第九章 花嫁巫女の稽古
三日後までの時間は、砂が指の間から落ちるみたいに速かった。
その朝、私は境内の端で鈴緒の声を聞いた。いつもの弾む声――なのに、どこか置いていかれそうな響きがした。
「だからね、言ってみるの。『一緒にお祭り、見たいです』って」
相手は村の娘だった。頬を赤くして、袖をいじっている。
鈴緒は自分のことみたいに真剣に、娘の背中を押している。
「で、でも……嫌われたら……」
「嫌われないよ。だって、好きなんでしょ?」
娘が小さく頷いて、走るように帰っていく。
その後ろ姿を見送った鈴緒が、ふっと肩の力を抜いた。
――私は声をかけようとして、足を止めた。
鈴緒が急に静かになったからだ。
鈴緒は袖の内から、小さな紙包みを出した。開くと、細い結び紐が一本。
さっき娘に渡していたのと似ているけれど、これは“渡せなかった側”の紐に見えた。
「……ばかだなぁ」
鈴緒が笑った。けれどすぐに、その笑いがほどけた。
「相談はできるのに。背中は押せるのに……私の恋だけは、しないって決めてるのに」
結び紐を握る指が震える。
鈴緒は唇を噛んで、声を殺して言った。
「……私だって、好きな人、いるよ」
その一言が、私の胸を刺した。
「でも言ったら、困らせる。だって私、いつか“常若の年”が来る。……そうしたら」
言葉が途切れて、鈴緒は結び紐を強く握りしめた。
ぽろ、と涙が落ちて、結び紐の上に滲む。
「……やだな。私も、幸せになりたい」
私は、物陰から一歩出た。
「鈴緒」
鈴緒がびくっとして、慌てて袖で涙を拭く。
「さ、桜さま!? い、いつから!?」
「今、来たところ」
嘘だ。
でも鈴緒の涙を“見られた恥”にしたくなかった。
鈴緒は笑おうとして、笑えなかった。
「……桜さま。ごめんなさい。わたし、明るくしてるの、ずるいですよね」
「ずるくない」
私は言った。
「明るいのは、強い」
鈴緒の目が揺れる。
「でも……幸せは、私には……」
私は一呼吸おいて、言葉を選んだ。
いまの私に必要で、鈴緒にも必要な言葉。
「鈴緒も、幸せになっていい」
鈴緒の涙が、また落ちた。
「……桜さまが言うと、ほんとみたい」
「ほんとだよ」
私は鈴緒の手を取って、結び紐ごと握った。
「だから私、生きる。……私のためだけじゃない。鈴緒が、いつか恋をしていいって言える世界が欲しい」
鈴緒は泣きながら笑って、ぎゅっと私の手を握り返した。
「……じゃあ、わたしも。いつか。『幸せになっていい』って、自分に言えるようになります」
その言葉が、私の背骨になった。
翌日から、私は“稽古”という名の拘束を受けた。
顔合わせでの所作、座り方、立ち方、扇の持ち方、言葉の抑揚。
「花嫁巫女は、ただ美しくあればいいのではない」
年長の巫女・千鳥さまが言った。
彼女は一二五の巫女のうち、主殿に近い格の巫女で、私よりずっと上。
けれど声は優しかった。
「美しさは、祈りの器になる。だから所作は祈りそのもの。……乱れれば、心の乱れが伝わる」
私は頷きながら、足が痺れるのを耐えた。
正座で何刻も動かないなんて、心より先に体が折れそうになる。
鈴緒は稽古場の端で、私のために道具を揃えたり、汗を拭う布を準備したり、忙しく動いている。
たまに私と目が合うと、口だけで「生きる」って言ってくる。
それが可笑しくて、救いだった。
一方、薫は稽古の間、ほとんど口を出さない。
私の所作が乱れれば目が細くなるけれど、叱らない。
叱る代わりに、稽古の合間にそっと水を差し出してくれる。
私はその優しさが怖い。
薫が“正しさ”の向こう側へ踏み出し始めている証だから。
稽古の合間、千鳥さまが私の髪の簪に視線を落とした。
「……その簪」
私は背筋が凍り、反射的に手で隠した。
千鳥さまは驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「隠さなくていい。……誰が渡したかは聞かない」
「……」
「ただ、ひとつだけ。花嫁巫女が“自分の意志で飾るもの”を持つのは珍しい」
千鳥さまはそう言い、私の目を見た。
「あなたは、生きたいのね」
私は息を止めた。
どうしてわかるの。
所作の乱れ? 目の揺れ? 簪の隠し方?
