第二十章 常若の儀
その夜、秋仁は私を庭へ連れ出した。
護衛の目の届く範囲。けれど空が広い場所。
雲の隙間から月が覗いている。まだ満月ではない。けれど丸くなりかけた月は、少しだけ未来の顔をしていた。
「桜」
秋仁が私の名を呼ぶ。
「今夜、約束する」
「……何を」
「満月が終わったら、お前に“生きてからの返事”を聞く」
私は頬が熱くなった。
「……秋仁、ずるい」
「ずるくていい」
秋仁は笑わずに言う。
「お前が生きるためなら、俺はずるい男になる」
その言葉が溺愛で、でも決意で、私は胸が苦しくなった。
「秋仁、怖くないの」
訊いてしまった。
皇子として。男として。
怖くないはずがない。
秋仁は少しだけ目を伏せて、正直に言った。
「怖い」
その声が、私の胸をほどく。
「怖い。国が揺れる。神々が怒る。……祟りが暴れる。俺のせいで、誰かが傷つく」
私は息を吸う。
怖さの正体が、そこにある。
「でもな」
秋仁が私の手を取った。
「お前が幸せになれないのは、もっと怖い」
私は泣きそうになって、笑いそうになって、どちらにもなれず、ただ秋仁の手を握り返した。
「……私も、怖い」
「うん」
「でも、生きる」
「うん」
「幸せになる」
「うん」
秋仁は私の額にそっと唇を落とした。
優しすぎる誓い。
風が吹いた。
柔らかい風。瀬織夜の気配が、そっと背中を押す。
満月まで、あと三日。
私は、簪に触れた。
鏡片を袖の中で確かめた。
結び紐を握った。
言葉を持つ。
生きるために。
満月まで、あと三日。
夜明け前の空は、まだ青くない。
闇が薄まるその瞬間だけ、世界の輪郭が少しだけ優しくなる――そう思っていたのに、今日は違った。
鼻の奥に、甘くて苦い匂いが刺さった。
香。
でも、ただの香じゃない。喉が痺れるような、身体の奥が重くなる匂い。
――眠りの香。
私は布団から跳ね起きた。隣で丸くなっていた鈴緒も、同時に身を起こす。
「うっ……なにこれ……頭、くら……」
「息しないで。口も」
私は囁き、袖で口元を覆った。
そのまま髪の簪に触れる。冷たい金属の感触が、意識を繋いだ。
障子の向こう、廊下側で、護衛の足音が乱れる。低い声が飛び交う。
「誰だ、香を焚いたのは!」
「火元を探せ!」
そして――秋仁の声がした。寝起きの声ではない。すでに“動く者”の声。
「桜! 鈴緒! そこから出るな!」
私は息を吸って、吐き切る前に言った。
「鏡片!」
袖の内、芙蓉公主から渡された“祓いの鏡”の欠片。
私は布団脇の小さな袋からそれを取り出し、灯明の火の近くへ滑らせるように置いた。
すると、ふわり、と空気が揺れた。
香の匂いの“甘さ”が一瞬だけ裂け、苦さが薄まる。
鈴緒が目を丸くする。
「え、なに、今……空気、変わった……?」
「鏡が返してる。……息、浅く」
私が言うと、鈴緒は必死に頷いた。
それでも瞳が少しぼんやりしている。香は完全に消えない。けれど、これで“眠り落ちるほど”にはならない。
襖が開き、秋仁が飛び込んできた。護衛が二人、背後にいる。
秋仁は私を見るなり、ほっと息を吐いた。
「無事か」
「……ギリギリ」
私が言うと、秋仁はすぐ鏡片を見て、短く頷いた。
「芙蓉が渡したやつか」
「……うん」
秋仁の目が一瞬だけ揺れた。
芙蓉公主の“取引”を、秋仁は知っている。全部、知られている。秘密にしておける状況ではないから、私は昨夜のうちに伝えていた。
秋仁は護衛に命じた。
「火元を押さえろ。香の粉を持ち込んだ人間を捕えろ。――死なせるな。喋らせる」
護衛が頷いて走る。
秋仁は私の側へ来て、膝をつき、私の頬に触れた。指先が冷たい。自分の緊張を押し殺しているのが分かる。
「怖かったか」
「……うん。でも、倒れてない」
私が言うと、秋仁の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「よくやった」
その瞬間、外で短い悲鳴が上がった。
「捕えた!」
荒い声。護衛の声だ。
秋仁の表情がまた硬くなる。
「桜。ここで待て」
「私も――」
「待て」
秋仁の声が低くなる。拒絶ではない。守るための命令。
私は唇を噛んで頷いた。
秋仁が立ち上がり、廊下へ出る。護衛の気配が遠ざかる。
鈴緒が私の袖を握り、震え声で言った。
「……桜さま、今の、禰宜側の仕業ですかね」
「たぶん。……でも、それだけじゃない」
眠りの香は、人のやり口だ。
でも、香に混ざっていたあの“甘い苦さ”には、別の気配があった。祟り神の気配。
――返せ。
昨夜の粘つく声が、また耳の奥に残る。
私は簪に触れた。
生きる印。言葉を奪わせないための印。
少しして、秋仁が戻ってきた。
顔色が冷えている。怒りを冷やして固めた顔。
「……禰宜の配下の神官が一人、香を持ち込んだ」
「……やっぱり」
「口を割った。『花嫁巫女を眠らせ、御殿へ戻せ』という命があった」
秋仁の声が硬い。
「禰宜は“清め”と言い張るだろう。だが、これは拘束だ。……満月までに、お前の口を塞ぐつもりだった」
私は喉が乾いた。
現実が、想像より速く、想像より汚い。
秋仁は私の手を取った。
「桜。今日から、もっと露骨に来る」
「うん」
「怖いなら怖いと言え。……だが、引くな」
私は頷いた。
怖い。けれど、私はもう戻らない。
鈴緒が拳を握りしめて言った。
「わたし、井戸の話だけじゃ足りない……! もっと嫌がらせして、近づけないようにします!」
「嫌がらせって言うな」
秋仁が思わず突っ込み、鈴緒はむっとした。
「でも、嫌がらせです!」
そのやりとりが可笑しくて、私は息を漏らした。
