第四章 花嫁
その言葉が、胸の奥で鈍い音を立てた。
「鈴緒。……順番って、どういう……」
鈴緒は顔を青くし、周囲を見回してから私の袖を掴んだ。
「今朝、御殿の渡り廊下で……禰宜さまたちと、上の方の役人が……。『次の“常若の儀”、花嫁巫女は――“桜”に』って……!」
耳が、熱い。血が一気に引いていくのがわかる。
花嫁巫女。
その言葉は、この社のなかで一番やさしくて、いちばん残酷な呼び名だ。
華やかな衣を与えられ、髪を結い、誰より美しく飾り立てられたあと――神へ“嫁ぐ”ために命を返す巫女。
私は……それに選ばれた?
「……まだ、一年あるはず」
声が、自分のものじゃないみたいに震えた。
私は十九歳。二十歳の誕生日を迎えるまでは、まだ時間が――あるはずだった。
だから、昨夜だって。秋仁の羽織を返しに行くふりをして、会いに行ってしまった。まだ、間に合うと思っていたから。
鈴緒は首を振った。涙が、もう目尻に溜まっている。
「それが……『順番を繰り上げる』って。戦の気配があるからって。荒魂が騒ぐからって。『鎮めが遅れれば、祟りが――』って……!」
戦――。
私は、遠くの国の話のように聞こえていたその言葉を、はじめて自分の足元の地面として感じた。
世界が揺れるとき、いつも真っ先に犠牲にされるのは、声を持たないものだ。
巫女。
花嫁。
人柱。
私の喉の奥が、ひりつく。
「桜さま……っ」
鈴緒の手が震えている。私のために怒っているのがわかる。泣いているのもわかる。
私はその手を、そっと包んだ。
「大丈夫」
――嘘だ。
全然、大丈夫じゃない。
でも、鈴緒の前で崩れたら、私は立ち上がれない気がした。
「まず、確かめよう」
自分に言い聞かせるみたいに言って、私は裾を整えた。
御殿へ行けばいい。
話を聞けばいい。
そして――私が、何をすべきか決めればいい。
幸せになっていい、なんて。
そんな当たり前を、この社は許さない。
そう思ったのに。
胸の深いところで、昨夜の温度がまだ燃えている。
秋仁の指が触れたときの、あのほどけるような感覚が、私を裏切るみたいに残っている。
――私は、生きたい。
その願いが、口を開ける。
御殿の渡り廊下は、朝の光が差し込んで白い。
磨かれた板は、私の足袋の下で冷たく、やけに現実的だった。
廊下の先、簾の向こうで声がする。
私は鈴緒と視線を交わし、柱の陰に身を寄せた。
「……常若の儀は、予定より一月早める」
聞き覚えのある、禰宜の声。
淡々としていて、感情がない。
「花嫁巫女は桜。異論は?」
別の声が、短く答える。
「異論はありません。桜は勤勉で、心も清い。女神の御前に立つに相応しい」
「ならば、御殿より衣装を」
衣装。
それは、祝いのように聞こえる言葉だ。
でも――衣装は棺の布だと、私は知っている。
私は息を止めた。
鈴緒が、私の袖を握る。握力が痛いほど強い。
怒りと悲しみが混ざって、震えていた。
「……では、皇子殿下の御成りは」
皇子。
私は心臓が跳ねた。
「花嫁巫女の顔合わせの儀に合わせる。……だが、余計な騒ぎは起こすな。巫女に人の情を寄せさせるな。花嫁は“神”のものだ」
その言葉が、刃物みたいに耳を切った。
――人の情を寄せさせるな。
昨夜の私に向けた警告みたいで、喉が苦しくなる。
誰かに見られた? 気づかれた? 秋仁といたことを?
