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兄妹の相手は面倒だ 2

 昼休みが終わる前に帰ってきた信也たちは、なぜか一様に疲れ切っていた。その理由は、きっと亮太なのだろう。なぜか、嫌な予感がしていたから出てきたが、どうやら正解だったようだ。

 信也は、俺に何かを話そうとしていたが、すべてを無視した。

 どうせ、相談のことを話そうとしていたのだろうと分かっていたからだ。聞くぐらいならば、いいかもしれない。けれども、俺は綾から呼び出しを受けているから、聞くことをしない。

「じゃあな。俺は先帰る」

「おっおう」

 放課後になっても憔悴仕切っている信也の肩を軽く叩いて挨拶を交わす。

 やる気の無さそうな姿。

 相当面倒くさい相談なのだろう。もしくは、自分で解決可能だが、解決する気のないタイプだったかだな。

 まあ、俺にとっては関係ないな。

 急ぐしかない。

 どうせ、怒っているだろう。

「仕方ないよな」

 ため息しながらに帰宅する生徒に交じる。

 いつもとは違う方向に歩き出す。なんだかんだで、この道にも慣れていた。なにせ、信也が雪さんと付き合うために幾度となく通った道だ。嫌でも慣れる。

 まさか、それが終わった後でもこうして歩くことになるとはおもってもいなかったけど、仕方がない。綾に呼び出されているのであれば通るしかないのだ。

 反対方向だから、あんまり好きではないけど……

「おー翔じゃん。うっす」

「亮太。お前なんで……」

 てっきり、信也たちと相談の続き。もしくは、解決に向けての話をするかと思っていたのだがどうしてここに?

「いや~オイラ邪魔らしくて、追い出されたっす」

 照れたように笑う姿に出るのはため息のみだ。本当に聞かなくてよかったと思う。それだけ面倒な相談なのだろう。

 一人頷きながらついてくる亮太に視線を向ける。

「何で着いてくる?」

「いや~方向同じだし折角だからさ~って」

 笑みを浮かべているその顔を押さえつける。

 ちょっと、いや、かなりイラつく笑みだったために思わずアイアンクローを仕掛けてみたが、握力の問題か亮太が石頭過ぎるのか、いくら力を込めても痛みもしない。

「そろそろバスの時間っすよ? 乗らないんっすか?」

「乗るよ!」

叫びと同時に手を離し、亮太を無視して歩き始めた。もうすぐ来るバスを逃せば次は三十分後だ。そんなの待っていたら綾が怒りだすのが目に見えている。

だから、絶対に乗らなければならない。約束もあるし、亮太と遊んでいるわけにはいかない。

「ちょっ! えっ?」

俺の反応が気に入らないのか、単純に驚いているのか、亮太は茫然として固まっている。ついてこられても面倒なのでそのまま固まっていてくれないかと祈る。

しかし、

「オイラも乗るっす!」

慌てて駆けてきているのか、ドタドタと騒がしい足音が鳴る。

お前は猪か!

そうツッコミたくなるような足音に顔を押さえる。

関わるな。

自分に言い聞かせ、ちょうどよくやって来たバスに乗り込む。

がらがらの座席の一つに座り、外を眺める。

乗り物から外を見るのは俺の楽しみの一つになっていた。ささやかすぎる楽しみを享受しようもした時。

「隣座るっすよ」

にこやかな笑顔と共に座り込む亮太。

席は沢山空いているにも拘らず隣に座る。その行為に微かな苛立ちを感じている自分を必死に自制する。

「んで、話があるんすけど……」

「聞きたくない」

「そんなこと言わないで聞いて欲しいっすよ!」

「お前の相談には乗らない。それだけだ」

「まあ、触りだけでもどうっすか?」

「拒否だ」

不毛な言い合いが続く中。バスがゆったりと出発する。

 動き始める風景は、変わることはない。

 そりゃ一気に光景が変わるもない。ここは田舎である。小さな変化はあるけれども、大きな変化は乏しい。

 車を走らせればもっと大きな町はある。けれども、山があり川があり海も近いこの町を俺は好きだった。

「なあ、なあ、オイラの話……」

 袖を軽く引き、涙目を浮かべる亮太を気持ち悪く感じながら、手で亮太を押しのける。

「頼むから、近づくな」

「マジで、お願いっす。オイラの思いを、受け止めてーー」

「キモイわ!」

 どうしようもないほどに気持ち悪い。

 逃げたい気持ちがあふれ出るがバスの中で窓際である以上逃げることは不可能である。こんな状況を打破するためには、亮太の話を聞くのが一番手っ取り早いだろう。それでも、俺は聞きたくない。

 いや、聞けないが正しいか。

 聞いてしまえば、約束を守ることが出来ない。この状況ですらも、約束を破っていることと同義なのだ。

 本当ならば、接点のない生活を続けていたかった。

 それは、もう許されない位置に居る。

「お前と話すことはない」

「オイラの妹。分かるっすよね?」

「だから、聞かねえよ」

 耳を塞いだ。

 少しでも聞かないようにするために……

「オイラ、最近嫌われてるんっすよ」

「はあ?」

 由佳ちゃんが亮太を嫌っている?

 そんなことがあり得るはずない。彼女は心の底から家族を愛していた。家族を愛し、壊れゆく家族に涙をこぼし続けていた。

 そんな彼女が、亮太を嫌っている。

 確かに、暑苦しくて面倒なやつではあるけど、義理堅く。真面目な面も持っていると、誇りに思ってると笑いながら言っていた。

 そんな子が、嫌う。

 この数年で一体何があったのだろうか?

 訳が分からない。

 家族のために、いろいろ尽くした少女が家族から顔をそむける。

 あり得ない。

 だが、その理由を問うことができない。

 裏切れない。

 踏み込み、裏切ることができない。

 だから、亮太の勘違いなのではと考えてしまう。それならば、大いに納得できる話だ。直情的で早とちりをすることが多いので頷ける。

「オイラ。由佳のためなら死ねるっす」

「そうか」

 なるほど。

 由佳ちゃんも思春期だし、こんな兄は嫌になったのだろう。家族が大好きだったあの子も変わってしまったのか。時間の流れと言うのは残酷だ。

「着いたか」

「うわっもうっすか!」

 考えている間に到着してしまった。

 早いものだ。一人だったら、もっと時間が遅く感じただろう。

 考える時間をくれたことだけは感謝できる。だが、これ以上は付き合う気もない。

「じゃあな」

「うわっオイラの話。全然無視っすか!」

「だから、聞かないって言ったろうが」

 軽く手を振ると亮太から離れる。これで、ようやく解放された。新しい疑問が浮かんだがそれは気にすることはないだろう。

 俺は、あの子に何もしてやれない。それだけは、確かであった。

「さて、急がないとな」

 綾が怒る。

 それだけは、ごめんである。


「遅い!」

「お前、小学生と高校生で授業時間違うのは当然だろうが」

「それでも、急ぐ!」

「すいません」

 諦めて謝る。

 ここで、食い下がっても時間ばかりが過ぎて意味がない。ならば、話を先に進めるほうがいい。

 綾はムスッとするが、それでも中に入れてくれるのでそこまで怒っては居ないのだろう。

「それで、用事はなんだ?」

「焦らなくてもいい。中に相談者が居る」

「んっ?」

 相談者が居る?

 それって、つまり……

「由佳。来たぞ」

「あっ綾ちゃ……」

「あっ」

 硬直する。

 恐らく、一生会うことはないだろうと思っていた子がそこに居た。

 メガネのズレを直し、こちらを注視しているのは亮太の妹である由佳ちゃん。綾よりも身長が低く、ボブカットの髪を揺らす。小学校の制服を未だに着ているのは帰ってきてからすぐに連れ込まれたのだろう。

 しかし、どうしたらいいだろうか。

 綾は俺と由佳ちゃんのことなんて何も知らないでセッティングしたんだろうけど、これは完全に失敗である。

 どうしたらいいだろうか?