笑える。まだ笑える。なら、折れていない。
その日の午後、薫が来た。
顔色がいつもより白い。
「……禰宜が激怒している」
薫は低く言った。
「殿下が“捕縛”を許したことに。……禰宜は『皇子が神域を汚した』と言い回ってる」
汚した。
またその言葉。
秋仁は冷静に答えた。
「汚したのは拘束の方だ。……巫女を道具にするのが神域の清さか?」
薫の目が揺れた。
薫は一瞬だけ俯き、そして言った。
「……満月の場は、さらに荒れる。保守側は“証人”を増やす。巫女たちも呼び出される」
「千鳥さまも?」
私が聞くと、薫は頷いた。
「主殿に近い巫女は全員。……あなたに同調しないよう、空気を作るつもり」
私は息を吸った。
人の目。言葉。空気。
祟り神より厄介なもの。
秋仁が私の髪の簪に触れ、短く言った。
「目は、こちらも増やす」
「どうやって」
「国側の記録官を入れる。護衛も入れる。……満月の儀を“見える形”にする」
見える形。
それは、誰かの密室を潰す。
薫が小さく頷いた。
「……なら、禰宜はますます焦る」
「焦らせていい」
秋仁の声が低い。
「焦った者は、ボロを出す」
私はその言葉を聞いて、ふと思った。
秋仁は、怖いくらい賢い。優しいだけじゃない。
だからこそ、私は――秋仁を一人で戦わせてはいけない。
私は言った。
「私も、準備する」
秋仁が私を見た。
「何を」
「言葉を、もっと強くする。……揺れないように」
秋仁の目が柔らかくなった。
「いい」
薫が小さく笑った。
ほんの一瞬の笑みが、薫を救っている気がした。
夜。
私は秋仁と、書庫へ行った。
護衛が倍。式部が入口に立つ。薫と鈴緒もいる。
巻物を広げ、秋仁は言った。
「満月の儀の核は“交換”だ」
「交換?」
私が聞くと、秋仁は頷く。
「祟り神が求めるのは血と怖れ。……それを断ち切るには、別の供物がいる」
供物。
私は喉が熱くなる。
「……私の言葉」
「言葉だけじゃない」
秋仁が言う。
「言葉に伴う“誓い”。――生きて祈り続ける誓い。生きて幸せを繋げる誓い」
繋げる。
常若。
古い社を壊して新しい社を建てるように、人も“生きながら更新”していく。
秋仁は続けた。
「祟り神は、怖れがなくなると痩せる。……だから俺たちは、怖れではなく“祝福”を場に満たす」
「祝福……」
鈴緒が小声で言った。
「え、じゃあ……祭りみたいにするんですか?」
秋仁が頷く。
「そうだ。儀を“葬”にするな。“生”にする」
薫が眉を寄せる。
「でも、保守側は反対する。……神域で騒ぐのは不敬だと言う」
秋仁は淡々と言った。
「なら、騒がない祝福を作る。……歌と鈴と、歩みと、花」
花――。
私は簪に触れた。
桜の花。
花道。
私は息を吸って言った。
「……私、花を用意する」
「どうやって?」
鈴緒が目を丸くする。
私は、瀬織夜の気配を思い出した。
抱きしめる風。
花のない季節に舞った光の花びら。
「神さまに頼む」
秋仁は一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「頼め。……お前の神に」
私は目を閉じ、胸に手を当てた。
瀬織夜さま。
私は生きます。幸せになります。
そのために――祝福の風をください。
満月まで、あと二日。
その夜、夢を見た。
白い霧の中。
社の奥、誰も入れない場所。
そこに瀬織夜がいた。
姿ははっきりしない。
けれど声だけは、確かに分かる。
『桜』
私は膝をついた。
祈りの姿勢は、いつも体が先に覚えている。
「瀬織夜さま」
『……怖い?』
「怖いです」
正直に言うと、瀬織夜はふっと笑った。
『怖いと言える子は、生きる子だよ』
私は唇を噛んだ。
「……満月で、私は言葉を言います。生きたい。幸せになりたいって。……でも、祟り神は血を欲しがる」
霧が揺れた。
遠くで低い笑い声がした気がした。
『祟りは、悲しみで太る。怖れで太る。……だから、悲しみを“祝福”に変える』
祝福。
『桜。あなたの幸せは、誰かの救いになる。……あなたが笑うことは、誰かの許しになる』
「……私が笑っていいんですか」
瀬織夜の声が、少しだけ強くなる。
『笑っていい。幸せになっていい。……それを証明して。あなたの人生で』
私は涙が溢れそうになった。
「……花を、ください」
霧がふわりと渦を巻く。
『花は、命のかけら。……死ななくても、花は咲く』
その言葉が、胸を貫いた。
『満月の夜、風を送る。……あなたが言葉を言えるように。あなたが折れないように』
「ありがとう」
私は言った。
瀬織夜は、最後に小さく囁いた。
『桜。あなたは、器じゃない。……あなたは、あなたのまま生きて』
霧が晴れ、夢がほどける。
目を開けると、夜明け前の暗い天井が見えた。
胸の奥が熱い。
私は、簪に触れた。
――生きる。
満月まで、あと一日。
その日は、嵐みたいに過ぎた。
秋仁の護衛が増え、国の記録官が到着し、社はざわついた。
禰宜側は表向きは丁寧に迎えたが、目は冷たい。
“見られる”ことを嫌う者の目だ。
夕方、芙蓉公主が再び現れた。
今度は扇を開かず、短く言った。
「鏡片、持ってる?」
「はい」
「明日、香だけじゃないかもしれない。……飲み物にも混ぜる」
私は背筋が冷えた。
「どうして分かるの」
芙蓉公主は小さく笑った。
「私は“役”だから。……内側の話が入る」
そして、私をまっすぐ見た。
「桜。あなたが生きるなら――殿下は変わる。国も変わる。……そのとき私は、私の役を降りられるかもしれない」
芙蓉公主の声が、ほんの少し震えた。
「だから、生きて」
それだけ言って、彼女は去った。
