気に入らない俺の女
まだどこにも存在しない物語の主人公。
彼を形作る、その物語の時には既に亡き、彼の両親のかつての話。
老いた父からサーリスト家の当主の座を継いだ。
20歳のことだ。
そしてそれと同時に父の言いつけでカナフィリア家の令嬢を妻に迎えることになった。
社交界にも殆ど顔を出さない令嬢で顔を合わせたことも無い。
噂でもあまり良いものは聞くことは無かった気がする。
まぁ自分だけでなく、誰もがあまり知らない人物だ。
好き勝手言われているのだろう。
つまり真相が全く分からない。
顔を知らないことは政略結婚では特別珍しいことでもないが、やはりせめてもう少し情報が欲しいと思ったことも確かだった。
やがて迎えた、婚儀の日。
高い天井にクリーム色の壁。
中央の真っ赤なバージンロードを挟むように並ぶ焦茶の椅子には白い薔薇が飾られている。これは色艶や香りを鑑みて我が領地である『薔薇の谷』のものだろう。
正面には三面に大きな、幾何学模様と花の模様のステンドグラスが施されており、緑を基調としつつ青や紫、微かに赤など色とりどりに変化した陽の光が聖堂内へと差し込んでいる。
このステンドグラスは国内でも大きなもので、普段でもたびたび観光客が訪れるほどだ。
歴代のサーリスト家はこのカエルム聖堂で婚儀をあげる。
クラウスもそれに則り、ロードから数段上の神父の前で1人花嫁の姿を待った。
何もしない、非日常の時間というのはどうしても緊張を呼び、長いという感覚を与えてくる。
どのくらい待ったのだろうか。
視線の先の重厚な扉がゆっくりと開き、何度か会ったことのあるカナフィリア家当主と、純白のドレスとベールに姿を覆った花嫁が入ってきた。
その白さがステンドグラスから差し込む光を反射し様々な色にきらきらと輝いている。
思わず、息を飲んだ。まるで女神だと、そんな在り来りな感想が一瞬脳内を過ぎるほど。
とはいえ顔を見た訳でもない。そもそも顔が良くとも性格が良くなければ意味などない。一瞬見惚れたのは雰囲気に呑まれたからだ。
そう自分に言い聞かせ、周りに悟られない程度に被りを振って先程の考えを振り払う。
そこからは、形式通りに進めればいい。
神前にて口上を述べ誓う。
「では指輪を」
神父が2人分の指輪の入った箱を差し出してくる。それを受け取り、相手の手を取れば感じる微かな違和感。
今日は暖かいというのに随分と冷たい手。微かに震えている気がしたのは気のせいだろうか。
あまりにも微かだったためそういうことだということにしてその白魚のような白く細い指に銀色のシンプルだが細かな装飾が美しい指輪を嵌める。
そして、誓いのキスの時になってようやく、自分の捲ったベールの奥にあるその顔を見た。
自分とは正反対の艶やかな黒髪に、青碧の瞳。
少し吊り上がった瞳はまっすぐとしていて強い意志を感じる。
ややピンクの混じった紅を引いたその潤った唇はきゅっと閉じられており、その瞳とは違う弱さを見た気がして、思わず口角が上がった。
なるほど、先程の手の震えも間違いではなかったようだ。
うっすらとチークののった頬に手を添え、自身のそれと重ねる。
近くにいなければ、もはや触れていなければわからないほど固くなった体に内心くすりと笑い、あぁおかしい、とでも言うように更に固く閉じたそれに舌を這わせた。
一瞬のことだ。
周りにはただ合わせただけに見えるだろう。
しかし彼女だけにはわかったことに、きっ、と目線が鋭くなる。
ただの緊張というより、あまりに慣れていなかった。初めて、というやつか。
貴族の娘が結婚式までしたことが無いというのはそう珍しくはないどころか、恋愛結婚でもない限り当然のことだ。
しかし何と言ったらいいのか。
この気高そうな女を染めていくのも、悪くない。
***
そう、思っていたのは確かなのだが。
「…おい…」
結婚して1か月。政略結婚の身で未だに初夜がない夫婦などどのくらいいるのだろうか。
それも、妾などいない間柄で。
青筋をたて口元がひくひくとなる。
目の前ではにっこりと、しかし笑っていない目元のあの女。
「あら、いい加減服を着たらいかが?粗末な体を見せられるこちらの身にもなってほしいわ」
確かに今は上半身裸だ。が、ここは寝室で今から寝るのだからそんなことを言われる筋合いはない。
それどころか、粗末な体とは言ってくれたものだ。一応これでも鍛えているし腹が出ているわけでもないというのに。
この女、来る日も来る日も言葉を変えてこちらを挑発してくる。
はじめのころはただの反抗だろうと多めに見てやっていたのだが、やがて気付いた。
