4. 銀穂成『子』
朝霧が薄く残る野を抜け、湿った草を踏みしめながら穂鷹は音の方角へと駆けていた。
時折立ち止まっては耳を澄まし、わずかな反響や地を伝う震動から、その位置と大きさを探る。距離はまだ先、しかし確実に近づいてきている。
(でかい……ただの獣じゃないな)
風に混じって届く、ざわめく稲の音。赤穂成を思わせるが、動きの響き方がどこか違う。もし赤穂成なら、今までで最も大きな相手となる。
(倒せるだろうか。いや――せめて、村に入る前に進行を止めなくては)
胸の奥で決意を固め、足に力を込めて再び走る。
やがて視界が開け、河川敷に飛び出した。
川面が朝日を返し、眩しさに目を細める。長雨で水嵩を増した川は、深みを抱えて絶えず渦を巻いていた。桟橋が一本かかっているが、板はところどころ古びており心許ない。
逆光の向こう、対岸の草地に巨大な白い影を見つけた。
鼠のような輪郭。だが、体を覆っているのは獣毛ではなく、たっぷりと垂れた稲穂だった。風に揺れて稲粒がきらめき、尾は藁を幾重にも編んだように太く、しなやかに地を掃いている。全身は淡い黄金に染まり、朝陽を白金のように返していた。鼻先を高く掲げ、ゆっくりと首を巡らせながら周囲の気配を探っている。
「あれは……まさか、銀穂成か……?」
この土地に現れたという話は、一度も聞いたことがない。穂鷹が実際に目にするのも、これが初めてだった。禍々しい赤穂成とは違い、どこか神聖な気配をまとったその姿に思わず息を呑む。
だが、次の瞬間。
銀穂成は体勢を低くし、稲穂が風に擦れるような音を立てながら、川に向かって進み始めた。穂鷹はハッと我に返り、地を蹴る。
(まずい。あの桟橋を壊されたら、村と町の行き来が断たれる)
その巨体を前に一瞬身が竦んだが、すぐに覚悟を決め、桟橋へと駆け出した。軋む板を踏みしめながら一気に渡り、対岸へと跳び降りる。
川は山裾へと緩やかに弧を描いていた。その地形に沿って、穂鷹は桟橋から離れ、川の上流方向に駆ける。どうにか進路を山へと向けたい。深く息を吸い、穂成に向かってピュゥッと鋭い指笛を鳴らした。
銀穂成はすぐさま音に反応し、「ギュー」と低く鳴いた。鼠の威嚇音に似たその声を残しながら、ゆっくりと桟橋から穂鷹の立つ方角へ身体を向ける。太い尾で地を叩きつけながら、警戒の色を濃くしていく。穂鷹は視線だけで周囲の地形をなぞった。岩が連なり、木々が間を繋ぐ。それらを伝って間を取りつつ、銀穂成を山へ誘い込む――そのはずだった。
しかし、銀穂成の豊かに揺れる稲の光が、その判断を覆した。
(銀米……あれが採れれば、皆が食える。確実に、冬が越せる!)
下手に手を出せば、村そのものが危険に晒されるかもしれない。
だが、その理性は痩せた姉弟の姿、冬を越せなかった母の記憶によってかき消された。昨夜、囲炉裏の火を見つめていた姉の不安げな瞳が、目の前の光と重なってちらつく。
足が止まり、静かに鎌へと手が伸びる。
衝動が覚悟に変わり、穂鷹の目に強い意志が宿った。目を伏せ、静かに呼吸を整えながら、身体に戦いの感覚を重ねていく。
その刹那。銀穂成が突如、こちらに向かって駆け出した。
穂鷹はすかさず腰を沈め、地を蹴った。足元の砂利が弾け、後方へ高く跳び上がる。背後の岩へ着地すると、その反動を逃さず岩肌を蹴り、木の幹を駆け上がった。枝先からさらに跳躍し、しなった枝を踏み切りに、銀穂成の背へと飛び込んでいく。
――ざぶっ。
「!?」
着地の瞬間、穂鷹の身体は深く稲穂に沈んだ。想像よりもはるかに柔らかく、顔まで呑まれ、視界が閉ざされる。赤穂成のような硬さも冷たさもない。穂のひとつひとつが柔らかく、わずかに温もりすら帯びている。想定との違いに、組んでいた動きがわずかに崩れた。穂鷹はとっさに稲をつかみ、鎌で前をかき分けて視界を探る。
その間にも、銀穂成は振り返ることなく歩を進めていた。突進の勢いは消え、稲を揺らしながら、巨体はまっすぐ水場へ向かっていく。銀穂成が前脚を折り、水面に口を近づけた。だが、その動きは途中で止まる。耳がぴくりと揺れ、次の瞬間、体を引き起こした。
風の向こう――遠くから、何かが地を駆けるような音が聞こえる。
銀穂成は立ち上がると、ふいに巨体を振り返らせた。稲がしなり、風が巻き起こる。穂鷹の身体も揺さぶられ、片手で掴んだ稲が軋んだ。
(……まずい、振り落とされる!)
体をひねって体勢を整える。自ら川へ飛び込もうとした――その瞬間。
パァンッ!
空を裂く爆音と閃光が炸裂し、穂鷹の感覚を一気にかき消した。常人を超えた鋭敏さが、かえって刺激を増幅し、意識を深く刈り取っていく。視界が白に染まり、力の抜けた身体は、川面へ真っ直ぐに落ちていった。