私は視線を落として、板の木目を見た。
この社では、恋は罪だ。
恋は“穢れ”だ。
でも――。
穢れと言われてもいいから、私はあの温度を失いたくない。
そう思ってしまう自分が、怖い。
「……桜さま」
鈴緒が小声で呼ぶ。
私は小さく頷き、廊下を離れた。
足が自分のものじゃないみたいに重い。
――皇子殿下の御成り。
その言葉が、頭の中で反響する。
秋仁。
あの人は、何者なの。
庭に出ると、空は澄みきっていた。
昨日の夜の月明かりが嘘みたいに、朝の光は無慈悲に明るい。
私は水盤で手を清めようとして――そこで、立ち尽くした。
水盤の向こうに、秋仁がいた。
薄い作務衣のまま、袖をまくり、木桶で水を運んでいる。
大工見習いとして働く姿は、どこから見ても“ただの”青年なのに。
それでも、私は知ってしまった。
昨夜、回廊で聞いた声。
あの切り替わる表情。
そして「運命を誤魔化す時間だ」という言い方。
彼は、何かを知っている。
秋仁も私に気づいた。
一瞬、目が合う。
それだけで、胸の奥が痛い。
彼は、何もなかったように歩いてきて、誰にも聞かれない距離で囁いた。
「……顔色が悪い。何があった?」
私は声が出なかった。
喉の奥に固いものが詰まっている。
鈴緒が、横で耐えきれずに言う。
「桜さまが……次の花嫁巫女に……!」
秋仁の目が、わずかに細くなった。
「……もう、決まったのか」
「知ってたの?」
私の声は自分でも驚くほど低かった。
秋仁は一拍だけ黙り、それから頷いた。
「噂程度は。だが、正式に“順番”が動いたなら……急ぐ」
「急ぐって、何を」
秋仁は私の手首をそっと掴み、水盤の陰へ引いた。
その動きが、やけに慣れている。
指先が触れる。温度が伝わる。
昨夜、ほどけかけた心が、また同じところで壊れそうになる。
「桜。聞け」
名前を呼ばれて、胸が震えた。
「お前は、幸せになっていい」
息が止まる。
「……そんなこと、言わないで」
私は反射的に言った。
言われた瞬間、信じたくなってしまうから。
秋仁は、握っていた手をほどき、今度は指先で私の手の甲をなぞった。
あまりにも優しくて、涙が出そうになる。
「言う。今、言う。……お前が生きる理由は、幸せになることだ。それ以外に、何がある」
私は、唇を噛んだ。
否定できない。
でも、肯定するのも怖い。
「……私は、巫女」
「巫女だから幸せになれない理由にはならない」
秋仁の声は低い。
でも、その低さには、怒りじゃなく決意が混ざっていた。
「俺が――」
その続きを言おうとしたとき。
「桜」
背後から、冷えた声がした。
私は振り向く。
薫が立っていた。
同格の巫女で、いつも凛として、余計な情を見せない人。
その目が、私と秋仁の距離を正確に測っていた。
鈴緒がびくっとする。
秋仁は一歩下がり、私との距離を作った。
その動作が――慣れすぎていて、胸が痛む。
薫は私の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「御殿の話、聞いた?」
「……聞きました」
「なら、今日からあなたは花嫁巫女。余計なことはするな。……“人の情”は捨てなさい」
私の胸に、また刃物が刺さる。
薫は私を責めているのではなく、規律を告げているだけだ。
それがわかるから、余計に苦しい。
「薫さま……」
鈴緒が言いかける。薫は視線を向けただけで黙らせた。
「秋仁、と言ったわね。あなたは持ち場に戻りなさい。巫女の側に立つ理由はない」
秋仁は一度だけ私を見る。
その目が「大丈夫」と言っている気がして、私は苦しくて目を逸らした。
「承知した」
秋仁は頭を下げ、去っていく。
薫は私の袖を掴み、少し強引に歩かせた。
「来なさい。花嫁巫女には、花嫁巫女の務めがある」
私は鈴緒の手を探し、握った。
鈴緒は震えながらも、強く握り返してくれた。
――人は幸せになっていい。
秋仁の言葉が、胸の奥で燃える。
その火を、消したくない。
花嫁巫女の務めは、まず“清め”だった。
湯殿で、香を焚き、髪を洗い、爪を整え、肌に白粉を薄くのせる。
それは祝言の支度みたいに見えるのに、私にとっては“旅立ち”の準備だった。
薫は淡々と指示を出す。
「髪は結い直す。指先は傷を作るな。花嫁巫女の身体は、神へ捧げる器だ」
器。
私は鏡の中の自分を見た。
いつもより白く、いつもより静かな顔。
その顔が、私のものじゃない。
「桜さま……」
鈴緒が泣きそうな顔で櫛を通す。
私はその手を止め、鏡越しに笑おうとした。
「大丈夫」
また嘘だ。
鈴緒は唇を噛んで、首を振った。
「大丈夫じゃないです。桜さまは……桜さまは生きていいんです。生きるのに、許可なんていらないのに……」
その言葉に、胸が詰まった。
許可なんていらない。
当たり前だ。
でも、ここでは許可が必要だ。
神の許可。
社の許可。
伝統の許可。
私は鏡の中の自分に問いかける。
――私は、誰のために生きてきた?
