第十三章 鎮めの文と、殿下の手
今夜の集まりは、御殿ではなく社の奥の書庫だった。
古い木の匂いと、紙の匂いが混ざっている。灯明の火が小さく揺れて、影が壁に踊る。
そこに、秋仁――皇子殿下がいた。
昼の御殿では遠かったのに、ここでは少しだけ近い。
それでも、護衛の気配がいくつもある。式部が入口に立ち、薫が私の横に座り、鈴緒は落ち着かない様子で棚の影に控えている。
殿下は机の上に巻物を広げていた。
黄ばんだ紙。朱で書かれた古い文字。ところどころに、読めないほど擦れた跡。
「……これが“鎮めの原”だ」
殿下が言った声は低く、けれど私にだけ届く柔らかさが混じっていた。
「常若の儀が“命を返す儀”になる前の形。――本来は、命ではなく“誓い”を捧げる儀だった」
「誓い……」
私は思わず呟いた。
殿下は頷く。
「神に嫁ぐ、というのは比喩だった。本来は“生きて祈り続ける誓い”を捧げる。……だがいつからか、誓いが形骸化し、誓いを“確実にするため”に命が要求された」
薫が小さく息を吐いた。
「……人は、確実が欲しくなる。祈りは目に見えない。命は目に見える。だから、命を差し出せば安心できると思ってしまう」
薫の言葉が痛いほど正しい。
私は拳を握った。
「……じゃあ、戻せるの?」
私が聞くと、殿下は巻物の一部を指でなぞった。
「ここに、鍵がある」
殿下の指先は長くて、紙の上を滑るとき妙に丁寧だ。
その指で、昨夜、私の涙を拭ったことを思い出してしまい、心臓が跳ねた。
「“鎮めの言葉”」
殿下が言う。
「祟り神は、血を求める。……だが血を求めるのは、力を取り戻したいからだ。怖れを集めたいからだ。なら、怖れではなく――別のものを差し出せるなら」
「別のもの……」
私は唇を噛んだ。
殿下は私を見る。
その目は皇子の目じゃない。秋仁の目だ。
「桜。……お前の言葉だ」
胸の奥が熱くなる。
「今日、お前が言ったこと。人は幸せになっていい。生きる理由は幸せになること。……その言葉は、祟り神にとって最も厄介で、最も眩しい」
鈴緒が小さく頷いている。
薫も、視線を落としたまま耳を傾けている。
私は喉が乾いた。
「でも……祟り神は、そんな言葉で引くの?」
「引かない」
殿下は即答した。
「だから“儀”にする。言葉を“祈り”にする。……神々の前で、祟り神の前で、国の前で、宣言にする」
宣言。
今日の御殿のように。
「その儀を、いつやるの」
私が問うと、式部が答えた。
「次の満月。――本来の常若の夜だ」
満月。
胸がきゅっと縮む。
私の“二十歳”の代わりに、満月が死を連れてくる気がしていたから。
「満月まで、あと七日」
薫が淡々と言う。
「七日で、儀を組み替えて、保守側を抑えて、祟り神を鎮める。……無茶ね」
「無茶だ」
殿下は頷いた。
「だが、やる。……桜を死なせないために」
その言葉が、胸に刺さるほど嬉しくて、怖い。
私は思わず言った。
「殿下は……どうしてそこまで」
言ってしまった。
今ここにいる全員が、私たちの関係を知っているわけじゃない。
でも、もう隠しても意味がない気もする。
殿下は一瞬だけ黙り、そして静かに言った。
「どうしてだと思う」
問い返されて、私は言葉を失った。
わかってしまうから言えない。
殿下は机の端に手を置き、少しだけ身を乗り出した。
「桜」
名前を呼ばれて、背筋が震える。
「俺は、お前が好きだ」
その言葉は、小さかった。
でも、書庫の空気を一瞬で変えた。
鈴緒が「ひっ」と喉を鳴らし、慌てて口を押さえる。
薫は眉ひとつ動かさないふりをして、耳だけ赤い。
