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8. 入隊しちゃう?

「確かここに予備衣を入れてた気がするんだよねー」


 イシ乃の鞍袋を探る稲波の背を見つめながら、穂鷹は困惑の表情を浮かべた。


「いや、濡れただけだし脱いで干せば……」


 わざわざ着替える必要があるのだろうか。

村では川遊びのあとは皆が平然と着物を脱ぎ、火に当たりながら乾かしていた。畑仕事で暑くなれば腰巻きひとつになるし、寒ければまたその上から着る。それが当たり前だった。だが稲波は、思いがけない顔をした。驚きの色を瞬きに宿し、次いで肩をすくめて苦笑をこぼす。


「いやいや、ここには女性隊士もいるんだよ? そういうわけにはいかないでしょ」


 女がいるから脱げない――その理屈が、穂鷹にはよく分からなかった。しかし村とは違う風習があるのだろうと思い、軽く頷いた。


 伏せの姿勢をとったイシ乃が、隣に立つ穂鷹をちらりと見た。次の瞬間、何かを確かめるように顔を寄せ、湿った黒い鼻をせわしなくひくつかせる。穂鷹は顔をこわばらせ、思わず体を仰け反らせて距離を取った。駒犬は町でたまに見かける程度で、村ではほとんど馴染みがない。犬に似た可愛らしい姿ではあるが、人が背に乗れるほどの大きさとなれば、やはり身構えてしまう。ひとしきり匂いを嗅ぎ、気が済んだのかフンッと鼻息を吐き出した。


「ごめん、寝着しかなかったわ。けど、濡れたままよりはマシでしょ。向こうで着替えておいで。髪もちゃんと拭いてね」


 稲波はそう言って、手拭いと紺色の作務衣を穂鷹に渡した。受け取った布地はしっかりしており、とても寝着とは思えない代物だった。


「ありがとうございます。あの……先に川に落とした鎌を回収したいんですが」


 穂鷹は川面に視線を向けながら、恐る恐る稲波の表情を伺った。


「俺が拾っておくよ」

「……でも」


 わずかにためらいを残すも、稲波のにこやかな笑みに押し切られるようにして、穂鷹は仕方なく任せることにした。


 衣を替えながら、穂鷹の胸にはさまざまな思いが過ぎる。

とりあえず銀穂成の脅威は去った。けれど銀米を刈り取れなかったことに小さな悔しさが残る。――もっとも、刈人隊が目を光らせている以上、持ち帰ることなど到底できなかっただろう。


(……今日は真鴨と魚獲りの約束があったな)


 村を出てからおおよそ半刻は過ぎている。みんなが心配する頃だろう。そろそろ戻らなければ。

濡れた着物を広げて木に掛けていると、稲波が川から戻ってきた。その手には鎌が握られている。


「これだよね」


 差し出された鎌を見て穂鷹は安堵の息を吐き、頷いた。手を伸ばそうとした瞬間、柄がひねられ、櫛歯の刃が展開される。驚いて顔を上げた穂鷹に、稲波はやわらかな笑みを崩さぬまま、硬質な声で問いかけた。


「これさ、どこで手に入れたの?」


 その声音に「これは本当にお前のものか?」と問われているのだと穂鷹は悟った。柔らかな笑みに隠れた冷ややかな真意を見た気がして、わずかに息を呑む。短い沈黙ののち、静かに答えを返した。


「……父の使っていたものです」


 稲波の目が驚いたように見開かれる。


「父君の名前は?」


 一瞬警戒の眼差しを返すが、一息ついて穂鷹は呟くように答えた。


土雉ときじです」


 名を聞いた瞬間、稲波の表情が変わった。

衝動に駆られたように、穂鷹の肩を掴んで引き寄せる。その指先には強い力がこもっていた。


「今、君の村にいるのか!?」

「……死にました。四年前に。俺の不注意で。だから、それは形見です」


 穂鷹は鎌に視線を落とすと、わずかに潤んだ瞳でまっすぐに稲波を見つめ、再び手を差し出した。稲波はしばし黙したあと、肩から静かに手を離し、穂鷹に鎌を手渡す。


「そうか」


 改めて穂鷹の顔を見つめる。憂いを帯びた一重の瞳、通った鼻筋に薄い唇。女性的な顔立ちに見えながら、鍛えられた体つきは端正で均整がとれている。稲波はふっと笑った。


「似てないな。君は母親似かな?」

「……! 父を知っているんですか?」

「もちろん。彼は今も刈人隊にとっては伝説みたいな人だからね」



 ――遠い記憶の中で、土雉の背中を思い出す。肩までの髪を一つに括り、中央本部所属の刈人だけが許された、金の稲と龍が織り込まれた見事な刺繍の隊服を着ていた。だが十五年前、中央本部での事件を境に、その姿は忽然と消えた。以降の消息は、一切不明のままだった。稲波は穂鷹の赤く染まった指先を見て、苦悶が滲んだような複雑な笑顔を浮かべた。


「父が、刈人隊の……」

「俺、同期だったんだよね」

「そうなんですか。あの、父はどんな……」


「回収隊、作業終わったみたいだぞォ〜!」


 穂鷹の言葉を遮るように、少し離れたところで声が張り上がった。ナリテの腹に埋もれながら足を組んで休んでいた蕾鹿が、顔をしかめて続ける。


「で、そいつ、この後どうすんの?」


 稲波は「うーん」とわざとらしく腕を組み、しばし思案する素振りを見せた。そして急に表情を明るく変え、穂鷹の肩をポンと叩く。


「穂鷹君。君さ、うちの隊に入隊しちゃうってのはどう?」


「ハァッ!?」


 稲波の想像を超える突拍子もない一言に、蕾鹿が絶叫して立ち上がる。その声は森じゅうに反響し、鳥たちを一斉に飛び立たせた。

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