神のため。
社のため。
人々のため。
それは誇りでもあった。
だけど――私自身のための人生は、どこにある?
涙が落ちそうになって、私は目を伏せた。
そのとき、湯殿の外から、控えめな咳払いが聞こえた。
「失礼」
男の声。
薫が襖を開けると、そこに式部が立っていた。
巫女付きの侍従――社の雑務を取り仕切る男で、いつも無表情で、必要なことだけを言う人。
「花嫁巫女への伝達だ。……皇子殿下の御成りが、三日後に早まった」
三日後。
私の指先が冷える。
薫が眉を上げる。
「早まった理由は」
「戦の兆し。荒魂が騒ぐ。……上は焦っている」
式部は淡々と告げた。
焦っているのは“上”。
その焦りのしわ寄せが、私の命になる。
薫は短く頷き、私を見た。
「聞いたわね。三日後、花嫁巫女は皇子殿下と顔合わせ。失態は許されない」
私は、喉の奥が苦しくて、頷くだけしかできなかった。
式部は立ち去ろうとして――ふと、私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「……昨夜の回廊。見回りが増える。気をつけろ」
心臓が跳ねた。
薫は気づかなかったふりをしているのか、背を向けたままだ。
私は式部の背中を見送った。
彼は何を知っているの。
誰の味方なの。
鈴緒が小さく囁く。
「……式部さま、桜さまに優しい時がありますよね」
「優しい……のかな」
「たぶん。あの人、怖い顔してるけど、泣いてる子どもには甘いって噂です」
鈴緒の言い方が可笑しくて、少しだけ息が緩んだ。
こういう小さな笑いが、私を繋ぎ止める。
――生きる理由は、幸せになること。
秋仁の言葉が、また胸を叩く。
私は、幸せになっていいの?
そう問うだけで、罪になる気がした。
夜。
私は一人、社の奥へ向かった。
花嫁巫女は外へ出てはいけない。
そう言われたばかりなのに。
でも、どうしても確かめたかった。
ここに祀られているのは、私と対の女神――瀬織夜。
下位の神。
だからこそ、私のような巫女が仕える神。
人々の願いを拾い、風を運び、桜を咲かせる神。
灯明の火が揺れて、薄い香の匂いが満ちる。
「瀬織夜さま」
声にした瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
私は祈ってきた。
この社の繁栄を。
人々の無事を。
そして――自分の命を、当然のものとして捧げる覚悟を。
でも、今は。
「……怖いです」
口から、言葉が落ちた。
「死ぬのが怖い。……生きたい。誰かを好きになってしまった」
沈黙。
神は、基本的に顕れない。
それでも、私は待った。
風が、ふっと吹いた。
灯明が揺れ、香の煙が一筋、私の頬を撫でる。
耳の奥で、柔らかい声がした。
『……やっと言ったね、桜』
私は息をのんだ。
『怖くていい。生きたくていい。……それが、人だもの』
瀬織夜。
声は幼いようで、どこか古い。
私は涙が滲むのを止められなかった。
『……順番を動かしたのは、人だけじゃない』
「……え?」
『荒魂が騒ぐとき、人は焦る。焦れば“捧げもの”を増やす。――でも、荒魂はそれを喜ぶ。そうやって力を増す』
祟り神。
私は体が冷たくなる。
『だから私は……ずっと見てきた。巫女たちが、花嫁になって消えていくのを。止められないまま、ただ祀られて――』
声が、わずかに震えた。
『……神である私が、何もできないままなのは――おかしいと思った』
私は額を床に付けた。
「瀬織夜さま……」
『ねえ、桜。あなたは幸せになっていい』
その言葉は、秋仁とは違う温度で胸に届いた。
理屈ではなく、祈りのように。
『あなたが生きる理由は、幸せになること。それ以外に、ないよ』
私は嗚咽を噛み殺した。
こんな言葉を、神から聞くなんて思わなかった。
『……でも、神々の中には“人に寄り添いすぎるな”と言う者もいる。神は神らしく、遠くに在れ、と。――それが正しいと思ってきた。でも……』
瀬織夜の声が、自分に言い聞かせるみたいに低くなる。
『人の幸せを願わずして、なにが神か』
それは、自分自身を叱る声だった。
誇りでも、怒りでもない。
ずっと堪えてきたものが、やっと言葉になったみたいな声。
『私は、あなたを守りたい。……でも、私は強くない。下位の神だ。顕れる力も少ない。だから――人の力がいる』
「人の力……」
『あなたが好きになった人。……あの人は、ただの大工ではないね』
心臓が跳ねた。
「瀬織夜さま、知ってるの?」
風が、もう一度吹く。
灯明が揺れて、火が少しだけ大きくなった。
『気配が違う。……高いところにいる人の匂いがする。でも、あなたを見ている目は――“ただの男”だ』
私の喉が熱くなる。
秋仁。
あなたは、本当に何者なの。
『三日後。皇子が来る。……その顔合わせは、あなたの“幸せ”を奪うための儀になるかもしれない。だから桜――選んで』
選ぶ。
私が?
