第十八章 取り戻しに来る者たち
その夜、眠りは浅かった。
秋仁の滞在所の畳は柔らかいのに、耳だけが冴えている。護衛の足音、戸の軋み、遠い梟の声――全部が「来る」と告げている気がした。
鈴緒は私の横で丸くなっている。寝息は小さい。けれど指先が私の袖を握ったまま離れない。
離したら、私はどこかへ運ばれてしまう――そんな不安が、鈴緒の手にも私の手にも残っている。
ふ、と障子の外で風が鳴った。
次の瞬間、廊下の奥から足音がした。
複数。規則的。躊躇のない歩幅。
私は布団の中で息を止め、髪の簪に触れた。
金属の冷たさが、今夜は骨の奥まで沁みる。
――来た。
襖の向こうで、式部の低い声がした。
「殿下。来訪です」
来訪、なんて言葉は優しすぎる。
これは、取り戻しに来た音だ。
秋仁の声が廊下に落ちた。静かで、硬い。
「通すな」
式部が淡々と返す。
「通さないと、扉を壊す」
短い会話。短いほど、緊張が濃い。
私は起き上がろうとしたが、鈴緒が慌てて私の袖を掴んだ。
「桜さま、だめ……!」
「鈴緒、静かに」
私は囁いて、布団をそっと畳む。
立つ。足が少し震える。
それでも立つ。
部屋の障子が、すっと開いた。
秋仁が入ってきた。
灯りの少ない部屋の中で、彼の目だけが鋭く光っている。護衛の気配が背後に重なる。いつもの“秋仁”の温度より、今は“皇子”の温度が濃い。
「桜」
名を呼ばれて、胸が跳ねる。
「怖いか」
私は頷いた。
言葉にすると崩れそうで、頷くしかない。
秋仁は私の肩に手を置いた。
その温度で、少しだけ息ができる。
「俺の後ろにいろ」
「……うん」
秋仁はそれ以上言わず、私と鈴緒を連れて奥の間へ移った。
奥の間は書き物机があり、壁が厚い。護衛が入口と窓の両方に立つ。
襖の外で、声が上がった。
「皇子殿下! 禰宜さまの命により、花嫁巫女を御殿へお戻しいただきたい!」
怒鳴ってはいない。
しかし、その丁寧さこそが恐ろしい。命令の形をした礼儀。
秋仁は襖越しに言った。
「戻さない」
短い。切り捨てる音。
「殿下! 花嫁巫女は神に嫁ぐ身! 殿下の私的な庇護のもとに置くのは――!」
「私的ではない。公的だ」
秋仁の声が低くなる。
「私は順番の繰り上げを撤回した。花嫁巫女は、満月まで私の監督下にある。……それを破るのは、誰の権限だ」
襖の向こうが一瞬沈黙した。
沈黙が、燃える。
次に聞こえたのは、別の声だった。女の声。甘く、冷たい。
「殿下。……花嫁巫女を“監督下”に置くのはよろしいでしょう。けれど“同席”させる理由は?」
芙蓉公主。
胸の奥が冷たくなる。
来たのだ。彼女も。
「花嫁巫女が穢れれば、儀は崩れます。国が揺れます。殿下は国の未来。……未来を、感情で汚すおつもり?」
感情。汚す。
言葉が、刃物みたいに飛んでくる。
秋仁が息を吐いた音がした。
「芙蓉。お前は“穢れ”を使うな」
「では、“事実”を申し上げましょうか」
芙蓉公主の声が、少しだけ高くなる。
「花嫁巫女が夜に抜け道を使って移動した。護衛に囲われた離れに泊まっている。――この事実だけで、世は騒ぎます。殿下の御名が汚れます」
御名。
秋仁の名。
彼女はそこを刺す。私ではなく、秋仁を。
私は唇を噛んだ。
胸が痛い。私のせいだ。
その瞬間、秋仁が私の肩を強く握った。
「桜。謝るな」
小声。私にだけ聞こえる声。
「俺が選んだ。……お前のせいにさせない」
その言葉が温かすぎて、涙が出そうになる。
襖の外で、式部の声がした。淡々としているのに、刃がある。
