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ふたりのおいしいマカロン

作者: 翠野ライム

「今日も、お客さんが来なかった……」。


 ロミオは深いため息をついた。


 工房に漂う甘いバニラの香りも、冷え切った空気の中では虚しく感じられた。




 数年前、この街の小さな空き家を借りて店を始めた日のことを思い出す。


 焼き立てのサクサクとしたクッキーや、バターの風味が香るパイが評判になり、ロミオはそれが嬉しくて、毎日のように一生懸命お菓子をつくった。


 彼の作ったお菓子からは、優しく、それでいて柔らかい香りが漂い、一口食べれば舌が踊るようだった。


 しかし、いつまでもおなじことをしていたら、さすがにお客さんも飽きてしまうだろう。なにかあたらしいことをしなければならない。


 そう心配したロミオは、新しい挑戦をした。




 マカロンだ。




 マカロンのことはおぼろげに知っていた。カラフルで、丸くてかわいらしく、色とりどりのお菓子。これが作れるようになれば、きっとみんな喜んでくれる。


 しかし、ロミオはマカロンの作り方を知らなかったので、街の図書館に出向いて、作り方を学んだ。


 マカロンは、サクッとした外側と、独特な歯ごたえの内側を持つ生地で、クリームやジャムをはさんで作るお菓子のようだ。


「こんなところかな、ぼくならかんたんに作れそうだ」ロミオは鼻を鳴らして、レシピのおおまかなところを書き写すと、店に戻っていった。




 数週間後。




「どうして……どうしてできないんだ!?」


 オーブンの前に立ち尽くすロミオの顔は熱気で赤く染まり、焦げ付いた砂糖の匂いが鼻についた。


 彼のマカロン作りはひどいものだった。


 腕が筋肉痛で動かなくなるほどメレンゲを泡立てても、混ぜ合わせた生地は粘り気が強すぎたり、逆にべちゃべちゃになったりと、まるで生き物のようだった。


 ゴミ箱には、ひび割れや底が抜けた失敗作が山のように積み重なっている。


 ――決して自分が下手なんかじゃない。


 マカロンづくりに悩みすぎてしまい、ロミオはほかのお菓子をつくるのに身が入らなくなってしまった。


 彼の焼き菓子の味は落ちていき、お店の評判は悪くなり、とうとうお客さんはこなくなった。




 そんなある日、高そうな金の刺繍が入ったドレスを着た、銀髪の女の子がやってきた。彼女がガンガンとカウンターを蹴るので、やめてくれとお願いしようとすると、彼女は有無を言わさぬ口調で「マカロンを売りなさい!」と言い出した。


 ロミオは困ってしまった。自分で食べてもまずいものを売ることなんてできない。


「ごめんね、お嬢さん。ぼくのマカロンはとてもひとには食べさせられないよ」


「うるさい、いいから売りなさい、このザコ!」


(なんて口が悪いんだ……)


 恐る恐る差し出すと、彼女はマカロンを食べて顔をしかめた。そこにはサクッという焼き菓子らしい歯ごたえではなく『ぐにゅ』という気持ち悪い触感が広がっていたころだろう。ロミオは試食してそれを知っていたから。


「これがマカロン? あなた、これがマカロンだというつもりなの? 笑っちゃうほどひどい出来だわ! これをつくったのはあなたよね? とんだざこ店主ね。パティシエのことをなんだと思っているのかしら? ちょっとやそっと勉強したぐらいでつくれるものじゃないってことくらい、わからないのかしら? ああ、あたまがざこだからわからないのね。ざーこ、ざーこ、ざこ店主。まあいいわ、はい、マカロンのお代」


 と言いながら、女の子は金貨を一枚置いて、マカロンを買って去っていった。お金はもらえないよ、というひまもなく、彼女はさっさと行ってしまった。


 なんという口の悪さだろう。ロミオは脳みそが沸騰しそうなほどの怒りに震え、店の看板を蹴り飛ばそうとして……やめた。


 口は悪くても、彼女の言い分は正しかった。自分はチヤホヤされるようになってから、お菓子作りの勉強や練習をしなくなっていた。マカロンの作り方の勉強だって、図書館で数時間しただけだ。そんな自分に、おいしいものがつくれるはずがない。


 もう一度やり直すんだ。あんな女の子にいいようにされてたまるか。




 *****




『しばらくお休みします ロミオのお菓子屋さん』


 看板の文字をチョークで書きなおしてから、ロミオはマカロンづくりに集中するようになった。もっとも、看板を出しても、もう見る人はいないのだから、意味はないのだけれど。


