第三章 薫
月明かりが、揺れた。
そして――。
草履の擦れる音が、闇の中でやけに大きく聞こえた。
回廊の外、敷石を叩く足音は一つ。迷いなくこちらへ向かって来る。巫女の足取りだ。男の重さではない。けれど、巫女が夜に一人で歩く理由は一つしかない。
――探している。
秋仁は私の手首をそっと引いた。力は強くないのに、逆らえない方向へ私の身体が動く。修繕した柱の影、木材が積まれた奥、月明かりの届きにくい場所。彼は私を押し込むのではなく、逃げ道を教えるように導いた。
「息、吸って。吐くのは、相手が通り過ぎてから」
耳元で囁かれ、私は頷く代わりに、喉の奥で小さく息を殺した。
足音が近づく。
影が伸びる。
月光が柱の縁をなぞり、私たちの隠れた場所の手前で止まった。
「……誰か、いるの?」
薫の声だった。
低く、鋭い。昼よりも冷たくて、夜の空気を切る刃。
私は羽織の端を握り締める。指先が震え、布が微かに擦れる音が出そうになる。秋仁が私の手に自分の指を重ね、動きを止めた。触れられた瞬間、震えが止まってしまうのが悔しい。
薫は一歩、また一歩。敷石を踏むたびに、足袋の音が鳴る。
柱の影のすぐ前まで来た。
「……桜?」
名前を呼ばれた気がした。けれど、それは私の恐怖が作り出した幻かもしれない。薫は確かに、空間に問いかけるように口にしただけだから。
次の瞬間、薫が顔を上げた。
月明かりが彼女の横顔を照らす。すっと細められた目が、回廊の柱の上部――修繕した新しい木肌へ移る。
彼女は、そこに残った削り屑を見たのだろうか。
あるいは、男の匂いを。
「……作業場に灯が残っている」
薫の独り言のような声。
私は息を止める。
秋仁が、ほんの僅かに身を動かした。薫の視線を自分に向けるために――そう感じた瞬間、彼の指が私の手にもう一度触れた。
“動くな”。
触れるだけで命令になる。ずるい。
薫はしばらく立ち尽くし、やがて低く息を吐いた。
「……くだらない。私の目が疲れているだけ」
踵を返す音。
彼女が去っていく。
足音が遠ざかり、回廊の外の闇に溶けた。
私は、やっと息を吐いた。吐いた瞬間、胸の奥が痛むほどに冷えた空気が入ってきて、咳が出そうになる。
秋仁が私の口元へ手を伸ばし、布――羽織の端をそっと当てた。直接口を塞がない。布越しに、呼吸の音だけを静かにする。配慮が腹立たしいくらい丁寧だった。
「……薫に見られたら、終わる」
私は、やっと声にならない声で言った。
「終わらない」
秋仁は迷いなく答えた。
「終わるよ。私は――」
「あなたは、巫女だから?」
「……違うの?」
「違う。あなたは、桜さんだから」
名を呼ばれるだけで、胸がきゅっと締まった。
秋仁は柱の影からそっと身を乗り出し、薫が完全に去ったのを確認すると、私の方を向き直った。月明かりが半分だけ彼の顔を照らし、残り半分を影に沈める。その取り合わせが、誰かの二重の顔を象徴しているようで、私は目を逸らした。
「……どうして、こんなことするの」
「こんなこと?」
「掟に触れる。私を困らせる。あなたも危ない」
「危ないのは、あなたのほうだ」
秋仁はそう言い、私の肩に掛かった羽織の襟元を整えた。指が鎖骨の近くをかすめ、私は反射で身を引いた。けれど逃げ切れない距離にいるのは、私がここまで来たせいだ。
「さっき、薫が言っていた。“皇都の者は儀を保つために来る”って」
「……聞いてたの?」
「聞こえた。あなたの声は、よく届く」
それは褒め言葉ではなく、宣告のようだった。
「桜さん。あなたは、皆に必要とされている。だから皆が、あなたの命を“使う”」
「……使うなんて」
「言葉が乱暴なのはわかってる。でも、現実はもっと乱暴だ」
秋仁は一度、視線を落とした。私の足元へ。夜露で濡れた草、汚れた足袋、羽織の裾。
そして、私が握り締めている羽織の端へ。
「返しに来ただけ、と言った。嘘だ」
「……っ」
「返すためなら、昼に返せばいい。鈴緒に渡す手もあった。薫にだって」
「……それは」
「夜に、自分の足で来た。来たかったからだ」
言い切られて、胸が痛い。