『生きたいなら、生きるって言って。幸せになりたいなら、幸せになりたいって言って。……神に捧げるだけが、あなたの道じゃない』
私は震えた。
生きたい。
幸せになりたい。
その言葉を口にするだけで、世界が変わってしまう気がした。
怖い。
でも――。
私の中で、何かが静かに折れて、何かが立ち上がる。
「……私は」
声が、かすれる。
「私は、生きたいです」
言った瞬間、胸が痛くて、でも少しだけ息ができた。
瀬織夜の声が、ふっと笑う。
『うん。いい子。――それが、あなたのはじまり』
私は涙を拭った。
まだ、何も変わっていない。
三日後、皇子が来る。
花嫁巫女として私は飾られ、神へ嫁ぐ準備を進めさせられる。
それでも。
私の中の“答え”は、もう戻らない。
私は幸せになっていい。
生きる理由は幸せになること、それ以外にない。
この当たり前を――私は、取り戻したい。
社へ戻る途中、回廊の陰で誰かが待っていた。
秋仁だった。
暗がりに溶けるように立っていて、私が近づくと、すぐに手を伸ばした。
肩に触れるだけ。けれど、その触れ方が、昨夜と同じ優しさだった。
「……どこへ行っていた」
責める声じゃない。
心配の声だ。
「祈りに」
私は答えた。
秋仁は眉を寄せ、私の顔を覗き込む。
「泣いた?」
「……少し」
秋仁は何も言わず、私の額に自分の額を寄せた。
子どもをあやすみたいに。
でも、その近さに、私は熱くなる。
「三日後だ」
秋仁が囁く。
「皇子が来る」
私は息を止めた。
「……知ってるの?」
「知っている」
秋仁の声が、苦しそうに揺れた。
「桜。――俺は、お前を花嫁にしたくない」
花嫁。
神の花嫁ではなく。
その言い方が、胸を刺す。
「秋仁……」
「俺は、お前を生かす」
その宣言は、祈りみたいに強かった。
「たとえこの社のすべてが敵になっても。たとえ神々の一部が怒っても。……お前が幸せになる道を、俺は奪わせない」
私は、怖かった。
秋仁の言葉が、あまりにもまっすぐで。
信じたくなってしまうから。
「……私、巫女なのに」
「巫女だからこそだ」
秋仁は私の両手を取った。
「祈ってきただろう。誰かの幸せのために」
私は頷く。
「なら、今度は――お前が幸せになれ。お前自身のために」
涙が、ぽろっと落ちた。
止めようとしたのに、止まらない。
秋仁の指が、その涙を拭う。
「泣くな。……泣くなら、俺のところで泣け」
私は、とうとう堪えきれなくなって、秋仁の胸に額を押し付けた。
布越しに心臓の音がする。
生きている音。
秋仁の腕が私の背に回る。
強くはない。逃げられないほどではない。
でも、離れたくなくなる抱き方だった。
――私は、幸せになっていい。
瀬織夜の声が、遠くで重なる。
そのとき。
回廊の端で、衣擦れの音がした。
私は反射的に離れようとしたが、秋仁の腕が一瞬だけ強くなる。
「逃げるな」
囁きが耳を打つ。
「……ここからは、俺が誤魔化す」
闇の向こうから現れたのは――式部だった。
相変わらず無表情で、こちらを見ている。
でも、その目は冷たくない。
「……見回りが増えたと言ったはずだ」
式部は淡々と言う。
私は青ざめた。
見られた。終わった。
けれど式部は、ため息のように続けた。
「……この程度で騒ぐな。騒げば嗅ぎつけられる」
秋仁が静かに言う。
「助かる」
式部は小さく顎を引いた。
「三日後。皇子の御成り。……その前に、会うなら今夜しかない」
私は目を見開いた。
会う?