私は立ち尽くし、胸の奥が痛くて、でも温かいのを感じた。
敵が味方になるわけじゃない。
でも、誰もが幸せになっていいと願うなら、世界は少しずつ変わる。
――満月は、すぐそこだ。
夜。
秋仁が私を呼んだ。
滞在所の庭。
昨日より月が丸い。雲が薄く、光が鋭い。
「桜」
秋仁は私の前に立ち、真剣な目で言った。
「明日、満月の儀で――俺は全てを終わらせる」
「……うん」
「だが、ひとつだけ。俺の弱さを言う」
弱さ。
秋仁が弱さを言うなんて。
秋仁は息を吸って、吐いた。
「明日、お前が祟りに飲まれそうになったら――俺は、祟りを殺したくなる」
私は息を呑んだ。
「それは簡単だ。力で押し潰せばいい。……でも、それをやれば“怖れ”が残る。怖れはまた別の祟りになる」
秋仁の声が苦しそうに揺れる。
「だから桜。……お前の言葉が、必要だ。俺を止める言葉が」
私は胸に手を当てた。
秋仁は、優しい。優しいから、壊したくなる。
その優しさを罪にしないで、と芙蓉公主は言った。
私は言った。
「秋仁。私は言う」
秋仁が私を見る。
「私は、生きる。幸せになる。……そして、怖れじゃなく祝福を選ぶ」
秋仁の目が少しだけ柔らかくなる。
「……頼む」
秋仁は私の手を取った。
指先に温度が流れ込む。
怖いのに、ほどける。
「明日、生き残ったら」
秋仁が囁く。
「お前の返事を聞く。……生きてからでいいって言ったのは、逃げ道じゃない。未来を信じたかったからだ」
私は頬が熱くなって、でも視線を逸らさず言った。
「未来、信じる」
秋仁は、私の額に唇を落とした。
優しい誓い。
その瞬間、風が吹いた。
花のない季節なのに、どこか花の匂いがした。
瀬織夜の風。
抱きしめる風。
明日、満月。
私は、言う。
生きる理由は、幸せになること。
それ以外に、ない。
満月の夜は、驚くほど静かに始まった。
怖い夜は、もっと不穏な音を立てて始まると思っていた。雷とか、風とか、鳥の声とか。
でも実際は逆で――静かすぎて、心臓の音がうるさかった。
私は白い衣を着せられていた。
けれどそれは「棺」の白ではなく、「始まり」の白にしたいと秋仁が言った。
胸元に淡い桜色の紐。袖の裏に、ほんの少しだけ薄紅。
それだけで、人は“死にゆく人形”ではなく“生きる人間”に戻れる。
鈴緒が、指先を震わせながら帯を結ぶ。
「桜さま……帯、きつくないですか? きつい方が気合い入る? でも苦しかったら言ってくださいね? 今の桜さま、苦しいのダメですから!」
「大丈夫。ありがとう、鈴緒」
「よし! 大丈夫なら、次は呼吸! 桜さま、いっしょに吸ってー、吐いてー!」
「式部に怒られるよ」
「怒られても、やります!」
鈴緒が真顔で言うから、私は笑ってしまった。
笑った瞬間、胸の奥のこわばりが少しだけほどける。
薫が部屋の端に立っていた。今日は巫女装束のまま、でも髪はいつもよりきっちり結っている。
“味方として立つ”ための髪だ。
「……笑える?」
薫が小声で言った。
「笑える」
私が答えると、薫はほんの一瞬だけ目を細めた。
「なら大丈夫。……泣きたくなったら、泣いてもいい。でも倒れるな」
式部と同じことを言う。
私は頷いた。
倒れない。
言葉を奪われない。
髪の簪に触れる。
桜の形が、今夜はなぜか軽い。軽いのに、芯がある。
――生きる印。
襖の外で足音が止まり、低い声が響いた。
「時間だ」
秋仁。
皇子の声ではなく、秋仁の声だった。
私は息を吸って、立ち上がる。
襖を開けると、秋仁がいた。
今夜の秋仁は、皇子としての装束だった。けれど御殿のときより派手ではない。
深い藍の上に、白い羽織。胸元に、国の紋。
それでも、目は遠くない。ちゃんと私を見ている。
「……綺麗だ」
秋仁が言った。
胸が一気に熱くなる。
褒められるのが恥ずかしいんじゃない。生きる姿を肯定されるのが、怖いほど嬉しい。
「……ありがとう」
私が言うと、秋仁は私の髪の簪を見た。
「そのままでいいな」
「うん」
秋仁は、ほんの少しだけ躊躇ってから、私の手を取った。
指先が温かい。温かいのに、震えている。
「桜」
名前を呼ばれて、背筋が伸びた。
「今夜、何があっても――お前の言葉を奪わせない。俺が守る」
私は首を振った。
「守られるだけじゃない。私も……守る」
「何を」
「秋仁の優しさを、罪にしない」
言った瞬間、秋仁の目が揺れた。
その揺れが、私の胸を締めつける。
「……頼む」
秋仁が小さく言い、私の手をぎゅっと握った。
鈴緒が後ろで鼻をすすり、薫が「行くわよ」と短く言う。
式部が先に立ち、護衛が周囲を固める。
私たちは、満月の儀の場へ向かった。
儀の場は、社の奥――新旧の社殿が並ぶ場所だった。
灯が並び、道が作られている。
秋仁が言った「騒がない祝福」が、そこにあった。
派手な音はない。
けれど灯が揺れて、鈴が小さく鳴り、歩くたびに衣が擦れて、静かな華やかさがある。
まるで夜そのものが、花嫁の行列みたいだった。
そして、見られている。
禰宜。神官たち。巫女たち。役人たち。
国の記録官が二人、端に座って筆を構えている。
芙蓉公主もいた。扇で口元を隠し、目だけでこちらを見ている。
私は、背筋を伸ばした。
“人の目”は刃になる。
でも今日は、刃の前に立つと決めた。
秋仁が一歩前へ出て、場を見渡した。
「これより、常若の夜の儀を執り行う」
皇子の声。
静かなのに、よく通る声。
「旧来の鎮めは、人の命を捧げる形になっていた。……だが本来の鎮めは、命ではなく誓いを捧げるものだ」
ざわり、と空気が揺れる。
禰宜が眉を寄せる。