とにもかくにも、この女とは相性が合わない。
ある日はこちらが嫌いなものだと知っていておやつだと渡して来たり。
ある日はこちらの贈った服やらが気に入らないと触れることさえせずにクローゼットへと放り込んだり。
そのくせ時折贈ったアクセサリーを身につけているためからかってやれば、「時折は付けてあげないとあなたが泣いてしまいそうですもの」などとぬかす。
貴方がからかったりするからですよ、などと古くから仕えてくれている老執事は言うが、そもそもあの女にもう少し可愛げがあればそんなことしない。多分。
お互いの部屋は別にあるにも関わらず寝室は同じなのは昔からの慣習だ。何度これを廃止してやろうかと思ったことか。
「おまえこそ、もう少し色気のある寝間着でも着て俺を誘ったらどうだ?そうしたら手を出してやらんこともない」
負けじと言い返せば、すぅっと目が弧を描く。そこから発される言葉は予想通りだ。
「貴方様こそ、私が誘おうと思えるくらいいい男ならいいのに…」
ふぅ、とあきれたように息をつきながらのそれは、予想していたとしてもいらいらする。
女に手を挙げるような趣味はしていないが、よくもまぁ口のまわることだ。
ガシガシと髪を適当にかき乱し、やや乱暴にベッドに乗り上げ布団を被る。
「寝る。」
夜の生活さえ除けば、この女は特に問題を起こしていない。この家の女主人として仕事もできるし社交界でも”奥方”としての立場を大事にしている。
こんなに可愛くないのはクラウスの前でだけ。
それがまた面白くない。
だが、何故だろうか。
余計な気を起こさなくて済むからか、この女の隣はよく眠れた。
***
結婚から3か月。特にお互いの進展もない、どころか毎日のようにくだらないことで喧嘩している日々が続いたある日。
元々体を壊していた父が亡くなった。
覚悟はできていたし、いなくなって泣きわめくような歳でもない。いつかは来るものであるし、誰かに殺されたわけでもないのだからただの寿命だ。
とはいえ前当主が亡くなったのだから、葬式やら何やらでとにかく忙しい。
普段の仕事も、時期もあいまって更に多くなっていたため寝室に帰らない日々が続いた。
数時間だけ、執務室のソファで横になり気絶するように眠り、しかし眠りは浅いのか長時間眠ることもできない。眠りが浅い割に夢は見ていないのか、特別気分の悪さがないのだけが救いだった。
あの女はこちらの忙しさもわかっているのだろう。同じ屋敷にいるはずなのに顔一つ合わせることはなかった。
喧嘩する体力も気力もないのだから、せいせいする、と何度も思った。
それと同時に、何ともいわれぬ感情を抱いていることにも気づいていた。
とりあえず手元にあった書類をきりのいいところまで終わらせ、腕をのばし凝り固まった背の筋肉を伸ばす。
少し寝ようか、だが先に何か胃に入れたい。しかし動くのも億劫だ。
もうここで寝てしまおう、と諦めたその時、ざわざわと屋敷の中が騒がしくなったのを感じ、伏せかけた顔を上げる。
数秒もしないうちに慌てた様子で執事が部屋へ入ってきた。
まだ若い、新人だ。
「お、奥様がっ、馬車っ、」
何かを伝えようとしているのはよくわかるが、何も要領を得ない。
「落ち着け、何があった」
何の問題を起こしたんだ。
とうとう自分に愛想でもつかして出ていったのだろうか。いや、これは家同士の婚姻だ。一人でそんなことをすれば実家に取り返しのつかない迷惑を与えることを理解しているはず。そんなことをする女ではないはずである。
金遣いも、全く使わないなんてことはないが、常識内ではあったはずだ。
仕事もできる、その問題でもない。
なら料理だろうか。調理場など立ったことなどないだろうし、何かしらしたというのはまぁありえなくはない。何故そこにという点ではわからないが。
「奥様の乗られた馬車がっ、お、襲われたと…!」
一瞬、理解ができなかった。最近では大分治安もよくなっていたはず。
襲われたということは郊外まで出たのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい、無事なのか。
怪我は、そもそもなぜ戻ってきていない。
貴族の女子供を狙った盗賊か。
身代金目的か、その身体自体が目的か。
今どこにいるんだ、どこまで調べがついている。
矢継ぎ早に目の前の相手に言ったところで無駄なことは嫌に冷静な頭は理解しているが、落ち着くことはない。
そもそも、なぜあの女のためにここまで自分が焦っているのかという疑問にも気付かない程だった。
