第十九章 芙蓉の願い
翌朝、空は薄曇りだった。
満月まで、あと五日。
曇り空は嫌いじゃない。世界が少しだけ柔らかくなるから。けれど今日は、曇りが“影”を呼ぶ気がして怖かった。
秋仁の滞在所では、護衛が倍になった。
式部は相変わらず淡々と情報を落とし、薫は戻ってきてくれた。禰宜側に完全に背を向けたわけではないはずなのに、私の側に立っている。
「薫、いいの?」
私が訊くと、薫は短く言った。
「……戻れないところまで来た」
それだけで十分だった。
午後、意外な来訪があった。
「花嫁巫女・桜に、芙蓉公主さまがお会いになりたいと」
護衛が告げる。
鈴緒が目を丸くする。
「え、敵……ですよね?」
薫が眉を寄せる。
「一人で来たの?」
「侍女一名のみ」
護衛が答える。
秋仁は一瞬だけ考え、頷いた。
「通せ。ただし、この部屋の外には護衛を置く。……桜が嫌なら、断っていい」
私は胸の奥がざわめいた。
芙蓉公主。
彼女は敵で、でも昨日、引いた。
あの引き方が気になっていた。
「……会います」
私が言うと、鈴緒が不安そうに袖を掴む。
「桜さま、気をつけて……」
「うん」
私は頷き、簪に触れた。
私は言葉を持つ。だから、会う。
芙蓉公主は、すぐに現れた。
豪奢な衣ではなく、やや控えめな色味。扇は持っているが、開かない。
それだけで、彼女が“役”を少し脱いできたのがわかる。
部屋に入るなり、芙蓉公主は私をまっすぐ見た。
「……昨夜は、危なかったわね」
低い声。
私は頷いた。
「はい」
芙蓉公主は畳に座り、しばらく沈黙してから言った。
「あなた、怖いって言えたのね」
「……はい」
「羨ましい」
その言葉が、また胸に刺さる。
芙蓉公主は続けた。
「私はね、怖いって言えない。……怖いと言った瞬間、私は私の役から落ちる」
役。
彼女もまた、檻にいる。
「あなたが殿下に惹かれるのは、わかる」
芙蓉公主は淡々と言う。
「殿下は、弱い者を切り捨てない。……それが国にとって脅威になることさえ、知っているのに」
私は唇を噛んだ。
「……芙蓉さまは、殿下が好きなんですか」
訊いてしまった。
怖いのに、訊きたかった。
芙蓉公主は目を細め、少しだけ笑った。
「好き、って言葉を使えるほど、私は自由じゃない」
そして、扇の端を指でなぞりながら言った。
「殿下は国の未来。だから私は“相応しい正妃候補”としてそこに置かれている。……私は殿下を選べない。選ぶのは、国」
胸が痛む。
私は、芙蓉公主がただの悪役ではないと、やっと理解した気がした。
「……じゃあ、芙蓉さまの願いは」
芙蓉公主は一瞬だけ、視線を落とした。
「願い?」
その声が小さく揺れた。
「……私は、幸せになっていいのかしら」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
私は息を吸って言った。
自分のために言う言葉を、今度は彼女にも渡す。
「芙蓉さまも、幸せになっていいです」
芙蓉公主の目が揺れた。
揺れたまま、すぐに笑みで覆う。
「……簡単に言うのね」
「簡単じゃないです」
私は正直に言った。
「怖いです。奪われるのが。……でも、言わないと奪われたままです」
芙蓉公主は扇を開き、口元を隠した。
でも、目だけが濡れて見えた。
「あなた、ずるい」
芙蓉公主が囁く。
「そんな言葉を持って、殿下の隣に立つなんて。……私が欲しかったのは、そういう言葉かもしれないのに」
私は、胸が痛くて、でも逃げなかった。
「芙蓉さま。……満月の儀、邪魔しますか」
芙蓉公主は扇の奥で息を止めた。
それから、低く言った。
「私は、邪魔をする側にいる。でも……」
扇を閉じ、私を見た。
「満月で、もしあなたが生き残って、殿下が“新しい鎮め”を示せたら――私は、私の役を降りられるかもしれない」
役を降りる。
それは彼女の救いでもある。
「だから、取引をしましょう」
芙蓉公主は言った。
「禰宜側が“満月の場”に仕掛けることを、私は知っている。……それを止めるための道具を、あなたに渡す」
私は息をのんだ。
「道具?」
芙蓉公主は懐から小さな包みを出した。
中には、薄い鏡片が入っている。月光を受けて淡く光る。
「神前で使う“祓いの鏡”の欠片。……本来は御神体に触れるもの。でも欠片なら、私の権限で動かせる」
薫が息を呑んだ。
「そんなものを持ち出したら……」
「私は私の役を演じている。だからこそ持ち出せる」
芙蓉公主は淡々と言う。
「満月の場で、もし“眠りの香”が焚かれたら、これを火の近くへ置いて。鏡は“穢れ”を跳ね返す。……香の効きが弱まる」
私は包みを受け取った。
手が震える。
芙蓉公主は、敵でありながら、今、私に武器を渡した。
「どうして……」
私が訊くと、芙蓉公主は小さく笑った。
「あなたが生きれば、私も少し自由になる。……それだけ」
そして、立ち上がる前に、ぽつりと言った。
「桜。殿下は優しい。……だから、殿下の優しさを“罪”にしないで」
私は頷いた。
「殿下を一人で戦わせません」
芙蓉公主は扇を閉じ、ほんの僅かに笑った。
「その言葉、私にもください。……いつか」
彼女は去っていった。
扉が閉まると、鈴緒が息を吐き、薫が鏡片を見つめた。
「……芙蓉が味方になるなんて」
「味方、ではないと思う」
私は言った。
「でも、芙蓉さまも……幸せになりたいんだと思う」
秋仁が部屋の隅で静かに聞いていた。
そして、私の髪の簪に触れる。
「桜。お前の言葉は、人を動かす」
私は首を振った。
「言葉だけじゃない。……みんなが動いてくれてる」
「だから勝てる」
秋仁の声は静かで、強い。
「満月で、終わらせる」
私は頷いた。
鏡片を袖に隠し、結び紐を握った。
満月まで、あと四日。
怖い。でも――もう逃げない。