私は反発したくて口を開いたのに、何も出てこなかった。
「あなたのせいだよ」
やっと出た言葉は、あまりにも子どもっぽかった。
秋仁は驚いたように目を瞬かせ、それから何かを諦めたように笑った。
「そう。俺のせいだ」
「……開き直らないで」
「開き直ってるわけじゃない。責任を取ると言ってる」
「責任?」
「あなたがここで命を落とすなら、俺はそれを見届けない」
その言い方が、あまりにも――決定事項のようで。
私の中の“諦め”が、歯を立てられたように痛んだ。
「……私は、二十歳で」
「死ぬ、と言うな」
秋仁の声が、初めて強くなった。怒鳴るのではない。命令でもない。痛みが混じった声だ。
私は肩をすくめ、黙った。
季節外れの寒さが、肌に刺さる。
「桜さん」
秋仁は少しだけ声を落とし、私の手元に触れ続けた。逃げないように縛るのではなく、逃げても戻れる場所を作る触れ方。
「……話したいことがあると言った。早く言って。薫が戻るかもしれない」
「うん」
秋仁は頷き、柱に背を預けた。修繕した木肌が、月明かりで白く光る。彼はその木肌を指で軽く叩いた。
「この回廊、いつからあると思う?」
「……昔から」
「そう。昔から。ここを歩いた巫女は、何人いる?」
「わからない」
「数えきれない」
彼は見上げるように天を見た。月は高い。
「ここは、祈りの道だ。祈りが積み重なって、木に染みている。だから修繕すると、時々……声がする」
私は息をのんだ。
“声”――それは、巫女たちがよく口にする怪談の類だ。儀で消えた巫女が夜に回廊を歩く、とか。棺の音が聞こえる、とか。
私の夢も、そのせいなのだろうか。
「怖い話?」
「怖いのは、話じゃない。――置き去りにされたものだ」
秋仁は腰のあたりから、小さな木片を取り出した。
掌に乗るほどの薄い板。削りたての木の匂いがする。そこに、細い文字が刻まれていた。
「……何これ」
「名だ」
私は目を凝らした。夜目でも読めるほど、丁寧に彫られている。
――藍
――菖蒲
――深雪
女の名。巫女の名だ。
「……巫女の名? なんで」
「この社の記録庫に残っている。古い木札に、過去の花巫女の名が列になっていた。……誰かが、まとめようとして途中でやめた」
「それを……あなたが?」
「俺が、続きを彫った」
胸がざわつく。
私たちに許されているのは、神の名と祝詞の文字を写すことだけだ。巫女の名を、男の手で彫るなんて――不敬だ、と誰かが言うだろう。
でも、秋仁の指先は祈りのように真っ直ぐだった。
「彼女たちは、名も残らないまま消えるべきじゃない」
「残ってるよ。木札に……」
「木札に残って、終わりじゃない。誰も、顔も、声も、願いも知らない。――“役目を果たした巫女”として片付けられるだけだ」
私は木片を見つめた。
自分の未来の形がそこにあるようで、息が苦しい。
「……私は、知られたくない」
口から出た言葉に、私自身が驚いた。
秋仁は首を傾げる。
「どうして?」
「知られたら……もっと怖くなる。皆が私を見て、皆が私を必要として、皆が私を――」
殺す。
言えない。
秋仁はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「わかった。なら、名を残さなくていい」
「……え」
「あなたが望まないなら、やらない」
あまりにもあっさり引かれて、私は逆に戸惑った。男が自分の正義を押し付けない。そんな人、いるのだろうか。
「でも、俺はあなたを見たい」
続く言葉が、私の胸を撃った。
「役目としてじゃなく、人として。……あなたが、幸せを望む顔を」
胸が熱い。
私は反射で目を逸らした。逸らした先に、月の光が落ちる。木片の文字が白く浮かぶ。
「……幸せを望むなんて、贅沢だよ」
「贅沢じゃない」
「違う。私は――」
「巫女だから?」
「……そう」
秋仁は一歩近づき、私の手元を見た。
羽織を握りつぶしそうな指。
「巫女だから、幸せになれない?」
「巫女は、皆のためにある」
「皆、って誰だ」
「……この国の人」