皇子と?
それとも――。
秋仁が一瞬だけ、苦い顔をした。
式部は私を見た。
「桜さま。――あなたは、幸せになりたいのか」
唐突な問い。
私は答えられない。
式部は続けた。
「幸せになるには、覚悟がいる。……あなたの幸せは、誰かの面子を潰す。誰かの信仰を揺らす。誰かの“正しさ”を壊す」
胸が痛む。
「それでも、望むなら――俺は道を作る」
式部が、そんな言葉を言うなんて思わなかった。
私は秋仁を見る。
秋仁は頷いた。
「桜。答えろ。……お前はどうしたい」
夜の空気が冷たい。
でも、私の中は燃えている。
私は、息を吸って――言った。
「……幸せになりたい」
その言葉は、震えた。
でも、確かに私の声だった。
式部が小さく頷く。
「なら――今夜、御殿の裏庭に来い。桜の木の下だ」
そう言って、彼は闇に溶けた。
残されたのは、私と秋仁と、夜の匂い。
秋仁は私の手を握り直した。
「今夜、全部話す」
全部。
それは、正体のこと?
皇子のこと?
私の運命を変える方法のこと?
私は頷くしかできなかった。
胸が、怖いほど高鳴っている。
三日後。
皇子が来る。
その前の今夜が――私の人生の分かれ道になる。
回廊の向こう、桜の枝が風に揺れた。
花のない季節なのに、なぜか花びらが舞った気がした。
――そして私は、初めて思った。
もし神が、私の幸せを許さないなら。
私は神にだって、抗ってみせる。
幸せになるために、生きる。
そのためなら、何だって――。
自室へ戻る道すがら、私は何度も指先を握ったり開いたりした。
秋仁の手の温度が残っている。残っていることが怖い。怖いのに、確かめたくて、また握ってしまう。
花嫁巫女の部屋は、いつもより静かだった。
襖を閉めた瞬間、外の音が一段遠くなる。ここは祝福の場のはずなのに、棺の中みたいに息が詰まる。
鈴緒がついてきて、私の背中にそっと手を添えた。
「桜さま。……今夜、本当に行くんですね」
「……行く」
言い切った途端、喉が痛んだ。
私は“行く”と決めた。神前で生きたいと口にした。秋仁にも、式部にも、幸せになりたいと言った。
もう戻れない。戻るつもりもない。
鈴緒は頷いた。目は赤いのに、唇はきゅっと結ばれている。
「私、見張りします。薫さまに気づかれないように、ちゃんと――」
「無茶はしないで」
「無茶します。……桜さまが死ぬのを黙って見てる方が、無茶です」
そう言って、鈴緒は笑った。笑顔が、泣き顔みたいだった。
私は息を吐き、畳に膝をついた。
――三日後。
皇子の御成り。
その顔合わせは、私に“神の花嫁”としての鎖を掛ける儀式になる。
ならば今夜は、鎖を外す鍵を探す夜だ。
灯りを落として横になると、天井の木目が夜の川みたいに流れて見えた。
目を閉じても、眠りは来ない。
ふと、胸の奥に風が吹いたような感覚がした。
神前で聞いた声が、薄く蘇る。
『選んで』
瀬織夜の声。
私は胸に手を当てた。
――選ぶ。
生きる。
幸せになる。
その“当たり前”を、私は取り戻したい。
夜半。
鐘の音がひとつ、遠くで鳴った。見回りの合図だ。
鈴緒が襖を少し開け、顔だけ覗かせる。
「今です。式部さまが……」
廊下の向こうに、影が立っていた。
式部だ。足音がない。いるのに気配が薄い。あの人は、いつも“場の隙間”みたいに現れる。
私は外套を羽織り、髪を簡単にまとめた。花嫁巫女として結い直した髪は、解くのが惜しいくらい整っていたけれど、今夜は“飾り”より“自由”が欲しかった。
廊下に出ると、式部が小さく頷く。
「声を出すな。足音も抑えろ。……今夜は、祟りより厄介なものがいる」
「厄介なもの?」
「人の目だ」
冷たく言うのに、どこか苛立っている。
式部は私の前を歩き、角を曲がるたびに一度止まり、気配を確かめる。
その動きは、侍従というより護衛に近い。
御殿の裏庭へ向かう途中、奉仕の女たちの寝所の灯が一つ、ふっと消えた。
見回りが増えた――式部の言葉が頭をよぎる。
庭に出ると、夜気が肌を刺した。