式部は相変わらず無表情だが、目がほんの少しだけ逸れた。
私は息が止まった。
頭が真っ白になる。
それでも、胸の奥だけが熱い。
「……殿下」
「秋仁でいい。ここでは」
殿下――秋仁は、笑ってはいなかった。
真剣だった。怖いほど真剣だった。
「お前が幸せになっていいって思える世界を、俺は作りたい。……その最初の一人が、お前だ」
私は唇を噛んだ。
泣きそうになる。
でも泣いたら、また“弱さ”に戻ってしまう気がした。
秋仁は、私の手の甲にそっと触れた。
ただ触れるだけ。
でもその触れ方が、抱きしめられるより強い。
「返事はいらない。今は」
秋仁が言う。
「今は生きることを選べ。……返事は、生きてからでいい」
生きてから。
その言い方が、私の未来を肯定する。
私は頷いた。
涙が落ちそうで、でも落ちない。
「……生きます」
そう言うと、秋仁の指先がほんの少しだけ強く私の手に触れた。
たったそれだけで、胸がほどける。
そのとき。
書庫の外で、風が鳴った。
冷たい風。灯明の火が一瞬だけ大きく揺れる。
式部が顔を上げた。
「……来た」
薫の手が私の肩を掴む。
「落ち着いて。倒れないで」
私は息を吸った。
床の下から、あの粘つく声がする。
――返せ。返せ。返せ。
祟り神。
血を求める声。
恐怖が喉を締める。
でも私は、簪に触れた。
袖の内の結び紐を握った。
「返しません」
自分の声が震える。
震えていてもいい。言葉があるなら折れない。
「私は生きます。……幸せになります」
すると風が、ふっと柔らかくなった。
冷たい風の中に、温かい風が混ざる。
『……いい子』
耳の奥で瀬織夜の声。
それと同時に、棚の隙間からひとひら、光の花びらが舞った。
秋仁が息を呑み、私の前に立つ。
「出てこい」
低い声。皇子の声だ。
「祟り神。……お前が欲しいのは血か。恐怖か。――なら俺は、お前に“別の餌”をくれてやる」
式部が低く言う。
「殿下、今は刺激するな。満月の儀で――」
「今、釘を刺す」
秋仁は言い切った。
「桜は殺させない。……お前の“古い契約”は、満月で終わらせる」
床が、微かに鳴った。
まるで笑い声のように。
――終わらせる? 人が? 神の契約を?
祟り神の声は嘲るように響く。
私は唇を噛み、言った。
「終わらせます」
声がかすれる。
でも言った。私の言葉で。
「死ぬことで鎮めるのは、幸せじゃない。……私は幸せになる。幸せになっていい。だから、終わらせます」
風が強く吹き、灯明がいくつか消えた。
暗闇の中で、秋仁の手が私の手を掴む。
「怖いか」
耳元で囁かれ、私は頷く。
「怖い」
「怖いなら、俺を掴め」
掴め。
その言葉が、私を地面につなぐ。
私は秋仁の手を掴み返した。
握り返す力は、震えている。
それでも、離さない。
暗闇の中で、瀬織夜の声がふっと笑った。
『……これが、祈りの形』
そして、祟り神の声が遠のく。
――満月までだ。満月までに、返せ。
最後にそう残して、気配が消えた。
灯明がまた灯り、書庫に静けさが戻る。
鈴緒が泣きそうな顔で言った。
「……今の、なに……?」
式部が短く答える。
「脅しだ。……満月で決着をつけろという」
薫が私を見る。
「桜。……戦いは避けられない」
私は頷いた。
怖い。
でも、もう逃げない。
秋仁が私の指先を握り直し、低く言った。
「満月まで、俺はお前を守る。……だが、守られるだけじゃなく、一緒に立て」
「……立つ」
「いい」
秋仁はそれだけ言って、私の髪の簪に触れた。
確かめるみたいに、そっと。
「桜。……お前は生きる」
その言葉が、今夜の誓いになった。




