表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/26

第十九章 芙蓉の願い

 翌朝、空は薄曇りだった。

 満月まで、あと五日。

 曇り空は嫌いじゃない。世界が少しだけ柔らかくなるから。けれど今日は、曇りが“影”を呼ぶ気がして怖かった。


 秋仁の滞在所では、護衛が倍になった。

 式部は相変わらず淡々と情報を落とし、薫は戻ってきてくれた。禰宜側に完全に背を向けたわけではないはずなのに、私の側に立っている。


「薫、いいの?」


 私が訊くと、薫は短く言った。


「……戻れないところまで来た」


 それだけで十分だった。


 午後、意外な来訪があった。


「花嫁巫女・桜に、芙蓉公主さまがお会いになりたいと」


 護衛が告げる。

 鈴緒が目を丸くする。


「え、敵……ですよね?」


 薫が眉を寄せる。


「一人で来たの?」


「侍女一名のみ」


 護衛が答える。


 秋仁は一瞬だけ考え、頷いた。


「通せ。ただし、この部屋の外には護衛を置く。……桜が嫌なら、断っていい」


 私は胸の奥がざわめいた。

 芙蓉公主。

 彼女は敵で、でも昨日、引いた。

 あの引き方が気になっていた。


「……会います」


 私が言うと、鈴緒が不安そうに袖を掴む。


「桜さま、気をつけて……」


「うん」


 私は頷き、簪に触れた。

 私は言葉を持つ。だから、会う。


 芙蓉公主は、すぐに現れた。

 豪奢な衣ではなく、やや控えめな色味。扇は持っているが、開かない。

 それだけで、彼女が“役”を少し脱いできたのがわかる。


 部屋に入るなり、芙蓉公主は私をまっすぐ見た。


「……昨夜は、危なかったわね」


 低い声。

 私は頷いた。


「はい」


 芙蓉公主は畳に座り、しばらく沈黙してから言った。


「あなた、怖いって言えたのね」


「……はい」


「羨ましい」


 その言葉が、また胸に刺さる。


 芙蓉公主は続けた。


「私はね、怖いって言えない。……怖いと言った瞬間、私は私の役から落ちる」


 役。

 彼女もまた、檻にいる。


「あなたが殿下に惹かれるのは、わかる」


 芙蓉公主は淡々と言う。


「殿下は、弱い者を切り捨てない。……それが国にとって脅威になることさえ、知っているのに」


 私は唇を噛んだ。


「……芙蓉さまは、殿下が好きなんですか」


 訊いてしまった。

 怖いのに、訊きたかった。


 芙蓉公主は目を細め、少しだけ笑った。


「好き、って言葉を使えるほど、私は自由じゃない」


 そして、扇の端を指でなぞりながら言った。


「殿下は国の未来。だから私は“相応しい正妃候補”としてそこに置かれている。……私は殿下を選べない。選ぶのは、国」


 胸が痛む。

 私は、芙蓉公主がただの悪役ではないと、やっと理解した気がした。


「……じゃあ、芙蓉さまの願いは」


 芙蓉公主は一瞬だけ、視線を落とした。


「願い?」


 その声が小さく揺れた。


「……私は、幸せになっていいのかしら」


 胸の奥が、ぎゅっとなる。


 私は息を吸って言った。

 自分のために言う言葉を、今度は彼女にも渡す。


「芙蓉さまも、幸せになっていいです」


 芙蓉公主の目が揺れた。

 揺れたまま、すぐに笑みで覆う。


「……簡単に言うのね」


「簡単じゃないです」


 私は正直に言った。


「怖いです。奪われるのが。……でも、言わないと奪われたままです」


 芙蓉公主は扇を開き、口元を隠した。

 でも、目だけが濡れて見えた。


「あなた、ずるい」


 芙蓉公主が囁く。


「そんな言葉を持って、殿下の隣に立つなんて。……私が欲しかったのは、そういう言葉かもしれないのに」


 私は、胸が痛くて、でも逃げなかった。


「芙蓉さま。……満月の儀、邪魔しますか」


 芙蓉公主は扇の奥で息を止めた。

 それから、低く言った。


「私は、邪魔をする側にいる。でも……」


 扇を閉じ、私を見た。


「満月で、もしあなたが生き残って、殿下が“新しい鎮め”を示せたら――私は、私の役を降りられるかもしれない」


 役を降りる。

 それは彼女の救いでもある。


「だから、取引をしましょう」


 芙蓉公主は言った。


「禰宜側が“満月の場”に仕掛けることを、私は知っている。……それを止めるための道具を、あなたに渡す」


 私は息をのんだ。


「道具?」


 芙蓉公主は懐から小さな包みを出した。

 中には、薄い鏡片が入っている。月光を受けて淡く光る。


「神前で使う“祓いの鏡”の欠片。……本来は御神体に触れるもの。でも欠片なら、私の権限で動かせる」


 薫が息を呑んだ。


「そんなものを持ち出したら……」


「私は私の役を演じている。だからこそ持ち出せる」


 芙蓉公主は淡々と言う。


「満月の場で、もし“眠りの香”が焚かれたら、これを火の近くへ置いて。鏡は“穢れ”を跳ね返す。……香の効きが弱まる」


 私は包みを受け取った。

 手が震える。

 芙蓉公主は、敵でありながら、今、私に武器を渡した。


「どうして……」


 私が訊くと、芙蓉公主は小さく笑った。


「あなたが生きれば、私も少し自由になる。……それだけ」


 そして、立ち上がる前に、ぽつりと言った。


「桜。殿下は優しい。……だから、殿下の優しさを“罪”にしないで」


 私は頷いた。


「殿下を一人で戦わせません」


 芙蓉公主は扇を閉じ、ほんの僅かに笑った。


「その言葉、私にもください。……いつか」


 彼女は去っていった。

 扉が閉まると、鈴緒が息を吐き、薫が鏡片を見つめた。


「……芙蓉が味方になるなんて」


「味方、ではないと思う」


 私は言った。


「でも、芙蓉さまも……幸せになりたいんだと思う」


 秋仁が部屋の隅で静かに聞いていた。

 そして、私の髪の簪に触れる。


「桜。お前の言葉は、人を動かす」


 私は首を振った。


「言葉だけじゃない。……みんなが動いてくれてる」


「だから勝てる」


 秋仁の声は静かで、強い。


「満月で、終わらせる」


 私は頷いた。

 鏡片を袖に隠し、結び紐を握った。


 満月まで、あと四日。

 怖い。でも――もう逃げない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