春ではないのに、どこか花の匂いがする。香なのか、あるいは瀬織夜の気配なのか。
裏庭の桜の木は、枝だけを黒く伸ばし、空を掴むみたいに立っていた。
花の季節じゃない。なのに、私は“ここで咲く”予感を抱いていた。
木の根元に、もう一人影がいた。
秋仁。
月明かりの下で、彼は昼よりもずっと大人に見えた。
作務衣ではなく、深い色の直垂。質が違う。布が光を吸う。
その姿だけで、胸がざわめく。
私が近づくと、秋仁はまっすぐに私を見た。
逃げ場のない視線。
「来てくれた」
それだけで、胸が熱くなる。
私は頷くしかできない。
式部は一歩下がり、周囲を見回した。
「時間は多くない。……話せ」
秋仁は息を吸い、吐いた。
「桜。まず謝る」
「……何を?」
「隠していたことを」
私は喉が乾くのを感じた。
隠していたこと。
――正体。
秋仁は、私の前で膝をついた。
その動作があまりにも自然で、私は混乱した。皇子が? 大工見習いが? 人が、こんなふうに跪く?
秋仁は額を少し下げ、静かに言った。
「俺は――秋仁。皇子だ」
世界が、一瞬止まった。
耳の奥で、血が鳴る音だけが大きくなる。
言葉の意味が、頭に入ってこない。入ってこないのに、胸の奥では「やっぱり」と思っている自分がいる。
「……嘘」
やっと出た声は、ひどく掠れていた。
秋仁は顔を上げた。月の光が、その目を照らす。
逃げない目。
「嘘じゃない。俺はこの社に、視察と……確認のために来た」
「確認……?」
「花嫁巫女の順番が動くと聞いた。上が焦っている。……祟り神を鎮めるために、巫女の命を前倒しで差し出すつもりだ」
秋仁の言葉は淡々としているのに、喉の奥が燃えるみたいに熱くなる。
「それを止めに来たの?」
「止める。……いや、正しく言うなら、変える」
秋仁は立ち上がった。
私との距離が、急に近い。近いのに、触れていない。触れていないのに、息が絡む。
「桜。お前は死ぬ必要がない」
その断言に、私は震えた。
「……でも、儀式は」
「儀式が人を殺すなら、儀式が間違っている」
式部が静かに口を挟んだ。
「その言葉を口にするだけで、お前は敵が増えるぞ、殿下」
殿下。
その呼び名が現実を突き刺す。
秋仁は、皇子だ。私は、花嫁巫女だ。
本来なら、交わるはずがない。
私は、足がすくむのを感じた。
今夜ここに来たこと自体が、もう戻れない一歩だ。
「……私、どうしたらいいの」
言ってしまった。
弱さを出してしまった。
でも、秋仁は笑わなかった。
「決めるんだ」
秋仁は私の手を取った。
指先から温度が流れ込む。怖いのに、ほどける。
「お前が生きたいなら、生きる。幸せになりたいなら、幸せになる。――それを選べ」
私は息を詰めた。
幸せ。
私は、ずっと他人の幸せを祈ってきた。
誰かのために生きることが、美しいと教えられてきた。
でも今――私は思ってしまう。
私自身が幸せでなければ、祈りは乾く。
空っぽの器は、誰も満たせない。
「……生きたい」
口にした瞬間、涙が溢れた。
悔しい涙でも、悲しい涙でもない。
長い間閉じ込めていた願いが、やっと外に出た涙だった。
秋仁は、私の指先をそっと強く握った。
「よし」
たった一言。
それが、どれほど救いだったか。
式部が小さく息を吐く。
「では次だ。殿下。――“どうやって”だ」
秋仁は頷いた。
そして懐から、小さな木箱を出した。
桜の紋が彫られている。
皇族の意匠だ。こんなものを、大工見習いが持っているはずがない。
秋仁は箱を開けた。
中にあったのは、簪だった。
桜の花の形。金に薄桃の石がひとつ、雫のように揺れている。
「……綺麗」
思わず漏れた。
秋仁は少しだけ目を細める。
「花嫁巫女の“飾り”じゃない。――生きる女の飾りだ」
秋仁は簪を手に取り、私の髪に触れた。
結い直した髪の根元に、そっと差し込む。
その仕草が、祈りみたいに丁寧で、私は息を忘れた。
「これで、お前は俺のものだと言いたいわけじゃない」
秋仁が囁く。
「逆だ。……俺が、お前の人生を邪魔しないための印だ」
印?