「この国の人は、あなたが幸せになることを望まないのか?」
「……」
答えられない。
望む人がいるのは、わかっている。鈴緒は私を心配してくれる。千草さまも、薫も――形は違っても守ろうとしている。
なのに、その守りが、私を死へ運ぶ。
「桜さん」
秋仁が呼ぶ。
「あなたが幸せになるのは、誰かの不幸か?」
私は、首を振りたかった。
でも、私が生きることで誰かが困るのも事実だ。儀がある限り、私が死ねば土地は守られる。私が死なければ、災いが起きる――そう信じられている。
「……わからない」
私は絞り出す。
「わからないなら、確かめよう」
秋仁は、私の手から木片をそっと受け取った。
「俺は、確かめに来た。……この社の掟が、本当に神の望みなのか」
その言い方が、あまりにも――“外から来た人間”の口ぶりだ。
私は眉をひそめた。
「秋仁さん、あなた……社の人じゃない」
「そうだね」
「職人って言った」
「職人だよ。木を直すのが仕事だ」
「……言葉が、違う。あなた、都の人でしょう」
「都より、もっと遠い」
秋仁は笑った。月光が目の端にきらめく。
その笑みが、ふいに怖くなる。私が踏み込んではいけない場所に立っている笑み。
「……あなたは誰」
私は、つい聞いてしまった。
秋仁は答えなかった。
代わりに、私の髪の乱れた束を指先で整えた。触れないように、触れる。そんな距離。
「答えたら、あなたはもっと危なくなる」
「危ないって、何」
「薫みたいな人に、見られる」
言われて、背筋が冷えた。
「薫は、あなたのために――」
「あなたのため、だけじゃない」
秋仁の声が低くなる。
「薫は、掟のために生きている。掟が崩れたら、薫の世界も崩れる」
その言葉は、私の中にも刺さった。
掟が崩れたら、私の世界も崩れる。私が“ただの娘”になる。二十歳で終わらない未来が始まる。
それは、恐怖だ。
回廊の外で、また風が鳴った。
木々がざわめく。夜の匂いが濃くなる。
私はふいに、自分があまりにも近くにいることに気づいた。
秋仁の胸元まで、あと一歩。呼吸が触れる距離。
「……帰る」
私は言った。
「薫に見つかる前に――」
秋仁は頷いた。
止めない。引き留めない。けれど――
「送る」
「いらない」
「あなたが転ぶ」
「……っ」
私が反論する前に、秋仁は私の手を取った。
指先だけ。掌は重ねない。逃げる余地を残す握り方。
「約束だろう」
「約束なんて……」
「“運命を誤魔化す時間だ”って言った。今は、その時間だ」
私は抵抗できなくて、でも抵抗しない自分に腹を立てながら、秋仁に引かれて小道を戻った。
月明かりの下で、私たちの影が二つ並ぶ。
それだけで、胸がいっぱいになるのが怖い。
巫女の寝所の手前で、秋仁は足を止めた。ここから先は入れない場所だ。
彼は手を離し、羽織の前を整えた。
「返すなら、明日でいい」
「……」
「今夜は、寒い」
「……あなたのせいだよ」
「そう。俺のせいだ」
同じ言葉の繰り返しが、どうしてこんなに甘くなるのだろう。
私は一歩下がり、障子の前で振り返った。
「秋仁さん」
「うん」
「……さっきの“確かめる”って、何を」
「あなたの命が、誰のために使われているのか」
「……」
「そして、あなたが幸せになることが、誰を救うのか」
救う。
私は目を見開いた。
幸せが、救いになる?
秋仁は微かに笑った。
「人は、幸せになるために生きる。……そうだろう?」
私は答えられなかった。
けれどその言葉が、私の胸の奥に沈み、熱を持つ。
障子を閉め、部屋に戻る。羽織を畳の端に置いた。
今夜は、羽織の匂いが怖くない。怖いのは、むしろ――羽織がなくなった後の未来だ。
布団に入って目を閉じると、棺の音は聞こえなかった。
代わりに、木を削る乾いた音が聞こえる。
まるで、誰かが私の運命を削り直しているみたいに。
その翌朝。
鈴緒が廊下を走ってきて、息を切らしながら囁いた。
「桜さま……! 今、御殿のほうで、すごい話をしてました。次の儀の……その、順番が……」
私は、息をのんだ。
順番。
それは、死の順番だ。
私の番が、近い。




