第七章 芙蓉の笑み
同じ日の午後、私は御殿へ呼ばれた。
花嫁巫女としての“顔合わせ前の作法確認”だと言われた。
見回りに挟まれ、廊下を歩く。
風が通る。木々が揺れる。
外の世界は変わらずそこにあるのに、私の周りだけが細い檻で囲われている。
御殿の間は、香の匂いが濃かった。
簾の向こうに、人影が座っている。
「花嫁巫女・桜。入ります」
声をかけ、膝をつく。
「お入りなさい」
高く澄んだ声。
芙蓉公主だ。
簾が少し上がり、彼女の姿が見えた。
華やかな衣。整った髪。扇の持ち方ひとつとっても“育ち”が違う。
私は、彼女が美しいことを認めざるを得なかった。
美しい――けれど、その美しさは刃の鞘みたいに冷たい。
「昨日は驚きましたわ」
芙蓉は笑う。
「花嫁巫女が夜の庭に……しかも殿下と」
心臓が跳ねる。
でも、私は視線を落としすぎないようにした。薫の言葉を思い出す。
殿下を一人で戦わせない。私自身が掴みに行く。
「……私は、迷っていました」
正直に言うと、芙蓉の笑みが少しだけ歪んだ。
「迷い? 花嫁巫女が?」
「私は……生きたいと思ってしまいました」
口にした瞬間、空気が凍った気がした。
芙蓉は扇を閉じる。
「あなた、賢くないのね」
その言葉は、侮蔑というより“哀れみ”に近かった。
「この社で生きるには、賢くなければならない。欲を持たず、望みを持たず、与えられた役を演じるのが一番楽ですわ」
私は喉が痛んだ。
「芙蓉さまは……楽ですか」
自分でも驚くほど、真っ直ぐに聞いていた。
芙蓉の目がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。
でも確かに、“作られた笑み”が薄くなる。
「……あなた、余計なことを聞くのね」
「すみません」
私は謝ったが、芙蓉は怒らなかった。扇を開き、口元を隠す。
「楽なわけがないでしょう。私は私の役を演じているだけです」
その声は静かだった。
ひどく、静かで――私の胸に刺さった。
芙蓉は私を見た。
「殿下は……優しい方です。優しいから、あなたのような巫女に同情する」
「同情ではありません」
私が言い返すと、芙蓉は眉を上げた。
「言い切れるの?」
私は言葉に詰まった。
秋仁の優しさは、確かに私を救った。
でもそれが“同情ではない”と証明する術が、今の私にはない。
芙蓉は静かに言う。
「殿下は国の宝。あなたは神の器。……交われば、どちらかが壊れる」
私は、簪の重さを思い出した。
秋仁は言った。器じゃない、人だと。
私は息を吸い、言った。
「壊れるなら……壊れてもいいです」
芙蓉が目を細める。
「あなたは死ぬのに?」
「死にたくないからです」
私は震えた。
それでも言った。
言わなければ、また檻に戻る。
「私は、生きる理由が……幸せになることだって、知ってしまいました」
芙蓉は、扇の奥で息を止めたように見えた。
そして小さく笑う。
「……羨ましい」
その言葉が、薫と同じで、私は目を見開いた。
芙蓉はすぐに表情を戻す。
作られた笑みを被る。
「けれど、羨ましいからといって、私は譲れない」
彼女は扇を閉じ、私を見据えた。
「殿下は国の未来です。……国の未来が、あなたの幸せひとつで揺らぐなら、その幸せは“罪”になりますわ」
私は唇を噛んだ。
――罪。
またその言葉だ。
芙蓉は立ち上がり、私に近づいた。
香の匂いが濃くなる。
「桜。あなたが賢いなら、三日後の顔合わせで“何もしない”こと」
「……何もしない?」
「殿下に情を寄せない顔をする。巫女として静かに微笑む。……そうすれば、あなたは美しい花嫁巫女として死ねる」
私は、ぞっとした。
「死ねる、って……」
芙蓉は当然のように言う。
「死は、あなたの役割でしょう?」
私は胸の奥が熱くなる。
怒りなのか、恐怖なのか、わからない。
ただ――このままでは消される。
「私は……死にません」
小さな声だった。
でも、芙蓉は聞き逃さなかった。
「……ほう」
芙蓉の目が細くなる。
「なら、あなたは殿下を巻き込む覚悟があるのね」
私は頷いた。
震えながら。
「殿下を一人で戦わせません」
芙蓉は一瞬だけ黙った。
それから、扇を広げて微笑む。
「面白い」
その笑みは、美しいのに怖かった。
「なら三日後、あなたの覚悟を見せなさい。……私は私の役を演じますわ」
それは宣戦布告だった。
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
足が震える。
でも、目は逸らさない。
廊下へ出た瞬間、息ができるようになった。
鈴緒が駆け寄る。
「桜さま! 大丈夫ですか!?」
「……大丈夫」
嘘じゃない。
怖いけど、心は折れていない。
鈴緒が私の髪を見て、小声で言った。
「簪……綺麗です。……絶対、桜さまに似合ってる。生きる女の飾り、です」
私は小さく笑った。
生きる女。
その言葉が、私の背骨になる。
三日後。
皇子の御成り。
花嫁巫女の顔合わせ。
世界が私を殺すために整える舞台なら――
私はそこで、生きるための言葉を言う。
幸せになっていい。
生きる理由は幸せになること、それ以外にない。
私は、その当たり前を――取り戻しに行く。