「えっと、綾ちゃん?」

「どうした。わたしの知り合いが気に食わないか?」

「気に食わないわけ、じゃないけど……」

「ああ」

 俺は知り合いとは思わずに硬直しただけだ。

 いろいろな伝手でこのあたりに居る小、中学生とはそこそこ仲がいい。だから、あたる可能性がゼロではないにせよ、俺と会いたくないだろう人物が居るとは、想像もしていなかった。

 ただ、由佳ちゃんが言いよどむ理由はきっと違うのだろう。

「ふむ。二人は知り合いか?」

「まあな」

「喧嘩中か?」

「あう」

「えっと、な」

 どうしようか。

 関係のない綾を巻き込むべきではない。そんな風に感じるのだが、綾がそれを許す子ではないことくらいはよく分かっている。綾は事態をうやむやにすることを是とはしないはずだ。

 困った。

 由佳ちゃんのほうを向くと自然と視線が合った。

 首を横に振る仕草を見せる。

 それが、話すなと言っているのか、諦めたほうがいいと言っているのかまでは分からない。

 だが、分からない以上は下手なことを言うべきでないことくらいは読み取れるので口は開かないことにしよう。

「ふむ。話したくないようだな。なら、とりあえず座れ」

「はっ?」

 すでに由佳ちゃんは座っているのでその命令は俺に対してのことだとは分かる。けれども、とりあえず座れと命令されることに疑問を抱いた。

 なぜ、そんなことを言われなければならないんだと言おうとして、ジッと睨みつける視線に気が付いた。

 綾が睨んでいる。

 物凄い笑顔で睨みつけている。そして、その瞳は言っている。口以上に、早く座れと叫んでいる。

「はい」

 そんな視線に気づき、無視をしていたら何を言われるか分からない。

 素直に応じるべきである。

「よろしい。さて、まずは状況を整理しよう。由佳の相談を始める前に」

 綾がいきなり仕切りだす。

 これではまるで、悪いことをして怒られようとする前ではないか。

 別に悪いことなど何もいないというのに……

 ため息を吐きながら胡坐をかいて頬を手で支える。

「貴様は何をしている?」

「何って、えっ?」

「正座だ。当然だろう」

 正座って、えっ?

 もしかして、ガチのお説教をしようと言うのか?

「あ、綾?」

「正座だ」

 すごく可愛らしい笑顔で指さすのはすでに正座している由佳ちゃんの隣。

 つまり、そこに座り(正座)説教を受けろと言いたいのだろうが、意味が全く分からない。

 綾が怒っているのは分かる。

 俺と由佳ちゃんが喧嘩しているからだ。

 実際は喧嘩ではないのだけれど、傍から見たら喧嘩としか思えない状況であることは否めない。

 やっぱり、状況を説明するべきだっただろうか……

「早くしろ」

「はい」

 正座することにしよう。

 移動し、正座する。

「さて、まずは由佳に聞こう。何が原因だ?」

「えっと、あの。その……」

「ふむ。言いよどむなら質問を変えよう。この原因は翔に相談した結果か?」

「っ!」

 驚いたのか、目を丸くする由佳ちゃん。それだけで正解と伝えているようだ。

 そして、その反応に大きく頷く綾は、

「では、その相談は失敗だったのだな。もしくは悪い方向に転がった。相談しないほうがよかった。それが原因で、話しかけるな。もしくは会うなに繋がった。間違いがあるか?」

「うっあっ……」

 間違いはない。

 少ない情報でそこまで読み取るなんて、本当に小学生かよ。

 まるで、探偵のようになってるじゃないか。話が早いことは助かるけど、ここまで即座に読み込めるだけの判断力をどうやって磨いたんだとツッコミたくなる。

「なるほど。なら、翔」

「ああ」

「失敗したのは、貴様の独断専行か? それとも、どうしようもないくらいに状況が悪かったからか?」

 嫌な質問をする。

 由佳ちゃんが聞きたくないはずの答えしか言えない。だからこそ、言いたくない。ここは……

「黙秘権を--」

「貴様に黙秘権はない。ここは裁判所でも警察でもない。わたしがしているのは状況の整理だ。由佳が聞きたくない情報だろうと、貴様の沽券に係わることだとしても、全て白日の下に晒してもらう。そうして、ようやくスタート地点だ。答えろ」

 質問ではなくもはや命令。

 仕方がない。綾を手招きして耳を貸せと合図を送る。

「断る。ちゃんと由佳にも聞かせろ。それが貴様の今やるべきことだ。過去を掘り起し、トラウマを呼び覚ますことになろうとも、必要な情報だ。二人の反応も判断材料にするからな」

 強情だ。

 このまま、言うしかないのか?

 奥歯を噛みしめ、考える。この状況を変える方法を……

 だが、咄嗟にいい考えなんて浮かんでこない。だからと言ってこのまま口を閉じていても綾の怒りを貯めるだけでいいことなんて何もない。

 ギュッと、袖を握られた。

 視線を向けると由佳ちゃんの小さな手が軽く引っ張っている。俺の視線に気づいたのか、頷いて笑みを向ける。

 恐らく、話してと言いたいのだろう。

「分かった。正直に言う。俺が手を出す時には、すでにボロボロだった。どんなに頑張ったところで、何もできないほどに……な」

「それで、お前が手をこまねいた訳ではないな。何かをしようとして必死になって、負けた。さて、問題は相談の内容だ。何があればボロボロになり、由佳に嫌われる結果になる?」

「それは……」

「あたし、」

 言うべきか迷っていた時、声が上がった。

 いつもとは違う大声で、隣に居た俺が驚くほどの声量。

 当人も驚いているのか、顔を真っ赤にして俯いた。

「由佳。どうした?」

「あたしが、話します。あたしの、こと。ですから」

「そうか。なら、由佳。話せ」

 偉そうである。

 まあ、綾がそうした演技をしているのであればそれを受け入れておくとしよう。

「うっうん。あのね。あたしが頼んだのは、家族のこと、です」

「家族……」

 その一言に一瞬だが苦しそうな顔をする。

 自分も似たようなことを俺に頼んでいるので、心苦しかったのだろう。確かに、似た内容に聞こえるかもしれないけれども、実際には違う。

 綾のはまだ説得することができた。話してわかる人であった。だが、由佳ちゃんの話は全く違う。俺が今よりも子供だったこともあるし、感情を押し付けようとしていたせいでもあるが、それ以上に話がねじ曲がっていた。それを正すだけの技量など、俺は持ち合わせていなかったのだ。

 辛そうな由佳ちゃんは言葉を重ねる。

「お父さんの浮気。それによる家族、崩壊。それを……止めてもらおうと、しました」

「ふむ。離婚はすでに決定事項。だが、それを止めるように両親を説得するように懇願した。そういうことなんだな?」

「はい」

「補足するなら、話は親同士では決まっていた。由佳ちゃんと兄である亮太ってやつには事後承諾の形で話されたんだ。だから、どうすることもできなかった」

 その当時思いつく限りのことをやったし、できるだけの行動を起こしたと自負している。けれども、そんなものは何も結果に結びつかなかった。それどころか、亀裂をさらに悪化させただけだった。一軒家に住んでいたのに、そこを売り払ってこのマンションに引っ越したのも、俺が原因だったかもしれない。今ではそう思えるほどである。

「他に、聞きたいことがあるか?」

「ふむ。そうだな。ならば、どうして嫌われることになった?」

「そりゃ、俺が失敗したからで--」

「それは違う。なぜなら、成功するはずのない内容であることは子供でも分かるはずだ。それなのに、一方的に嫌う。いや、関わるなと言われたのかな? そうなるのは、おかしいだろう」

