表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

4. 銀穂成『子』

 朝霧が薄く残る野を抜け、湿った草を踏みしめながら穂鷹は音の方角へと駆けていた。


 時折立ち止まっては耳を澄まし、わずかな反響や地を伝う震動から、その位置と大きさを探る。距離はまだ先、しかし確実に近づいてきている。


(でかい……ただの獣じゃないな)


 風に混じって届く、ざわめく稲の音。赤穂成を思わせるが、動きの響き方がどこか違う。もし赤穂成なら、今までで最も大きな相手となる。


(倒せるだろうか。いや――せめて、村に入る前に進行を止めなくては)


 胸の奥で決意を固め、足に力を込めて再び走る。


 やがて視界が開け、河川敷に飛び出した。

川面が朝日を返し、眩しさに目を細める。長雨で水嵩を増した川は、深みを抱えて絶えず渦を巻いていた。桟橋が一本かかっているが、板はところどころ古びており心許ない。


 逆光の向こう、対岸の草地に巨大な白い影を見つけた。


 鼠のような輪郭。だが、体を覆っているのは獣毛ではなく、たっぷりと垂れた稲穂だった。風に揺れて稲粒がきらめき、尾は藁を幾重にも編んだように太く、しなやかに地を掃いている。全身は淡い黄金に染まり、朝陽を白金のように返していた。鼻先を高く掲げ、ゆっくりと首を巡らせながら周囲の気配を探っている。


「あれは……まさか、銀穂成か……?」


 この土地に現れたという話は、一度も聞いたことがない。穂鷹が実際に目にするのも、これが初めてだった。禍々しい赤穂成とは違い、どこか神聖な気配をまとったその姿に思わず息を呑む。


 だが、次の瞬間。

銀穂成は体勢を低くし、稲穂が風に擦れるような音を立てながら、川に向かって進み始めた。穂鷹はハッと我に返り、地を蹴る。


(まずい。あの桟橋を壊されたら、村と町の行き来が断たれる)


 その巨体を前に一瞬身が竦んだが、すぐに覚悟を決め、桟橋へと駆け出した。軋む板を踏みしめながら一気に渡り、対岸へと跳び降りる。


 川は山裾へと緩やかに弧を描いていた。その地形に沿って、穂鷹は桟橋から離れ、川の上流方向に駆ける。どうにか進路を山へと向けたい。深く息を吸い、穂成に向かってピュゥッと鋭い指笛を鳴らした。


 銀穂成はすぐさま音に反応し、「ギュー」と低く鳴いた。鼠の威嚇音に似たその声を残しながら、ゆっくりと桟橋から穂鷹の立つ方角へ身体を向ける。太い尾で地を叩きつけながら、警戒の色を濃くしていく。穂鷹は視線だけで周囲の地形をなぞった。岩が連なり、木々が間を繋ぐ。それらを伝って間を取りつつ、銀穂成を山へ誘い込む――そのはずだった。


 しかし、銀穂成の豊かに揺れる稲の光が、その判断を覆した。

(銀米……あれが採れれば、皆が食える。確実に、冬が越せる!)


 下手に手を出せば、村そのものが危険に晒されるかもしれない。

だが、その理性は痩せた姉弟の姿、冬を越せなかった母の記憶によってかき消された。昨夜、囲炉裏の火を見つめていた姉の不安げな瞳が、目の前の光と重なってちらつく。


 足が止まり、静かに鎌へと手が伸びる。

衝動が覚悟に変わり、穂鷹の目に強い意志が宿った。目を伏せ、静かに呼吸を整えながら、身体に戦いの感覚を重ねていく。


 その刹那。銀穂成が突如、こちらに向かって駆け出した。


 穂鷹はすかさず腰を沈め、地を蹴った。足元の砂利が弾け、後方へ高く跳び上がる。背後の岩へ着地すると、その反動を逃さず岩肌を蹴り、木の幹を駆け上がった。枝先からさらに跳躍し、しなった枝を踏み切りに、銀穂成の背へと飛び込んでいく。


 ――ざぶっ。


「!?」


 着地の瞬間、穂鷹の身体は深く稲穂に沈んだ。想像よりもはるかに柔らかく、顔まで呑まれ、視界が閉ざされる。赤穂成のような硬さも冷たさもない。穂のひとつひとつが柔らかく、わずかに温もりすら帯びている。想定との違いに、組んでいた動きがわずかに崩れた。穂鷹はとっさに稲をつかみ、鎌で前をかき分けて視界を探る。


 その間にも、銀穂成は振り返ることなく歩を進めていた。突進の勢いは消え、稲を揺らしながら、巨体はまっすぐ水場へ向かっていく。銀穂成が前脚を折り、水面に口を近づけた。だが、その動きは途中で止まる。耳がぴくりと揺れ、次の瞬間、体を引き起こした。


 風の向こう――遠くから、何かが地を駆けるような音が聞こえる。


 銀穂成は立ち上がると、ふいに巨体を振り返らせた。稲がしなり、風が巻き起こる。穂鷹の身体も揺さぶられ、片手で掴んだ稲が軋んだ。


(……まずい、振り落とされる!)


 体をひねって体勢を整える。自ら川へ飛び込もうとした――その瞬間。


 パァンッ!


 空を裂く爆音と閃光が炸裂し、穂鷹の感覚を一気にかき消した。常人を超えた鋭敏さが、かえって刺激を増幅し、意識を深く刈り取っていく。視界が白に染まり、力の抜けた身体は、川面へ真っ直ぐに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