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第一章 常若の社

© 2026 Mshumarochan

無断転載・無断改変・AI学習利用を禁止します。


二十歳で死ぬと決められている。

それが、この社に生まれた巫女の定めだった。

常若の社――山の背に抱かれた古い社は、朝霧の中でも白く浮かび上がる。杉の匂いと、濡れた土の匂い。鳥の声。鈴の音。私は白い小袖に朱の袴を結び、まだ冷たい石段を上りながら、いつものように息を整えた。

十九歳。桜の季節が来れば、あと一つ歳を重ねる。

そして、私の名はその花と同じ「桜」。笑い話みたいだ、と外の人は言うかもしれない。けれどこの社では、名は祈りであり、役目であり、呪いでもある。

「桜さま、今日の湯は熱めにしておきましたよ」

 背後から、弾む声が聞こえる。

振り返ると、後輩巫女の鈴緒が、桶を抱えてにこにこしていた。頬が赤いのは走ってきたからだけじゃない。寒さと、勤めの緊張と、若さの熱だ。

「ありがとう。鈴緒は本当に気が利くね」

「えへへ。だって桜さま、最近よく眠れてないでしょう?」

胸に小さな針が刺さる。

眠れないのは――夢の中で、いつも同じ音がするからだ。太鼓。笛。祝詞。そして、最後に鳴る、鈍い何かが落ちる音。棺の蓋が閉じる音。

「大丈夫。忙しいだけだよ」

そう言って笑うと、鈴緒は口を尖らせた。

「嘘。桜さま、笑うとき、目の奥が泣いてます」

私は返す言葉を探して、唇を噛む。泣くのは弱さではないと教えられてきた。それでも、泣いてはいけないと自分に言い聞かせてしまうのは、やっぱり怖いからだ。

社には百二十五柱の神が祀られている。そして百二十五人の巫女がいる。

 ――百二十五人、では足りない。

いつも一人、欠けている。

欠けた一人の穴を埋めるために、新しい巫女が選ばれ、育てられ、二十歳で神に返される。

それが「常若の儀」。この国を災いから守るための、代償。

私たちは神の花嫁ではない。花嫁という言葉が甘すぎるから。

供物だ。祈りの形をした、生贄だ。

「鈴緒、桶は私が持つよ。重いでしょう」

「平気です! でも……今日の御前奉仕、桜さまが当番ですよね。偉い人が来るって聞きました」

偉い人。鈴緒は噂話が好きだ。巫女であろうと、若い娘であることは変わらない。

「……皇都から、って?」

「はい! 御簾の向こうにお姿がちらっと見えたって、皆が――」

私はそっと息を吐いた。

皇都。皇族。私には遠い言葉だ。

この社は神と国の境目に立っている。だから国の偉い人は時々来る。儀の前後には特に。

でも、私には関係がない。

二十歳で終わる命に、政治も都も、未来もないから。

そう思い込もうとした、その時だった。

境内の端、修繕中の回廊のほうから、木を削る音が聞こえた。乾いた、規則正しい音。職人の息づかい。私は音に誘われるように視線を向け、足を止める。

回廊の柱の前に、見知らぬ青年がいた。

黒髪は無造作に束ねられ、額に汗が光っている。袖をまくった腕は意外に逞しく、手には鉋。けれどその動きは荒くない。木を撫でるように削り、削り屑が羽のように舞っていた。

