第十章 顔合わせの朝
顔合わせの朝は、妙に静かだった。
鳥の声も、いつもより遠い。
鈴緒が髪を整えながら、何度も深呼吸している。
整えられるのは私の髪なのに、鈴緒のほうが緊張している。
「鈴緒、呼吸」
「してます!」
「してない顔」
「だって! 桜さまが! 今日! 皇子と!」
「声、声」
私は思わず笑ってしまった。
鈴緒は慌てて口を押さえ、でも目が潤んでいる。
「……桜さま。怖い?」
「怖い」
私は素直に言った。
鈴緒は頷き、私の肩に額をこつんと当てる。
「私も怖い。でもね、桜さま。桜さまが幸せになるの、私……見たい」
その言葉が胸に沁みた。
薫が部屋に入ってきた。
今日はいつもより化粧が薄い。目がはっきりしている。覚悟の目だ。
「時間よ」
薫は短く言って、私の髪の簪を見た。
「……それ、外さないの?」
「外したくない」
私が言うと、薫は一瞬黙って、それから頷いた。
「なら、それがあなたの武器ね」
武器。
私は息を吸う。
「薫、昨日言ってた。殿下を一人で戦わせないって」
「……言った」
「私も戦う。今日、言う」
薫は目を伏せ、短く息を吐いた。
「……あなたは強いわけじゃない。……でも、強くなる気がある。そこが強い」
私は頷いた。
御殿へ向かう廊下。
見回りがいつも以上に多い。
目が多い。空気が硬い。
御殿の間の前で、式部が待っていた。
相変わらず無表情だが、目だけが忙しい。
「桜さま」
式部は私にだけ聞こえる声で言った。
「何が起きても、倒れるな。……倒れたら、連れて行かれる」
「……毒とか、そういうこと?」
「“言葉”だ」
式部は淡々と続けた。
「お前の心を折るための言葉が、飛んでくる。……それに負けるな」
私は頷いた。
――負けない。
私は生きたい。
幸せになりたい。
御殿の間の襖が開く。
香の匂いが濃く、光が眩しい。
私は一歩踏み出した。
そこには――芙蓉公主がいた。
そして、列をなす神職と役人たち。
その中心に、簾の向こうの気配。
皇子殿下。
秋仁が、そこにいる。
私は息を吸った。
胸の奥で、瀬織夜の風が微かに揺れる気がした。
――ここからだ。
御殿の間に足を踏み入れた瞬間、香の匂いが喉の奥にまとわりついた。
白檀と沈香。清めのための香なのに、今日はどこか“封じる”匂いに感じる。
私は畳の縁で膝をつき、額が床につくほど深く頭を下げた。
「花嫁巫女・桜、参りました」
自分の声が、やけに遠い。
耳の奥で血が鳴っているせいだ。
顔を上げると、正面に簾が垂れていた。
その向こうに、静かな気配がある。――秋仁。皇子殿下。
けれど、今ここで私は“秋仁”を見てはいけない。
私は花嫁巫女で、彼は皇子だ。
互いの名前が触れた瞬間、世界が騒ぎ出す。
視線を落としたまま、私は左手側の気配を感じ取る。
芙蓉公主。
薄紅の衣が、まるで花そのものみたいに艶やかで、同時に棘の存在を匂わせた。
上座には禰宜と神官、それに御殿の役人が居並び、空気が硬く固まっている。
“儀”というより“裁き”に近い。
「花嫁巫女・桜」
禰宜の声が落ちる。淡々としていて、感情がない。
「本日、皇子殿下の御前にて顔合わせの儀を行う。お前は花嫁として、神へ嫁ぐ身であることを忘れるな」
神へ嫁ぐ。
その言い方が、胸の奥を鈍く叩く。
芙蓉公主が扇をそっと動かした。
香が揺れる。
まるで「言え」と促す合図みたいに。
「花嫁巫女」
今度は別の神官が言った。
「誓いの詞を述べよ」
誓い。
私の喉が、からからに乾く。
ここで言わされる誓いは、ずっと決まっている。
――この命、常若のため捧げます。
その一文が、舌の上に冷たい刃物みたいに乗った。
言えば終わる。
言えば私は“器”に戻る。
言えば、秋仁と交わした「生きる」は、ただの夢になる。
私は袖の内の結び紐を、ぎゅっと握った。
髪の簪が、微かに揺れる。
怖い。
でも――。