でも記録官の筆が動き、場は簡単に乱れられない。
秋仁が続けた。
「今夜、花嫁巫女・桜は死なない。……生きて祈り続ける誓いを捧げる」
禰宜が口を開いた。
「殿下。それは神々への――」
「神々に背くなら、背く」
秋仁が遮った。
その言い方は乱暴なのに、なぜか誠実だった。
「人が幸せになれない神域なら、神域は空になる。……神域を生かすために、人を殺すのは本末転倒だ」
禰宜の顔が歪む。
「……それは、人の理屈だ。神は理屈では動かぬ」
「なら、動かす」
秋仁の声が低くなる。
「理屈ではなく――祈りで」
秋仁が私を見た。
合図だ。
私は一歩、前へ出た。
白い衣の裾が、灯に照らされて淡く光る。
足が震える。けれど、止まらない。
私は膝をつき、額を下げた。
いつも通りの祈りの姿勢。
でも、今日は“器”としてではない。
私は“私”として祈る。
息を吸って、言葉を出した。
「私は……花嫁巫女、桜です」
声が震える。
でも、通る。
「私は、祈ってきました。誰かの幸せのために。……でも今、初めて自分の願いを言います」
場の空気が、さらに硬くなる。
誰かの喉が鳴る音がした。
私は続けた。
「人は、幸せになっていい」
この言葉を、私は何度も練習した。
練習したのに、今言うと胸が痛い。
痛いほど、真実だからだ。
「私が生きる理由は、幸せになること。それ以外にありません」
言い切った瞬間――。
風が鳴った。
冷たい風ではない。
柔らかい風。抱きしめる風。
灯の火が揺れ、香が薄まる。
そして、誰かが息を呑んだ。
「……花」
花のない季節。
なのに、空からひとひら、薄い光の花びらが落ちた。
次々に舞う。
灯の列の上を、静かに流れるように。
まるで道が、花道になっていく。
私は息を止めた。
――瀬織夜さま。
胸の奥で、声がした気がした。
『言えたね』
泣きそうになって、でも泣かない。
泣いてもいいけど、今は倒れない。
禰宜が震える声で言った。
「……御神意か」
巫女たちがざわめく。
保守側の神官が顔色を変える。
芙蓉公主が、扇の奥で目を見開いた。
記録官の筆が、止まらない。
でも――花びらが舞ったから勝ち、ではない。
床の下から、あの声が来た。
――返せ。
空気が一段冷えた。
冷たい風が混ざる。
灯が一つ、ふっと消えた。
――返せ。血を返せ。契約を返せ。
祟り神。
声は、今までよりはっきりしている。
場の全員が聞いている。
恐怖が一気に膨らみ、祟り神が肥える気配がする。
私は喉が締まる。
足が震える。
でも、私は倒れない。
袖の内――鏡片に触れた。
火の近くに置いた鏡片が、淡く光っている。
香も、恐怖も、全部跳ね返すように。
秋仁が一歩前へ出た。
「祟り神」
低い声。皇子の声。
「お前の契約は、血で結ばれた。……だが血でしか結べない契約は、弱い」
――弱い? 人が、神を?
祟り神の笑い声が、床を鳴らした。
闇が揺れ、黒い影が灯の間を這うように伸びる。
巫女の誰かが小さく悲鳴を上げる。
その悲鳴が怖れを増やし、影が濃くなる。
影が、床を舐めるように伸びた。
灯の間を這い、柱の陰を伝い、私の足もとへ――いや、違う。
狙いは、私の背後。
巫女列の中心、常若の円の内側。
今まさに儀の核に立つ私の「身代わり」を、影が噛みちぎろうとしている。
鏡片が、袖の内で淡く鳴った。
警告のように、胸骨の内側を小突く。
――返せ。
声が床下からではない。
すぐ背後、影そのものから響いた。
――巫女の血を返せ。契約を返せ。代価を返せ。
黒い腕が伸びた。
指先が、爪が、私のうなじへ――
「桜!」
呼ばれたのは私の名だった。
同時に、風を切る音。
秋仁が、私と影のあいだへ割り込んだ。
「っ……!」
黒い爪が、彼の肩を裂いた。
裂けた、では足りない。
影は爪ではなく“楔”のように彼を穿ち、血を吸い上げるように食い込んだ。
赤が散る。
熱い匂いが、一瞬で場を支配する。
巫女たちの悲鳴が喉までせり上がるのが分かった。
恐怖は祟り神の餌だ。
怖れが膨らめば、影はさらに濃くなる。
でも、悲鳴より先に――私の声が出た。
「秋仁!」
彼は膝をついた。
それでも、私を背に庇ったまま倒れない。
皇子としての姿勢ではない。
ただ、一人の男として。
「……下がれ。桜……」
その声が掠れている。
血の泡が唇に滲む。
――ほう。
祟り神の愉悦が、床を鳴らした。
――皇子の血。巫女の血。甘い。契約が、太る。
影が、秋仁の傷口からさらに伸びる。
まるで血管を逆流する毒のように、彼の腕、胸、喉へと黒が這い上がった。
私は、目の前が真っ白になりかけた。
儀の作法、神への言葉、巫女としての使命。
その全部が、いま目の前で折れそうな現実を前に、薄紙みたいに揺れた。
――やめて。
喉の奥で、何かが焼ける。
叫びたいのに、叫べば恐怖が膨らむ。
恐怖が膨らめば、秋仁はもっと食われる。
だから私は、震える息を噛み殺して――それでも、叫んだ。
「私は――!」
儀の中心で、巫女が神に誓う言葉ではない。
これは、私の言葉だ。
「私は神よりあなたを選びます!」
その瞬間。
場の空気が、ぱきりと割れた。
香の流れが途切れ、結界の糸が一筋、切れる音がした。
巫女たちが息を呑む。
保守側の神官が顔面蒼白で一歩退く。
「儀から外れた……!」
誰かの声。
記録官の筆は、それでも止まらない。
紙に打つ音だけが異様に大きい。
祟り神が、笑った。
――いい。いいぞ。巫女が役目を捨てる。神が手を引く。人の世が、空く。
影が、ぐにゃりと形を崩した。
ただの祟り神の“契約”の顔つきではない。
もっと飢えた、もっと低い、泥の底のもの。