 彼の心を代弁するかのように、ひゅう、と少し冷たい風が吹き抜けていった。


 いけない、弱気にならず、気を引き締めるんだ。ロミオは自分に言い聞かせて、再度レシピを読み込んだ。


 レシピを見る限り工程は難しくない。メレンゲ、マカロナージュ(※材料を混ぜ合わせる作業)、乾燥、そして丁寧に焼き上げる。それぐらい、自分でも当たり前のように知っている。なのになぜ自分にはできないのだろう。


 何度も何度もレシピの通り同じ工程を繰り返す。しかし毎回どこかがうまくいかない。それはメレンゲだったり、マカロナージュだったり、焼き具合だったりする。


 ロミオはだんだんやけっぱちになっていき、とにかくどんどんつくればなんとかなるだろうとイライラしてきた。


 夕暮れが近づいてきたころ、


「ざこ店主。いるの? いるならでてきなさい」


 あの銀髪の女の子の声がした。昨日とは少し違う、凛として澄んでいる、彼女の銀髪と同じくきれいな声だった。


 本当は誰にも会いたくなかったが、お客さんにでてこいと言われれば断るわけにはいかない。ロミオは重い腰を上げてお店に出ていった。


 そこにはやっぱり、昨日さんざん自分を小ばかにして帰っていった少女がいた。


 今日はドレス姿ではなく、紺色のカーディガンを着ていた。それが普段着なのかもしれないが、女の子の服装に疎いロミオにも、それが高級品だということは一目でわかった。


 サイズが大きいのか、袖がぶかぶかで指が全部出ていない。そのうえ、右肩もずり落ちていた。しかしなんだか、それもかわいらしく感じられた。まあ、言葉遣いはひどいのだけれども。


 女の子は袖の裾を引っ張って手を出すと、カウンターにパチン、と金貨を一枚置いた。


「ん!」それだけ言う女の子。


「???」


 ロミオは意味が分からず、彼女に尋ねようとしたが――


「今日のマカロンを売りなさい!」


 彼女の声が先だった。


「ま、マカロン? あれはまだ未完成で。それよりお嬢さん、しばらくお店は閉店させてもらってるんだ」


「レティシアよ!」


「え?」


「あたしの名前! レティシア・レイベンスブルグ! あんたのざこ頭じゃ名字なんか覚えられやしないから、特別にレティって呼んでいいわ」


 少女――レティシアはそっぽを向きながら、銀の髪を指先に巻きつけてくるくると指を遊ばせている。


 ロミオが何も言えずにいると、レティシアが彼を叱り飛ばした。


「そんなことより、閉店してなにしてるの?」


「ええと……マカロンづくりの練習を」


 ロミオが髪をくしゃくしゃとかきながら答えると、


「へえ、マカロンの練習! さっそくはじめているの? 殊勝なことね、ざこにしては上出来よ! まあ、あたしにざーこ、ざーこ言われて気持ちよくなりたくなったら、いつでもやめていいのよ。そのときはあたしの足をなめるご褒美をあげるわ。うふふ」


 そのひどい物言いが頭のどこから出てくるのか呆れつつも、ロミオは今日一番よくできたと思ったマカロンを差し出した。


 レティシアがロミオのマカロンをひとかじりした瞬間、嫌いなものと嫌いなものと嫌いなもので作られたディナーを食べたような、それはそれは渋い顔をした。


「……侮辱だわ」


 レティシアは吐き捨てるように言った。


「え?」


 ロミオがボケっと突っ立っていると、


「こんなものがマカロンを名乗るなんて侮辱だし、これをマカロンとしてつくったあんたも最低、なによりこんなものをあたしに食べさせたあんたが最悪だわ!」


 レティシアはテーブルにひざを乗せて、


「ざこにはおしおきが必要よねっ!」


 向かいに座っていたロミオのほほをひっぱたいた。


 あまりにことにロミオは受け身をとることもできずに、椅子から転げ落ちた。目の前に床に落ちてしまった残りのマカロンが見える。レティシアはそれを丁寧に拾うと、ロミオを見下ろして言った。


 その顔は、昨日ロミオをバカにし続けた顔――小悪魔のような顔に変わっていた。


「あんた、昨日あたしにプライド高すぎっていわれて、一晩でプライドぜーんぶおトイレにながしちゃったの? それともめそめそしてなくなっちゃったの? まあ、どっちにしろざこだからどうでもいいわ。ほんとざこ、なにもかもざこ、でもざこでいたいのよね? あたしにほっぺたぺちぺちされたいから、ざこでいるとお、し、お、き。されちゃうけど、それがうれしいのよね? ワンワンみたいにしっぽフリフリしていたいから、ざこのままでいるのよね?」