私は答えられないまま、でも嘘はつけなくて、頷いた。
千鳥さまは静かに言った。
「なら、なおさら所作を覚えなさい。……生きたい者ほど、言葉と姿で戦わねばならない」
戦う。
私はその言葉を胸にしまった。
稽古場を出て、回廊を曲がったところで足が止まった。
簾の陰から、抑えた声が聞こえたからだ。
「薫さま。これ……」
若い神官が、両手で小さな包みを差し出していた。細い結び紐が覗いている。
薫は背筋を伸ばしたまま、受け取らない。
「……受け取れません」
「でも、薫さまが好きで……! 今日の所作、すごく――」
「言わないで」
薫の声は、怒りではなく、懇願に近かった。
「……私に“好き”を言わないで。あなたの未来が、私に絡まる」
「未来って……」
神官の声が揺れる。
薫はほんの一瞬、黙った。
そして、淡々と――でも壊れそうなほど静かに言った。
「私は“常若の年”を越えられない。……巫女は、そういう生き方を背負ってる」
簾の陰の空気が凍った。
「……じゃあ、薫さまは誰とも」
「誰とも約束しない」
薫は言い切った。言い切ったのに、その声が微かに震える。
「私は、誰の未来にもならない。……だから、あなたも私を未来にしないで」
若い神官は唇を噛み、包みを引っ込めた。
「……すみません。俺、知らなくて……」
「知らない方がいい」
薫が息を吐くように言う。
「知らないで生きられるなら、その方が幸せよ」
足音が遠ざかっていく。
私は息ができなかった。――見てしまった。
薫は簾の陰に残ったまま、しばらく動かなかった。
そして誰もいなくなったのを確かめるように、柱に額をつけた。
肩が、ほんの少しだけ震えた。
泣いている。声を出さずに、泣いている。
胸がぎゅっと痛んだ。
薫は“正しさ”で自分を固めている。そうしないと、壊れてしまうから。
――私は生きたい。私のためだけじゃない。
薫が、誰かの未来になれる世界が欲しい。
鈴緒が、笑いながら恋をできる世界が欲しい。
私は髪の簪に触れた。冷たいのに、芯がある。
生きる。幸せになる。
それは、誰かの救いにもなる。
午後、稽古が終わるころ。
御殿のほうから使いが来た。
「花嫁巫女・桜へ。明日の顔合わせの儀、御殿の間にて――」
明日。
あと一日。
私は指先が冷たくなるのを感じた。
その夜、私はまた眠れなかった。
稽古で疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。
私は袖の内の結び紐に触れ、簪に触れ、紙片はもう燃やしたけれど、その言葉だけが残っている。
――お前の言葉が必要だ。
明日、私は言えるだろうか。
生きたいと。幸せになりたいと。
神々と人々の前で。
怖い。
そのとき、ふっと風が吹いた。
障子がわずかに鳴る。
香の匂いが、どこからともなく濃くなる。
耳の奥で、あの声。
『桜』
瀬織夜。
『怖い?』
「……怖い」
『怖いなら、怖いって言っていい。……でもね、桜。怖いのは“失う”からだよ』
「失う……」
『命。未来。好きな人。――自分自身』
私は目を閉じた。
暗闇の中で、瀬織夜の気配が寄り添う。
『ねえ、桜。神々の中にはね、遠くにいたい神もいるんだ。人に近づけば、自分の弱さが見えるから。祈りを受け取る立場でいたいから。……でも私は』
声が少し震えた。
『私は、近づきたい。だって人が泣くのが嫌だもの』
私は胸が痛くなる。
「瀬織夜さま……明日、どうなるの」
『人が決めた儀は、人が壊せる。……でも、祟りは祟りだ。荒魂は荒魂。血を求める声は強い』
祟り神。
私は唇を噛んだ。
『だから明日、“顔合わせ”はただの儀じゃない。……あなたの命を早めたい者が、あなたの心を折りにくる』
「芙蓉……」
『うん。……でも桜。あなたの言葉は、祈りより強い』
私は目を開けた。
「私の言葉が?」
『そう。だって、祈りは誰かのために捧げるけれど――あなたの言葉は、あなた自身を生かすためのものだから』
瀬織夜の声が、柔らかく笑う。
『当たり前を、思い出して。人は幸せになっていい。あなたが生きる理由は幸せになること。それ以外にない。――明日、それを言えるなら、私はあなたを抱きしめる風になる』
風。
抱きしめる風。
私は泣きそうになった。
「……言う。明日、言う」
『うん』
風が、ふっと消えた。
香の匂いが薄れる。
部屋に残ったのは、私の鼓動だけ。
明日。
顔合わせの儀。
私は布団の中で、小さく自分に言い聞かせた。
生きる。
幸せになる。
そのために、言う。