「……」

 確かに、思ったことだ。

 けれども、由佳ちゃんの心が落ち着く時間。それが必要なのだろうと思い頷いたのだ。あれから三年ほど経って状況は変わっていないけれども、俺はこのままでもいいと思っている。由佳ちゃんが納得しているのであれば、俺が反論する理由など、何もないのだ。

「由佳。答えろ。翔を嫌う理由は、何だ?」

「それは、そのう……」

 今でも思い出せる。

 父親が立ち去り、自分の無力さを噛みしめている俺に泣きつき、叫んだのだ『もう、話さないで、関わらないで、あたしの家族を、これ以上滅茶苦茶にしないで、もう。許して』と。だからこそ、俺は関わらないように生活した。亮太を嫌い、話すことのないようにした。由佳ちゃんの望むようにした。それで、少しでも救われるのであれば、と。

「あたしの、願いを、想いを……」

「翔一人に背負わせようとしたのか? 兄が居るのに、翔一人に全部任せようとしたのか?」

「うっあっ」

 言葉につまり、会話すらままならない。

 いや、むしろ一方的だ。綾のワンサイドゲームであると言える。

 喧嘩に対する説教だったのだから、仕方のないことだろうけれども、こんな状況を放っておくわけにはいかないだろう。

 弱いほうを守るべきだ。今回であれば由佳ちゃんを守る。

 必要な情報はすべて教えたはずだ。今行われているのは由佳ちゃんに対する強すぎる説教。ならば、止めるべきだろう。

「綾。それくらいに……」

「するわけがないだろう。この件を無視するなと、わたしの正義が叫んでいる。由佳が、友達が間違っている道を選択し続けるのであれば、正しい道に引き戻してやるのが友達だ。わたしの主観であろうとも、間違っていることはしていない」

 綾の瞳に炎が灯っているように見えた。

 やる気は、十分のようだ。こうなった綾を止めるのは至難の技だろう。最初にであったときも止めるのは一苦労だったしな。俺が殴られるまでが一ターンになっていたし、今回も俺が殴られて終わりなのだろうか?

 殴るやつが綾しか居ないので、相当怒らせないと俺を殴ることはないだろう。

 ならば、すべてを白日にさらすしかないのか?

 それまで、由佳ちゃんは大丈夫だろうか?

「答えろ。由佳。君は、翔一人にすべての責任を押し付け、目を背けたのか?」

「綾!」

 駄目だ。

 追い詰めたりしたら、耐えられるはずがない。今でも雰囲気に飲まれかけているのに、危険が多すぎる。

「綾。俺たちが変な関係になっていることが、そんなに嫌なのか。お前の正義心を揺るがすほどに、嫌なのか?」

「違うな。わたしは嫌とは思っていないさ。二人に何があったのかは気になるし、仲良くしてほしいと願っている。そうする必要があったのだと、理解している。だが、気に食わないことある。だからこそ、こうしているのだ」

「気に食わないだと?」

「ああ。それは、二人が喧嘩を糧にしていないことだ」

「はあ?」

「えっ?」

 綾は、何が言いたいんだ?

 喧嘩を糧にするって、何?

「ふむ。どうやら、一から説明する必要があるな。わたしが怒っているのは、二人の態度だ。これが始まって何年経つのか知らないが、何も学習していないことだけは理解した。だからこそ、わたしは怒っているのだ。出来事を棚に上げることは誰にでもできることだ。棚に上げて、目を背けて、逃げる。誰もがそうして自分の心を守る。だが、本当に強いのは向き合った者たちだ。向き合い、解決しようとした者。ここまでは分かるか?」

 すごく面倒くさいことを考えていることだけは分かった。一体、どんな経験をすればこんな思考に行き着くのか知りたいくらいだ。

「ぽかんとするのではなく、ちゃんと聞くことだ。二人にとって大切なことを言っているのだ。人生とは経験だ。経験を重ねることがそのまま人に繋がる。その人の人生を見れば人柄が分かってくる。何をしたか、どう生きたか。選択したのか。それらが人を形作る。その中で、喧嘩も重要なプロセスだとわたしは考える。喧嘩を知らない子が大人になれば、ぶつかることも知らない弱虫に育つ。過保護な親。親頼りの人生を送れば、どこかで必ず障害にぶつかる。喧嘩を知らなければ、その障害を壊せずに自分が壊される。わたしは、そうなってほしくない。二人が大切だからな」

「それと、これの関係は?」

「ふっ簡単だ。喧嘩はただぶつかるだけではない。和解してようやく一ターンなのだ。だから、喧嘩を続けるだけでは、何も得られない。ただ人が離れるだけだ。だが、喧嘩して再び手を取り合えれば、それは強い絆に代わる。喧嘩もいい思い出に昇華される。喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったものだ」

 あっそこまで聞いてよく分かった。

 綾は過去の状況を整理して俺と由佳ちゃんが綺麗に仲直りできる場所を探していたんだ。

 今行われているのは説教ではない。どちらかと言えば裁判に近いのかもしれない。互いのことを知り、互いが手を差し伸べられる部分を模索する。判決を下すわけではないが、互いの意見を交換し合い、第三者が結果を導き出す点で言えば裁判だろう。

「和解させるために古傷をかきむしろうと?」

「そうだ。傷をなめあうのは素人でもできる。優しい言葉と同情心さえあればできるのだからな。だが、傷を治癒することは難しい。心の傷ならば特にな。だからこそ、わたしは二人の傷に爪を立てた。もう一度整理するために、時が経ち、風化した記憶を掘り起こすのは嫌だろうが、必要なことだった。おかしな風に癒された傷は後遺症を残すだけだ。一度、綺麗に治す。手を取り合わせる。そのために必要なことがあれば、わたしは何でもするさ。たとえ、当人が泣き出そうとも」

「怖い怖い!」

 綾の正義が綱渡り状態である。

 大丈夫なのだろうか?

「さて、わたしが言いたいことはこれが全てだ。足を崩すといい。落ち着いたら由佳。さっきの問いに答えを出せ」

「あっうん」

 忘れていたのか、一瞬変な顔をしたが力強く頷いた。

 問いの答え。

 俺に全てを押し付け目を背けたのか。だったか。綾と同級生だが、綾と同じ視点では絶対に考えていない。むしろ、綾が高すぎるのだ。高校生の俺だって考えないようなことを平然と言ってのけるし、年齢を偽っているのではと思うほどである。もしくは前世の記憶があるとか、そんなレベルを空想してしまう。

 まあ、あり得ないと思うけど。

「あたしは、逃げました。離婚し引っ越しするショック。父が居なくなる辛さから目を背けるために、全てをぶつけました。水澄さん。いえ、翔お兄ちゃんに」

「ぶっ!」

 懐かしい呼び方に思わず吹いた。

 翔お兄ちゃんは由佳ちゃんしか呼ばなかったので、ここ数年は呼ばれなかった。それが、このタイミングで言われると驚く。

 だが、どうやら由佳ちゃんも心を決めたようだ。

 そうでないなら、俺をそんな呼び方はしない。

「ほう。翔お兄ちゃんか。貴様はそんな趣味があったのだな。ならば、わたしも呼んでやろうか?」

「謹んで辞退させて頂きます」

 ガチの土下座をかます。

 由佳ちゃんに呼ばれるのも恥ずかしいのに、綾にまで呼ばれたら恥ずかしさでこの町から失踪することを考えなければならない勢いだ。

 昔、呼ばないでとお願いしたら、泣かれてしまったので由佳ちゃんは我慢することにしたけど、広める気はさらさらない。

「そうか。残念だよ。それで、由佳はどうする? 翔に全てぶつけたことを認めて、それでどうする?」

「……それは」

 答えは、綾が言っていた。

 だが、それを認めるかはまた別の話だ。綾の言葉だけを正しいと認めるわけにはいかない。あれも一つの答えではあるだろうけど、それだけが答えではない。人の数だけ答えがあり、考えがある。