 昨日と同じ、はらわたをえぐるような言葉だ。しかし自分のマカロンがおいしくなかったのは事実だ。


「……レティシア、さん」


「なによ?」


「ぼくのマカロンの、どこが悪かったか教えてくれないか」


 頭を下げて教えを求めるロミオを、


「全部よ、ざこ」


 レティシアは言葉のかかとで踏みつけた。


「……」


 やっぱり、自分には無理なのか。ちょっとちやほやされただけで、調子にのった若造だったのか。


 ロミオの心が崩れかけたところを、


「いいじゃない、全部だめなら、ひとつずつ直していけばいいんだから」


 レティシアは語気を含めず素朴に言った。


「ひとつずつ……?」


「そ。ざこでもわかるように教えてあげるわ。ものごとは、いっぺんには解決できないのよ? どんなすごい人でも、ひとつずつやっていくの。あんたのようなざこならなおさら、ざこらしく時間をかけてやればいいじゃない? それなら、ざこなあんたでもすこしずつできるようになるだろうし、あたしのざこざこがたくさん聞けて、よりうれしくなっちゃうでしょう?」


 決してざこざこ言われたいわけではないのだが、『ひとつずつ解決する』という、一見当たり前のことが自分の頭から完全に離れていた。そうだ、そのためにレシピはあるのだ。ひとつずつ解決する、ひとつずつ工程を分けて、お菓子をつくっていくために。


「ふう。ざこの相手でつかれちゃった。あたしはもう帰るわ。……それと、もうひとつ、あたしはこれくらいの時間に、毎日マカロンを買いに来るから。その日にできた一番いいと思うマカロンを用意して待ってなさい。せめて明日は、引っぱたかれない出来にしなさい。まあ、引っぱたかれてざーこ、ざーこってなじられたいなら、へたくそなままでいたらいいけど?」


「……そんなわけないだろ!」ロミオは語気を強めて言った。


「レティシア、キミの挑戦を受ける! かならず、おいしいと言わせて見せるからな!」


 ロミオは精一杯カッコつけて言ったが、


「ざこの挑戦なんて受けた覚えはないし、内股に震える声でいってもざこなのは隠せないのよ? まあ、あしたは叩いてしつけしないで済むようにしておきなさい、ロミオ」


  そう言ってレティシアは帰って行った。


  荒れた部屋の中を片付ける。……床に落ちたマカロンがなかった。


  踏んでしまったのかと思ったが、どこにもない。かけらもない。まさか、レティシアが……?




 ……それに、なぜ彼女は自分の名前を知っていたのだろう。




 *****




 そうやって挑戦を受けたロミオだったが、




「生地がねばねばじゃない!」


 バチン!


 レティシアに右の頬を叩かれ、




「持ち上げただけでバラバラになったわ!」


 パンッ!


 レティシアに左の頬を叩かれ、




「あんたのざこの心がお菓子に出てるっ」


 ごんっ!


 レティシアにげんこつをもらい、


「こんの……! ざこ! ざこざこざこざこ! もうざこ以外、あんたに使う言葉はないわっ!」




 と罵られた。




 ロミオはとても恥ずかしかった。レティシアにひどい目にあわされるのももちろんだったが、いかに自分が傲慢で、何も考えてこなかったか、きちんと勉強と練習してこなかったか、向上心がなかったか、わかってしまったからだ。