私は息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
簾の向こうの気配が、ほんの僅かに強くなった。
秋仁が、息を止めたのがわかる。
「……誓いの詞を」
禰宜が繰り返す。
私は、口を開いた。
「この命……」
声が震える。
畳の木目が波みたいに揺れて見えた。
それでも私は続けた。
「この命を――常若のために……生きて捧げます」
空気が、止まった。
誰かが息を呑む音がした。
芙蓉公主の扇が、ぴたりと止まる。
「……なにを」
神官の声が低くなる。
「花嫁巫女が、“生きて”だと?」
禰宜の眉が寄る。
怒りというより、理解できないものを見る目だ。
「花嫁巫女は神に嫁ぐ。嫁ぐとは、捧げることだ。命を返すことだ。――お前は、誓いを改竄するつもりか」
改竄。
式部の言った“言葉”の刃が、ここにもある。
私の指先が冷たくなる。
でも、引き返さない。
「改竄ではありません」
私は、必死に声を真っ直ぐにした。
「私は、祈ってきました。誰かの幸せのために。……だから今度は、私が生きて祈り続けます。そうでなければ、祈りは空っぽになります」
ざわり、と畳の上の空気が揺れた。
「生意気な」
「花嫁巫女が己を主張するなど……」
小声が重なり、薄い波が起きる。
その波の中心に、芙蓉公主の声が落ちた。
「美しい理想ですわ」
甘いのに、冷たい。
「けれど巫女が“生きたい”などと望むのは、穢れではなくて? 神前で己の欲を語るのは、神への背きですわ」
背き。
罪。
器。
言葉が鎖みたいに絡みつく。
私は唇を噛んだ。
反論しようとしたのに、声が出ない。
そのとき。
「静まれ」
簾の向こうから、低い声が落ちた。
場が一瞬で凍る。
神官も役人も、芙蓉公主さえも、息を止める。
簾が上がり、皇子が姿を現した。
秋仁――秋仁ではない。
皇子殿下の装束は深い藍。肩の線が美しく、歩くたびに布が静かに鳴る。
その姿は、あの夜の直垂より遥かに“遠い”。
なのに。
目が合った瞬間だけ、私は確かに“秋仁”を見た。
怖くて、でも離れたくないと思ってしまう目。
皇子殿下は私の前に立ち、淡々と告げた。
「花嫁巫女の誓いは、改竄ではない」
禰宜が口を開こうとする。
皇子殿下は、視線だけで封じた。
「そもそも――順番を繰り上げる決定は、誰が許可した」
空気が張り詰める。
「殿下、荒魂が……」
「荒魂が騒ぐのは、理由があるからだ」
皇子殿下の声は冷静なのに、芯が硬い。
「理由を正さず、ただ捧げものを増やすのは、荒魂を肥えさせるだけだ。……巫女の命を“早める”ことで鎮まるなら、今までの死は何だった」
禰宜の顔がわずかに歪む。
「殿下。常若の儀は――」
「常若の儀は、国を守るための儀だろう」
皇子殿下は言い切った。
「ならば国を守る儀が、国の民を削ってどうする。……私は、順番の繰り上げを撤回する」
どよめきが走る。
「な、何を……!」
「殿下、それは……!」
声が重なり、場が乱れかけた瞬間。
皇子殿下が、低く言った。
「私が命じる」
それだけで、場の音が落ちた。
芙蓉公主が、扇を閉じた。
「殿下。……国の未来を、ひとりの巫女のために揺らすのですか」
その問いは、私を刺すための問いだ。
私は息を止めた。
殿下が私を選ぶなら、殿下は“国”と戦う。
――私は、殿下を一人で戦わせない。
薫の言葉が胸を叩く。
皇子殿下は芙蓉公主を見た。
その視線は丁寧で、けれど一切揺れない。
「国の未来とは、人が生きる未来だ」
皇子殿下は淡々と言う。
「人が幸せになれない未来なら、未来と呼ぶ価値がない」
芙蓉公主の目がわずかに揺れた。
その揺れを、彼女は扇の角度で隠す。
「……殿下は、優しいのですね」
「優しさではない」
皇子殿下は、私の方へ視線を移した。
一瞬だけ。
けれどその一瞬に、胸が焼ける。
「当然の話だ」