 明確な正解などはありはしない。

 由佳ちゃんには由佳ちゃんの答えがあり、それを見つけなければならない。綾の言葉をお手本として、模索し続けなければならない。

 それが、生きるということなのだろう。

 そのことを理解しているのか、理解しなくても感じ取っているのか、由佳ちゃんは視線を動かして誰かに助けを求めたりしない。床をジッと見つめてきっと、自分の中で言葉を反芻し続けている。

 がんばれ。

 声にしないエールを送り、答えを待ち望む。それが、俺を拒絶することだとしても、受け入れることだとしても、由佳ちゃんの見つけた答えを尊重するつもりだ。

 俺には、それしかできないのだから……

「うん」

 小さな頷きをすると顔を上げた。

 すっきりとした表情で、俺に視線を向ける。

 そして、

「今まで、ごめんなさい。あたしは、翔お兄ちゃんと仲直り、したいです。また、昔みたいに、遊びたい、です」

「ああ。いいよ」

 頷いた。

 それだけで、いい気がした。

 そして、それは正しかったようで、答えを聞いた由佳ちゃんは涙を流し、抱き付いてきた。そして、胸元で号泣する。よっぽど、溜まっていたのだろう。

 小さな頭を軽くなでてあげると、背中に手を回してギュッと力強く服を握りしめる。

 こんな小さな体にたくさんのことを抱えていたのだろう。三年は、長い。亮太は転校しなかったが、由佳ちゃんは転校したのだ。環境がガラリと変わるのは辛いことだっただろう。

 亮太は自分が嫌われていると言っていた。つまり、亮太に弱音は吐かなかったに違いない。きっと、母親にもだ。

 家族が好きだったからこそ、不平不満を述べることなく、順応しているように見せていたに違いない。

「もう、大丈夫だ。俺が手伝う。何でも、話せ。力になるから」

「はい」

「そろそろ、いいだろうか?」

 引きはがしに入った綾は、少し頬を膨らませ、不機嫌そうに見えた。

 当人が望んだ結果だというのに、少しの理不尽を感じるが、気にしたら負けだろう。さて、話がかなり脱線したが……

「分かった。本題に入るか」

 二人から距離を少し取る。

 一応、俺は相談を受ける者としてここに呼ばれているはずなのだ。ならば、相談を受けるとしよう。

「すい、ません。あたしのせいで、脱線……」

「気にするな。由佳は悪くない。わたしの正義が二人の状況を放って置かなかったのだ。つまり、わたしが全面的に悪い」

「その討論は止めろ。どうせ、決着がつかないからな」

 どうせ、自分が悪い。いや、自分だ。と終わりの見えない口論が永遠と続くだけなのだ。それならば、最初からやらないほうがマシである。

 夜が近づいているのだ。同じマンションである由佳ちゃんや場所提供の綾はともかく俺は家に帰らなければならない。バスの時間もあるし、そんなに遅くなる前に家に帰りついて晩飯の準備もしたい。ならばこそ、早く始めるべきだ。

 ただでさえ、さっきのことで時間をかなり使ったのだ。有限である時は大切にするべきだろう。

「ふむ。そうだな。由佳」

「あっはい。綾ちゃんには、触りだけ話したんですけど、最初から言います」

「ああ」

「お父さんが、一緒に暮らしたいと、あたしに電話をかけてきました」

「はあ!」

 一体、何をふざけている。

 浮気し、子供を育てる余裕などないからって親権を放り投げた男が、一緒に暮らしたいだと!

 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。思い出しただけでも反吐が出るような態度だったことは、今でも鮮明に記憶している。

「携帯に、か?」

「はい」

 何があるか分からないからと小学一年の時から電話だけしかできない携帯を由佳ちゃんも亮太も渡されていた。その番号を登録したままであれば、連絡を取ることは容易だろう。だが、だからこそ腹が立った。

 三年だ。

 三年もの間放っておいて、いや、三年前に捨てておいて今更一緒に暮らそうなんてよくもおめおめと言えたもんだ!

「それを、亮太たちには言ったのか?」

 問いに、口を開かずに首を横に振る。

 それだけで、大まかな状況を理解した。

 亮太が嫌われていると思ったのは、由佳ちゃんが秘密を抱えていたからだ。秘密を抱え、それがばれないように口を開くことをしなかった。

 それが、傍から見たら怒っているように感じたのだろう。

「綾は、どこまで聞いた?」

「連絡が来て困っているとだけだ。いや、迷っている。が正解か」

「迷う?」

 そうか。家族を大切に思うからこそ、酷い父親のことも許そうとしているのか、あわよくば、昔のように一緒に暮らせることを夢見ているわけか。由佳ちゃんらしい考えだろうと思う。だが、甘い考えであることも否めない。

 世界はアニメやドラマほど甘くはない。

 皆が皆、自分の考えを持っているのだ。そして、その考えを他人も持っていると勘違いをしている人が多い。何も言わずとも繋がっている。分かり合えると夢想している。

 だからこそ、すれ違う。すれ違いが深くなればそれに気づいた時に傷つく。傷つけば嫌気がさしてしまう。それこそ、喧嘩すらできずに離れていくことになるだろう。

 そんな世界で、自分の希望だけが叶う訳がない。

 腹に一物抱えている。そう考えるべきだ。

「由佳ちゃん。答え。どうしたの?」

「考えを、まとめたい。そう。答えました」

 なるほど、いきなりの電話で驚いていただけでもはなく、ちゃんと先を読んでいたのか。

 よかった。もう決めていたら、手も足もでないところだった。

 だが、どうするべきか。由佳ちゃんの母親でありる由依ゆいさんに相談したいけど、そうしたら着信拒否にしたり、二度と会わないように違うところに引っ越すみたいな直接的な行動をとりそうな気がする。

 良くも悪くも直情的過ぎる人だったからな。できることならば話すことなく解決したい。そして、それは由佳ちゃんも同じなのだろう。これ以上家族に亀裂を作りたくないからこそ、亮太たちに何も言わないことを選んだんだろう。となると、打てる手が少ないな。

「綾。お前の考えは?」

「そうだな。ストーカー被害で警察に届けるのはどうだろうか?」

「運が絡むと思う。担当する人がどこまで親身になってくれるかが焦点になるな

。最悪、話だけで終わる可能性も考慮すると、警察は最終手段。だと思う」

「ふむ。確かにそうだな。警察も暇じゃない。証拠もないのに相談に来るなとつっぱられたらおしまいだな。最近は証拠があっても動かないことも少なくないようだしな」

 本人の受け方によって、ストーカーやいじめはその色を変える。気にしない人も居れば、小さなことでも嫌らしく叫ぶ人も居る。だからこそ、証明は難しい。

「それに、お父さんを逮捕したくは、ない。です」

「娘のせいで逮捕なんて恰好がつかないからな」

 となると、どうするべきか……難しい問題だ。

 案としては、亮太に話すが一番に浮かぶ。

 ないな。

 案として最悪だ。あいつに話して無事にことが済むはずがない。主に父親が、だけど。

 あいつも、父親を毛嫌いしていたはずである。いや、父親も嫌っていたか。だからこそ、由佳ちゃんに白羽の矢が立ったのだろう。

「さて、時間だな」

「んっ?」

 時計を見るとすでに七時を回っている。

 いつの間にか時間が過ぎすぎていたようだ。早く帰らなければ、ご飯が遅くなりすぎる。

「帰るか。由佳ちゃんは俺が送るよ。同じマンションでも危なそうだしな」

「それがいい。由佳。いいな?」

「はい。お願い、します」

 手を差し出すと、そっと握り返してくれた。ここまで、仲が修復したのは綾が俺たちの関係を無視することなく追及してくれたお蔭だろう。このことが、亮太との関係にいい兆候を生むといいのだが……