「……わかったわ、ざこ。こうしましょう。あたしがあなたにマカロンづくりのけいこをしてあげるわ!」


「そんなこと、させられないよ! それに、レティシア、きみはきっとお金持ちなんだろう? ぼくのマカロンにこだわらなくたって、もっと立派なお店はあるじゃないか」


 そうだ、これ以上レティシアに迷惑はかけられない。ロミオはお店をやめようとまで思っていたのだ。


「うるさいうるさい、決めるのはざこじゃなくてあたし! あたしは、あんたのマカロンが食べたいの!」


「???」


 困惑するロミオの尻を文字通り蹴っ飛ばして、


「さあ、はじめるわよ!」


 レティシアはロミオを蹴って蹴って蹴って厨房に押し込んだ。




 こうして、ロミオとレティシアのマカロン修行が始まった。




「……なんか、なにこれ。べちょべちょで、もう焼き菓子じゃない。魔物? モンスター?」


「ごめん、ただ、お店を閉めてるから材料が買えなくて。いろいろ代用したんだけど」


「……このべちょべちょをあたしが全部買い取るから、そのお金で材料を買いなさい、ざこ、クズ!」




 毎日いっしょに、




「メレンゲは……案外上手じゃない。ざこにしては上出来だわ」


「ははは、はじめてきみにほめられた気がするよ、レティシア」


「なにその鼻の伸ばし方。ざこらしくて本当に気持ち悪いからこっちみないでざこざこざこ」




 毎日いっしょに、




「マカロナージュ……混ぜ合わせる作業ね。これが一番むずかしいらしいわよ?」


「とりあえずやってみるよ」


「だからそれがいけないのよ、ざこ! はい、レシピをすぐ横に置いて! この通りやるのよ、この通り! いい? まったく、あたしがいないとどうしようもないざこなんだから!」




 毎日いっしょに練習して、そのたびにレティシアは出来損ないのマカロンを買って帰って行き、




 何週間かしたあと。




「ようやくまともそうなものができたわね……」


「今日だけで百回はやったかな……マカロナージュ」


「けどできたじゃない。ざこにしては立派なんじゃない?」




 ようやくまともにマカロナージュの工程を終えられるようになり、『乾燥』の工程に入った。しっかり乾燥させないと、焼いたときにひび割れてしまうらしい。


 まだ焼いていなくても、工房の中には甘い香りが漂っていた。すっかり夜になってしまい、部屋を照らすのはぼんやりとしたランタンの明かりだけ。ランタンのゆれに合わせて、ロミオとレティシアの影も、静かに揺れていた。


 丸一日ほぼ立ったまま作業したため、ふたりは疲れ切っていた。とくにレティシアはロミオより頭一つぶんくらい背が小さいし、体も華奢だ。そのぶん、体力もない。


 よく熱心につきあってくれたと思う。彼女はすごい眠気に襲われているらしく、椅子に座ったままうつら、うつらと舟を漕いでいた。


「レティシア、大丈夫?」


「……眠い、横に、なりたい……」


 本当は彼女の家に送っていければよかったのだが、ロミオはレティシアの家を知らなかった。


「わかった、ちょっと待っててね」


 ロミオは二階の部屋への階段を上っていった。なるべく音をたてないように、そっとだ。家屋自体が古いので、踏むところが悪いとものすごい音がするのだ。


 二階は、ロミオの私室兼寝室だ。いつも自分が使っている粗末なベッドにレティシアを寝かせるのは少し心苦しいけれど、それは仕方ない。せめてもと思い、ベッドと掛け物のシーツを洗い立てのものに取り換える。


 戻ると、レティシアはテーブルにつっぷして夢の中にいた。おんぶしようとしたが、階段がせまく、頭を打ってしまうかもしれないので、やむなくいわゆる『お姫さま抱っこ』をすることにした。


 レティシアの体は細く、しかしどこかやわらかく、なにより羽のように軽かった。彼女を静かにベッドに寝かせ、そっと掛け物をする。


 レティシアはすぅ、すぅ、と静かな寝息を立てている。


 彼女を起こさないように、ロミオは階下に戻っていった。


 マカロンの生地を触ってみると、しっかりと膜ができていた。


 ここからはオーブンを予熱して、時間通りきちんと焼いて、フィリングやクリームを挟めばおしまいだ。


「……」


 本当は、レティシアが起きてくるのを待っていたほうが賢明なのだろう。


 練習の日々は、彼女によって導かれたものなのだから。


 最後まで彼女を頼るのが、今の自分の限界なのだろう。


 何もかも頼ればいいのだろう。




 けれど、ロミオはそうしたくなかった。




 だから、オーブンに火を入れた。じわじわと温かくなり、オーブンはロミオの決心を待っている。


 最初は、新商品を増やして、お店の売り上げを伸ばそうと考えていた。


 途中から、レティシアにさんざん罵られるようになって、それに対する反抗心で学んだ。


 最後のほうは、ふたりで実際に練習をして、よかったところとだめだったところを共有した。


 そして、今が最後だ。


 見てほしい、食べてほしい。そして――


 ロミオは、生地をのせた鉄板を、じゅうぶんに温まったオーブンに入れた。




 *****




 ちゅん、ちゅん。


 レティシアは小鳥のさえずりと明るい太陽の日差しの中で目を覚ました。


「~~~ん~~~~~」


 もぞもぞもぞもぞ。


 もっと寝ていたい。


 けれど起きなきゃ。


 起きて、時間になったらまたロミオのところに行って、マカロンづくりの――


 待って?