こんな人、社にいたっけ――。

考えるより先に、私の袖が風に煽られた。桶の水が跳ね、石畳が濡れる。足元が滑った。

「――っ!」

転ぶ、と思った瞬間、誰かの手が私の肘を掴んだ。

強いのに、痛くない手。

身体がふわりと戻され、私は桶を抱えたまま、青年の胸元にぶつかった。木の香りと、汗と、少し甘い香の混じった匂いがする。社の男たちからは嗅いだことのない匂いだった。

「怪我は?」

低い声が、耳のすぐそばで落ちた。

顔を上げると、青年の瞳がこちらを見ていた。澄んだ、深い色。人を見下さず、けれど逃がさない眼差し。

「だ、大丈夫です……ありがとうございます」

慌てて一歩距離を取る。頬が熱い。桶の水より、身体の内側が熱い。

「安全な場所に運びましょう。滑っている」

「いえ、私が……」

言いかけて、私は言葉を失った。

青年が、桶の取っ手に指をかけたのだ。巫女の奉仕道具に、男が触れるのは本来なら控えられる。けれど、彼の指先は躊躇いがなく、それでいて不思議と不敬に見えなかった。

まるで昔から、この社の作法を知っているみたいに。

「あなたは……職人さんですか?」

「そう見える?」

青年は微かに笑った。笑うと、目尻だけが柔らかくなる。

「今日からこちらで働くことになりました。名は――秋仁」

「あき……ひと」

 口にすると、胸の奥がかすかに疼く。知らない名なのに、どこか懐かしい。

「桜さん。あなたが当番だと聞いている」

「え……どうして私の名を」

言った瞬間、青年――秋仁の視線が、ほんの一拍だけ揺れた。

まるで、口を滑らせたのを悔いるように。

「皆が口にしていました。二十歳を迎える巫女は、社の花だと」

そう言って、彼は私の前に桶を置いた。濡れた石畳に、さっと藁草履を差し入れ、滑り止めにする。手際がいい。慣れている。

鈴緒が目を丸くしている。

「桜さま、すごい……。あ、秋仁さん、ありがとうございます!」

「気にしないで。――あなたは、桜さんを大事にしているんだね」

「はい! だって桜さまは――」

鈴緒が言いかけて、噤んだ。

私も息を止める。

巫女は「二十歳で死ぬ」と口にしてはいけない。口にした瞬間、それが現実になると信じられているから。

けれど秋仁は、わかっているような顔をした。

「この社では、言葉が運命になる」

彼は静かに言った。

「だから、俺が言う。――あなたは、死なない」

胸が、どくん、と鳴った。

そんなこと、誰も言わなかった。

言ってはいけないことだったから。

言ったとしても、嘘になるから。

私は笑ってしまいそうになる。馬鹿げている。見知らぬ職人が、巫女の定めを覆せるはずがない。

なのに、彼の声は嘘に聞こえなかった。

「……秋仁さん」

 口に出した瞬間、涙が喉の奥に滲んだ。

彼は私を見て、ゆっくりと頭を下げた。

まるで、神前で誓うように。

「俺は、あなたが幸せになるために来た」

風が吹き、桜の枝が揺れた。

まだ蕾もない季節なのに、胸の奥で何かが、静かに開いていく音がした。

遠くで太鼓が一つ鳴った。御前奉仕の合図だ。

「桜、遅れるわよ」

 凛とした声が境内に響き、同格の巫女――薫がこちらへ歩み寄ってきた。黒髪をきりりと結い、視線だけで人を正すような人だ。彼女の目が秋仁に向き、わずかに細くなる。

「……新しい者?」

「はい。回廊の修繕を任されました」

秋仁は丁寧に答える。けれど薫は頷くだけで、私の袖を引いた。

「あなたは御簾の内側へ。――役目を忘れないで」

役目、という言葉が胸を刺す。

 私は頷き、御殿へ歩き出した。振り返るのは禁じられていないのに、なぜか怖くてできない。

けれど一度だけ、薄く目を伏せたまま、視線だけを戻す。

秋仁は回廊の影に立っていた。

こちらを見て、口の動きだけで告げる。

『約束だ』

何の約束だろう。

それさえ答えられないのに――私の世界が、今、静かに書き換わり始めた気がした。

その予感が、二十歳の春を恐怖ではなく、希望に変えてしまうことを、私はまだ知らない。

御殿の廊下は、外の冷気を遮るために分厚い板戸が立てられている。それでも隙間風は容赦なく足首を撫で、朱の袴の裾がわずかに揺れた。

薫に引かれるまま歩きながら、私はさっきの言葉を胸の中で何度も反芻していた。

――あなたは、死なない。

 ――俺は、あなたが幸せになるために来た。

我慢していた波が、内側から押し寄せる。笑ってしまいそうで、泣いてしまいそうで、ふらつく。

「顔色が悪い」

 前を行く薫が、振り返りもせずに言った。

「……いつものことだよ」

「あの男のせい?」

「違う」

違う、と言い切ったのに、心臓が小さく跳ねた。薫はそれを見抜いたように、ふっと鼻を鳴らす。

「巫女は、役目から目を逸らしてはいけない。特に――あなたは」

 最後の言葉だけ、声が柔らかくなった気がした。

御殿の前に立つと、年長の巫女たちが既に整列している。白衣の袖が揃い、髪の結い目の高さまで揃っているのは、長い年月で刻まれた癖だ。鈴緒は端っこで桶を抱え、私に小さく手を振った。