 いや、ちゃんと頼んでおくか。

 あいつがなんだか落ち込んでいたし、理由が父親のことであるのなら、俺たちが何とかできるように考えるし、悩んでいることを聞かれても俺たちに話していることを全面に出せば追及することはないだろう。

 よし。

 頷いて、エレベーターに乗り込む。

「なあ、亮太のこと、どう思う?」

「大好きな兄、です。少し、過剰に反応する、ことがありますが、いい。人ですよ」

 実の兄にいい人なんて表現がおかしい気がするのだけれども、気にしないでおこう。

「なら、ちゃんと話してやってくれ。落ち込んでいるみたいだからな」

「……はい」

 少し、間があった気がするけれども、気にするな。きっと考えがまとまっていなかっただけだ。

「亮太さんとは、仲良くします」

 せめて、兄を付けてやれと言いたいけど、昔からそうであることを知っているので、何も言えない。俺がお兄ちゃんと呼ばれているのに、実の兄がさん付けなんて、いい笑い草だ。だが、今更直せなんて言える内容ではないので、無視していこう。

「ここだな?」

 名札を見て頷くと由佳ちゃんは俺から離れて鍵を取り出す。

 恐らく、亮太が中に居るだろうけど、鍵はかかっているのだろうか?

 疑問を抱いていると、ガチャっと音が鳴って鍵が開いた。だが、中から光がこぼれているから、亮太自身は居るのだろう。

「誰っすか? って、翔に由佳。何してたんっすか!」

「ただいま。亮太さん」

「ただい、ま?」

 それだけ呟いて玄関に膝をつき、天井を仰いだ。

「うう。おお。一か月。話さなくなって、一か月。長かったっす。オイラに、再び由佳が……」

 物凄い感動の仕方に、俺は思わず引いた。

 こいつ、本当に病気なのではないかと不安になる。シスコンも行き過ぎると危険であると暗に示していた。

「やっぱ、翔は頼りになるっすね!」

「いや、俺は何もしてないが……」

 ただ、ここに護衛代わりに送ってきただけの話だ。綾の琴線に触れなければ、そんなことになることはなかっただろう。

 だから、俺は何もしてない。それが正しいのだが、亮太はそんなこと微塵も気にしていない様子で由佳ちゃんを見つめ続ける。

 こいつは、無視でいいような気がしてきた。

「じゃあ、俺は……」

 帰る。

 そういう直前に、腕を掴まれた。

 涙の溢れる顔を向ける。正直、気持ちが悪い。

「どっどうした。亮太」

「ありがとうっす。マジで、ありがとうっす。オイラ、相談部に入るっす。今から、信也に連絡するっす!」

 深々と頭を下げる。そのまま奥にダッシュしていくのを俺は見つめるしかできなかった。

「なあ、由佳ちゃん」

「はっはい」

「お前の兄貴、大丈夫か?」

「ダメ、かもしれません」

 妹にすらダメ出しを食らう亮太に心の中で手を合わせながら、由佳ちゃんに手を振り、帰路についた。

 真っ暗闇、とまでは行かないのは街頭と月光のお蔭だろう。空を見上げて月を見上げる。

 今日は満月だ。

 とても綺麗なその月を見つめながら、近道を通り、バス停まで歩く……

「動くな」

 ことはできなかった。

 いきなり、後ろから声がかけられたのだ。背中に、何かが触れていることが分かり、動くに動けなくなる。

「誰だ?」

「由佳に、近づく虫を許さない」

 ……ああ。理解した。

 凄く分かりやすい。こんな大胆な行動をする人とは思わなかったけど、この人が誰なのかだけはすぐに理解した。

「亮二さん。ですね」

「おや、僕の名前を知っているのかい?」

「そりゃ三年前にいろいろありましたからね」

「三年。ああ。君は、あの時に僕たち家族を滅茶苦茶にした少年か」

「語弊がありますよ。俺は、無茶苦茶にしてなんかいない。むしろ、あんたが壊したのをさらけ出しただけだ」

「口の減らない子だね。これ、刺しちゃうよ?」

 刺す。

 そのヒントだけで凶器が背中に突きつけられているのだと理解した。それが、どんな武器なのかまでは分からない。分かることと言えば、高校生相手でも優越感を抱けるだけの武器と言うことだろう。

 ……たくさんありすぎて、候補が定まらない。

 まあ、包丁あたりかな? 手頃に入手できるし、妥当かな。って、呑気に考えている余裕があるわけでもないか。

 さて、と。どうするかな。こんな体制では投げることはできない。後ろから襲われた時の対処も練習しておけばよかっただろうに、失敗した。

「いいのかい?」

 固い感触が背中に押し当てられる。触れていると感じる程度だったのに、今は刃の感触が微かにわかる。もう少し力を籠めれば服を完全に貫通して皮膚を傷つけるだろう。

 痛いだろうな。凄く痛いだろう。

 そんなの、

「嫌に決まってるだろ」

 普通に了承するはずがない。けれども、体制を変えることもできなかった。七時過ぎているが、人通りのあるはずの道には、人どころか猫すら居ない。

 意味は分からないけれども、何かがあったと思考するのが正しいはずだ。

 困った。

 かなり困った事態に陥っている。まさか、こんなすぐに襲ってくるとは思ってもみなかった。しばらく一緒に居れば、何らかのアプローチはあるかもと思ってはいたが、ここまで早いとどこかで監視かストーキングしていたのではと疑ってしまう。

「とりあえず、何が目的だ?」

「悪い虫は排除する。そのために、ここに居るんだよ」

「あなたの手が汚れたら、二度と会えませんよ。由佳ちゃんには」

「それは、困るな。そうか。君は、自分を殺せば僕が捕まるぞと言いたいのだね?」

「ああ」

 証拠が無くても、綾や信也は探し出すだろう。

 すっとぼけるのは目に見えているが、きっと何とかするだろう。俺がここで死ぬならば、後を託すだけである。

「ふむ。証拠を残すつもりはないけど、何が決め手になるか分からないし、君をここで殺すのは止めておこう。だが、相応の恐怖を与えてあげよう」

 ヤバイ。

 頭が理解するより先に前に倒れこんだ。

 ズザーっとアスファルトを滑る。

 めちゃくちゃ痛いけれども、刺されるよりはマシだろう。後ろを振り返ると、サバイバルナイフを虚空に突き出している中年男性。

 絵面がヤバイ。完全にいっちゃってる感じがする。

 このまま全力で逃げればなんとかなるかもしれないけれど、後々面倒になるのはごめんだ。ここで、何とかして話をつけて二度と襲ってこないようにしたい。だが、それで由佳ちゃんに迷惑が行くのは駄目だな。

「逃げないでくれよ。危ないからさ」

「いや、待って。えっ?」

 ナイフを両手で持ちながら上段に振りかぶる。このままだと、本気で殺される可能性がある。

 冷たい汗が背中を伝う。

 これが、エンディングか……

 目を閉じて、死を覚悟する。

 バタン!