 レティシアには、昨日ロミオのお店から帰った記憶がなかった。


 がばっ! とからだを起こすと、そこにはところどころほつれているけれどきちんと洗濯されたシーツと、同じような掛け物がされていて。


 見回すと、ところどころ鉄板で補強されている、でも太陽を浴びて優しい木の香りのする床と壁、そして微妙にかたづいているんだかいないんだかわからない部屋が目に入ってきた。


 最後に覚えているのはロミオの顔。で、ここはロミオのお店。で、脇に階段が見えるから、ここはロミオのお店の二階。


 ということは、このベッドはロミオの――


「!?!?!?!?!?!?!?!?」


 顔と頭がオーブンのようにまっかっかになって言葉が出ない。


(あたし、ロミオのベッドで寝ていたの? て言うか寝させてもらったの?)


 マカロンづくりの力仕事はぜんぶロミオがやっていたのに、自分に気を使って眠らせてもらうなんて。早く謝りにいかないと――


 そこで気づいた。


 香ばしい香りに。




 おそらく、きっと、ううん、まちがいなく、焼き菓子の香り。




 レティシアは掛け物をほっぽりだして靴をつっかけると、階下に降りて行った。




「おはよう、レティシア!」




 朝日を背中に浴びたロミオがいて、彼の前にはみっつの丸くて、でもちょっとひらべったくて、かわいらしい――マカロンが置いてあった。


「本当はふたりで最後まで作りたかったんだけどね、生地が乾燥しすぎるt」


 レティシアはロミオの言うことを無視して、マカロンをひとつ手に取り、


 さくり。ひとかじりして、


 さくり。もうひとかじりして、


 さくり。ぜんぶを飲み込んだ。


 そしてほかのふたつも、ひとつめよりずっと早く食べ切った。


 あまりの行動にロミオは言葉が出ない。


「し、試食したときはおいしかったんだけど、どうかな?」


 レティシアはしばらくマカロンを食べ切った指をくちびるに添えていたけれど、




「おいしい……。おいしいわ、ロミオ!」




 喜びに溢れた声で言って、ロミオに歩み寄った。


 そして、ロミオの胸元にぼすん、とあたまをあずけると、動揺しているロミオを放ったまま上を向いて、


「がんばったね、ロミオ!」とほほ笑んだ。


 ロミオは、自然と彼女の背中に手をまわして、小さな体を軽く抱きしめると、


「ありがとう、レティ」


 おなじようにほほ笑んだ。


 部屋に残った焼き菓子の匂い、差し込む太陽の香り、朝の澄んだ空気、そしてお互いのぬくもりが、ふたりの努力を祝福しているようだった。




 *****




 マカロンの生地はもう残っていなかったので、ふたりは缶に詰めて保存していたクッキーと紅茶を、軽い朝食にすることにした。


「それにしてもレティ、なんであんなにぼくのマカロンにこだわっていたんだい?」


 それがロミオの最大の疑問だった。


「……」


 レティシアは指先しか出ていない、カーディガンに包まれた手のひらで、マグカップを握ったまま黙っている。


「あ、言いたくないなら無理に言わなくてもいいんだけど……」


 レティシアは沈黙している。


「でも本当にありがとう。これでまたお店を続けられそうだよ」


 レティシアはまだ沈黙している。


「これからも、がんばっておいしいお菓子をつくるから。たまには寄ってもらえると嬉しいな」


「やだ」


 レティシアは沈黙を破り、短い一言を発した。


「……レティ?」


「あたし、ロミオといっしょにお店をやりたい」


 まったく予想していなかった答えに、ロミオは目を丸くした。


「え?」


「あたしもこのお店で働きたいって言ったの!」


「どういうことだい? 話が全く見えないんだけど」


「あたしもあなたみたいに、努力してみたいの!」


 そう言ってレティシアは唇を噛んだ。


「知ってると思うけど、レイベンスブルグ家はこの国で一番の大貴族。だからあたしは生まれた時からちやほやされて、いい気になって、なんでももらえて、努力なんてこれっぽっちもしなくてよかった」


 ロミオは彼女の言葉を黙って聞いていた。


「でも、ある日あなたのお店を見つけたの。時間があったから、あなたの仕事をずっと見てた。あなたは熱心に働いて、お客さんを喜ばせていたわ。けれど、あたしのまわりには、あたしを喜ばせようとする人しかいない。あたしは、そんなあなたをすごく尊敬してた」


 ロミオは彼女の言葉に口を挟まずにいた。


「そんなある日、あなたが新しい挑戦……マカロンづくりをして、失敗をして苦しんでいるのを知ったわ。あたしはさんざんマカロンを食べてきたから、味はわかるけれど、作り方はわからなかった。だから、ああしてざこざこ呼ばわりしてあなたに火をつけるしかなかったの」