祟り神が、一時的に――悪霊へと堕ちた。
黒が天井まで跳ね上がり、灯を呑み込む。
灯が、二つ、三つ、ふっと消える。
闇が笑う。
――返せ返せ返せ。祈りなど届かぬ。お前はもう、巫女ではない。
私は、祈ろうとした。
身体が覚えている祝詞が、舌の先まで来ている。
けれど。
胸の奥が、空白だった。
神へ繋がる「役目の道」が、私の宣言で、自分の手で外れてしまったのだと分かった。
祈りの言葉は形だけで、届く先がない。
天は沈黙した。
――二十年。
人の巫女が社に留まれる刻は、それほど長くない。
神にとって二十年など、瞬きの間に等しい。
だからわらわは、巫女に情を移すまいとしてきた。
名も高くないわらわの社に仕える者なら、なおさら。
来て、学び、去る。何代もそれを見送ってきた。
……そのはずだったのに。
社の裏手、苔むした斜面の上。
わらわは太い枝に背を預け、木漏れ日を頬に受けていた。風が気持ちよい。人の気配も、参詣の気配もない。静けさだけがある。
その静けさを、ぱきりと踏み割る小さな足音。
落ち葉を踏む音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。
「……なんじゃ、また来たのか」
声だけを投げると、葉陰の下から、小さな顔が覗いた。
巫女装束とは呼べぬ、修行中の白衣。結びきれない髪。まだ五つかそこらの、人の子だ。
「瀬織夜さま!」
両手いっぱいに花を抱え、得意げに笑う。
十になるまでは、どの社の神に仕えるか定まらぬ見習い。
だからこそ、あちらこちらの社へ参り、礼と祝詞と身のこなしを覚える――建前は、そうだ。
だがこの子は、建前だけで来ておらぬ。
「わらわのような無名の神より、たまにはもっと賑やかな社にでもお参りしたらどうじゃ。
大きい社には、立派な神がおる。花も、供物も、喜ばれようて」
枝の上から言うと、桜はむっと唇を尖らせた。
「桜、瀬織夜さまと遊ぶの、好き」
「遊ぶの好き、て」
思わず、ため息まじりの声が出る。
「お主、わらわのことを何だと思っておるのじゃ」
桜はきょとんとして、首を傾げた。
わらわの言葉の意味が、まだすぐには掴めぬのだろう。
「……ちょっと偉い人間、みたい?」
「おぬし……」
言い返す言葉はあった。
神と人とを同列にするな、などと。
だが不思議なことに、声に嫌さは乗らなかった。
桜は抱えた花を、胸にぎゅっと寄せる。
「だって、大きいお社の神さま、桜とお話してくれないもん」
その言葉が、わらわの胸を小さく刺した。
高い神格の者は、下界の子どもと戯れたりはせぬ。正しい。尊い。秩序だ。
だからこそ――
「瀬織夜さまの方が、本当のお姉ちゃんみたいで、好き」
桜はあっけらかんと言い放ち、にっと笑った。
空気が甘くなる。木漏れ日が眩しい。
「……わらわはお主のお姉ちゃんではないぞ」
言いながら、否定の重みが足りないのを自分で知った。
桜は「へへ」と笑って、社の石段に腰を下ろす。
「でも、瀬織夜さまは、桜のこと見てくれる」
見られている。
そう言われて初めて気づいた。
わらわはずっと、この子の足運びを追っていた。転べば風を弱め、迷えば鳥を鳴かせ、泣けば葉擦れを子守唄に変えた。
それを“してやっている”と思ったことはない。
身体が勝手に動いただけだ。
「……勝手に、口の上手い子じゃ」
わらわがそう言うと、桜は花を一輪、枝の下へそっと置いた。
「瀬織夜さま、これ。きれい」
「……供えるなら、作法がある」
「なら、教えて」
桜の目がまっすぐすぎて、わらわは目を逸らせなかった。
「……よい。聞け。まずは手を洗い、口をすすぐ。
それから――」
口にした瞬間、自分でも可笑しかった。
情を移すまいとしてきたはずが、こうして作法を教えている。
教えた分だけ、この子はわらわの神域に深く入り、深く根を張る。
それでも、やめられなかった。
桜が帰り際、石段の上で振り返る。
「瀬織夜さま、また来る!」
小さな背が駆けていく。白衣が揺れる。
わらわは枝の上で目を閉じ、ほんの少しだけ笑った。
「……好きにせい。転ぶでないぞ」
その声が、あの日のわらわの“素”だった。
やがて桜は成長し、巫女としての責務を知ってゆく。
わらわもまた神としての立ち居振る舞いを意識し、言葉を整え、距離を整えた。
――失うために、慣れるために。
だが。
あの子の「お姉ちゃんみたい」が、ずっと胸の底に残っていた。
常若の儀――それは人の世の寿ぎを、神々の秩序へ編み込むための儀である。
神々は直接には姿を現さぬ。
儀場の上、光の帳の向こう。人には見えぬ“見守りの座”に列を成す。
上座には、神格高き者たちが座していた。
香の流れすら乱さぬ静けさ。
言葉も、感情も、律で縛られた沈黙。
その末席。
わらわ――瀬織夜は、花びらを一枚掌に遊ばせながら、下界を見下ろしていた。
儀の核に立つのは桜。
わらわの神域に縁を持ち、幼い日から影のように付きまとった――あの子だ。
……いや。
“付きまとっていた”のは、わらわの方か。
桜が叫んだ。
「私は神よりあなたを選びます!」
その瞬間、儀の糸が鳴った。
結び目が、ぱきりと割れる音。
見守りの座に、冷たい気配が走る。
「巫女が誓いを折った」
「儀から外れた者に、手を差し伸べる道理はない」
「秩序を乱すな」
淡々とした声。裁きの声。
怒りというより、“当然”としての処断。
わらわは唇を噛んだ。
――二十年。
人の巫女は短い。
だから情を移すな、と己に言い聞かせてきた。
だが今、桜は“役目”より“人”を選んだ。
それを、切り捨てる?
