終章 鈴の音で祀る
春が来るのを、私は待っていなかった。
前なら「次の春」なんて言葉は、私にとって遠い慰めでしかなかったから。二十歳で終わる身に、季節は残酷だった。
でも今は違う。
朝、目を開ける。
息を吸う。
布団の中で指の鈴を撫でる。
ちりん。
小さな音が鳴って、私は笑う。
――生きている音だ。
社は変わった。
劇的に、ではない。だからこそ現実的に変わっていく。
禰宜は相変わらず私を“正しい目”で見ようとする。
でも、記録官がいる。国の目がある。
そして何より――巫女たちの目が変わった。
「桜さま、本当に……死ななくていいんですか?」
朝の掃き清めのあと、後輩の巫女が小さな声で訊いてきた。
十二、三ほどの少女で、袖がまだ少し長い。怖いものを見る目で私を見ていたのに、今は震えた期待が混じっている。
「……死ななくていいよ」
私が言うと、その子は目を見開いて、唇を噛んだ。
泣きそうな顔で、でも泣かずに言う。
「……私、巫女になった日から、いつか“その日”が来るのが怖かったんです」
「うん」
私は頷いた。
「怖いって言っていいよ。私も怖かった」
少女は、ほっと息を吐いた。
その息が、私の胸を熱くする。
怖いと言える場所ができる。
それだけで、人は少し生きやすくなる。
廊下の向こうから、鈴緒の声が飛んでくる。
「桜さまー! 今日の朝餉、ちょっといいことありました! 味噌汁がいつもより幸せな味です!」
「それ、毎日言ってない?」
薫がすぐに突っ込む。
「鈴緒、走るな。……あと味噌汁に“幸せ”を混ぜるな」
「薫さまの言い方、厳しい! でも好き!」
いつも通りのやり取り。
それが、奇跡より嬉しい。
そして――その“いつも通り”の中に、秋仁がいるようになった。
表向きは、皇子としての視察。
でも私の目には、はっきり分かる。
秋仁は、私の生を見に来ている。
境内の奥で、秋仁が私を待っていた。
装束は簡素で、でも目立つ。隠しきれない。
「おはよう」
私が言うと、秋仁は少しだけ笑った。
「おはよう。……今日は、倒れたか」
「倒れてない」
「偉い」
その褒め方が、甘すぎてずるい。
私は頬が熱くなって、指の鈴を鳴らした。
ちりん。
秋仁が息を止めたみたいに見えて、それから小さく笑う。
「合図じゃないだろ」
「合図」
「何の」
「……来て」
言ってしまった。
恥ずかしくて、でも言葉を持つと決めたから。
秋仁は何も言わず、私の手を取った。
指の鈴が、二人の間で小さく鳴る。
それから秋仁は、真面目な声で言った。
「今日は“祀り”の確認をする」
「祀り?」
秋仁が頷く。
「祟り神を、血で思い出すのを終わらせるって言った。
なら、思い出し方を作らなきゃいけない」
私は息を吸い、頷いた。
社の外れ、小さな祠。
新しく整えられたばかりで、木の匂いがまだ若い。
秋仁が小さな供物台に、白い布を敷く。
そこに置いたのは――米と塩と、水。
それから、桜の枝を一房。
「……血じゃない」
私が呟くと、秋仁は頷いた。
「血じゃない。……生きるものだ」
私は祠の前に立ち、息を整えた。
祈りの姿勢を取る。
でも今は、恐れの祈りじゃない。
私は小さく言った。
「あなたを忘れません。
でも、死で思い出しません。
生きて思い出します」
風が、ふっと吹いた。
冷たくない風。抱きしめる風。
そして、どこかで――ほんの小さく、低い声がした気がした。
――……見ている。
私は、怖くなかった。
見ているなら、見せればいい。
私は秋仁の方を振り返った。
「……幸せ、見せるよ」
秋仁は目を細める。
いつもの“皇子”の顔じゃない。秋仁の顔。
「見せてくれ」
私は頷いて、指の鈴を鳴らした。
ちりん。
それは祟りを鎮める鈴ではない。
誰かを支配する鈴でもない。
私が生きるための音。
誰かを愛してもいいと、自分に許す音。
境内の桜はまだ咲いていない。
でも、枝先は確かに芽吹いている。
私はその芽を見上げて、心の中で繰り返した。
人は幸せになっていい。
私が生きる理由は、幸せになること。
それ以外に、ない。
だから今日も私は、鈴を鳴らして歩く。
――桜の花道を、今ここに作りながら。
(完)