「そうだったのか……まあ、たしかに火はついたけど。でももう少しやりようはあった気が……」


「いいじゃない! 最先端の流行なのよ!?」


「流行!? ざこざこ言って人を罵るのが?」


 ロミオが目をまん丸にした。


「そうよ、最近読んだ、東の国の本に書いてあったの。東の国では、女の子が男の子をざーこ、ざーこって小ばかにしたり、上から目線で罵ったり、服を少しはだけさせて劣情をもよおさせたりするんだって……そういうのを、『メスガキ』って呼ぶんだって書いてあったの」


「キミが読んだ本は……たぶん燃やしたほうが良いと思うよ……。オーブン貸そうか?」


「そんなことにオーブン使えるわけないでしょ! それになんでよ、ロミオは悦んでたじゃない!」


「悦んでないよ! まあ、きみのような可愛い娘と話せたのは、いやじゃなかったけど」


「……きっも。やっぱりざこじゃない」


 レティシアは慣れた手つきで食器を片付けながら、


「さあ、午後にはお店を開けられるよう準備しましょ。あたしはまだお菓子のつくりかたを知らないから、ロミオが作って。あたしは掃除とかをするから」


「待ってくれレティシア! 本当にこのお店で働くのかい?」


 慌てふためくロミオに、レティシアは頬を膨らませて、


「そうよ? いやなの? 女の子と働くだけでドキマギしてあっちこっちをふるわせちゃうざこなの?」


「そうじゃなくて! きみのお父様が、平民の僕と働くことを許すなんて、思えないんだけど?」


「許させたわよ?」鼻を鳴らしてレティシアは言った。


「ロミオとおなじようにちょっと子離れできないざーこ、ざーこ、そんなだから娘はこんな小憎らしいメスガキになっちゃったのよ! っていったらあっさり承諾して」






「……やっぱり、帰ってくれ」厳しい声でロミオは言った。


「え?」


「帰ってくれと言ったんだ。ぼくのことは良い。実際ぼくは、きみの言葉遣いはともかく、助けられたのは事実なんだから」


 ロミオはレティシアに一歩、歩み寄った。


「でも、お父様にそんなことを言うのは間違ってるよ。そんなことをする人間と、ぼくは一緒に働きたくない。レイベンスブルグ卿には、ぼくがきみを脅したとても伝えてくれ。ぼくは逮捕されるか、処刑されるかになるだろうから。きみは王宮に帰って、幸せに暮らしてほしい」


