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第十一章 名を呼ぶ夜

 御殿から出た瞬間、足の力が抜けた。

 私は廊下の柱に手をつき、息を整えようとした。

 そのとき、背後から腕が伸びて、私の肩を支えた。

「倒れるなと言っただろう」

 式部の声。

 私は苦笑いすら出ない。

「……倒れそうでした」

「倒れなかった」

 式部は短く言って、私の袖を整えた。

 乱れているのは袖だけじゃない。心も息も、全部だ。

 そこへ鈴緒が飛び込んできた。

「桜さま……っ!」

 声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。

 目が真っ赤だ。

「すごかった……! 桜さま、すごかったです……!」

「鈴緒……」

「花びら! 花びらが! わたし、鳥肌立ちました! 神さま、ぜったい桜さまの味方です!」

 味方。

 その言葉が嬉しいのに、怖い。

 だって味方が増えれば、敵も増える。

 薫が静かに歩いてきた。

 顔色がいつもより白い。

「桜」

 私は身構えた。

 薫は私を責めない。そうわかっていても、怖い。

 薫は低い声で言った。

「……あなた、言ったわね。生きたいって。幸せになりたいって」

「……言いました」

 薫は目を閉じ、短く息を吐く。

「よく言えた。……私は、あなたを“器”に戻したくない」

 私は息をのんだ。

 薫が続ける。

「だから今夜から、あなたは私の部屋に移る。花嫁巫女の部屋は監視が濃すぎる。……式部、通せる?」

 式部が頷く。

「動線は作る。……だが殿下の護衛も入る。いいか、桜さま。あなたは今、“守られるべき者”になった」

 守られるべき者。

 その言い方が、また少し苦しい。

 でも、守られなければ生きられないなら。

 私は今は、守られる。

 生きるために。

 薫の部屋へ移る途中、廊下の角で、足が止まった。

 そこに――芙蓉公主が立っていた。

 薄紅の衣が、廊下の闇の中で花の影みたいに揺れている。

 彼女は扇を開かず、素の顔で私を見た。

「……あなた、怖くないの?」

 唐突な問い。

 私は息を止めた。

 芙蓉公主は続けた。

「殿下を巻き込んだ。社の“正しさ”を揺らした。……これからあなたは、祟りより人に刺される」

 刺される。

 言葉で? 刃で?

 どちらでもあり得る。

 私は答えた。

「怖いです」

 正直に言うと、芙蓉公主の目がほんの僅かに緩んだ。

「……それでも、幸せになりたい?」

「なりたいです」

 芙蓉公主は口元を押さえ、少しだけ笑った。

 昨夜の“面白い”とは違う笑い。

「羨ましい。……あなたは、自分の願いを言えた」

 私は胸が痛くなる。

 芙蓉公主も、何かを閉じ込めている。

「芙蓉さまは……」

 言いかけた私に、芙蓉公主は首を振った。

「聞かないで。私はまだ、自分の願いを言えるほど強くない」

 そして、扇を閉じ、静かに言った。

「でも覚えておいて。殿下は優しい。優しい人ほど、潰される。……あなたが殿下を守れるのは、あなたが“生きる”ことよ」

 そう言って、芙蓉公主は廊下の闇に消えた。

 私は立ち尽くし、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 ――私が殿下を守れるのは、私が生きること。

 言葉が胸に残る。

 薫が私の肩に手を置いた。

「行くわよ」

 私は頷いた。

 夜は長い。

 でも、私はもう逃げない。

 生きるために。

 幸せになるために。


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