第十五章 噂は刃より速い
満月まで、あと六日。
朝の社は、いつもより明るいはずなのに、空気だけが陰っていた。
廊下を歩く神職たちの視線が、私の足元に刺さる。顔に刺さる。髪の簪に刺さる。
――花びらが舞った。
その事実は祝福にもなるし、呪いにもなる。
人は、自分に都合のいい“神意”を選ぶから。
薫の部屋から出ると、すぐに若い神官が二人、道を塞いだ。
「花嫁巫女・桜。禰宜さまがお呼びだ」
呼び出し。
胸がきゅっと縮む。
鈴緒が私の後ろで小さく唸った。
「……また“作法の確認”とか言って、監禁するつもりですよね」
「鈴緒、声」
薫が低く言う。
薫も一緒に立っていた。今日は表情が硬い。昨日の御殿で“揺れた正しさ”が、今、元に戻ろうとしているのがわかる。
神官は淡々と続けた。
「昨日の御殿の件で、花嫁巫女の身辺を改める必要がある。……簪も」
簪。
背筋が冷たくなる。
秋仁がくれた“生きる女の飾り”を、奪われる。
私は反射的に髪に手をやった。
鈴緒が一歩前に出る。
「それ、殿下――」
「鈴緒」
薫が遮った。
鈴緒の口が悔しそうに歪む。
神官の目が私の髪に吸い寄せられている。
「その簪は不浄のものだ。男の手が触れたものは、花嫁巫女に相応しくない。禰宜さまが預かる」
不浄。
その言葉が胸を裂く。
でも、私は言葉を飲み込んだ。ここで噛みつけば、彼らの“正しさ”を強くするだけだ。
薫が静かに言った。
「簪を外すのは、私がする。……花嫁巫女の身体に他人の手を触れさせない」
神官が渋い顔をする。
「薫さま、これは禰宜さまの命で――」
「私が責任を取る」
薫の声は低く、揺れない。
私は薫の横顔を見た。彼女は“正しさ”に背を向けていない。ただ、正しさの中に私を生かそうとしている。
神官はしぶしぶ頷き、「では禰宜さまの元へ」と言って先を歩いた。
私は廊下を歩きながら、心の中で繰り返した。
簪は、私の武器。
私の“生きる”の印。
奪われたら、私の足が折れる気がした。
禰宜の間は香が濃く、空気が重い。
禰宜は私を見て、感情のない声で言った。
「花嫁巫女・桜。昨夜も“妙な気配”があったと報告が上がっている。お前の周りに、穢れが集まっている」
穢れ。
穢れという言葉が、便利すぎる。
「……穢れではありません」
言うと、禰宜の目が細くなる。
「花嫁巫女が口答えをするのか」
場が冷える。
私は息を吸い、なるべく穏やかに言った。
「私は……生きて祈り続けると誓いました」
禰宜の眉がわずかに動く。
「皇子殿下の言葉に酔ったか。……殿下は優しい。優しいから、余計な夢を見せる」
芙蓉公主と同じ言い方。
胸の奥が、熱くなる。
私は、ぐっと唇を噛んだ。
ここで怒れば、私が“穢れた巫女”として扱われるだけだ。
禰宜が言う。
「その簪を外せ。預かる」
薫が一歩前に出た。
「禰宜さま。簪は花嫁巫女の心の支えでもあります。今、無理に取り上げれば、花嫁巫女の心が乱れ――」
「乱れているから取り上げるのだ」
禰宜は淡々と言い切った。
私は、手が震えた。
薫が私の髪に手を伸ばす。外そうとする。
外そうとする手が、微かに震えているのが分かった。
その瞬間、私の中で何かが決まった。
「外しません」
声が、思ったより強く出た。
禰宜の目が鋭くなる。
「……何だと」
私は息を吸った。
怖い。怖いけど――言葉を持つと決めた。
「これは、私が生きる印です」
禰宜が鼻で笑う。
「生きる印? 花嫁巫女の身で?」
「花嫁巫女の身でも、人は幸せになっていいです」
私は言った。
心臓が壊れそうなくらい跳ねている。
「私が生きる理由は、幸せになること。それ以外にありません」
禰宜の顔が、初めて歪んだ。
怒りだ。
“正しさ”を揺らされた怒り。
「……薫。この巫女を控えの間へ。頭を冷やさせろ」
控えの間。
聞こえは柔らかいけれど、実質は隔離だ。
薫が一瞬、迷った。
それでも頷き、私の腕を取った。
「桜、今は……」
「大丈夫」
私は小さく言った。
薫の腕に支えられながら、控えの間へ移される。
廊下の途中、私は気づいた。
神官たちの視線の中に、ひとつだけ違う視線がある。
芙蓉公主。
廊下の柱の陰から、扇で口元を隠してこちらを見ている。
目が合う。
芙蓉公主の口元だけが、微かに笑った。
――面白い。
その笑みが、背筋を冷やす。




