表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/26

第九章 花嫁巫女の稽古

三日後までの時間は、砂が指の間から落ちるみたいに速かった。


その朝、私は境内の端で鈴緒の声を聞いた。いつもの弾む声――なのに、どこか置いていかれそうな響きがした。


「だからね、言ってみるの。『一緒にお祭り、見たいです』って」


相手は村の娘だった。頬を赤くして、袖をいじっている。

鈴緒は自分のことみたいに真剣に、娘の背中を押している。


「で、でも……嫌われたら……」


「嫌われないよ。だって、好きなんでしょ?」


娘が小さく頷いて、走るように帰っていく。

その後ろ姿を見送った鈴緒が、ふっと肩の力を抜いた。


――私は声をかけようとして、足を止めた。

鈴緒が急に静かになったからだ。


鈴緒は袖の内から、小さな紙包みを出した。開くと、細い結び紐が一本。

さっき娘に渡していたのと似ているけれど、これは“渡せなかった側”の紐に見えた。


「……ばかだなぁ」


鈴緒が笑った。けれどすぐに、その笑いがほどけた。


「相談はできるのに。背中は押せるのに……私の恋だけは、しないって決めてるのに」


結び紐を握る指が震える。

鈴緒は唇を噛んで、声を殺して言った。


「……私だって、好きな人、いるよ」


その一言が、私の胸を刺した。


「でも言ったら、困らせる。だって私、いつか“常若の年”が来る。……そうしたら」


言葉が途切れて、鈴緒は結び紐を強く握りしめた。

ぽろ、と涙が落ちて、結び紐の上に滲む。


「……やだな。私も、幸せになりたい」


私は、物陰から一歩出た。


「鈴緒」


鈴緒がびくっとして、慌てて袖で涙を拭く。


「さ、桜さま!? い、いつから!?」


「今、来たところ」


嘘だ。

でも鈴緒の涙を“見られた恥”にしたくなかった。


鈴緒は笑おうとして、笑えなかった。


「……桜さま。ごめんなさい。わたし、明るくしてるの、ずるいですよね」


「ずるくない」


私は言った。


「明るいのは、強い」


鈴緒の目が揺れる。


「でも……幸せは、私には……」


私は一呼吸おいて、言葉を選んだ。

いまの私に必要で、鈴緒にも必要な言葉。


「鈴緒も、幸せになっていい」


鈴緒の涙が、また落ちた。


「……桜さまが言うと、ほんとみたい」


「ほんとだよ」


私は鈴緒の手を取って、結び紐ごと握った。


「だから私、生きる。……私のためだけじゃない。鈴緒が、いつか恋をしていいって言える世界が欲しい」


鈴緒は泣きながら笑って、ぎゅっと私の手を握り返した。


「……じゃあ、わたしも。いつか。『幸せになっていい』って、自分に言えるようになります」


その言葉が、私の背骨になった。



翌日から、私は“稽古”という名の拘束を受けた。

顔合わせでの所作、座り方、立ち方、扇の持ち方、言葉の抑揚。

「花嫁巫女は、ただ美しくあればいいのではない」

年長の巫女・千鳥ちどりさまが言った。

彼女は一二五の巫女のうち、主殿に近い格の巫女で、私よりずっと上。

けれど声は優しかった。

「美しさは、祈りの器になる。だから所作は祈りそのもの。……乱れれば、心の乱れが伝わる」

私は頷きながら、足が痺れるのを耐えた。

正座で何刻も動かないなんて、心より先に体が折れそうになる。

鈴緒は稽古場の端で、私のために道具を揃えたり、汗を拭う布を準備したり、忙しく動いている。

たまに私と目が合うと、口だけで「生きる」って言ってくる。

それが可笑しくて、救いだった。

一方、薫は稽古の間、ほとんど口を出さない。

私の所作が乱れれば目が細くなるけれど、叱らない。

叱る代わりに、稽古の合間にそっと水を差し出してくれる。

私はその優しさが怖い。

薫が“正しさ”の向こう側へ踏み出し始めている証だから。

稽古の合間、千鳥さまが私の髪の簪に視線を落とした。

「……その簪」

私は背筋が凍り、反射的に手で隠した。

千鳥さまは驚いた顔をして、それから小さく笑った。

「隠さなくていい。……誰が渡したかは聞かない」

「……」

「ただ、ひとつだけ。花嫁巫女が“自分の意志で飾るもの”を持つのは珍しい」

千鳥さまはそう言い、私の目を見た。

「あなたは、生きたいのね」

私は息を止めた。

どうしてわかるの。

所作の乱れ? 目の揺れ? 簪の隠し方?