床下から、黒が噴き上がった。
影は影ではない。飢えた口だ。悪霊に堕ちた祟りの塊。
――返せ。
その声が、下界の恐怖を膨らませ、膨らんだ恐怖がさらに黒を太らせる。
影の腕が伸びる。
狙いは桜の背――そして、庇った皇子。
桜の祈りは届かぬ。
神々は動かぬ。
秩序は、沈黙という名で殺す。
わらわの掌の花びらが、かすかに震えた。
動くな、と神々は言う。
動けば禁忌だ。
現世に関与しすぎた神は、座を追われ、形を失う。
分かっている。
分かっているのに――
わらわの身体は、すでに立ち上がっていた。
止めようとしても足が勝手に前へ出る。
理屈ではない。
胸の奥に、五つの桜が笑った。
『瀬織夜さまの方が、本当のお姉ちゃんみたいで好き』
あの木漏れ日の声が、今も鮮やかすぎて。
「……なんじゃ、まったく」
思わず零れた言葉は、整えた神の言葉ではなかった。
昔のままの、素の声音。
「わらわが……見捨てられると思うたか」
「瀬織夜、控えよ」
背後で誰かが言った。
だが、もう遅い。
わらわは掌を翻し、花びらを解く。
神域の外へ出るための、最後の――禁忌の一歩。
花びらが一枚、光の帳を破って落ちた。
下界へ。闇へ。桜のいる場所へ。
そして、わらわは落ちる。
神としてではなく、ただ――あの子を見捨てぬ者として。
闇へ向けて、凛と澄む声が鈴のように響いた。
「……桜!」
いつもなら、祝詞の合間に微かな気配が差す。
花の匂いが変わる。
風の温度が変わる。
でも今は、何も来ない。
来ないのに、秋仁の血だけが流れていく。
「だめ……!」
私は膝をついた。
常若の円の内側、儀の核。
ここで揺れれば、巫女たちの恐怖が増す。
恐怖が増せば悪霊は太る。
分かっているのに、分かっているのに。
秋仁が、私の指を掴んだ。
血に濡れた指先が、微かに震えている。
「……泣くな」
そんなことを言う声が、もう弱い。
そのとき。
闇の中に、ひとつ。
花びらが舞った。
桜の花びら。
この季節にここへ舞い込むはずのない、異様に白い一片。
花びらは闇に触れた途端、燃えるように光った。
黒が、じゅ、と音を立てて退いた。
全員が息を止めた。
次の瞬間、花びらは数を増やした。
一片、二片ではない。
雪のように、光のように。
光に混じって、気配が降りてくる。
私が物心ついたころから知っている匂い。
雨上がりの石の冷たさと、若葉の青さが混ざったような――
花びらの渦の中心から、ひとつの影が歩み出た。
衣は水のように淡く、輪郭は光の中で揺らぐ。
それでも、視線だけは真っ直ぐで、迷いがない。
瀬織夜が――禁忌を犯して、常若の儀へ降りた。
「桜」
呼ばれた名は、私を縛るためのものではなく、抱き上げるように柔らかかった。
その声は凛と澄み、鈴のように透きとおって、闇の底まで届く。
けれど言い回しは、幼い頃のままの“素”だった。
「……よく言えたのう、桜」
「……瀬織夜」
名前を呼ぶだけで、涙が出そうになった。
しかし、先に響いたのは嘲りの声だった。
悪霊化した祟り神が、嗤う。
――巫女に裏切られてないがしろにされた神が、なお人間をかばうか。
祟り神として人に畏怖され、祈られ、恐れられてきた“それ”が、嘲笑する。
恐怖そのものが口を持ち、神に向かって歯を剥くみたいに。
巫女たちの肩が跳ねた。
神官の喉が鳴った。
空気が薄くなり、息が冷える。
――その嘲りに、返事が落ちた。
「やかましいっ!」
鋭い。
凛と澄む鈴の音を、そのまま握り潰して放り投げたみたいな声。
かつて、幼い私が社に通い、言葉を交わしたときの口調のまま――
瀬織夜の声には、一片の迷いもなかった。
「巫女がどうあろうと、神がどうあろうと……っ」
花びらの渦が、彼女の足もとで一瞬、逆巻く。
光が“刃”の形を取る。
「人の幸せを願わずして、何が神じゃああああっ!」
叫びが、空間を叩き割った。
光が爆ぜる。
闇が、焼ける音を立てて剥がれた。
悪霊の黒が泡立ち、喉を鳴らし、形を保てず崩れる。
祟り神の“飢え”だけが削ぎ落とされていく。
――やめろ、やめろ……! 返せ、返せ!
祟り神の声が、ただの咆哮ではなく“言葉”へ戻っていく。
意味を持ち、契約を主張する、神としての声へ。
袖の内で鏡片が熱を帯びた。
まるで、恐怖も香も、全部を跳ね返して「ここにいる」と教えるみたいに。
瀬織夜が掌を翻す。
花びらが弧を描き、闇を切り裂き、裂け目を縫い合わせるように結界を補修していく。
祟り神の黒が、ぐらりと揺れた。
――巫女が捨てた。契約は――
「黙れ」
瀬織夜の声が、今度は鈴のように澄む。
けれど、言い回しは素のまま、子どもを叱るみたいに端的だった。
「恐怖で太ったぶん、吐き出せ。人の血を餌にするな」
光が、闇の奥へ染み込む。
悪霊化した澱だけが焼かれ、祟り神そのものは“残される”。
消滅ではない。
ただ、肥えた恐怖の肉を削がれ、痩せて、言葉を取り戻す。
――……返せ。
最後にそれだけが落ちた。
恨みの叫びではなく、契約としての主張――意味を持つ言葉だけが。
床下の気配が遠ざかる。
沈んでいく。
弱体化して、底へ帰る。
儀場は光に満ちたまま、静まり返った。
巫女たちの目は大きく開かれ、神官たちは言葉を失い、芙蓉公主は扇の奥で息を呑んでいる。
記録官の筆だけが、狂ったように動いていた。
その静寂の中心で――瀬織夜が、ふらりと膝をついた。
彼女の輪郭が揺れる。
肩口から、光が剥がれ落ちるように花びらが零れた。
私は、喉の奥が冷えた。
――禁忌。
巫女を通さず儀へ降り、現世に手を伸ばした神は、座を失う。
「瀬織夜……っ!」
声が震えた。
呼ぶだけで、胸が痛い。
瀬織夜は答えず、先に秋仁へ手を伸ばした。
倒れかけた皇子の傷口へ、光の掌を当てる。
「……ここまでじゃ」
声が掠れた。