「もし儀式が迫って、お前が“神の花嫁”として引きずられそうになったら――その簪を見せろ。俺の名を言え。式部が動く。俺も動く」
私は震えた。
皇子の名は、刃だ。
守るためにも切るためにも使える。
秋仁はそれを、私に渡した。
「……怖くないの?」
「怖い」
秋仁は即答した。
「皇子として、国として、伝統として……全部を敵に回す。怖くないはずがない」
それでも、と秋仁は続けた。
「でも――お前が幸せになれない世界の方が、もっと怖い」
私は、胸がいっぱいになって言葉が出なかった。
秋仁の手が、私の頬に触れた。
触れ方がやさしすぎて、涙がまた落ちる。
「泣くな」
秋仁は言ったが、声は責めていなかった。
むしろ自分に言い聞かせているみたいだった。
「……泣いていい」
私は小さく言った。
「だって、私――やっと、生きたいって言えた」
秋仁は目を閉じた。
そして、私の額に唇を落とした。
それは口づけというより、誓いに近い。
「生きろ。桜」
私は泣きながら頷いた。
そのとき――桜の枝が鳴った。
式部が一瞬で顔を上げる。
「……来る」
秋仁が私の肩を引き寄せ、木の影に隠した。
抱き寄せ方が、迷いなく速い。
心臓が跳ねる。
近すぎる。
でも離れるより怖くない。
足音が近づく。
草履の擦れる音。
女の衣擦れ。
薫だった。
――いや、もう一人いる。
高く澄んだ声がした。
「ここですのね。皇子殿下がお忍びでおいでになると聞きましたの。……噂は本当でしたのね」
私は息を止めた。
芙蓉公主。
御殿の噂話で名を聞いたことがある。
周辺の有力氏族の娘で、皇子の正妃候補――と囁かれる令嬢。
月明かりに照らされた横顔は、確かに美しかった。
美しいのに、声は冷たい。
薫が低く言う。
「殿下の御成りは三日後のはず。今宵、ここにいるのは不自然です。……そして、この庭は花嫁巫女の立ち入りを禁じています」
禁じている。
私の足元に、鎖が見える気がした。
芙蓉公主が笑った。
「禁じる相手が違いますわ。巫女に禁じるのではなく、皇子に禁じるべきでしょう?」
薫が息を呑む。
「芙蓉さま。言葉が過ぎます」
「過ぎませんわ」
芙蓉公主の声は甘いのに刃がある。
「皇子殿下は国の宝。巫女は神の器。器が宝に触れるのは不敬ですわ」
その言葉で、私は体の奥が冷たくなった。
器。
またその言い方。
秋仁の腕が、私を抱く力がわずかに強くなる。
怒りが伝わってくる。
式部が息を殺して囁いた。
「……殿下。今は出るな。ここで正体が露見すれば、花嫁巫女は監禁される」
秋仁が歯を食いしばる気配がした。
私の胸の奥で、何かがぱきっと音を立てた。
――監禁される。
生きたいと言ったのに。
幸せになりたいと言ったのに。
世界は簡単に、私を箱に戻そうとする。
私は震えながらも、秋仁の腕の中で顔を上げた。
月光の向こうに、芙蓉公主がいる。
薫がいる。
そして――この社の「正しさ」がいる。
私は、自分の声が出せるかどうか、試した。
息を吸って――。
木の影から一歩、出た。
秋仁が止めようとした。
式部が小さく舌打ちした。
でも、もう止まれない。
薫が目を見開く。
「桜……!」
芙蓉公主が、ゆっくりと笑う。
「あら。花嫁巫女。……やっぱり、いるのね」
私はまっすぐ彼女を見た。
足が震えている。
でも、目は逸らさない。
「私は……ここにいます」
それは、存在の宣言だった。
芙蓉公主が首を傾げる。
「禁を破ってまで、何をなさっているの? 神に嫁ぐ身が」
私は唇を噛んだ。
怖い。
でも――私の後ろには、秋仁の温度がある。
私は言った。