「芙蓉さま。離れに泊まったことが問題なら、まず問うべきは禰宜方の“香に混ぜて眠らせる計画”です」
空気が止まった。
「……何を」
芙蓉公主の声が揺れた。ほんの一瞬だけ。
式部は続ける。
「花嫁巫女を“心が乱れた”と決めつけ、眠らせて運ぶ。――それは人身の拘束です。御殿の内々で済ませれば“穢れ”にはならないとでも?」
私は息をのんだ。
式部は、切り札を切った。ここで。
芙蓉公主が扇を叩く音がした。
「証拠は?」
「証拠なら、あります」
式部の声は変わらない。
「殿下の前で、出しましょう」
その瞬間、襖の外で足音が乱れた。
焦り。
彼らは“計画が露見した”ことに怯えた。
「殿下!」
禰宜側の神官が声を荒げる。
「花嫁巫女は穢れている! だからこそ清めが必要だ! 殿下が拒めば、これは神罰を――!」
神罰。
その言葉で、背筋が凍る。
――神罰は、祟り神の餌になる。
瀬織夜の声を思い出す。怖れを集める者がいる。怖れが増えるほど、荒魂は肥える。
秋仁が低く言った。
「神罰を口にするな。……それは脅しだ」
「脅しではない! 祟りが――」
その瞬間、空気が一段冷えた。
床の下から、あの粘つく声がした。
――返せ。
私は全身が固まった。
恐怖が喉を掴む。
鈴緒が私の袖にしがみつく。
――返せ。返せ。返せ。
声は、襖の向こうにも響いたらしい。誰かが息を呑む音がする。
「……今のは」
神官の声が震えた。
秋仁が、低い声で言う。
「祟り神だ」
襖の向こうが凍った。
神官が祟りを言葉にした瞬間、祟りが応えた。――それが、彼ら自身にも恐ろしい。
私は、簪に触れた。
袖の内の結び紐を握った。
怖い。怖いけれど、倒れない。
私は小さく、でもはっきり言った。
「……返しません」
声は震えた。
でも言った。言葉を持つと決めたから。
「私は生きます。幸せになります」
その言葉が、部屋の中の空気を変えた。
冷たい風の中に、柔らかい風が混ざる。
障子がふわりと鳴り、見えない花びらが一枚、灯りの上を滑った気がした。
秋仁が私の前に一歩出る。
「聞いたか」
襖の向こうへ向けて言う。
「祟りを呼ぶ言葉を吐くな。……今夜は引け。引かなければ、ここで“本当に”祟りを目覚めさせる」
脅しではない。事実だ。
祟り神は、怖れを食べる。言葉ひとつで肥える。
芙蓉公主が、しばらく沈黙した。
やがて、落ち着いた声で言う。
「……殿下。満月の儀が失敗すれば、国が揺れます。……あなたはそれを背負えますか」
秋仁が答える。
「背負う」
間髪入れず、低く。
「背負うために、ここにいる」
その答えに、芙蓉公主の呼吸がほんの僅かに乱れた。
扇が揺れる音がした。
「……なら、今夜は引きましょう」
芙蓉公主の声は冷たかったが、どこか別の何かも混じっていた。
恐れ。あるいは羨望。――それを、私はまだ名づけられない。
足音が遠ざかる。
見回りの気配が薄れる。
襖の向こうが静かになったとき、私はようやく息を吐いた。
膝が少し震えて、鈴緒が私の手を握った。
「……桜さま、すごい。倒れなかった」
「鈴緒こそ……」
「わたし、めっちゃ震えてました」
鈴緒が泣き笑いする。
その顔に救われて、私は少しだけ笑えた。
秋仁が振り返る。
目が、柔らかい。
「よく言えた」
私は頷いた。
怖かった。怖かったけど――言えた。
秋仁は私の髪の簪に触れ、そっと言った。
「それが、お前の“生きる祈り”だ」
胸の奥が熱くなる。
私は、幸せになっていい。
その当たり前を、今夜また一つ守れた。