それでも、鈴の余韻は消えない。
「致命の一歩手前で止める。……生かす、までは、もう」
秋仁の肩の黒が、じわ、と引いた。
血の流れが“止まる”のではなく、“命の線だけ残して整う”感覚。
彼はまだ白い。まだ冷たい。
でも、死に落ちる音が止まった。
瀬織夜の指先が、震える。
彼女の身体は、もう光そのものに還り始めていた。
その瞬間、ふわり、と重力が抜けた。
足が床を離れる。
私は浮遊感の中で、光に包まれていく。
花びらが舞う。
香の煙が、真っ直ぐに上がる。
儀場の喧噪は遠くなり、耳に届くのは、花びらが触れ合う微かな音だけ。
気付くと私は、光に満たされていた。
瀬織夜が、すぐそこにいる。
花びらと一緒に、私の前に立っている。
「……神様……」
言った瞬間、涙が落ちた。
頬を伝うのが止まらない。
言葉が子どものころに戻っていく。
瀬織夜は、私を抱き留めた。
抱き締める、ではなく、こぼれないように、両腕で包み込む。
昔、社の石段で転びそうになったときの――あの“見えない手”の感触が、そのまま腕になったみたいだった。
「泣くでない。……いや、泣いてよい」
素の口調が混じる。
けれど声は澄み、鈴のように透明で、胸の奥へ落ちてくる。
「お前が選んだのは、間違いではない」
「でも……あなたが消える……!」
「消える、というより――戻るだけじゃ」
瀬織夜は笑った。
笑みが、少しだけ寂しい。
「わらわは、ずっと分かっておった。お前はいずれ“役目”より“人”を選ぶ、と」
私の肩が跳ねた。
「そんな……」
「だからわらわは、神としての言葉を整えた。距離も整えた。……お前が痛まぬように」
花びらが、彼女の髪からこぼれる。
輪郭が淡くなる。
「けれど、だめじゃったな。身体が勝手に動いた」
瀬織夜は私の額に、そっと額を寄せる。
昔みたいに。
「なんじゃ、また来たのか――そう言うてやれんのが悔しいわ」
ふっと、幼い日の匂いが戻った。
苔の匂い。木漏れ日。太い枝の影。
私は嗚咽を噛み殺せなかった。
「神様……っ、行かないで……」
瀬織夜は私を包み込む腕に力を込めた。
抱き留められた場所だけが、世界の中心になる。
「桜」
名を呼ばれるだけで、私は幼い子に戻る。
「お前はこれから、ひとりで歩ける。……秋仁もおる」
「でも、あなたが……!」
「神は消える。だが、見守る存在にはなれる」
鈴のような声が、ゆっくりと言葉を編む。
「姿は見えなくなる。声も届かなくなる。
けれど、お前が笑うとき――わらわは、そこにいる」
私の胸に額を押し当てた。
温かいのに、遠ざかっていく。
「お願い……」
瀬織夜の腕が、ほんの少しだけ震えた。
そして――彼女は涙を流した。
女神が泣くなんて、見たことがない。
雫は花びらに触れ、光の粒になって散った。
「……桜」
最後に、彼女は私の名を呼ぶ。
その声は凛と澄み、鈴の音になって、ほどけていく。
「生きろ。怖れてもよい。だが、怖れに喰われるでないぞ」
唇が笑みに戻る。
幼い日と同じ、少し呆れたような優しい笑み。
「お前が選んだ世界で、幸せになれ」
次の瞬間、瀬織夜の身体が花びらへほどけた。
光の中へ溶ける。
私の腕の中から、重さが消える。
「瀬織夜――!」
叫びは、光に吸われた。
代わりに、花びらがふわりと頬を撫でた。
そこに「いる」と言うみたいに。
儀場へ意識が戻る。
巫女たちは呆然と立ち尽くし、神官たちは言葉を失っている。
芙蓉公主は扇の奥で、泣いているのか笑っているのか分からない顔をしていた。
記録官の筆だけが、まだ動いていた。
闇は、薄い。
悪霊は浄化された。
祟り神は弱体化して、床下へ沈んだ。
消滅はしない。
けれど、肥えた恐怖の肉を削がれ、言葉だけを取り戻して退いた。
私は、床へ飛び降りるようにして秋仁のもとへ駆け寄った。
「秋仁! 秋仁――っ!」
彼は血に濡れ、顔色は紙のように白い。
それでも、傷口の黒は引いている。
瀬織夜が「止めた」と言った通り、致命の一歩手前で踏みとどまっている。
私は両手で彼の頬を包んだ。
冷たい。
お願い、お願いだから――
秋仁の睫毛が、微かに震えた。
「……さくら……」
掠れた声。
それだけで、世界が戻ってくる。
私は息を吸った。
怖れを増やさない。
怖いなら怖いと言う。でも、怖れに支配されない。
「……祟り神さま」
私が呼びかけると、場が一瞬静まった。
皇子ではなく、花嫁巫女が“祟り神”に声をかけたからだ。
闇が、こちらを向く気配がした。
――何だ。器。
器。
その言葉が刺さる。
でも私は、刺さったまま立つ。
「私は器じゃない」
声が震える。
でも言う。
「私は人です。……生きる人間です」
闇が揺れる。
怒りか、嘲笑か、分からない。
――生きる? なら返せ。代わりを返せ。
代わり。
誰かの命。
その要求が、あまりにも古くて、あまりにも簡単で、吐き気がした。
私は首を振った。
「返しません」
声が、今度は少し強く出た。
「誰かの命を代わりにする幸せは、幸せじゃない」
闇が一瞬止まった。
祟り神の声が、少しだけ低くなる。
――なら、お前の望みは何だ。
望み。
私は息を吸って、言った。
「私は、幸せになりたい」
胸が痛い。
でも、言葉にするたびに、痛みが“芯”になる。
「幸せになって、生きて、祈り続けたい。……誰かを愛して、その人の幸せも願いたい」
秋仁の手が、私の背中に触れた。
支える触れ方。守る触れ方。
私は続けた。
「祟り神さま。あなたは……何が欲しいんですか」
その問いに、場が凍った。
神官たちがざわめく。
禰宜が「不敬だ」と言いかけて、言葉を飲み込む。記録官がいる。
闇が、ゆっくり揺れた。
――……忘れられた。
低い声。
今までの粘つく声とは少し違う。
怒りの奥に、乾いた寂しさが混ざっている。