「へっ?」

 突如発生した音。

 何の音かと思って目を開くと、それは亮二さんが崩れ落ちた時に発生したものらしく、目の前で倒れている。

「誰だか知らないが、無事か?」

 月明かりに照らされ、俺を見下ろすのは、信也だった。

「信、也?」

「あれ、翔。何してんだよ」

「襲われてたんだよ。亮太の父親にな」

「はあ?」

 意味が分からない様子の信也だが、倒れている人を確認して、目を丸くしている。

「ああ。とりあえず、立てよ」

「おう」

 素直に立ち上がると、ホッと胸を撫で下ろす。

 本当に、危ないところだった。

 あのまま刺されていたら本気で死んでいただろう。完全に殺気を放っていた。

「それで、信也はどうしてここに?」

「そりゃ、亮太の相談を解決するための相談を雪穂の家でしてたんだよ。エースの活躍で無駄になったけどな」

 なるほど。

 電話するって言ってたからそれを受けて帰ることにしたってところか。

 ちょうどいいタイミングだ。

 だが、人通りが少なすぎるのは疑問がある。車が来ないのは道が狭いから分かるけど、人が全く通らないなんて……あるか。バスの終電が出たからここを通る必要が無くなったわけか。そんなことにも気づかないほど、亮二さんの登場に驚いていたんだな。

「まあ、何はともあれ、ありがとう。問題は、亮二さんか……」

「だな。いつまでも、ここで寝かせておくわけにはいかないし、連れて帰るには重そうだしな」

 確かにそうだが、それ以上に、問題もある。

 俺に対して怒りを募らせて襲いにくる可能性。それだけでなく、由佳ちゃんの家に突撃する可能性。どちらにしても、危険が大きい。サバイバルナイフを持って侵入するなんて、警察に捕まえてくださいとっているようなものだ。まあ、捕まること自体は問題ではないのだが、この件がうやむやになることが大問題である。忘れたころに父親復活で、由佳ちゃん危機一髪なんてどこのバラエティーだって、ツッコミたくなる。

 そうならないようにしてやるのが俺のやるべきことなのだろう。

 そのための方法として、最適な手段は……

「そうか、舞さん」

「舞花?」

「そう。舞さんなら力になってくれるはずだ」

 言うが早いか携帯を取り出して電話をかける。

 プルル。プルルと数回コール音がしたかと思うと、

『翔か? どうした?』

 声が聞こえた。

 微かにエンジン音やエアコンの音が聞こえることから車に乗っているのだろうと推測できる。

「お願いあるんだ。いいかな?」

『翔が、ボクにお願い、だと?』

「そっそうだけど?」

 何かおかしかっただろうか?

 確かに、舞さんにお願いをすることなんてほとんどないけど、まだ出会ってから一か月ほどしか経っていないのだ。そんなに頼み事する機会があるはずがない。

 けれども、舞さんにとっては驚愕に値することなのだろう。

『明日は、雪か。春だというのに……』

「なんで!」

 そこまで驚くことなの!

 普通にお願いしただけなのに……

『まあいい。要件は何だ?』

 心なしか上機嫌な様子の声に疑問を抱くけれども、聞き流し、要件を伝える。

『ふむ。その男から、君と由佳ちゃん守るか……』

「できるか?」

『できる、できないの問題ではない。むしろ、やれと言われたらやるさ。君のお願いを無下にする気はない。由佳ちゃんとやらは知らんが、ようは監禁すればいいのだろう?』

「うわ~」

 予想以上に怖いことを平気で口にする舞さん。引き受けてはくれるようだが、警察沙汰にならないかが心配になってきた。

 けれども、他に頼れる人も居ないのが現状。つまり、

「お願いします」

 見えていないことを分かりながらも頭を下げる。

『分かった。迎えに行こう。場所は、雪のマンション近くのバス停でいいか?』

「お願いします」

「引き受けてくれるのか?」

「ヤバイ方向だけど、受け入れてくれた」

「ヤバイのか……まあいいや。この人だし」

「まあ、ね」

 昔調べたことが正しいのであれば、正直この人とは長く付き合いたくない。まともだった時ならばいざ知らず武器を持ち出して恐喝するところまで堕ちた人間に、何かをしたいと思いたくない。

 だからと言って、自分の感覚だけで判断するのは間違いだろう。

「とりあえず移動しよう。バス停に来るらし――」

 キーッとブレーキ音が聞こえる。

 確実に来たことは分かるけれども、早すぎる。まだ、数分しか経っていないはずなのに、どんだけ飛ばしたのだろうか?

「遅いぞ。二人とも。運転手。そこの馬鹿を運べ」

「はい。お嬢様」

 素早い動きで、亮二さんを運んでいくのは黒服の青年。そこまで年を取っているようには見えない。

 理由は、聞かないことにしよう。

「お前らも来い。送ってやる」

「マジか!」

「ありがとう。舞さん」

 バスが終わっているから凄く嬉しい。ここから家まで結構あるからこの時間に歩いて帰るなんて想像するだけでダルイ。

「それは、こっちのセリフだ。翔のおかげで救われたからな」

 ?

 俺は何もしていないはずなのに、何を言っているのだろうか。

 疑問符しか浮かんでこない。

「まあ、詳細は車で話そう。主に、信がな」

「俺かよ!」

 三人でワーワー言いながら、車に乗り込み帰宅するのであった。


           間章

 翔が帰宅していく。

 その後ろ姿を見つめながら、ため息を零した。その理由は、亮太がもたらした相談だった。

 正直、あんな相談をどうにかできる気がしない。

 一番有効なのは、亮太の意識改革だと思うが、そんなことが簡単であるはずがないことは、俺だってわかっている。そして、翔はそれを直感で理解したら逃げ出したのかもしれない。

 一応。必死に考えたけれど、良案が一つも浮かんでこない。

 翔が居てくれたら……

 そんな風に考えるけれども、無駄なことは止めよう。

 居ない人にすがるのは意味がない。

「それで、信。どうするんだ?」

「それが決まんねえんだよ」

 頭を机の上に乗せてガシガシと髪をかきむしる。

 教室を見回すと、こんなふざけた依頼をしておいて、その張本人である亮太がどこにもいない。

 くそ。あいつが居ないんじゃ話もできないじゃないか。

「とりあえず、これからの、話を、家で、しましょうか?」

「雪の家か?」

「うっうん」

「まあ、いいか。ここで話すのは面倒だし、雪穂の家なら勝手が分かっているしな」

「はっはい」

 こんな風に、学校に居るよりものんびりできる。

 それに、下校時刻なんてものもない。とことん話し合うことが出来る。

「それじゃあ、行こう。時間は有限だ」

「ああ」

 頷いて、移動を開始した。

 とはいえ、駅に辿り着いた時にはちょうどバスは出たばかり。次のバスまで一時間以上あるので、のんびり待つよりも時間に合わせてどこかで暇つぶしをしていたほうがいいかもしれない。

 さて、問題があるとしたらこの周りには、学校しかないことだ。

「さて、どうするか……」

「車を回そう。時間の無駄は省きたい」

 ……そりゃ、そうだろうけどそんな風に簡単に言うなんて、流石金持ちは違う。

「んっ。頼む。学校だ」

「連絡早えよ!」

「無駄を省くためだ」

 面倒くさい。なんで、こんな現実主義なんだよ。もう少し無駄を楽しもうぜ!

 叫ぼうとした瞬間。

 キーッ!

 車が高速で接近しブレーキをかけた音が周囲に木霊する。

「わわっ」

 ふらつく雪穂を抱き留め、車を睨みつける。

 黒塗りのベンツ。

 かなりの金持ちしか……

「お待たせしました。お嬢様」

「って、舞花のかよ!」

「当然だろ。こんな無茶をさせるのが、この近くに居ると思うか?」

 周囲を見回すが、他の生徒はポカンとしている。そりゃ、そんな職権乱用するような化け物なんて、このあたりには居ないだろな。

「行くぞ。できるだけ早くする。むしろ、バスよりも早く着くかもしれないな」

「乗るか!」

 そんな怖い代物。危なすぎて乗れないわ!

