第五章 簪の重さ
あの夜、裏庭から戻る道は、行きよりずっと長かった。
式部が先を歩き、私と秋仁は一定の距離を保つ。――保つべき距離があること自体が、もう苦しい。
鈴緒は部屋の襖の前で待っていた。灯りを落としたまま、私の顔を見るなり息をのむ。
「……桜さま、泣いて……」
「泣いてない」
言い訳みたいに言った瞬間、頬が熱くなる。
鈴緒は私の髪を見て、さらに息を止めた。
「……簪」
私は反射的に手で隠した。
隠したくせに、触れて確かめたくなる。髪に差し込まれた桜の形が、確かな重さでそこにある。
秋仁の“覚悟”の重さだ。
式部が外の廊下を見張りながら、淡々と言った。
「部屋から出るな。今夜の件は、薫が“見なかったことにする”と言ったが、芙蓉は別だ。あの女は“なかったこと”を材料にする」
「材料……」
私の声が震える。
式部は頷いた。
「明日から見回りが増える。花嫁巫女は飾り物だ。飾り物が勝手に動くと、手入れをしたがる」
飾り物。
またその言葉。
鈴緒が悔しそうに唇を噛む。
「桜さまは飾り物じゃないです……!」
「言葉は小さく」
式部が低く言い、鈴緒は慌てて口を押さえた。
秋仁が、私をまっすぐ見た。
「桜。三日後、俺は皇子として来る」
「……うん」
「その日まで、会えない可能性が高い。だから今、言っておく」
秋仁は一度だけ息を吸い、私の手を取った。
触れるだけなのに、指先が燃える。
「お前が怖くなったら、簪に触れろ。――それは、俺が“生かす”と決めた印だ」
私はうなずいた。
うなずいてしまった。
その瞬間、自分の人生がほんの少し、私のものになった気がした。
式部が咳払いをひとつ。
「殿下、そろそろ」
秋仁は名残惜しそうに私の手を離し、最後に鈴緒へ視線を向ける。
「鈴緒。頼む」
「……はい!」
鈴緒は涙を堪えながら、強く頷いた。
秋仁はそれだけで背を向け、闇に溶けるように去っていった。
その背中を追ってしまいそうになって、私は畳に膝をついた。
――生きたい。
その願いは、まだ小さく震えている。
でも、もう消せない火だ。
鈴緒が私の隣に座り、そっと囁く。
「桜さま。……幸せになっていいって、言ってくれたんですよね」
「……言ってくれた」
鈴緒は、ぎゅっと私の袖を握る。
「それなら。……桜さまが生きる理由は、幸せになることです。――私も、それを信じます」
私は喉が詰まって、返事ができなかった。
返事の代わりに、髪の簪に触れた。
冷たい金属のはずなのに、指先が温かい。
私は心の中で、そっと繰り返した。
人は幸せになっていい。
あなたが生きる理由は幸せになること、それ以外にない。
忘れたくない。
忘れさせられたくない。




