7. 赤喰い
揺蕩う暗がりの中で、穂鷹はかつての記憶を白昼夢のように滲ませていた。
――いい加減にして! 鈴芽が死にかけたのに、次は穂鷹? あなた少しおかしいわよ!
母の悲鳴に近い怒声。
背を向け黙々と鎌の手入れをする父。
父の前には、見上げるほどの赤穂成の死骸が積まれている。
『穂鷹、食べるんだ』
父の手が顎を掴み、鈍く光る赤い石を無理やり口へ押し込んでくる。
〈これは、赤米じゃない……父さん、俺こんなもの、喰えない〉
苦しい、苦しい。
嗚咽とともに嘔吐が返る。
父の姿が歪み、景色は山の中へと移る。
震える手に鎌を握る、十歳の自分。
バチンッ!!
父に頬を叩かれ、痛みが走る。
『目を逸らすな。ちゃんと動きを追え』
父が赤穂成と戦う姿を見つめる。強い恐怖の中、胸の奥にわずかに高揚と憧れが灯る。
――父さんのように、強くなりたい。
十三歳。赤米を食べ、父と赤穂成を刈る日々。
日常が、油断を連れてくる。倒したと思った赤穂成に虚をつかれ、父に身を挺して守られた。
背中を貫かれた父が覆い被さり、血を吐いた。暗い赤が胸元を染める。血に濡れた唇が、震えながら何かを告げている。
――穂鷹、この国を……
父の名を叫ぼうとするが、声は出ない。
――ゴホッ!!
肺を裂くような咳とともに、身体の重みが一気に戻り、現実に引き戻された。
川水が喉を荒らし、胸が苦しさに軋む。身をよじって咳き込む最中、誰かにがしりと襟首を掴まれた。視界の端に差し込む光の中、顔を寄せて覗き込む銀髪の女がにじんで見える。
「……お前、『赤喰い』してるな?」
その声色と言葉に意識が覚醒する。
穂鷹は本能的に身を強ばらせ、襟元の手を払いのけて半身を引くと、砂を踏んで距離を取った。腰に回した手が宙を掻く。――鎌がない。
(そうか、あの時川に落ちて……銀穂成は、倒されたのか?)
腰の短刀へと手を添え、素手のまま姿勢を低く構える。
視線を巡らせ状況を探る穂鷹の目前で、銀髪の女は地面から大鉈を拾い上げた。刃先が細かく光を跳ね返し、威圧の影を落とす。
「噂には聞いていたが……本当にやってる奴がいるとはな。来い、御法度野郎。稲波が来る前に片づけてやる」
場の空気が一瞬にして凍りつく。穂鷹がじりと足を踏み込み、間合いを計ろうとしたその時――。
「蕾鹿隊長、待ってください! まずは身元の確認を」
「そうです、救命直後に即斬首なんて虚しすぎます! 処遇は前例なし、稲波さんに指示を仰ぎましょう」
男女二人の隊士が、慌てて割って入ってきた。蕾鹿は舌打ちをして顔を背け、射るような瞳で二人を睨み据える。
「現場の判断責任は今は私にある。赤喰いはここで処す。いいな」
その言葉に背の高い男が腕を組み、首をかしげる。
「てか、赤喰いってなんだ?」
「……赤喰いってのはね、赤穂成の米を食べる行為のことだよ」
柔らかく割り込む声に、全員の動きが止まった。
「護穀は隊士規律、ちゃんと読んどいてね」
男女の隊士の足元に、いつの間にか壮年の男が頬杖をついてしゃがみ込んでいた。
「し、支部隊長! え、いつの間に!? 怖っ! さすがに早すぎません?」
男が目を見開き、女と顔を見合わせてたじろぐ。
支部隊長――稲波は、肩についた落ち葉をはたきながら軽く手を挙げた。
「さっき着いたとこ。二十年もやってると、いろんな抜け道を覚えるもんだよ。ね、イシ乃」
傍らに控える走駒・イシ乃がクゥンと鼻を鳴らす。体には無数の葉や小枝が絡まっており、その抜け道がどれだけ荒れた獣道だったかを物語っていた。
「ヨッコラセ」
掛け声とともにのんびり立ち上がった稲波は、まるで散歩の途中にでも立ち寄ったかのような、ゆるやかな気配を纏っていた。無造作に流した黒髪に、年齢を感じさせない穏やかな顔つき。
彼の雰囲気に飲まれるように、張り詰めた場の緊張が緩やかに解けていく。
「血の気が多くてごめんねぇ。とりあえず、冷えて寒いだろうから着替えだね。秋月、先に戻っていいよ。葉鳥は米の回収を頼む。他の隊員たちも、もうすぐ着くはずだよ」
「稲波さぁん……」
秋月が感涙まじりの声を漏らし、葉鳥も小さく胸を撫で下ろす。稲波は軽く手を振って二人を見送ると、蕾鹿に向き直って少し呆れたように首をかしげた。
「蕾鹿。ちゃんと配慮しなさいっていつも言ってるでしょ」
「……おい、コイツ。赤喰いだぞ。赤喰いは即処刑なんじゃねーのか」
蕾鹿が納得いかない様子で詰め寄る。
「いやぁ、一応隊規律にはあるけど、古い内容だし俺も実際初めて見たんだよね。しかもこの子、刈人じゃないからなぁ。一旦持ち帰り、ってことで」
そう言って、稲波はゆっくりと穂鷹へ歩みを進める。
穂鷹は構えを崩さず、静かに短刀を抜いた。その目に全神経を集中させながら、じり、と一歩後退する。だが、間合いを取るよりも早く、稲波の手がそっと差し出された。
その瞬間――
手にしていた短刀が、まるで吸い取られるようにふっと抜け落ちる。
稲波が空中でそれをひょいとすくい取った。力づくではない。ただ、自ら手放したかのように自然に奪われた。
「おっと、ごめん。ちょっと借りただけ。ね、大丈夫。何もしないよ」
稲波は短刀を後ろ手に隠し、旧知の子どもでもあやすように微笑んだ。
敵意も威圧もないその仕草に、逆らう力が削がれていく。親しみを覚えるような感覚の裏で、得体の知れない恐怖が腹の底から沸き上がった。
(……なんだ、これ)
気づけば、冷や汗が伝っていた。
「君、名前は?」
「……穂鷹」
「そうか。俺は稲波。ちょっとあっちで話、聞かせてよ。」