「ほう。走るか?」

「嫌だよ!」

「楽し、そうだよ」

 にこやかな笑みを浮かべているが、はしゃいでいることだけは確かだった。

 ああ……絶叫系好きだったのか。こんな意外な一面が見らただけでも、今回は収穫があったんだろうな……


「うえ」

 気持ち悪い。

 世界がぐるぐる回っているような気がする。

「だらしないぞ。この程度で吐き気か?」

「この程度、だと」

 わざわざ遠回りして、車の少ない場所を通り、ドリフトやら急ブレーキやら百キロ超える速度でぶっ放して、この程度だと……

 車が通りかかって、事故るんじゃないかと思ったほどなのに、この程度だと、俺には理解できねえ。

「楽し、かったね」

「そう、だな」

 立っているのも辛いところだが、ここは彼氏として意地を見せるべきだろう。

「なら、今度は遊園地のジェットコースターだな」

「ああ。別にいいぜ」

 正直、今の感覚を得た後ならばジェットコースターだろうがフリーフォールだろうが何でもござれと思える。

「無事に生きている。生きるって、素晴らしい!」

 生きてる。それだけで何でもできる。素晴らしいことだ。

「さて、行くか」

 振り返ると、若干引いている二人が居た。

 あれ、どうして引いているの?

 俺、おかしいこと言ったのか? 

 いや、気にするな。気にしたら負けだ。無視していくことにしよう。

 歩き出そうとすると、袖を引かれた。振り返ると、悲しそうな目をする雪穂がいた。どうして、そんな顔をするのだろうか?

「今度、デート、するの? 舞ちゃんと」

「しねえよ!」

「えっ?」

「当然だ」

 もしかして、ジェットコースターだなって、舞花と一緒に乗る感じになってたのか? 行くとしたら、雪穂と一緒に行くだろう。それが当然だ。

「雪穂。デートなら、お前と行く」

「信也くん……」

「二人でいちゃいちゃするな」

 ゴンと、俺だけ殴られた。理不尽だ。

 せっかくいちゃいちゃできる。貴重な時間だったのに、どうしてくれるんだよ。せっかく恋人になったってのに、恋人らしい時間をほとんど送れていない。もっといちゃいちゃしたいってのに、最近は怒られてばかり、もう関係もおしまいになるのかもしれない。

 そんなこと、

「嫌すぎる。俺は、別れたくない」

「信。頭大丈夫か?」

「別、れる? 誰と、誰が?」

「何でもない。ただの独り言だ」

 大丈夫だ。こんなに愛している。一方通行ではない愛があるはずだ。そう、だよね?

「そうか、じゃあ行くぞ。時間も浪費しすぎた」

「時間の浪費って、遠回りしてたじゃねえかよ!」

「そんなことはない。普段車が通らない道を選ばせただけだ。スピードを出すためだけにな」

「それが余計だよ!」

 そんなことをするのであれば、普通の道を安全な速度で走ってほしいわ!

「ふっ。どうせ、これから乗る機会も増えるんだぞ。特に、相談部が活発に活動すれば、な」

「うぐ」

 たしかにそうだ。そして、時間が本当にない場合には今回のような無茶をする必要があるかもしれない。そうなった場合を想定して慣れておかなくてはいけないとしても……

「だが、危険は侵さない!」

「そうか。なら、次からは安全運転にしてやる。それでいいのだろう?」

「へっ?」

 なんだか、やけに素直に要求を受け入れてくれて凄く怖いのだが、何か裏があるのか?

「立ち話、も何だし、部屋、行こう? 暗く、なるよ」

「ああ。そうだな」

 雑談をしている間に体調も落ち着いたし、もう平気だろう。

 よし、行こう。

「あ、行きながら聞いていいか?」

「なんだ?」

「いや、やけに素直にお願い聞いてくれたな、と」

「別に不思議ではあるまい。ボクにはボクに利益があることしかしない」

「利益!」

 えっこの会話内に利益なんてあったか?

 どう考えたところで、利益なんてなかった気がする。

「ボクは、不満に思っていることがある」

「不満?」

 凄い充実した人生を送っていたような気がする。金はあるし、たいがいのことをできる権力も持っている。

 勝ち組と言える人生だ。

 それを不満と言える理由が分からない。

「ボクには権力がある。お金がある。自分で言うのも何だが、役に立つだろう。それだけの実力はあると、自負している。それなに、だ」

「それ、なのに?」

「翔はボクを頼ろうとしない。頼りにするのは信。お前だけだ。それが不満だ」

「それは……ただの付き合いの長さだと思うが……」

 俺よりも、明らかに役に立つだろう。

 それなのに、それを言わないのは付き合いが長いからであって、舞花を信用していないからではない。その時が来たらきっと頼むだろう。

「ふっだとしても、信に負けることだけは許さない。だが、君に恩を売っておけばきっとボクを推薦するだろう」

 いや、まあ確かにするだろうけど、恩を売られずとも舞花の有能性は知っているから普通に推薦するし、翔ならばそのことを理解しているだろうから確実に頼む。

「まあ、好きにしてくれ」

 ため息を零し、部屋に入る。

 甘い香りが部屋の中に広がっている。雪穂の家はいつもそうだ。果物のような匂いが充満している。CMでやっているような芳香剤を置いているわけでもないようなので、恐らくは作っている料理の影響だろう。何を作ったのかまでは分からないけど、甘い何かを作ったことだけは分かる。

残ってなければいいが、残っていた場合がヤバい。笑顔で試食を進められたら彼氏である以上は食わない訳にはいかない。そして、食べてら、傷つけるであろうマズイや甘すぎるを直接言うのは厳禁。ソフトなニュアンスで五重くらいオブラートに包んで、答えてやるのがベストなはずだ。

隣に視線を向けると、真っ青な舞花の姿。きっと、この匂いから絶望を感じ取ったのだろう。

だが、ここでUターンせずに靴を脱いで中に入ろうとする姿勢は流石長年の付き合いだと思わせる。俺も負けてはいられないと平静を装い中に突撃。リビングには誰もおらず、キッチンを覗き込むと異常な気配を発する鍋が置いてあるだけだ。

中を確認したい欲求が生まれるが、やぶ蛇になりかねないのでそっとリビングに戻った。

雪穂の親は基本夜中に帰ってくるので、この時間に誰も居ないのは常である。居るとしたら暇をもて余した綾ちゃん位だろうけど、今来ていないことから宿題か何かで忙しいのだろう。居てくれれば、台所に立ってもらうことも可能だったことを考えると痛手だ。

とは言え、電話して呼び出すこともしたくないので、大人しくリビングにある椅子に座る。

「気を付けろ。信」

「分かってる。油断は舌に大ダメージだからな」

甘味しかない料理。

集まれる場所を提供してくれるのは助かるけれども、雪穂の料理が一番の不安要素と言える。食べれば悶えるほどの甘さ。それを我慢して美味しいと言ってやれる根性を俺も舞花も持っている。素直に言っていた時期もあったが、それは遠い過去の話。雪穂の涙を見たくなければ笑って美味しいと宣言する。それ以外に道なんてないのだ。

だが、食べなければそんな演技をする必要性はなくなる。

鍋に注意が行くのを全力で阻止。それが俺たちに与えられた裏ミッション。失敗は精神と舌に大ダメージを食らうこの裏ミッションを遂行するために、

「よし!」

気合いを入れる。

同時に着替えを済ませて入ってくる雪穂。5月で少し暖かくなってきたからか、清楚な白いワンピースを着ている。その上に薄い水色のカーディガンをコーディネートしているが明らかに部屋着ではないだろう。