「私は……幸せになっていいと思うんです」
薫が息を呑む。
芙蓉公主の笑みが、少しだけ固まる。
私は続けた。
「私が生きる理由は、幸せになることです。……それ以外に、何もない」
言い切った瞬間、夜気が動いた。
桜の枝がざわめく。花のないはずの木から、ひとひら――薄い光の花びらが落ちた。
瀬織夜の気配。
私は背筋が熱くなる。
芙蓉公主が冷たく言った。
「……巫女が、幸せ? それは神への背反ですわ」
「背反でもいい」
秋仁の声が、背後から響いた。
私は振り返る。
秋仁が、木陰から出ていた。
月明かりが彼を照らし、直垂の質が“ただの男”ではないことを告げる。
秋仁は静かに言った。
「俺が許す」
芙蓉公主が目を細める。
「殿下――」
秋仁は、彼女の言葉を遮った。
「桜は器じゃない。人だ。……生きる人間だ」
その声に、薫の目が揺れた。
薫は“正しさ”を守る人だ。けれど、巫女でもある。
巫女が器だと言われれば、薫も器になる。
それを望む人はいないはずだ。
芙蓉公主が、微笑を取り戻そうとして言う。
「殿下。あなたは国のために――」
「国のために、人を殺す儀式を肯定しろと?」
秋仁の声が低くなる。
「それが国の誇りなら、俺は誇りを捨てる」
世界が、また止まった。
芙蓉公主の顔が、初めて歪む。
薫の唇が震える。
そして私は――秋仁の隣に立っている。
怖い。
でも、幸福の側に立っている。
式部が一歩前へ出て、淡々と言った。
「今夜のことは、なかったことにしろ。……ここで騒げば、祟り神より先に人間が殺しに来る」
その言い方が、恐ろしく現実的で、私は背筋が冷えた。
芙蓉公主が扇を閉じる。
「……よろしいですわ。今夜は見なかったことにいたします。けれど殿下。三日後の顔合わせの儀で――」
「そのとき、俺は“俺の名”で来る」
秋仁が言い切った。
芙蓉公主の瞳が光る。
「……楽しみにしておりますわ」
薫は私を見た。
怒りではない。
混乱と、何か別の感情。
「桜。あなた……本気なの」
私は頷いた。
「本気です」
薫は目を閉じ、短く息を吐いた。
「……愚か」
そう言ったのに、声が震えていた。
「でも……あなたが羨ましい」
その小さな言葉は、夜の底でひそやかに溶けた。
薫は背を向ける。
「今夜は戻る。……だけど三日後、あなたは花嫁巫女として御殿に立つ。覚悟しなさい」
芙蓉公主も去っていく。
足音が遠ざかり、庭がまた静かになる。
私は足の力が抜けて、膝が崩れそうになった。
秋仁がすぐに支えた。
抱き止められて、私はようやく息ができた。
「……ごめん。勝手に出た」
「謝るな」
秋仁は私の耳元で囁いた。
「お前は、ちゃんと“生きる”側に立った。……それだけで十分だ」
私は秋仁の胸に額を押し付けた。
怖い。
三日後が怖い。
でも――今夜、私は世界に言ってしまった。
私は幸せになっていい。
生きる理由は幸せになること。
それを言えた私は、もう“器”には戻れない。
式部が低く言う。
「……殿下。そろそろ切り上げろ。見回りが戻る」
秋仁は頷いた。
それから、私の髪の簪に触れ、確かめるように言った。
「桜。三日後、俺は“皇子”として来る。……お前の運命を、上書きするために」
上書き。
その言葉が、胸に火をつけた。
「……私も、逃げない」
秋仁の目が、少しだけ柔らかくなる。
「逃げなくていい。――俺が、お前の幸せの逃げ道になる」
その一言が、あまりにも溺愛で、私は泣き笑いになった。
月明かりの下、花のない桜から、もう一枚だけ光の花びらが落ちた。
まるで――祝福みたいに。