御簾の向こう側には、影がある。

 人の影。複数。衣擦れの音。香の匂い。

「桜」

 年長の巫女・千草さまが名を呼んだ。声は穏やかだが、逆らえない重みがある。

「はい」

「本日は皇都より、尊きお方がいらしている。あなたは水を捧げ、祝詞の前に鈴を鳴らしなさい」

尊きお方。

私は目を伏せ、頷いた。

御簾の内側。触れてはいけない世界。見るべきではない場所。けれど、私の役目はそこへ祈りを通すことだった。

畳に膝をつき、桶から水を汲む。指先が震え、柄杓から一滴落ちた。畳の縁に染みを作る前に、袖でそっと拭う。

――落とすな。

 ――震えるな。

 ――役目を忘れるな。

心の中の言葉はいつも同じだ。私を支えてきた呪文だ。けれど今日は、その呪文の間に違う声が割り込んでくる。

――死なない。

私は、息を吸って、吐いた。

鈴を取る。

澄んだ音が、御殿に広がる。鈴緒の鳴らす鈴とは違う。私の鈴は、儀式の鈴だ。

御簾の向こうで、誰かが微かに息をのんだ気配がした。

次に、祝詞。

千草さまが声を発すると、御殿の空気が一段冷えるように張り詰めた。神名が続き、土地の名が続き、祈願が続く。

――常若の地を、災いより守り給え。

 ――巫女の身をもって、古き契りを守り給え。

古き契り。

私の指先が、鈴の紐をきつく握った。

祝詞が終わる頃、御簾の向こうから、男の声が一つ聞こえた。低く、よく通る声。まだ若いのに、落ち着きがある。

「……よく仕えている。常若の社の巫女たち」

私は顔を上げそうになり、慌てて伏せた。巫女が御簾の奥のお方を直視してはならない。たとえ声がどれほど優しくても、好奇心は禁忌だ。

それでも、声だけでわかってしまう。

 この人は、命令するための声を持っている。

「次の儀について、報告を」

別の男の声が答えた。文官の声だ。硬い言葉が続き、私はその意味を拾いきれない。けれど“次の儀”“花巫女”“二十歳”という言葉だけが耳に刺さる。

花巫女。

 ――儀に捧げられる巫女のことを、外の者はそう呼ぶらしい。

私の喉が渇く。

「桜さま」

千草さまが小さく囁く。私の手元を見ていた。柄杓が止まっている。私は慌てて水を捧げた。

御殿の儀礼が終わり、巫女たちが一斉に下がる。立ち上がると、膝が少し痺れていた。薫が私の背を押し、鈴緒が桶を抱え直す。

廊下に出た瞬間、私は息を吐いた。御殿の空気は甘く重い。香と権威と、見えない刃。

「桜さま! 大丈夫ですか?」

鈴緒が顔を覗き込む。

「大丈夫。少し……緊張しただけ」

「だって、すごい人が来てましたもんね。あの声、かっこよかった……」

鈴緒が頬を赤らめて言った。

私は笑おうとしたが、うまくできなかった。

御殿の外に出ると、庭の端に警護の者たちが立っていた。黒い装束。腰に刀。視線が鋭い。社の男たちとも違う、訓練された無駄のない立ち方。

その中に一人だけ、空気が違う男がいた。

白い狩衣を纏い、髪を結い上げた青年。背は高く、姿勢が真っ直ぐで、顔立ちは整いすぎるほど整っている。何より、周囲の者たちが彼に合わせて呼吸しているのがわかった。

――あの人が、皇都から来た尊きお方?