逸る気持ちを掌を握り締めることで抑え込める。
まずは、情報収集だ。今外に駆け出したところで何の情報もなければ無駄足になってしまう。
結果、今動かせる人員を総動員してわかったことは、馬車を襲ったのは盗賊などではないということだ。
魔物、いや、魔人といった方がいいだろうか。
周りに他の被害は出ていない。
つまり、明らかに、あの女だけを狙っての行動。
そこに何の意味があるのか。
ふつりと、腹の奥で何かが音を立てた。
居場所は、一歩遅れてだが特定した。
貴族であると同時に貿易商であるサーリスト家の人脈を舐めてはいけない。
こんな時のためではないが、使えるものは使うのが家訓だ。
「すぐに王宮へ遣いを出し軍兵を出していただきましょう」
流石古株、落ち着いているメイドが口を開く。
止めはしない。自分たちだけで魔人を倒せるなどと驕ってはいない。それは愚行とも言えることだ。
「お前たちは早馬で王宮へ説明、即兵を出してもらえるよう依頼。
お前たちは…俺と共に来い」
とはいえ、黙って待っているほど大人しくしてやるつもりもなかった。
また腹の奥でふつりと何かが音を立てた。
こんなくそ忙しい時に限って面倒を起こしやがって、と舌打ちを零す。
古株たちの目がどこか生暖かいのには、手元の紙をくしゃりと握りつぶしていたクラウスは気が付かなかった。
突き止めていた場所はとある森の奥、ここ十年ほど使われていない、持ち主もいなくなっている元貴族の別荘屋敷。
屋敷といっても本邸はとうに取り壊され、残っているのは数部屋しかない使用人小屋だけだ。
護衛がそっと扉に手をかけるが、当たり前のように鍵がかかっている。
眉を寄せ軽く首を振る護衛に、どけ、と短く命じるのと共に場所を入れ替わる。
そして、木製のその扉を蹴破った。
相手を刺激しないよう静かに入ろうとしていた護衛たちは顔を真っ青にさせ慌てているが、そんなもの知るか、とでも言うように中へ足を進めた。
「ガウゥ…!」
見張りか何か知らないが、唸って襲ってくる魔獣を一瞥すらせず剣を鞘から抜くと同時に切り捨てた。
入ってすぐにある、奥の部屋の扉も間髪入れずに蹴破る。
実はこの扉に鍵はかかっていなかったのだが、そんなものはどうでもいい。
扉の向こう、目の前にいるのは、暴れたのか何なのか、服が乱れ、胸元があらわにならないよう自身の手で押さえ、逃げようと後ずさっている女と静かにこちらを振り返る男が1人。
その瞳の瞳孔はどう見ても人ではないものだ。
周りから別の魔獣たちがぞろぞろと出てくるが、そんな雑魚たちは護衛に任せたというように手を一度ひらりと振る。
「おい」
冷たい声が腹の奥から出てくる。
「何をしている」
一歩一歩、ゆっくりと近付く。
周りが騒がしいが、それよりも内心がいやに騒がしくてうまく聞こえない。
「へぇ?ただの人にしては早かったな」
くつくつと笑う男は怯む様子など微塵も見せない。当たり前だ。”ただの人間”に魔物が恐れるなど、余程力がわからない限りありえない。
「こいつぁいい女だなぁ、人間。オレにくれよ」
なぁ?と魔人の手が女に伸びる。
声にならない悲鳴すら上げれずに息を飲む女の呼吸を耳に入れながら、下げていた腕を振り上げると同時に相手の腕に切りかかった。
ばっと手を引き、後ろへ飛ぶように下がる魔人と女の間に体を滑り込ませる。
「アッハッハッ!悪い悪い、オレ相手に一人で飛び込んでくる馬鹿なもんだから舐めてたわ。
いい太刀筋してるじゃないか。その剣も悪くない。」
そうは言いながらも腕に走った傷は既に血が止まるほど浅いもの。
よく言う、なんて隠しもせずに舌打ちをする。
「この狭いところでその剣と戦うのはオレもいやだなぁ…あぁでも…万に一つもお前が1人でオレに勝てるわけもないけどな」
楽し気に笑う魔人を睨むが、その言葉は事実だ。
傷を与えた者に重力魔法を付与するという剣の効果もあの程度の傷ではこの強さの敵になんの意味も持たない。
「なぁ人間、取引しないか?このままその女を庇いながら無駄に命を落とすのと、その女をオレに譲るの…賢い選択、できるよな?頭は悪くなさそうだ」
後ろで震えている気配がする。
怒りで女の顔は見れていなかったが、顔はきっといつものように耐えてでもいるのだろう。
それでも震えているのがわかるくらいには恐れている。
「……旦…那様…」
自分を呼ぶ声。
煩い、今お前と話している暇はないんだ。
「私は、構わないわ…」
「は?」
低い、低い声。
こんな声を出したことなど今まであっただろうか。
「ハハッ!女の方が賢かったか?いいなぁ、やっぱり気に入った!