 ロミオは無言でドアノブをまわし、店のドアを開けた。


「いままでありがとう。本当に感謝してる。でも、さようなら」


「え、ぁ、ぅ……うっ……」


 ロミオの怒りで燃えているような真剣なまなざしに耐えられなくなり、足をひきずるようにしてレティシアは歩く。


 お店の敷居が目の前にある。


 レティシアはどうしても踏み出せなかった。


「……なさい」小さく、レティシアが言葉を紡ぎはじめた。


「ごめん、なさい。ごめんなさい! ごめんなさい! いけないことしてごめんなさい! でも、でも、でも! おねがいロミオ、いさせて、ここにいさせて、おねがい!」


 レティシアは大粒の涙をこぼしながら、ひたすらあやまりつづける。


 ロミオは少し考えてから、レティシアを店の中に引き入れて、ドアを閉じた。




 *****




「ごめんなさい、ありがとう、ロミオ。あとで、お父様にはちゃんと謝ってくるわ」


「ぼくもごめん。きみがそこまでしてここにいたい、って思っていてくれたことに気づかないで」


 もう一度入れた紅茶から湯気が立ち上るなか、ふたりの間にも気まずい沈黙が流れる。


「……レティ、やっぱりぼくにはわからない。なんでぼくとこのお店にこだわるんだい? 前にも言ったけど、王宮には御用達のお店や職人がたくさんいるじゃないか」


 レティシアは伸びた袖の中で指をくるくると悩ませたが、やがて意を決したように一言、つぶやいた。




「……好き、だから。ロミオの、こと」




 レティシアの顔は真っ赤に染まっていたけれど、その瞳はまっすぐロミオを見つめていた。






 レティシアは見ていた。


 ロミオが腰の悪いおばあさんのために店の外に出て、持ちやすいように袋を縛ってあげていたことを。




 レティシアは聞いていた。


 ロミオが、ナッツの食べられない子どものために、ナッツ抜きの焼き菓子をつくっていたことを。




 レティシアは知っていた。


 毎月のように、たくさん焼いた焼き菓子を、孤児院や神殿に配って回っていたことを。




 ロミオのことを、たくさん考えて、思って、想っているうちに。




 好きになった。




 そして、レティシアは気づいてしまった。


 新しい喜びを――マカロンを届けようとして、ロミオが苦しんでいることに。




「……だから、あなたを助けたかったの。力になりたかった。けどあたしには、こんなことしかできなくて……買って帰って食べたマカロンのことも、うまくつたえられなくて」


「なんだって? あのめちゃくちゃな出来のマカロンを、食べてくれたのかい?」


「当然よ。食べなかったら、次につながらないじゃない。それに、ロミオが大切につくったマカロンを、捨てちゃうことなんてできないわ」


 そう言うと、レティシアは立ち上がった。


「ありがとう、ロミオ。今からお父様に謝ってくる。そして許してもらえたら……このお店に来てもいい?」


「うん。看板娘になってくれると助かるよ」


「いい気なものね。それじゃ――」




「もちろん! 許すとも! そもそも吾輩は何も怒ってなどおらぬ! ずっとそばから見守っておった! なんたる純愛! なんたる献身! 吾輩、もはや涙を禁じえぬ!!!」




 朝の空気がはじけ飛びそうな絶叫と腹太鼓を鳴らしたおじさんが現れた。




「お父様!?」


「ええっ!? この人がレイベンスブルグ卿なのかい?」


 ロミオとレティシアの戸惑いをよそに、太鼓のおじさんはロミオの手を取り、


「このたびは愛娘が大変世話になった! 東の本が大好きゆえ、すこしばかり気の強いじゃじゃ馬だが、どうかこの先もよろしくおねがいしたい!」


「お父様! なんて言いぐさなの!? ロミオ、あたし、じゃじゃ馬なんかじゃないわよね? ……この、はなしなさいよ、それともあたしの服の下に興味があるの、このざこ、変態!」


 レティシアはそう言いながら、卿の護衛だと思われる兵士の足を踏みつけて、もうひとりにはざこだのなんだのとメスガキ口調で挑発していた。




 ……少しばかり?




 そうしてなんやかんやはあったものの、ぼくのお店でレティシアが働くことを卿は認めてくれた。




 そして卿は帰る前に、




「そうだロミオ殿、ケーキだ! ケーキを作れるようになっておいてくれ! 貴殿のように大きく、レティシアのように可憐なウェディングケーキだ! 一年後には、つくれるようになっていてくれ!」


「お父様、いい加減にして!」


「か、かしこまりました……」


 レティシアが可憐かどうかは置いておくとして、ケーキ作りを学ぶのは良いことだ。きっとマカロンとは別の、新しい楽しさをお客さんや……レティシアに届けられるだろう!


 ごちゃごちゃとバタバタに振り回されてしっちゃかめっちゃかになった中で、店を開けるのはもう無理だった。とにかく片付け、掃除、片付け、掃除。


 ――気が付くと、もう月明かりが差し込んでいた。




 窓を開けた。涼しい風と、静かな風と、優しい風が入ってくる。都の外からくる、草原や森の香りが混じり、ふたりを喜ばせた。




 レティシアを座らせてから、ロミオも座った。


 すると、レティシアは椅子から降りて、ロミオの足の間に座った。


「ロミオ」


 ロミオは少し驚いたが、彼女が何を求めているのかはすぐにわかった。


「……レティ」


 だから、ロミオはレティシアを彼女の背中越しに、優しく抱きしめた。


「「好きだよ」」


 同じタイミングで同じ言葉を紡ぎ、


 ロミオは顔を下げて。


 レティシアは顔を上げて。


 月明かりの影の下、ふたつの影が、そっと優しく重なった。




 *****




 一週間後。ロミオは久しぶりにお店を開くためにお菓子を焼いていた。もちろん、マカロンも。レティシアに試食してもらい、お墨付きをもらったマカロンだ。売上抜群、お客さんの気分上々間違いなし!


