第十六章 隔離の部屋と、風の抜け道
控えの間は、窓が小さく、香が濃かった。
花嫁巫女の部屋よりは広いが、自由はない。
薫が襖を閉め、外の神官に向かって言った。
「花嫁巫女は心を落ち着かせる。……誰も入れないで」
神官が不満げに頷く。
足音が遠ざかると、薫は私に背を向けたまま小さく息を吐いた。
「……無茶をした」
「ごめん」
「謝らないで。……私も無茶をしてる」
薫が振り返った。
目が揺れている。
「禰宜はあなたを折りたい。簪を奪って、言葉を奪って、器に戻したい」
「……芙蓉も?」
薫は眉を寄せた。
「芙蓉は……別の意味で危険。あの人は自分の役を演じるためなら、平気で人を道具にする」
私は喉が乾く。
「どうしたらいいの」
薫は一度だけ目を閉じ、低く言った。
「……逃がす」
「え」
「今夜、ここにいれば、あなたは“心が乱れた花嫁巫女”として扱われる。明日にはもっと強い監視が付く。満月までに、あなたの口は塞がれる」
薫は淡々と、でも決意の声で言った。
「だから、今夜のうちに“殿下の側”へ移る」
胸が跳ねた。
秋仁の側。
「そんなこと、できるの」
「式部が抜け道を持ってる」
薫は言った。
式部。あの人は、本当に何者なのだろう。
そのとき、障子がわずかに鳴った。
風の音ではない。合図のような小さな音。
薫が障子を少しだけ開ける。
そこに、式部がいた。
「時間がない」
式部は短く言った。
「禰宜が“穢れ祓い”を準備している。……香に混ぜる。眠らせて運ぶ気だ」
私は背筋が凍った。
「眠らせて……運ぶ?」
「花嫁巫女を“戻す”ために」
式部は淡々と言う。
淡々だからこそ、現実の刃が見える。
鈴緒が、式部の背後から顔を出した。
「桜さま! こっそり来ました! 薫さまの言う通り、逃げましょう!」
「鈴緒、どうやって……」
「見張りの人に“井戸の水がキーン”の話をしてたら、うんざりして目を逸らしました!」
鈴緒の顔は真剣なのに、言ってることだけが相変わらずで、私は思わず息を漏らした。
「……ありがとう」
「今は笑ってる場合じゃないです!」
鈴緒が頬を膨らませる。
でも、その顔が救いだった。笑えるうちは折れていない。
式部が手を伸ばした。
「外套を。簪は隠せ。……殿下の側へ行く。今夜から、殿下の護衛が“公式に”動く」
「公式に?」
「殿下は、もう隠さない」
式部の言葉に、胸が熱くなる。
秋仁が“皇子として”私を守ると言った。その覚悟が、今、現実になる。
薫が私の肩に手を置いた。
「桜。怖い?」
「……怖い」
「怖いなら、怖いって言って。……でも、行くのよ」
私は頷いた。
式部が先に立ち、薫、私、鈴緒の順で続く。
廊下を抜け、灯の少ない通路を通り、板戸の隙間をすり抜ける。
外の空気が冷たくて、肺が目覚める。
社の裏手。竹林の影。小さな祠。
式部が祠の奥の板を押すと、ぎい、と小さく軋んだ。
そこに、暗い穴が口を開けていた。
「ここが抜け道」
式部は淡々と言う。
「昔、巫女が祟りから逃げるために作られた。……皮肉だな。今は人から逃げるために使う」
私は喉が痛んだ。
でも、進むしかない。
穴の中は狭く、土の匂いがする。
鈴緒が後ろで小声で言った。
「桜さま、わたし、ちょっと冒険してる気分です……!」
「静かに」
薫が囁く。
私はそのやり取りに、また少し救われた。
しばらく進むと、遠くに灯が見えた。
穴の出口。
そこに――秋仁が立っていた。
皇子の装束ではない。
けれどただの作務衣でもない。動きやすい狩衣風の装い。護衛が数名、影のように控えている。
秋仁の目が、私を捉えた瞬間、胸の奥が痛いほど熱くなった。
「桜」
名前を呼ばれて、私は泣きそうになった。
秋仁は一歩近づき、私の肩に手を置いた。
その手が、現実の温度だった。
「怖かったか」
私は頷く。
声にしたら崩れそうで、頷くしかできない。
秋仁は私の額にそっと額を寄せた。
「大丈夫。……もう一人にしない」
その言葉が、骨に染みる。
私はやっと声を出した。
「……簪、取られそうだった」
秋仁の視線が私の髪に落ち、そして少しだけ笑った。
「隠さなくていい。……それは、お前の武器だって言っただろう」
私は唇を噛んだ。
「……私、言ったよ。また。幸せになっていいって」
「聞いた」
秋仁の声が低くなる。
「何度でも言え。……そのたびに俺は、お前を守る理由を増やす」
溺愛みたいな言葉なのに、冗談じゃない。
秋仁の目は真剣で、怖いほど真剣だ。
薫が一歩前に出た。
「殿下。桜を預けます。……満月までに、彼女の言葉を奪わせないで」
秋仁は薫に深く頭を下げた。
「ありがとう。薫」
薫が目を見開く。
「……私の名を」
「味方の名は覚える」
秋仁は淡々と言った。
「味方が傷つく世界は、俺が嫌いだから」
薫の目が揺れ、そして小さく頷いた。
「……なら、勝って」
薫はそれだけ言って、鈴緒の肩を押した。
「鈴緒、桜の側に」
「はいっ!」
鈴緒が秋仁の護衛たちを見て、目を丸くする。
「わ……すごい。ほんものの護衛……!」
「静かに」
式部が相変わらず淡々と突っ込む。
私は息を吐いた。ここにいる人たちが、私のために動いている。
怖い。
でも――一人じゃない。