ほら来いよ、そのままオレの子でも産んでくれ。」
顔もいい、賢いいい子が生まれるだろうなぁ!
そう魔人が言う前に、クラウスは魔人へと切りかかっていた。
「その汚い口を閉じろ」
「なんだなんだ、女から離れていいのか?騎士様よぅ。」
魔獣が女に襲い掛かろうとする。
「どうやら俺はあいつを守る必要はないらしいからな。ただ貴様は気にいらない。」
背後では、魔獣は使用人が切り伏せていた。
「ふぅん、そうかぁ…」
魔人の目が細められる。
その瞬間、ノーモーションで魔人の足が振り回され、いとも簡単に蹴り飛ばされる。
「ぐっ…!」
受け身は取ろうとかなりの威力のそれに、壁を突き破り、息が詰まる。
酸素が低下しぼやける視界の中、魔人が女に近付き、その腕を取った。
「……な、」
そのまま立ち去ろうとする魔人に、ふらふらと立ち上がりながらつぶやく。
なんだぁ?と振り返る、その顔。
「触れるな、と、言っている…!」
あぁそうだ。初めからこの魔人にはそれを言いたかったのだ。
何故?
嫌っていただろう?
あぁそうだ。
この女は気に入らないしそりも合わない。
可愛げもない。
だが。
「”ソレ”は俺の女だ、わかったらさっさと失せろ…!」
人のモノをべたべたと、挙句の果てに譲るだと、ふざけるな。
「お前もお前だ、このくそ忙しい時期に面倒ごとを引き込みやがって。何が構わないだ、ふざけるなよ、そんなことお前が決めることじゃない。」
女に当たったってお門違いなことはわかっていても口が止まらない。
あぁ、イライラする。背が痛い。くらくらする。背骨の一つでも折れてるんだろうか、空気がうまく吸えない。頭から流れる血で視界が狭い。口の中が切れたのか、血の味もする。不味い。
「……ッ、ハハハハッ!あー可笑しい。もうほとんど動けないくせに威勢だけはいいなぁ!剣も手放さない、か…
アーア、興が覚めた。兵士たちも来たみたいだし、今回は引いてやるよ」
一瞬驚いたように目を瞬かせていた魔人は、大きく口を開けて笑えばそう言う。
そして、一瞬女の腕を無理矢理引き寄せたかと思えば、その反動で勢いよくこちらへ向かって投げ捨てた。
咄嗟に腕を開き受け止めるが、この体では支えきれずに共に倒れこむ。
「また今度、気が向いたら攫いに来てやるよ。その時は俺の子を産んでくれよ、オジョウサン?」
遠くなってく聴覚の先でそう言ったかと思えば、微かな風の音と共にその姿も、ずっとあった重い空気も霧散する。
はっ、と至る所で息を吐く音が聞こえた。
「お、い、」
先程までの流暢さはどこへ行ったのか、声がうまく出ない。
「っ、平気よ、傷はつけられてないわ」
怪我は、という言葉が届いたのか、何やら震えている声音でそう言う。
そうか、怪我はないのか。
ならどこを触れられた。俺以外の男に、その服の乱れは。
言いたいことは山ほどあるが、もう、意識が持たないかもしれない。
何か言われている音を認識しながらも、ずるりと意識が闇に引きずり込まれた。
***
案の定、と言うべきか。
背骨が2つほどひびが入っており、肋骨も2本折れ、1本ひびが入っていた。
内臓が潰れていなかっただけ良しとしよう。
とはいえ重傷といえば重傷だ。しばらくはベッド生活。忙しいというのに。
しかしまぁ、外に出るような商談や会議などは不可抗力で欠席できる分、随分と負担は減った。
それよりも変わったことは。
「……いつまで泣いてるんだ、お前は」
はぁ、と大きなため息をつくのは何度目だろうか。
毎日毎日、自分の目が覚めた日から夜になると妻はぽろぽろと涙をこぼすようになった。
しゃくりあげるということはないものの、もういいんじゃないだろうか。
まだ完治はしていないし、確かに少し無理をすれば痛いものは痛いのだが、もう多少なら動けるようになってきているというのに。