 本当は一日でも早くお店を開きたかったのだけれど、ロミオのお店はすでに忘れ去られてしまっていた。だからレティシアと一緒にお店を再開しますというビラを配って回ったのだ。


 あとは開店時間を待つだけ。


「どう、ロミオ。似合ってる?」


 レティシアが(薄い)胸を張って言った。白い上品な料理人服。それでも相変わらずサイズはあっていないらしく、袖はまくっているけれどそれでも少し余っているし、帽子は少しずりおちているのだけれど。


「かわいいよ、レティ」


「ありがと! じゃあ――お待たせしました! 『ロミオのお菓子屋さん』ふたたび開店です!」


 レティシアが言うと、お客さんの列がどっと動き始めた。




 お菓子は午前中に完売した。いままで一番早く店じまいをした。


 とくにマカロンが人気だった。レティシアが『ロミオとあたしがふたりで練習してつくったの!』と言ってお客さんに言うと、お客さんのおばさんになにかぼそぼそとつぶやかれ、あたまがボン! となっているレティシアがかわいかった。


 しばらくこの状態がつづくなら、午前中はお店を開けて、午後は一休みしてからケーキの練習をするのもいいかもしれない。


 レティシアにこの案はどうかと聞いてみると、いい案だと言われた。


「じゃあ、あたしが帰るのは夕刻になるわね」


 お店を切り盛りしているとはいえ、未婚の男女、しかもひとりは大貴族、となれば、一つ屋根の下、といくわけにはいかない。


「レティ、夜道は物騒だから、お店を閉めたら帰ったほうが」


「……送ってくれないの?」


 カーディガンの袖をつまみながらもじもじするレティシア。


 その可愛さを見たら何もいえないよ。


「ごめんね、送っていくよ、気が付かなくてすまないね」


「あいかわらずところどころ、ざこなのは変わらないね」


 ふたりは同じタイミングで笑った。


 夕日に照らされ、影が長く伸びる道を、ロミオはレティシアと手をつないで歩く。


 立派な門扉の前でレティシアにさよならを告げる。


 レティシアはすごくさびしそうだ。


「また、明日一緒に働けるから」


 ロミオは優しくレティシアの頭をなでる。満足したのか、彼女は門をくぐっていった。


「そうね、それに、来年の今くらいには、ずっと一緒にいるんだし」


 レティシアが笑って言った。


「どういうこと?」意味が全くわからなかったロミオが質問する。


 レティシアが言った。


「この国では、女の子は16歳から結婚できるのよ? それと、貴族くらいになると、結婚の準備になるとそれなりに時間がかかるの」


「へ、へえ?」


 これだけ言ってもまだ理解していないらしいロミオに、レティシアは顔を真っ赤にして言った。


「あたし……ことし16歳になるの」


「えっと……ええええ!?」


「あと……お父様が言っていたでしょう? ウェディングケーキを……」


「それってもしかし」


「もうわかってるでしょ、ばか、ざこ! ……ばかっ」


 レティシアはメイドに連れられて屋敷の中に帰って行った。メイドは口元に手を当てて『しーっ』といたずらっぽくつぶやいた。




「……ほんとうに?」




 そのあとは、いつも仲良く働いたり、ときに気まずく働いたり、にぎやかに過ごしたり、夜を少し遅めに歩いて、月明かりがよく見えるところで影を重ねたりしたのだけれど。




 その日はやってきた。




 *****




 カーン、カーン、カーン。


 大聖堂の鐘が鳴り響き、白い礼装を着た男性と、銀髪を結い上げた女の子が誓いのキスを交わした。


 荘厳な結婚式。


 喜びの拍手。喝采。祝詞。わんわんと噴水のように泣く太鼓腹の男性。


 ふたりは祝福してくれる人たちひとりひとりに挨拶をし、握手に応じる。


 男性には、とあるお菓子屋さんのなじみのおばあちゃんが。


 女の子には、相変わらずなにかをつぶやいて女の子のあたまをボカンボカンと鳴らしているおばちゃんが。


 ふたりを知る、たくさんの人たちが、ふたりをこころから祝福した。




 場所は祝いの食卓に移る。




 真ん中には、大きく、それでいて可憐なウェディングケーキが飾られていた。


 てっぺんの少し下に、焼き菓子で作られた『R&L』の文字。


 入刀をするまえに、新郎が切るのをためらい、新婦がそれに気づいて、ふたりで焼き菓子をとって割った。新郎は『L』を、新婦は『R』を食べて、『&』の部分はふたりで分け合った。


 ウェディングケーキに黄金のサーベルが入り、ケーキが参加者に供される。


 外側はふわっと、内側はさくっとした素晴らしい食べ心地のケーキ。


 それともうひとつ、新郎新婦から直々に配られたものがあった。


 丸くて、でもちょっと横向きにつぶれていて、外はサクサク、中にはおいしいジャム。




 ――マカロン。




 愛し合う二人が、愛をこめてつくったマカロンだった。




(ふたりのおいしいマカロン おしまい)








このお話が、あなたの心に一粒の優しさをプレゼントできますように。

愛をこめて 翠野ライム

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