表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/26

第八章 紙片の温度

その夜、私は部屋の灯を落としても眠れなかった。

芙蓉の笑みが、扇の骨みたいに瞼の裏に残っている。

――あなたは美しい花嫁巫女として死ねる。

死ねる、という言葉が、あまりにも軽くて、怒りより先に寒気がした。

彼女にとって私は、役割でしかない。器でしかない。

けれど私は、もう器には戻れない。

髪の簪に触れる。

桜の花の形が指に当たり、冷たいはずなのに熱を持っているみたいだった。

私は息を吸い、ゆっくり吐いた。

怖い。

それでも、私は生きる。

――その瞬間、襖の向こうで、ごく小さな、爪先の音がした。

鈴緒の足音ではない。

見回りの神職でもない。

もっと静かで、もっと“隙間”のような気配。

「桜さま」

低い声。式部。

私は跳ねる心臓を押さえ、襖をほんの少しだけ開けた。

式部が廊下に立っている。灯の届かない場所で、目だけが光った。

「……今、いいか」

「はい」

式部は周囲を見回し、私の手に細い紙片を落とした。

落としたというより、風が運んできたみたいに自然だった。

「声を出すな。読むだけ読んだら燃やせ。……殿下からだ」

殿下。

胸が、ぎゅっと縮む。

私は紙片を握った。指先がかすかに震える。

式部は淡々と続けた。

「俺は何も見ていない。……いいな」

そう言って去っていった。

廊下の暗がりに吸い込まれるみたいに、影が消える。

私は襖を閉め、灯を少しだけ寄せた。

紙片は掌に収まるほど小さく、けれど重い。

火の明かりで文字が浮かび上がる。

『桜。

 今日は無事か。怖い思いをさせた。

 だが、怖いと言っていい。泣いていい。

 俺はお前の“怖い”を奪うためじゃなく、抱きしめるためにいる。

 三日後、顔合わせの儀で、俺は皇子としてお前の前に立つ。

 その場で、まず“順番の繰り上げ”を撤回させる。

 だが上は抵抗する。芙蓉が動く。

 だから――お前の言葉が必要だ。

 お前が生きたいと言うこと。幸せになりたいと言うこと。

 誰にも奪えないように、はっきり言ってくれ。

 俺は、その言葉を守る。

 簪が不安になったら触れろ。

 そこに、俺がいる。

 秋仁』

読み終えた瞬間、喉の奥が熱くなった。

胸が痛い。嬉しいのに、苦しい。

――俺はお前の“怖い”を奪うためじゃなく、抱きしめるためにいる。

そんな言葉、ずるい。

泣いていいと言われると、泣きたくなる。

私は紙片を胸に押し当てた。

指先に、文字の凹凸が残る。

まるで秋仁の声が、紙から滲んでくるみたいだった。

そのとき、襖の向こうで、また小さな音。

「桜さま? 起きてます?」

鈴緒の声。

私は慌てて紙片を袖に隠し、襖を開けた。

「どうしたの」

「……寝てるかなと思って。眠れないですよね、そりゃ」

鈴緒は湯呑みを抱えていた。

甘い香り。どうやら温かい甘酒だ。

「ほら。これ飲むと、ちょっと落ち着くって薫さまが……え、桜さま?」

鈴緒が私の顔を見て、目を丸くした。

「……泣いてる?」

「泣いてない」

今日二回目の否定。

鈴緒は私をじっと見て、それからふっと笑った。

「泣いていいですよ。桜さま」

秋仁と同じことを言う。

私は悔しくて、でも否定できなくて、湯呑みに手を伸ばした。

「ありがとう」

「うん。……桜さま」

「なに」

「……殿下から、何か来ました?」

鋭い。

鈴緒は普段おしゃべりで、ふわふわして見えるのに、こういうときは急に鋭い。

私は一瞬迷ってから、袖の中の紙片の存在を、鈴緒にだけは隠せない気がした。

「……来た」

鈴緒は湯呑みを落としそうになり、慌てて両手で抱え直す。

「やっぱり! えへへ。……よかった」

「よかった?」

「よかったです。桜さまが一人じゃないって、わかるから」

その言葉が、胸に沁みる。

鈴緒は湯呑みを差し出して言った。

「飲んで。温かいうちに。……それとね、桜さま。三日後は、私も薫さまも、桜さまの味方です。たぶん……式部さまも」

私は湯を一口飲んだ。甘さが喉を撫でる。

生きている味がした。

「……味方が増えると怖い」

「怖い?」

「うん。私の幸せのために、誰かが傷つくのが」

鈴緒は首を振った。

「傷つくんじゃないですよ。桜さま。……生きるって、そういうことも含めて“選ぶ”ことなんだと思う」

鈴緒がそんなことを言う。

私は驚いて、思わず笑ってしまった。

「鈴緒、急に大人みたい」

「私だって、いつか花嫁巫女になるかもしれないし」

鈴緒は冗談みたいに言って、でもすぐに顔を曇らせた。

「……だから、桜さまが生きてくれたら、きっと私も生きていいって思える」

胸が詰まった。

私は湯呑みを置き、鈴緒の手を取った。

「生きていいよ」

鈴緒の目が揺れる。

「桜さまが言ってくれると、信じられる」

私は頷いた。

人は幸せになっていい。

それを自分で信じるのは難しい。

でも誰かに言われると、少しだけ信じられる。

秋仁の紙片は、袖の中でまだ温かかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