ぬことも、怖くて仕方がありません。
ですが、怖くても行動しなくては何も変わりません。
動くのです。
逃げては駄目です。亮太さんを、お兄ちゃんを助けられるのは現状あたししか居ないのですから!
「お父さん!」
声と共に立ち上がりました。
ナイフを振れなくなったお父さんは、優しい笑みだけをあたしに向けました。亮太さんが奮起していますが、血が出ている以上は限界が来るでしょう。翔お兄ちゃんたちもこちらに向かってきてくれるでしょうけど、それまでに事態が進行しないわけはありません何事も流動性なこの状況において、一分一秒を無駄にすることは間違いでしかありません。ならば、あたしがどうにかする以外に道はありません。 ですが、どうしたらいいのでしようか?
何も思いつきません。
なら、やることは一つだけでしょう。
「もう、やめて!」
叫び、ナイフを持っている腕を掴みます。これで、動きが止まる訳ないでしょう。ですが、こうするしか思いつかなかったのです。ここに居るのがあたし以外ならば、もっち違うことをしたのでしょうが、自分自身が情けなく感じます。
「ありがとうっす。由佳」
亮太さんの体が動き、お父さんに頭突きを食らわせると、抱きしめるように床に倒し、即座に起き上がるとナイフを持つ手を掴み、背中に乗りました。
「ぐっ、この、止めなさい」
ジタバタと暴れまずが、亮太さんにのしかかられたお父さんは何もすることができません。あたしたちの勝利です。
これで、全て終わったのです。
エピローグ
「はあ、これで一段落か」
「そうだな。今日はゆっくり寝るとしよう。明日も、休みだしな」
あれから、雪さんの作った特製フルーツジュースパーティーが始まったが、飲んだのは信也と亮二さんとⅯの三人だけで、俺たちは普通の紅茶を飲みながら、ほっと一息つくことにしていたが、信也と亮二さんが倒れたことでパーティーは終了となり、帰宅することになった。
途中まではⅯが送ってくれたのだが、舞さんからの呼び出しによって帰宅することになった。どうやら、雪さんが新作を作ったようでその味見兼毒見役に呼ばれたようだ。
「由佳もよかったな。これで、離れずに済むぞ」
「うん」
笑顔が眩しく、嬉しく感じた。
俺がやれたのは本当に小さなことだ。けれども、それで大きな道を見つけられたのはいいことだ。
「綾ちゃん。翔お兄ちゃん。亮太さん。ありがとうございます」
「ああ」
「当然のことをしただけだ」
「あれ、ちょっと待っす」
亮太が不思議そうに首を傾げる。
その意味が分からずに、見つめる。正直、今の会話の中で不思議なことなんて何もなかったはずだ。
「由佳。おいらのこと、何て言ったっすか?」
「亮太さん。です」
「ノ――――! なんで戻るっすか! さっきまで、お兄ちゃんだったっすよね!」
そう言えば、さっきは亮太のことをお兄ちゃんと言っていたか。あれは、きっとその場のノリだったのだろう。
「気のせい。だよ」
笑顔のまま即答。
正直、亮太の扱いがこの数日で段違いに上手くなった。これも綾との特訓の成果なのだろう。
「うう。酷いっす。こんな仕打ちを受けたのは、あの暴走少女以来っす」
「暴走少女?」
「誰、ですか?」
ああ。懐かしいな暴走少女。確か名前は夢美歩で、小学、中学と同じで一つ下の後輩だ。今は中学三年で生徒会長だったはず。
別に亮太が突撃したわけではないが、一度信也に会いに来た時に亮太に話して、『うるさい。デカ物。通行の邪魔だから一生ゴミ箱で過ごしてください』と笑顔で言われていた当時、死ぬのではないかと思うほどに落ち込んでいた。
懐かしい思い出だ。
「あの一件だけだったのに、よく覚えてるな」
「待て。まずは説明だ」
説明と言われても、な……
「中学の後輩で、信也ファンクラブの会長と生徒会長をしている。まあ、ある意味で最強の女の子だな」
そう。
話が通じないので、正直相手にしたくはない。信也の話すら聞かないで暴走し、ファンクラブを設立したのだ。それだけでなく、色々な話を無理矢理に押し付けては、自身だけ笑顔を浮かべて周りの反応を一切気にしない。
けれども、リーダーシップや明確な未来が見えているらしくて、先導者としてはかなり優秀な部類に入る。暴走さえしなければ、容姿も小動物のように可愛らしいのでかなりモテるのだろう。
「ほう。面白い人が居るものだな。是非会ってみたいものだ」
「止めておけ」
「そっすよ。止めとくべきっす。危険っすからね!」
本気で危険だ。
歩は本当に、周りを巻き込んで滅茶苦茶にしてから収拾を一切つけずに放置するので、迷惑を被るのは近くに居る奴だ。
「まあ、話半分で聞いてくれ。そんな奴が居るってだけだ」
「そう、なんですね」
「ふむ。仕方がないな。それでいいだろう」
諦め半分に息を吐いている。もしかしたら会ってみたいのだろう。いろいろな人と話すのは成長にとって大切なことであるだろうから、正直に言えば会わせたほうがいいのだろうけど……俺が嫌だ。あいつとは、会いたくない。恐らく、信也だって会いたくはないだろう。雪さんと付き合っている事実を、きっと認めないと推測がつく。
「それで、翔は今日どうするっすか?」
「綾の家に荷物を取りに行ったら、家に帰るよ。流石に今日まで泊まる訳にはいかないからな」
欠伸を噛み殺し、適当に答える。別に隠す内容でもないし気にすることはないはずだ。
「そっすか。手を出すのは、駄目っすよ?」
「待て、俺はいったい何を心配されている?」
明らかにおかしな心配の仕方をされている気がするのだが、気のせいだろうか? いや、気のせいにしておこう。気にしていたらいろいろと危険な気がする。
「あたしは、別に、いいよ」
「待った!」
「待つっす!」
それは駄目だろう。なんだか凄く大胆になってるけど、本当にどうした由佳ちゃんは!
「ふむ。ならば、ライバルだな。キスまで行かなくては、現状勝てないぞ?」
「大丈夫。です」
「何が!」
何が大丈夫なのか全く分からないけれど、これは亮太が原因なのだろう。いや、そういうことにしておこう。
「亮太。ふざけるなよ」
「オイラに責任が来てるっす!」
ビックリしている亮太の顔面に拳を入れ、ため息を吐く。
その隣では亮太と由佳ちゃんが騒いでいる。
これだから、
「兄妹の相手は面倒だ」
なんで、こんなことになったのだろうか。正直、失態だ。まあ、まとまったのだからそれだけはいいか。
どうやら、これからも騒がしくなりそうだ。
五月晴れの空を見上げながら、俺はそう未来を予測するのであった……