お前のせいじゃないだろうと、言えれば楽なのだろうか。しかしあの時はっきりと「面倒ごとを引き込みやがって」と口にしてしまっている。それを撤回するというのもなかなか気に食わない。
あぁ、思い出したらまたイライラとしてきた。
「いい加減にしろ、隣でぐすぐすと煩い。
いいから寝るぞ、俺は眠い」
布団を軽く持ち上げ、ベッド隣の椅子に座る妻の手を引く。
大して反抗もせずに潜り込んでくるのだから、随分と応えているらしい。
この女のことなのだから、自分が怪我をしようが気にもしなさそうだが。
布団に入っても涙が止まるわけもなく、枕が少しずつ湿っていく。
このままではこちらの枕も濡れてきそうだが、それはごめんだ。
俺はゆっくりと寝たいのだから。
仕方ない、とその目尻にたまる雫を舌で掬い取る。そうすれば、毎回ぴたりと体と共に涙も止まるのだから面白いものだ。
とはいえ、ここまでは昨日までもしていた。
明日からもまた同じことを続けるというのも面倒になってくる。
そろそろ普段の日常に戻ってほしい。
ふむ、と考えれば、にやりと口角が上がるのを自覚する。
興が乗った。
いつかはすることになるのだ、むしろ遅いくらいだろう。
まぁ、その原因は目の前の女のせいなのだが。
頬に残った水滴も小さな口づけと共に吸い取り、それを少しずつ下へと下げていく。
いつもとは違うその行為に気づいたのだろうか。
戸惑ったような声が頭上から聞こえるが気にしてなどやるものか。
やがて、すり寄ってくるように、縋りつくように手が背に回される。
ひびの入った骨たちに影響がないようにか遠慮がちだが、まぁ、その余裕もなくなっていくだろう。
多少の痛みなら耐えてやるさ。
あの魔人に触れられたであろう所を中心に。
この目の前の女は俺の妻だ。
つまりは、俺のモノなのだから。
いい加減、名実ともに俺のモノにしてもいいだろう?
***
あれから、何年たったのか。
目の前で生まれたばかりの長女を抱いてくふくふと楽しそうに笑う長男の年齢に一年足せばわかることだ。
この時にはもう、あれから復活した口喧嘩もほぼなくなっていた。
生まれることのできなかった子供たちもいるが、目の前の二人は健康体で生まれてきてくれたし、その二人を慈愛の目で見守る妻も産後の肥立ちは悪くなかったようで今ではすっかり元気になっている。
あの時の魔人はあれ以来どこにも現れてはいないと王宮からも聞いている。
一つ、懸念があるとするのなら、娘が母親にそっくりな顔立ちをしているという点。
それを言えば親ばかだと言われるのだが。
「まぁ、いいか」
その時は俺が守ればいい。
「ぼ…おれ、のーらのことまもるから、つよくなる!」
妹が生まれてから一人称を変えたがまだまだ癖で出てしまうらしい。
しかしなんとか踏みとどまってこちらを向いて宣言する息子。
きょとんとする妻だが、同じ男である自分ならその気持ちもわかるというものだ。
「そうだな、一緒に守るか」
くしゃくしゃと頭を撫でてやれば、最近服などにもこだわりが出てきた息子は髪が乱れると文句を言うが嬉し気だ。
そのまだまだ小さな腕から娘を抱き上げ、つん、とそのまだまだまるまるとした頬をつつく。
「テレージア」
妻の名を短く呼べば娘をその腕に抱かせ、自分は息子を抱き上げる。
幸せな家族の時間。この子がこの家を継ぐのは自分と同じくらいの年の頃だろうか。
いや、年を取ってから自分ができた父とは違うのだから、もう少し遅いかもしれない。
とりあえず今は、この時間をゆったりと過ごそうか。
まさか、それから10年も経たずに自分の座を譲らざるを得なくなるだなんて、この時は、否、その瞬間まで、誰も考えたことなどなかった。
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