俺が居るからオシャレをしてくれている。

そんな気持ちが目から溢れ出てしまう。

「あっあの、信也くん。泣いての?」

「ごめ、嬉しくて、つい……」

「どう、かな?」

「凄く似合ってる! 雪穂のためにあつらえたような服だ!」

白い雪穂の肌に合い。少し頬を赤く染める姿に感動すら覚える。

さっきの緊張感が嘘のようだ。雪穂はまさに俺の天使。抱きしめたくて体がうずいてしかたがない。ここに舞花が居なければ立ち上がり、即座に抱きしめていただろう。

「こほん」

「ごっごめんね。舞ちゃん」

「わりい。つい、嬉しくて興奮した」

イライラした様子の舞花に片手を上げて謝ると、小さく深呼吸する。

「さて、本題だな。亮太の件。どうする?」

 声音を抑えて、真剣に問いかける。

 雪穂は俺の正面にある椅子に座り、困ったように笑みを浮かべる。

「難しい、問題だよね。だって、手は出せないし」

「そうだな。兄妹の関係に他人が口を出しても、当人たちは納得しないだろう。信は、どうするべきだと思っている?」

「はっきり言えば、無視がおススメだな」

「由佳ちゃんと、接触してみる、のは?」

 俺の提案に雪穂が重ねてきた。

 確かに、由佳ちゃんと話をするのは必要な手段と言える。亮太の説明だけでは足りないであろう状況を由佳ちゃんに会って聞くのは大切。だが、それをするのは難しい。

 翔ならば、今どこに住んでいるかを知っているだろうが、俺はあいにく知らない。知らないというか、調べないように翔が規制したのだ。関わらないようにお願いされたので、調べることはしていなかった。知っていることと言えば数年前に離婚した程度だろう。

 そのあと、どうなったかまでは情報がない。

 どうにも、手詰まりだ。

 亮太に聞いてもいいが、亮太を通すと面倒なことになりそうなので、できることならば避けたい。つまるところ、由佳ちゃんに話を聞くのは難しい。方法はないわけではないが、今日明日で何とかするのは無理だろう。

「悪い。居場所を知らないんだ」

「調べようか?」

「いや、お前の情報網だといろいろと危険な気がするから、勘弁してくれ。それよりも、俺たちができるのは亮太の意識改造しかない。って判断は間違いないか?」

「ふむ。由佳と接触できないのであれば、そうなる。だが、僕には無理だ。あいつは妙に頑固だからな」

 確かにな。

 面倒なところで頑固なので、説得にはかなりの時間がかかると予測できる。だが、それしか案がなければどうしようもない。

「案が、滞ってる。なら、甘いもの。食べる?」

 笑顔で雪穂が提案する。

 その提案に、顔を青ざめる俺たちは、必死に言葉を抑える。まずは様子見してから否定をしなければ雪穂の悲しみを増させることになりかねない。それだけは、許せないし、舞花との共通理解の範疇だ。

 それに、糖分を欲しているのは確かなので、雪穂の提案が的外れと言う訳ではない。

「えっと、嫌?」

 可愛らしく首をかしげる仕草に、思わず「そんなことない!」って叫びたくなるが、それを理性で踏みとどまる。

 言葉を慎重に選ぶ。この選択を間違えれば、最悪の場合破局だ。それだけは絶対に避ける。

「嫌、じゃないけど、その……腹が、な?」

「そう、だな。少々。厳しい」

 声が震える。

 いつものような感じでないことは口を開いている俺たちがよく知っていた。

「なら、温めて、くるね」

『待った!』

 思わず重なる宣言に、ビクッと雪穂が震える。

 乗り気ではない俺たちに振舞おうとしているのは、やはり危険物なのだろう。甘い爆弾と言ったところか。爆発するのは味覚だけだろうけど、危険であることは変わらない。

 そんなものをこの場で口にしたら確実に雪穂を傷つける言葉を吐き出すだろう。それだけはよくわかる。

 だからこそ、舞花と視線を合わせる。

 視線だけで、どうするかを相談しようとしたが、小さく首を横に振るうだけで会話しようとしない。いや、もしかしたらすでに結果が出ていることだから相談することなんてないと暗に言いたいだけなのだろう。

 さて、どうするべきか……

「きっと、美味しい。よ?」

 なぜ疑問形!

 それ以上に、きっとって何!

「雪穂。一ついいか?」

「う、ん」

「試食は、したか?」

「した、よ。でも、みんなが、美味しいかは、食べないと、分からない。から」

 なるほど。

 確かに一理ある。自分で美味しいと思っていても、他人が食べたら不味いなんてよくある話だ。自分の味覚に合わせた結果なのだから、当人にはどうすることもできないだろう。

 さて、こうなると食べないことには美味しいか不味いかなんて判断できないわけで、ここまで来たら引き下がるのは難しい。諦める、べきか……

 ブルルと携帯が震えた。

「んっ?」

 バイブ?

 電話か?

「ちょっといいか?」

「んっうん」

 携帯を取り出し、ディスプレイを確認する。

「亮太?」

「んっどうした?」

「信也、くん?」

「亮太から電話だ」

 嫌な予感しかない。けれども、出ないことにはどうしようもない。もしかしたら泣き言がたくさん出てくるだろうけど、我慢しよう。

 よし。

「もしもし。亮太か?」

『信也っすか? 今平気っすよね?』

「確定かよ。まあいいが、どうした?」

 なぜか明るい感じだ。これから泣き言を並べるようなやつとは思えないほどに明るい。まるで付き物が落ちたように感じる。

 どういうことだろうか?

『信也。オイラ、明日から部活でるっす』

「はっ?」

『オイラの案件終わったっすので、部活入るっす』

「はあ!」

 何言ってるって……もしかして、

「翔か?」

『そうっすよ。いや~翔凄いっすね~』

 いや、確かにあいつは凄いけど、本当に何をしたらすぐに解決するだろうか?

 あいつの行動はよくわからない。

「信。もしかして、終わったのか?」

「そう、なの?」

『そういう訳で、やるっすよ。オイラ!』

 凄く燃えている。あいつは何をしたのだろうか? 

 まあいいか。重要なのは依頼が達成したことだろう。何もやってはいないが、解決したのはありがたい。

「分かった。じゃあ明日な」

『りょ――』

 返事が来るよりも先に電話を切る。

 さて、終わった終わった。ここで話すことはもう終わり。

「雪穂悪いけど、俺は帰る。もう遅いしな」

「あっうん。そう、だね」

「ボクも帰宅しよう。車を回す。乗るか?」

「いや、バスに乗る。確か……あったよな?」

「さあな。ボクは乗らないからな」

 確かにそうだ。車に毎回乗る舞花がバスの時間を知っているはずがない。行ってみれば分かるだろうし、もしなかったとしても、頑張れば歩いて帰ることも難しくはない。

「えっと、あの、あれを……」

「持って帰る。ことにしよう」

「そう、だな。雪。何かに詰めてくれ」

「うん」

 嬉しそうに頷く雪穂の姿に、俺はため息しか出ない。ここで即食べて感想を頼まれるよりも一日置いてのほうがしっかり反応できる。

 そして、舞花もそれを察してくれたのだろう。

 視線を合わせると力強く頷いて、サムズアップする。なぜか、グッドラックと言われているようだが、気のせいだと信じたい。

「はい。できたよ。食べる時、温めて、ね」

「あっああ」

「理解、した」

 半透明のタッパーにはドロリとした何かが入っている。温めたら普通の液体になるのだろうが、明らかに普通に作った物とは思えない。材料すら全く想像できない代物。だが、雪穂が試食したのだ。口に入れても問題はないのだろう。

「じゃあ、明日な」

「うん。感想。聞かせてね」

 学校に行けたらな。

 そんな言葉を零したい気持ちになったが、流石に言う訳にはいかないので、無言で外に出る。

 そして、バス停へと向かおうとして……変な光景を目撃した。

 男がナイフを持っていた。鈍く光るそれを上段に持つ訳のわからない状況。だが、助けなければ危ないと思い、思わず助けた。それが、誰とも知らずに……

 続


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