私は目を伏せた。見てはならない。

けれど目の端で、青年がこちらを見た気配がした。視線が触れた。まるで、私を確かめるように。

そして一瞬。

青年の口元が、微かに動いた。

『桜』

呼ばれた気がした。

けれど、声は聞こえない。私の錯覚だ。だって御殿の中で、声を掛けられるはずがない。

その時、薫が私の腕を掴んだ。

「見るな」

 囁きは刃だった。

「……ごめん」

「謝る必要はない。あなたが“花巫女”になるから、皆があなたを見る。それだけ」

「花巫女……」

薫は言葉を切り捨てるように続けた。

「二十歳の儀までは、余計なものを背負うな。恋も、憧れも、救いも。あなたの役目は一つだ」

役目。

私の世界は、その言葉でできている。

なのに、さっきの青年の視線が、まだ肌に残っている。

そして、回廊の影の男の声が、胸の奥で揺れている。

――死なない。

私は唇を噛み、鈴緒の桶を手伝って湯殿へ向かった。湯殿は裏の小道を抜けたところにある。杉の根が張り出し、湿った苔が石を青く染める。歩き慣れた道なのに、今日は足元が不安定に感じた。

「桜さま、今日、回廊の修繕が進んでましたね。秋仁さん、すごいです」

鈴緒が明るく言う。

「うん……」

「ねえ、桜さま。秋仁さん、どこから来たんでしょう。言葉が、ちょっと……上品じゃないですか?」

鈴緒は首を傾げる。

私は胸が跳ねるのを隠し、笑って誤魔化した。

「都のほうの職人さんなのかもね」

「都……。じゃあ、偉い人を見慣れてるのかな。あの人たち、目が怖かった……」

「鈴緒、あまり口にしないで」

「はい……」

湯殿に着くと、湯気が白く立ち上っていた。湯の匂いは木と薬草の匂いが混じる。私は桶を置き、袖をまくった。

湯殿は巫女たちのための場所だ。外の男が立ち入ることはない。ここだけは、鎖が緩む。

それでも、私は鎖を自分で締めてしまう。

湯に浸かっても、胸の奥の冷えが取れない。

湯殿の外で、鈴緒が小声で言った。

「桜さま、湯上がりに甘いお餅、取ってあります。今日、桜さま……頑張ったから」

「ありがとう、鈴緒」

頑張った。

 ――頑張っても、死ぬ。

その当たり前が、今日だけは揺らいでいるのが怖い。

湯から上がり、髪の水を拭い、衣を整える。白い小袖を重ねた瞬間、小袖の袖口が濡れた石に触れて冷えた。私は思わず肩をすくめる。

外へ出ると、夕方の空が薄紫に染まり始めていた。湯殿の周りは木々が密で、風が通らない。その分、足元の石はいつも湿っている。

私は一歩踏み出し、また滑った。

「――危ない」

今度は聞こえる声。

同時に、肩に羽織が掛けられた。

ふわりと温かい布。

木と香の匂い。

私は息を止め、振り返った。

秋仁が立っていた。回廊の作業着のまま。袖まくりの腕に、削り屑が少し付いているのに、彼の目だけは澄んでいて、まるで湯気の向こうの世界を見ているみたいだった。

「……どうして、ここに」

「見回りのついで。……あなたが転びそうな気がした」

「そんな、予知みたいな」

「あなたは、転ぶときの呼吸が変わる」

秋仁は真面目な顔で言った。

私は意味がわからず、でもなぜか笑いそうになった。

「……巫女の呼吸まで見るんだね」

「見てしまう。あなたのことは、特に」

「……っ」

胸が熱くなる。

 羽織の温かさが、胸の奥の冷えに染み込んでいく。

「返します。これは……」

「返さなくていい。寒いだろう」

「でも、男の方の物を……」

「俺は気にしない」

「私が気にします」

「じゃあ、約束を一つ」

秋仁は、私の目をまっすぐ見た。

逃げられない視線。

「転びそうな場所では、俺の手を取ること。……それだけでいい」

巫女が、男の手を。

その言葉だけで、薫の顔が脳裏に浮かび、胸が痛む。

「できません」

「できない理由は?」

「掟が……」

「掟は、あなたを殺す」

「……!」

言い切られて、喉が詰まる。

秋仁の声は怒っていない。悲しんでいるように聞こえた。

「桜さん」

私の名が、優しく落ちた。

「俺は、あなたに生きてほしい。生きて、幸せになってほしい。……それが、俺の望みだ」

夕暮れの木々がざわめき、遠くで鈴が鳴った。

私は息を吸う。吐けない。