私は答えられないまま、でも嘘はつけなくて、頷いた。

千鳥さまは静かに言った。

「なら、なおさら所作を覚えなさい。……生きたい者ほど、言葉と姿で戦わねばならない」

戦う。

私はその言葉を胸にしまった。



稽古場を出て、回廊を曲がったところで足が止まった。

簾の陰から、抑えた声が聞こえたからだ。


「薫さま。これ……」


若い神官が、両手で小さな包みを差し出していた。細い結び紐が覗いている。

薫は背筋を伸ばしたまま、受け取らない。


「……受け取れません」


「でも、薫さまが好きで……! 今日の所作、すごく――」


「言わないで」


薫の声は、怒りではなく、懇願に近かった。


「……私に“好き”を言わないで。あなたの未来が、私に絡まる」


「未来って……」


神官の声が揺れる。


薫はほんの一瞬、黙った。

そして、淡々と――でも壊れそうなほど静かに言った。


「私は“常若の年”を越えられない。……巫女は、そういう生き方を背負ってる」


簾の陰の空気が凍った。


「……じゃあ、薫さまは誰とも」


「誰とも約束しない」


薫は言い切った。言い切ったのに、その声が微かに震える。


「私は、誰の未来にもならない。……だから、あなたも私を未来にしないで」


若い神官は唇を噛み、包みを引っ込めた。


「……すみません。俺、知らなくて……」


「知らない方がいい」


薫が息を吐くように言う。


「知らないで生きられるなら、その方が幸せよ」


足音が遠ざかっていく。

私は息ができなかった。――見てしまった。


薫は簾の陰に残ったまま、しばらく動かなかった。

そして誰もいなくなったのを確かめるように、柱に額をつけた。


肩が、ほんの少しだけ震えた。


泣いている。声を出さずに、泣いている。


胸がぎゅっと痛んだ。

薫は“正しさ”で自分を固めている。そうしないと、壊れてしまうから。


――私は生きたい。私のためだけじゃない。

薫が、誰かの未来になれる世界が欲しい。

鈴緒が、笑いながら恋をできる世界が欲しい。


私は髪の簪に触れた。冷たいのに、芯がある。

生きる。幸せになる。

それは、誰かの救いにもなる。





午後、稽古が終わるころ。

御殿のほうから使いが来た。

「花嫁巫女・桜へ。明日の顔合わせの儀、御殿の間にて――」

明日。

あと一日。

私は指先が冷たくなるのを感じた。

その夜、私はまた眠れなかった。

稽古で疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。

私は袖の内の結び紐に触れ、簪に触れ、紙片はもう燃やしたけれど、その言葉だけが残っている。

――お前の言葉が必要だ。

明日、私は言えるだろうか。

生きたいと。幸せになりたいと。

神々と人々の前で。

怖い。

そのとき、ふっと風が吹いた。

障子がわずかに鳴る。

香の匂いが、どこからともなく濃くなる。

耳の奥で、あの声。

『桜』

瀬織夜。

『怖い?』

「……怖い」

『怖いなら、怖いって言っていい。……でもね、桜。怖いのは“失う”からだよ』

「失う……」

『命。未来。好きな人。――自分自身』

私は目を閉じた。

暗闇の中で、瀬織夜の気配が寄り添う。

『ねえ、桜。神々の中にはね、遠くにいたい神もいるんだ。人に近づけば、自分の弱さが見えるから。祈りを受け取る立場でいたいから。……でも私は』

声が少し震えた。

『私は、近づきたい。だって人が泣くのが嫌だもの』

私は胸が痛くなる。

「瀬織夜さま……明日、どうなるの」

『人が決めた儀は、人が壊せる。……でも、祟りは祟りだ。荒魂は荒魂。血を求める声は強い』

祟り神。

私は唇を噛んだ。

『だから明日、“顔合わせ”はただの儀じゃない。……あなたの命を早めたい者が、あなたの心を折りにくる』

「芙蓉……」

『うん。……でも桜。あなたの言葉は、祈りより強い』

私は目を開けた。

「私の言葉が?」

『そう。だって、祈りは誰かのために捧げるけれど――あなたの言葉は、あなた自身を生かすためのものだから』

瀬織夜の声が、柔らかく笑う。

『当たり前を、思い出して。人は幸せになっていい。あなたが生きる理由は幸せになること。それ以外にない。――明日、それを言えるなら、私はあなたを抱きしめる風になる』

風。

抱きしめる風。

私は泣きそうになった。

「……言う。明日、言う」

『うん』

風が、ふっと消えた。

香の匂いが薄れる。

部屋に残ったのは、私の鼓動だけ。

明日。

顔合わせの儀。

私は布団の中で、小さく自分に言い聞かせた。

生きる。

幸せになる。

そのために、言う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