第二章 回廊の影
その夜、私は膳の上の餅を一つも食べられなかった。
甘い匂いが、胸を締め付ける。
鈴緒が心配そうに見上げ、薫が遠巻きに私を見ている。
「桜」
薫が呼ぶ。声は低い。
「……何?」
「今日の男。湯殿の近くにいたそうだね」
「……偶然だよ」
「偶然で済ませるな。あなたは目立つ。狙われる」
狙われる。
その言葉は、恋ではなく政治の匂いを帯びていた。
「皇都の者は、儀を“保つ”ために来る。……あなたの命を、必要とするために」
私は背筋が冷えた。
――死なない。
――幸せになってほしい。
二つの声が、胸の中でぶつかり合う。
私は答えられず、ただ膝の上で指を握り締めた。
薫の言葉は正しい。だからこそ、私は黙って頷くしかなかった。
食事が終わり、灯が落とされる。巫女たちはそれぞれの寝所へ散っていく。私は自室の障子を閉め、羽織を畳の端に置いた。秋仁の匂いが、部屋の空気に残る。
――返さなくていい。
言葉だけなら突き返せるのに、温かさは突き返せない。私は指先で布をなぞり、すぐに手を引っ込めた。触れたら負ける気がした。
夜更け、社の灯が遠くで揺れている。外は静かで、虫の音もない。私は布団に入って目を閉じたが、闇の中に回廊の影が浮かぶ。
回廊に来て。話したいことがある。
掟。役目。二十歳。棺の音。
それでも、秋仁の声だけが、違う色で耳に残る。
私は起き上がり、障子の隙間から外を見た。月が白く、枝が黒い。回廊の方角に、かすかな人影が動いた気がした。
――待つ。
胸が、痛いほどに鳴る。私は羽織を取って抱え、しばらくその場で立ち尽くした。
一歩、踏み出せば、戻れない。
けれど、戻らないと決めた日など、私には一度もなかったのに。
私はそっと羽織を肩に掛け、足音を殺して廊下へ出た。
回廊へ向かう小道の先で、風が吹いた。
その風の中に、木を削る乾いた音が――確かに、聞こえた。
小道は夜露で湿り、草が足袋を濡らした。私は何度も立ち止まり、引き返したくなる衝動を押し込める。二十歳で死ぬのに、どうして今さら、未来のようなものを欲しがるのか。
回廊の手前に来ると、修繕中の柱が月明かりを受けて白く浮かんでいた。昼に見た削り屑は掃かれ、代わりに新しい木肌がすべすべと光っている。誰かがここを“整えた”。まるで私のために。
「……来たんだ」
影から声がした。低く、掠れていない声。
秋仁が、柱の脇に立っていた。昼よりも暗い装いで、髪もほどけかけている。けれど目だけは、こちらをまっすぐ捉えた。
「行けないって言ったのに」
「だから、待った」
「……どうして」
「約束だ」
私は息をのんだ。あの時、口の動きだけで告げられた言葉。
秋仁は一歩近づき、私の肩の羽織に視線を落とす。ほんの一瞬、嬉しそうに目が揺れた。
「それを持ってきたんだね」
「……返しに来ただけ」
「嘘」
鈴緒と同じことを言う。
私は悔しくて、でも否定できなくて、唇を噛んだ。
秋仁が手を伸ばし、私の指先に触れた。その温度だけで、心がほどけそうになる。
そのとき――遠くで草履の音がした。回廊の外、闇の向こうから、誰かが近づいてくる。
秋仁の表情が一変する。「静かに。――ここからは、運命を誤魔化す時間だ」
私は頷けないまま、羽織を握り、息を殺した。