「……秋仁さんは、どうしてそこまで」

「理由がいる?」

「いるよ。……私は、ただの巫女だもの」

「ただの、じゃない」

秋仁は一歩近づき、私の袖口に付いた水滴を指先で払った。触れたのは布なのに、熱が走る。

「あなたは、この国を支える人だ。誰もがあなたの命に寄りかかっている。……だから俺は、あなたに寄りかかりたくない。俺が、あなたを支えたい」

言葉が綺麗すぎて、胸が痛い。

職人が言う言葉ではない。都の文官が言いそうな――いや、もっと。

私は一歩下がり、羽織を握った。

「……それ、変だよ」

「変でいい」

「……変だ」

私は、笑ってしまった。

笑ってしまうのに、涙が滲む。

秋仁の目が少し細くなる。笑ったのか、痛かったのか、わからない。

「泣かないで」

「泣いてない」

「目が、泣いてる」

「……鈴緒みたいなこと言う」

秋仁はふっと息を吐き、視線を逸らした。逸らした先に、湯殿の屋根がある。ここは本来、男の立ち入らない場所。

「俺がここにいるのは、まずかったか」

「……うん。見られたら、困る」

「困るのは、あなた?」

「あなたも……困るでしょう」

「困らない」

即答。

私は驚いて顔を上げる。

「困るよ。社の掟は厳しい。薫に見られたら――」

「薫という巫女は、あなたを縛る」

「縛ってるんじゃない。守ってるの」

「守ってるふりで、殺してる」

秋仁の声が少しだけ硬くなった。

私は反射的に言い返す。

「皆がそうしてきたんだよ。……私より前の巫女だって、皆」

「皆が死んだから、あなたも死ぬのか?」

「……」

答えられない。

答えたら、私の世界が崩れる。

秋仁は、私の沈黙を受け止めるように、少し距離を取った。

「無理に今、答えなくていい。でも――約束だけはして」

彼は羽織の端を、私の肩にもう一度整えた。触れる手が優しい。優しすぎる。

「寒い夜は、俺を思い出して。……あなたを温めたい人間がいるってことを」

私は言葉を失い、羽織を抱きしめてしまった。

布の温かさが、私の弱さを暴く。

そのとき、背後で草履の音がした。

「桜さま?」

鈴緒の声。

私は慌てて羽織を離し、秋仁を見る。秋仁は既に一歩後ろへ下がっていて、何事もなかったように回廊のほうを見ていた。

「桜さま、あ、秋仁さん……?」

鈴緒が目を丸くする。

「湯殿の近くは滑る。気を付けて」

 秋仁が淡々と言い、微かに頭を下げる。

「ありがとうございます! 秋仁さん、優しいですね」

鈴緒は無邪気だ。

秋仁は、鈴緒の言葉に少しだけ笑った。

その笑みが、私の心臓をぎゅっと掴む。

「桜さん、餅を食べるんだろう。冷める」

「……知ってるの?」

「さっき、聞こえた」

聞こえた。

そんな距離にいたのか。

鈴緒が「えーっ」と声を上げ、私の腕に抱きつきそうになった。

「桜さま、秋仁さん、桜さまのこと気にしてる! やっぱり上品なだけじゃなくて、すごく……」

「鈴緒」

私は低く呼び、鈴緒の言葉を止めた。鈴緒は口を押さえ、慌てて頷く。

秋仁は何も言わず、私を見た。

 “言葉が運命になる”と言ったのは彼だ。だから、私の沈黙すら、彼には意味があるのかもしれない。

「桜さん」

秋仁が、もう一度だけ名を呼ぶ。

「夜、回廊に来て。……話したいことがある」

私は息を止めた。

夜。巫女が男と会う夜。掟が許さない。

「行けない」

反射でそう言った。

秋仁は頷いた。

拒絶されたのに、怒らない。焦らない。代わりに、静かに言う。

「じゃあ、回廊にいる。あなたが来られないなら、俺が待つ」

「……待つって」

「あなたが、幸せを選べる日まで」

そんな日が来るはずがない。

私はそう思うのに、胸の奥で、さっき開きかけた何かが、もう一度ぱちりと音を立てた。

鈴緒が私の袖を引く。

「桜さま……お餅、食べましょう。冷めちゃう」

「うん……」

私は頷き、秋仁から目を逸らして歩き出した。

背中に視線が刺さる。温かい羽織の重みが、肩を押す。

歩きながら、私は思った。

もし夜の回廊に行ってしまったら、私は――

 “死ぬ巫女”ではなくなってしまうのかもしれない。

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