――捧げられなくなり、呼ばれなくなり、名も消えた。だから血で思い出させた。
胸が、ぎゅっと締まった。
血で思い出させる。死で思い出させる。
そんなやり方しか知らなかったのだ。
私は唇を噛んで、言った。
「忘れません」
闇が一瞬、ざわめく。
「あなたを、血で思い出すのは終わりにします」
私は息を吸い、言葉を続けた。
「生きて思い出します。……祭りで。鈴で。花で。笑顔で。祝福で」
鈴緒が小さく泣きながら頷く。
薫が息を呑み、でも目を逸らさない。
芙蓉公主の扇が、少しだけ下がった。
秋仁が低く言う。
「祟り神。お前を祀る社を作る。……だが、その供物は血ではない」
闇が揺れた。
――……信じろと言うのか。
「信じてくれとは言わない」
秋仁が言った。
「見ろ。今夜、この場で始める」
秋仁が私の手を取り、私の掌を上へ向けた。
そこに、秋仁は自分の指先を重ねる。
――血を、求める声が一瞬強くなる。
私は息を止めた。
秋仁が小さく首を振り、囁いた。
「大丈夫。……死なない」
そして秋仁は、懐から小さな針を取り出した。
指先を、ほんの少しだけ刺す。
痛みは一瞬。
赤い点が、一滴だけ浮かぶ。
それを秋仁は、地面へ落とさない。
私の掌に、そっと触れさせた。
「これが最後の“血の契約”だ」
秋仁が宣言する。
「一滴だけ。……これ以上は渡さない。代わりに――生きる誓いを捧げる」
場が息を呑む。
禰宜が何か言いかける。
でも、花びらの風が吹き、言葉が飲み込まれる。
私は、掌の小さな赤を見た。
怖い。
でも――これは死じゃない。生きて流れる血だ。
私は秋仁の掌に自分の指先を重ね、言った。
「私は、生きます」
声が震える。
でも、続ける。
「生きて、幸せになります。……そして、あなたを忘れません。生きて祀ります」
闇が、しばらく沈黙した。
そして――風が変わった。
冷たさが薄れ、重さがほどけ、闇がゆっくりと形を失っていく。
黒い影は、灯の間から退き、花びらの流れに溶けるみたいに消えた。
最後に、声がひとつだけ残る。
――……なら、見せろ。お前の幸せを。
その声は、脅しではなく、願いみたいに聞こえた。
私は涙が滲んで、でも笑った。
「見せます」
そう言って、私は秋仁を見上げた。
秋仁の目が、揺れた。
皇子でもなく、ただの男の目。
「桜」
秋仁が小さく言う。
「……生きろ」
「生きる」
私は頷く。
その瞬間、風が強く吹いた。
今まで舞っていた光の花びらが、一気に増える。
花のない枝に、淡い光が灯る。
――咲く。
満開の桜が、夜の社に咲いた。
ざわめきが、どよめきが、祈りに変わる。
誰かが泣いた。誰かが笑った。
巫女たちが息を呑み、禰宜が膝を落とし、芙蓉公主が扇を落としそうになる。
鈴緒が震える声で囁いた。
「……桜さま……花道……」
灯の列の上に、桜吹雪が降りる。
まるで世界が「生きていい」と言っているみたいだった。
秋仁が、皆の前で宣言した。
「これより常若の儀は――“生きる誓い”の儀とする」
声が通る。記録官の筆が走る。
「花嫁巫女は死なない。……生きて祈り、国と民を守る」
禰宜が震える声で言った。
「……殿下。それは、伝統の――」
「伝統は、命を守るためにある」
秋仁が言い切った。
「命を奪う伝統なら、変える。――変えて、守る」
その言葉が落ちた瞬間、私は胸がいっぱいになって、でも今は泣かないと決めた。
私は、幸せを見せる。
祟り神に。神々に。人々に。
そして、私自身に。
儀が終わったあと、場はすぐには解散できなかった。
誰もが、満開の桜を見上げて、言葉を失っていたから。
秋仁は私の手を取り、灯の列の端へ導いた。
そこは少しだけ人の目が薄い場所――それでも、隠れる場所ではない。
花びらが降る。
灯が揺れる。
桜の花道が、私たちの足元に伸びている。
秋仁が、私の前で膝をついた。
「桜」
胸が跳ねる。
分かっている。何を言うか分かっているのに、息ができない。
秋仁は、私の髪の簪に触れ、それから自分の懐に手を入れた。
小さな包みを取り出す。
「生きてから、返事を聞くと言った」
秋仁の声が震えている。
「今――聞いていいか」
私は喉が熱くなって、うまく息ができなかった。
でも、言葉を持つと決めた。
私の幸せを、私の口で言う。
「……聞いて」
私が言うと、秋仁が小さく笑って、それから真剣な顔で包みを開けた。
中にあったのは、指輪ではなかった。
小さな鈴。
桜の花の形をした鈴。
揺れると、透明な音がする。
「俺は皇子だ。お前を“守る”と言うのは簡単だ」
秋仁が言う。
「でも、俺はお前を檻に入れたくない。……だから、これは“鎖”じゃない」
鈴が月光を受けて光る。
「お前が笑う合図にしてくれ。……辛いとき、怖いとき、鈴を鳴らしてくれ。俺は必ず来る」
私は涙が溢れて、今度は止めなかった。
泣いてもいい。倒れなければいい。
「桜」
秋仁が言う。
「俺の花嫁になってくれ。……神の花嫁じゃない。俺の隣で、生きる花嫁に」
胸が痛いほど熱い。
私は泣きながら笑った。
「……はい」
それだけでいい。
それだけで、私の人生が私のものになる。
秋仁が息をのんで、それから私の指に鈴の紐を結んだ。
指輪の代わりの鈴。
生きる音。
秋仁が立ち上がり、私の額にそっと唇を落とした。
軽い、誓いの口づけ。
桜吹雪の中で、世界が静かに祝福する。
遠くで鈴緒が「わああ……!」と声にならない声を出し、薫が呆れたふりをして目を赤くしている。
芙蓉公主は扇で口元を隠しながら、目だけで笑った気がした。
そして耳の奥で、瀬織夜の声がした。
『うん。……それでいい』
私は、桜の花道を見上げた。
人は幸せになっていい。
私が生きる理由は、幸せになること。
それ以外に、ない。
私は今、それを――生きて証明している。