当然。
当たり前。
私は息を吸い、言葉の刃を恐れず口を開いた。
「殿下」
自分でも驚くほど、声が通った。
「私は……生きたいです」
ざわり、と再び空気が揺れる。
私は続けた。
「人は、幸せになっていいと思います。……私が生きる理由は、幸せになること、それ以外にありません」
言い切った瞬間、胸の奥が痛いほど軽くなった。
怖さは消えない。でも、怖さの上に立てた気がした。
芙蓉公主の声が、冷たく落ちる。
「……花嫁巫女が、神前でそのような言葉を」
そして、彼女は微笑んだ。
「ならば――なおさら穢れですわ」
言葉が突き刺さる。
「昨夜、裏庭で殿下と密会していた巫女が、清い花嫁だと言えるのですか? 見ましたわ。……薫さまも、お側に」
薫――。
私は息を止め、思わず薫を探した。
薫は列の端にいた。表情が硬い。
芙蓉公主が“薫”の名を出したのは、薫の口を封じるためだ。
禰宜が声を荒げる。
「密会……!? 花嫁巫女が……!」
「穢れだ!」
「順番を繰り上げるどころか、今すぐ――」
言葉の波が私を飲み込もうとする。
手足が冷たくなる。
でも私は倒れない。倒れたら連れていかれる。
――殿下を一人で戦わせない。
私は歯を食いしばった。
その瞬間。
「昨夜、裏庭にいたのは私だ」
皇子殿下が言った。
場が、再び凍りつく。
「私が桜を呼んだ。彼女に罪はない」
禰宜が顔色を変える。
「殿下、それは……」
「責めるなら私を責めろ」
皇子殿下の声は、静かなのに鋭い。
「だが、責める前に思い出せ。……“穢れ”とは何だ。人が生きたいと願うことか。幸せになりたいと願うことか」
禰宜が言葉を失う。
芙蓉公主が扇をぎゅっと握り直した。
けれど彼女は引かない。
「殿下。責任を被るおつもりなら、なおさら――花嫁巫女を皇子の側に置くことは許されません。巫女は神の器。殿下は国の――」
「桜は器ではない」
皇子殿下の声が、少しだけ低くなる。
「桜は、人だ。……生きる人間だ」
その言葉が、胸の奥に落ちて、私は息ができなくなりそうだった。
でも――ここで終わらない。
御殿の外、どこかで風が鳴った。
季節外れの冷たい風。
香が揺れ、灯が一瞬だけ暗くなる。
誰かが小さく悲鳴を上げた。
床の下から、低い声がした気がした。
――返せ。
耳の奥に直接響く、粘つく声。
荒魂。祟り神。
膝が折れそうになる。
恐怖が喉を掴む。
でも、私は倒れない。倒れたら連れていかれる。
私は袖の内の紐を握り、髪の簪に触れた。
そして、息を吸った。
「返しません」
自分の声が、はっきり聞こえた。
「私は生きます。……幸せになります」
その瞬間、風の向きが変わった。
冷たさの中に、柔らかい温度が混じる。
花のないはずの空から、ひとひら――薄い光の花びらが落ちた。
そして次々と舞い、私の周りに円を描く。
ざわめきが、祈りに変わる。
「……花びら?」
「この季節に……?」
「御神意か……」
禰宜が息を呑む。
皇子殿下が一歩、私の前に出た。
その背中が、盾になる。
「見たか」
皇子殿下は禰宜に言う。
「これが“生きる祈り”だ。……死で鎮める時代は終わらせる」
芙蓉公主の顔が、初めて明確に歪んだ。
けれど彼女もまた、花びらを見て言葉を失っている。
皇子殿下は場を見渡し、命じた。
「花嫁巫女・桜は、私の管理下に置く。……誰も彼女に手を出すな。次の儀までに、私は“新しい鎮め”を示す」
禰宜が震える声で言う。
「殿下、それは――神々への……」
「神々に問うなら、問え」
皇子殿下は言い切った。
「私は、民を殺さない国を作る」
その言葉が落ちた瞬間、御殿の間の空気が変わった。
“正しさ”が、ひとつ揺らいだ。
薫が、列の端で小さく息を吐いた。
鈴緒がどこかで泣きそうな気配を出している。
式部は無表情のまま、目だけで頷いた。
顔合わせの儀は、祝言ではなく、宣言で終わった。




